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寝ながら学べる構造主義15

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:1「客観的ことばづかい」が覇権を握る[#「1「客観的ことばづかい」が覇権を握る」はゴシック体] バルトの仕事はまとめて「
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1「客観的ことばづかい」が覇権を握る[#「1「客観的ことばづかい」が覇権を握る」はゴシック体]
 バルトの仕事はまとめて「記号学」という名称のもとに包括することができます。
「記号」(signe)というのはソシュールが定義して使い始めた術語です。私たちもふだんとくに気にせずに「何かのしるし」という広い意味で「記号」ということばを使っていますが、ソシュールの定義はもう少し厳密です。「あるしるしが、何かを意味すること」、これがいちばん広義の「記号」の定義ですが、「あるしるしが何かを意味する」場合にはいろいろな水準があるからです。
例えば、「空いっぱいの黒雲」は「嵐」の「しるし」です。しかし、これはソシュールの定義では「記号」には含まれません。というのは、「空いっぱいの黒雲」と「嵐」のあいだには、自然的な因果関係があるからです。「稲妻」と「雷鳴」や、「あくび」と「眠気」も同様です。いずれも自然な関係によって結ばれていて、人間の作った制度が介在する余地がありません。これは「徴候」(indice)と呼ばれます。
トイレの入り口には、そこが紳士用であることを示す「しるし」として「スーツを着た人型の紺色のシルエット」が描いてあることがあります。(そういう場合は、反対側のドアには「スカートをはいた人型の赤色のシルエット」が描かれているのがふつうです。)この看板も「あるしるしが何かを意味する」ことに変わりはありませんが、やはり「記号」とは呼ばれません。これは「象徴」(symbole)と呼ばれます。
「象徴」と「記号」は似ていますが別のものです。というのは、「象徴」は、それが指示するものと、どんなにわずかであれ、何らかの現実的な連想で結ばれているからです。(現に、多くの男性サラリーマンは「紺色のスーツ」を着用しています。)
「てんびん」は「裁きの公正」の「象徴」ですが、これは「てんびん」の「軽重を測定する」という機能が「裁き」を連想させることで成り立つ結びつきです。「てんびん」の代わりに「やかん」を持ってきて、裁判所の前に掲げても「象徴」としては機能しません。象徴は「何でもいい」というわけにはゆかないのです。
一方、トイレのドアに書いてある「紳士用」という文字、これこそが「記号」です。この文字と、「男性はここで排泄を行う」という生活習慣の間には、「人為的な取り決め」以外のいかなる自然的結びつきも存在しないからです。
この場合の「しるし」は言語共同体ごとにすべて違います。(英語圏では Gentlemen フランス語圏では Hommes と表記されますが、ご覧のとおり、まったく別の「しるし」です。)それに、「男性はここで排泄を行うべし」という習慣だって、よくよく考えてみれば、世界中すべての集団にあるとは限りません。(排泄の場所に性別ではなく「大人か子どもか」「体重六十キロ以上か以下か」「肉食家かベジタリアンか」といった区別を設けている集団だってあるかも知れません。)
ご覧のとおり、記号というのは、ある社会集団が制度的に取り決めた「しるしと意味の組み合わせ」のことです。記号は「しるし」と「意味」が「セット」になってはじめて意味があります。また、「しるし」と「意味」のあいだには、いかなる自然的、内在的な関係もありません。そこにあるのは、純然たる「意味するもの」と「意味されるもの」の機能的関係だけです。
例えば、将棋をさしていて、歩が一個見当たらなくなったときに、「じゃ、これ歩ね」と言って蜜柑《みかん》の皮をちぎってその切れはしを将棋盤に置いても、対局者二人がその「取り決め」に合意してさえいれば、将棋のゲームは遅滞なく進行します。でも、「蜜柑の皮」と「歩」のあいだには、いかなる自然的、社会的な結びつきもありません。
このでたらめさが「記号」の本質なのです。
ソシュールは「蜜柑の皮」のような人為的につくられた「しるし」を「意味するもの」(signifiant シニフィアン)、「将棋の歩のはたらき」を「意味されるもの」(signifie シニフィエ)と呼びました。記号とは、意味するものと意味されるものの「セット」である、とさきほど書きましたが、この二つを合わせたものが「記号」です。
