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黒い扇17

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:恋 人二杯目のブランデーをあけると寛《ひろし》はバーを出た。頭の中は八千代の事だけで占められていた。「菊四さんのいうこと
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恋 人

二杯目のブランデーをあけると寛《ひろし》はバーを出た。
頭の中は八千代の事だけで占められていた。
「菊四さんのいうことなんか当てになるもんですか。だめよ。気にしちゃあ……八千代ちゃんみたいないいお嬢さんが菊四のような男とどこへ行くもんですか」
マダムが言ってくれたのがせめてもの救いであった。
(八千代ちゃんに限って……)
と思うそばから、やはり悪い疑惑が湧《わ》いてくるのをどうしようもなかった。
足が知らず知らず「浜の家」の方へ向いていた。
細川京子との約束など、もはや問題外であった。寛は八千代への自分の愛がこれほど必死なものだとは自分自身、意識していなかった。
浜の家の門灯の見える所まで歩いて、寛の足は止まった。そこへ入って行って八千代に逢《あ》うのが怖《おそろ》しいようだった。
(もし、八千代の心が菊四にあったら……)
彼女の口から菊四が好きだと告白された場合を考えると、寛は眼が眩《くら》みそうになった。
寛は自分でもだらしがないと思う程、弱気になって夜の中に突っ立っていた。
肩を叩《たた》かれた。
「寛さんじゃないの」
染子だった。夜なのにお座敷着ではない。黒っぽい紗《しや》の着物に桔梗《ききよう》を染めた帯を締めている。たった今、そこでタクシーを下りたという恰好《かつこう》であった。
「こんな所でなにしてんのよ。八千代ちゃんの家へ行くんじゃないの」
ずけずけ言われて寛はたじろいだ。八千代の親友だから嫌いではないが、どうも染子は苦手な女である。
「染ちゃんは八千代ちゃんの所へ来たのかい」
「きまってるじゃないの、大事なお座敷すっぽかして彼女のために馳《か》け回ってるのよ。親友でもなきゃ誰《だれ》がこんな苦労をするもんですか」
「八千代ちゃんに何かあったのか」
「のんびりしてるわね。相変わらず……」
染子は女にしては濃すぎる眉《まゆ》を寄せて寛を仰いだ。大柄な染子だが、それでも寛と向かい合うと顎をあげて喋《しやべ》る姿勢になる。
「なにがあったんだ。染ちゃん、八千代ちゃんがどうかしたって……」
街灯の下は明るく宵《よい》の口だから人通りもかなり多い。和服姿の目立つ染子と立ち話をしている寛をふり返って行く通行人の好奇な眼を、寛は意にとめなかった。
「染ちゃん、言ってくれよ。八千代ちゃんに……」
「寛さん」
染子は真っ直ぐに彼の眼の中を覗《のぞ》いた。
「あんた、八千代ちゃんに惚《ほ》れてるの」
寛は染子の視線を正面から受け止めた。
「僕は八千代ちゃんを、愛しているよ」
「じゃあ何故……」
言いかける染子の言葉を寛は遮った。愛していると、はっきり声に出したとたん、胸にもやもやしていたものが一度に彼の唇からとび出した。
「僕は今、中村菊四に逢《あ》ったんだ。例のバーで……」
染子の顔が引きしまった。
「彼が八千代ちゃんの事をなにか貴方《あなた》に言ったのね」
「神田の『みずがき』とかいう旅館へ八千代ちゃんが彼と一緒に行ったというんだ」
染子はうなずいた。年齢は寛よりも下なのに、まるで姉が弟と向かい合っているような染子の表情である。
「それで、菊四は……そこで八千代ちゃんとどうかしたとでも言ってるの」
「いや……」
寛は耳朶《じだ》を熱くして首をふった。言った染子のほうは平然として赤い顔もしない。
「別に……ただ、行ったとだけなんだ」
「あいつらしいわ。卑怯《ひきよう》な男ったらありゃしない」
唇を白くなるほど噛《か》んで染子は口惜《くや》しげに呟《つぶや》いた。再び寛を見上げた。
「それで……それを彼から聞かせられて、あんた、八千代ちゃんを疑ったの」
寛は不意に横っ面をひっぱたかれたような気がした。予期しない染子の質問であった。
眼が夜空を眺めた。狭い銀座の空だったが夏の夜らしく星が美しい。北斗七星が真上だった。ネオンに負けて光りは弱々しかったが澄み切った自然の光りが可憐《かれん》に見えた。
寛は素直に八千代の面影を瞼《まぶた》に浮かべることが出来た。彼女の柔らかな微笑には一点の曇りもない。彼女の潔白を信じる心が寛の胸底から強い力となって盛り上がって来た。
「どうなの、寛さん」
鋭く、染子が訊《き》いたとき、寛ははね返すように応じた。
「僕は八千代ちゃんを信じている」
「本当に……」
「ああ」
「ほんのちょっぴりも……僅《わず》かな間でも彼女を疑わなかった」
「勿論《もちろん》だよ。彼女を疑うとき、それは僕の人生の灯が消える時だ」