この例でお分かりのように、あるシニフィアンとあるシニフィエを結びつけるためには「集合的な記号解読ルール」を取り決めることが必要であり、かつそれで十分なのです。
言語ばかりではなく、礼儀作法も服装も食べる料理も好きな音楽も乗っている自動車も住んでいる家も、すべては記号として機能します。ですから、記号学というのは、私たちの身の回りのどんなものが記号となるのか、それはどんなメッセージをどんなふうに発信し、どんなふうに解読されるのか……を究明する学問ということになります。ソシュールは記号学をこんなふうに定義しています。
[#1字下げ]「社会的活動の中での記号の働きについて研究する学問というものを私たちは構想することができる。(略)私たちはそれを(ギリシャ語の『セメイオン(記号)』にちなんで)記号学《セミオロジー》と名づけようと思う。この学問は、記号の本質とは何か、いかなる法則性が記号を統御しているのかを問うものとなるであろう。記号学はまだ存在していない。だから、それがどのようなものであるのかを言うことはできない。しかし、記号学は存在する権利を有しており、その地位はあらかじめ決定されている。言語学はこの包括的な学問の一部分にすぎない。」(『一般言語学講義』)
 ソシュールがこう予言した記号学を実際に展開し、文学テクスト、映画、舞踊、宗教儀式、裁判、ファッション、自動車、モード、広告、音楽、料理、スポーツ……およそ目に触れる限りの文化現象を「記号」として読み解いたのがロラン・バルトです。
 ロラン・バルトの多彩な記号学的知見のうち、本書では「エクリチュール」という概念と「作者の死」という概念の二つだけを取り上げて解説することにします。他にもいろいろスリリングな概念があるのですが、この二つさえ分かれば、あとは「バルトだったら、こんなことを言いそうだ」ということは類推できると思います。
「エクリチュール」というのは、いまでも文芸批評などでときどきお目にかかることばですが、六○年代にバルトが大流行していたころもいまも、語の定義がはっきりせず、「何となくこんな意味ではないか……」というような頼りない用例が多かったように記憶しています。まず術語の定義だけ済ませておきましょう。
ソシュールにおいて見たように、私たちの思考や経験の様式は、私たちの言語に多く依存していますから、用いる言語が異なれば、それに応じて思考や経験の様式も変わります。私たちが母国語で、自由に語り、好きに書いていると信じているときでも、私たちはそれと気づかぬうちに、ある「不可視の規則」に従って言語を運用しています。ここまではもうみなさんも了解していただいていると思います。
さて、バルトは、この「不可視の規則」に二種類のものがある、と考えました。それが「ラング」(langue)と「スティル」(style)です。
ラングというのはとりあえずは「国語」のことです。(「国語」というと、「国家」の「公用語」という限定的な意味になってしまうので、この訳語はできれば使いたくありません。あるラングを共有する「言語共同体」は必ずしも政治単位としての国家とぴたりと重なり合うわけではないからです。)
とりあえず私たちは日本語というラングを母国語としています。ですから、日本語で書いたり話したりするときには、日本語の文法に従い、日本語の語彙を用い、日本語に登録されている音を発音します。何かを伝えようと思えば、(たとえ自分自身に向かって心の中で一人ごとを言う場合でさえ)私たちは日本語として通じることばづかいをしなければなりません。これがラングです。バルトの定義を借りれば、「ある時代の書き手全員に共有されている規則と習慣の集合体」です。
ラングが「外側からの」規制だとすると、それとは別にもう一つ、私たちが何かを語る場合、私たちの言語運用を「内側から」規制するものがあります。私たちの個人的な「言語感覚」とでもいうべきものです。
私たちは一人一人、固有の言語感受性を持っています。話すときなら、速度、リズム感、音感、韻律、息づかい……、書くときには、文字のグラフィックな印象、比喩、文の息の長さ……どれについても私たちはみな「個人的な好み」があります。切れのいいリズミカルな語り口が好きな人もいれば、ゆっくり流れるように書くのが好きな人もいます。白々とした頁が好きな人もいれば、漢字や英語や特殊記号がぎっしり詰まった頁に嗜癖を示す人もいます。これはその人の「好み」という以外に説明のしようがありません。この好みは一人一人の身体の深くに根を下ろしたものであり、私たちの語ることば、書くことばのすべてに「指紋」のようについて回ります。
「書き手の栄光、牢獄、孤独」であるこの個人的で生来的な言語感覚をバルトは「スティル」と呼びます。「スティル」というのはふつう「文体」と訳されますが、それでは次に説明する「エクリチュール」と区別しにくいので、あえてフランス語のままにしておきます。
さて、このように、ラングは外側から、スティルは内側から、二種類の「見えざる規制」として、私たちのことばづかいを統御しています。
しかし、実は私たちのことばづかいを規制しているのは、この二つだけではないのです。バルトはこの他に第三の規制を発見します。それが「エクリチュール」(Ecriture)です。
ラングにせよ、スティルにせよ、私たちはそれを選ぶことができません。(私にとって日本語はそれなしには何も考えることのできない母国語ですし、語感やリズムに対する好みは、意識的に変えようとしても変えられません。)しかし、ある国語の内部に生まれ、ある生得的な言語感覚を刻印されたとしても、それでもなおことばを使うときに、私たちはある種の「ことばづかい」を選択することが許されます。
この「ことばづかい」が「エクリチュール」です。
エクリチュールとスティルは違います。スティルはあくまで個人的な好みですが、エクリチュールは、集団的に選択され、実践される「好み」です。
例えば、中学生の男の子が、ある日思い立って、一人称を「ぼく」から「おれ」に変更したとします。この語り口の変更は彼が自主的に行ったものです。しかし、選ばれた「語り口」そのものは、少年の発明ではなく、ある社会集団がすでに集合的に採用しているものです。それを少年はまるごと借り受けることになります。
さて、この「ぼく」から「おれ」への人称の変化はそこにとどまらず、たちまち彼のことばづかいの全域に影響を及ぼします。発声も語彙もイントネーションも字体も、みな変化します。それどころか、髪型、服装、嗜好品から生活習慣、身体運用にいたるまで、少年は「おれ」という一人称に相応《ふさわ》しいものに統制する無形の圧力を感じずにはいられません。(「熊ちゃんのパジャマ」のようなものを着て寝るわけにはゆかなくなるのです。)
「エクリチュールとは、書き手がおのれの語法の『自然』を位置づけるべき社会的な場を選び取ることである」とバルトは書いています。
[#1字下げ]「私たちは誰しもが、自分の使っている語法の真理のうちに、すなわちその地域性のうちに、からめとられている。私の語法と隣人の語法の間には激烈な競合関係があり、そこに私たちは引きずり込まれている。というのも、すべての語法《すべてのフィクション》は覇権を争う闘争だからである。だから、ひとたびある語法が覇権を手に入れると、それは社会生活の全域に広がり、無徴候的な≪偏見≫(doxa)となる。政治家や官僚が語る非政治的なことば、新聞やテレビやラジオがしゃべることば、日常のおしゃべりことば、それが覇権を握った語法なのだ。」(『テクストの快楽』)
 この文章では、バルトは「語法」(langage)という語を「エクリチュール」とほぼ同じ意味で使っています。私たちは自分が属する集団や社会的立場によってさまざまな「ローカルなことばづかい」を選択しています。(一人の人間としても相手や局面に応じて複数の語法を使い分けています。)そして、ひとたびある語法を選んだとたんに、自分の選んだ語法が強いる「型」にはめこまれてしまいます。
例えば、私が「おじさんのエクリチュール」で語り始めるや、私の口は私の意志とかかわりなしに突然「現状肯定的でありながら愚痴っぽい」ことばを吐き出し始めます。「教師のエクリチュール」に切り替えると、とたんに私は「説教臭く、高飛車な」人間になります。同じように、ヤクザは「ヤクザのエクリチュール」で語り、営業マンは「営業マンのエクリチュール」で語ります。そして、そのことばづかいは、その人の生き方全体をひそかに統御しているのです。
そのような意味において、私たちは「エクリチュールの囚人」です。バルトが言うとおり、「エクリチュールが自由であるのは、ただ選択の行為においてのみであり、ひとたび持続したときには、エクリチュールはもはや自由ではなくなっている」のです。
ここでバルトが警告しているのは、あまりに広く受け容れられたせいで、特に「どの集団固有のエクリチュール」とも特定しがたくなった語法の持つ危険性です。
「無徴候的なことばづかい」、それが「覇権を握った語法」です。その語法はその社会における「客観的なことばづかい」です。つまり、何らかの主観的な意見を述べたり、個人的な印象を語ったりするのではなく、客観的に、私情を交えずに、価値中立的に語っているつもりでいるときに使うことばづかいがそれです。バルトは、そのような一見価値中立的に見える語法が含んでいる「予断」や「偏見」に注意を促しています。
「価値中立的な語法」のうちにこそ、その社会集団の全員が無意識のうちに共有しているイデオロギーがひそんでいる、というバルトのアイディアをもっとも巧みに活用したのはフェミニズム批評における言語論です。
フェミニズム批評理論によれば、私たちの社会における「自然な語法」とは、実は「男性中心主義」的な語法です。それはあらゆる記号操作を通じて、繰り返し男性の優位性と威信を語り、政治権力と社会的・文化資源がもっぱら男性にのみ帰属することを正当化する「ことばづかい」である、というのがフェミニズム言語論の主張するところです。ですから、男であれ女であれ、「自然な語法」で語るたびに、私たちの社会において「覇権を握った性イデオロギー」を繰り返し承認し、讃美していることになるわけです。
「覇権を握った性イデオロギー」を批判するためにはいったいどのような「ことばづかい」をすればよいのだろう、という困難な問いをめぐって、ショシャーナ・フェルマンはこう述べています。
[#1字下げ]「『我々のうちに埋め込まれている男性的精神を追い払う』ことが必要であることは私も認めているし、この主張を推奨したいとも思っている。しかし、そうは言っても、私たち自身、男性的な精神をすでに内包していて、社会に送り出されるときは、知らず知らずのうちに『男として読む』ように訓練されてしまっているのではあるまいか? テクストを支配しているのは男性主人公なので、その男性中心的な見方に自己を同一化するようにと、私たちは訓練されてきた。男性主人公の見解が、世界全体を見る基準であると、私たちは思い込まされてきたのである。」(『女が読むとき 女が書くとき──自伝的新フェミニズム批評』)
 フェルマンの言うとおり、私たちは(自分が「何ものであるか」を忘れて)実に簡単に「テクストを支配している主人公の見方」に同一化してしまいます。それが「現実の私」の敵対者や抑圧者であってさえ。
アメリカ映画『パールハーバー』を観ている私は、主人公と零戦との空中戦では、ひたすらアメリカ飛行士の勝利を念じ、零戦の撃墜を願っています。香港映画『ドラゴン怒りの鉄拳』では、悪逆非道な日本人武道家を蹴り殺すブルース・リーの活躍に熱い拍手を送ります。
別にこれは私に限ったことではありません。ある映画史家は、象牙海岸の映画館で、ジョージ・ラフト演じる白人の船長が追っ手から逃れるために、船を軽くしようと、「積み荷」である黒人奴隷をぽんぽんと海に投げ込む場面で、黒人観客がやんやの喝采を送っていたという事例を報告しています。(エドガール・モラン『映画──あるいは想像上の人間』)
人間というのは、そういうものです。
日常的な経験からも分かるとおり、私たちは決して確固とした定見をもった人間としてテクストを読み進んでいるわけではありません。むしろ、いまの映画の例から分かるように、テクストのほうが私たちを「そのテクストを読むことができる主体」へと形成してゆくのです。
テクストと読者のあいだにこのような「絡み合い」の構造があることに気づき、それを批評の基本原理に鍛え上げたこと、それがバルトのテクスト理論家としての最大の業績です。
テクストも読者もあらかじめ自立した項として、独立に自存するわけではありません。例えば、非常にインパクトの強い本の場合、最後まで読み終えたあと、そのまま間をおかずにもう一度はじめから読み直すことがあります。そして、その二度目に、私たちは一度目には気づかずに読み飛ばしていた「意味」を発見することがあります。なぜ、最初は見落としたこの「意味」を私は発見できるようになったのでしょう。それは、その本を一度最後まで読んだせいで、私のものの見方に微妙な変化が生じたからです。つまり、その本から新しい「意味」を読み出すことのできる「読める主体」へと私を形成したのは、テクストを読む経験そのものだったのです。
このテクストと読者のそれぞれがお互いを基礎づけ合い、お互いを深め合う、双方向的なダイナミズムに基づいて、バルトはテクストについてのまったく新しい理論を紡ぎ出すことになります。
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