「聞かせるわね。どうもごちそうさま」
染子は初めて笑顔になった。
「とにかく、寛さんの口からそれを聞いてほっとしたわ。八千代ちゃんの勇気と純情のためにね」
握りしめていたハンドバッグを抱え直すと晴れやかな微笑で言った。
「さあ、それを、もう一度、八千代ちゃんの前でやってちょうだいな」
寛の肩を押すようにして歩き出した。
「浜の家」の内玄関を染子が我が家のような気易さで入って行ったので、寛は慌《あわ》てた。
「染ちゃん、僕は……」
「いいから一緒にいらっしゃい。なにもかも今夜中に、はっきりさせちゃうんだから。菊四の一件は彼女の口から直接、聞くのよ。そのほうが万事手っとり早くていいわ」
染子は格子《こうし》を開けて、さっさと沓脱《くつぬぎ》へ草履《ぞうり》を脱いだ。白革に水色の鼻緒が涼しげである。染子らしく地味好みだ。
「さあ、お早く、江戸っ子は気が短いんでござんすよ」
せかされて寛も止むを得ず靴を脱いだ。
「ちょいと、八千代ちゃん居るわね。ああそう、自分の部屋、いいわよ、勝手に行くから、大丈夫来ること分かってるのよ」
出て来た女中にごちゃごちゃ言って、染子はどんどん、住いになっている庭の奥の部屋へ渡り廊下をスリッパを鳴らして行った。寛は女中に会釈だけして後を追った。
「八千代ちゃん、私よ。行って来たわ」
障子の外から染子が声をかけると、
「染ちゃん……」
待ちかねていたらしい調子で内部から大急ぎで戸を開けた。
洒落《しやれ》た数寄屋《すきや》造りの「浜の家」の建物の中でこの部屋だけが近代的に出来ている。八千代の好みで離れを改造した部屋であった。
顔を出した八千代はハワイの娘達が着るようなムウムウを着ていた。紺地に大きな南国調の花が描いてある。袖口《そでぐち》も衿《えり》ぐりもゆったりしていて、全体がゆるく体を包んでいる。丈《たけ》は膝小僧《ひざこぞう》がのぞく位の短さであった。
染子の後に寛を認めると、八千代は小さな叫びをあげた。
「染ちゃん……」
救いを求めるように、先に部屋へ入ってさっさと椅子《いす》にかけてしまった染子を見る。
「寛さんはねえ。門のところで逢《あ》ったのよ。バーで菊四に逢ったんだって。例のサカサクラゲの一件を聞いて蒼《あお》くなって八千代ちゃんの所へとんで来たそうよ」
「まあ」
八千代は両手で胸を抱くような恰好《かつこう》をした。化粧っ気のない頬《ほお》から血が引いた。
「安心しなさい。寛さんは私に、はっきり言ったのよ。菊四からその話を聞いてかけつけて来たけれど、一度も八千代ちゃんを疑っていないんですって。一度も、絶対に……よ。それを聞いたんで、私寛さんをあなたの前に連れて来てあげたのよ」
染子は突っ立っている二人を見較《みくら》べるようにして言った。
「さあ、二人とも顔ばっかり眺めていないで、こっちへいらっしゃいよ。冷たいものでも飲んで、八千代ちゃんはあの晩のことを全部、彼に話してあげなさい」
染子はこの部屋の主人みたいな言い方をした。
八千代と寛が向かい合いに堅くなって坐《すわ》ったのを見ると、染子は自分で台所へ立って行って女中が支度をしていたグレープジュースとメロンを大きな銀盆へ乗せて運んで来た。
女主人のような顔をしてテーブルへ移し、
「さあ、冷たい中に飲みましょうよ」
自分からストローを抜いて紫色の液体を吸い上げた。
「私、お話します」
八千代が思いつめたような眼をあげた。
「そう、さっさと喋《しやべ》っちゃいなさい。出し惜しみをしたってはじまらないもんね」
染子はメロン皿を掌《てのひら》にのせて言った。八千代は視線を膝《ひざ》の上に落として喋り出した。
菊四と踊りの共演を申し込まれたこと、それが鳥辺山心中だったこと、菊四が小早川喬殺人事件に或《あ》る目撃を持っていると言ったこと。その話を聞くために神田の割烹《かつぽう》旅館へ連れ込まれたこと。部屋での話、菊四にいどまれたことなど、たどたどしく、しかし綿密に正確に八千代は語った。
寛は微動もせずに聞いていた。八千代の一言半句も聞き洩《も》らすまいと懸命になっているようであった。
菊四の暴力を逃げ出す辺りまで話すと八千代の額に汗が滲《にじ》んでいた。緊張の余りである。メロンばかり食べていたふうな染子がさりげなく口を入れた。
「ちょいと、八千代ちゃん、そこんところで肝腎《かんじん》な台詞《せりふ》を言い忘れてるわよ。あんた、私に打ち明けた通りに寛さんへも話さなけりゃだめよ」
八千代は不安げに染子を見た。染子のいう意味がわからなかった。
「馬鹿《ばか》ねえ、そんな泣きそうな顔をして……。あんた、菊四を突きとばして、はだしのまんま、庭へ逃げ出したとき、他の事は何にも考えないで、ただ、寛さんに申しわけがない、死んでも身を守らなけりゃ彼のために済まないってそればっかり思っていたと私に泣き泣き告白したじゃないの。それを忘れちゃいけませんよ」
染子が素《す》っぱ抜き、八千代は耳の後まで真っ赤になってうつむいた。寛は照れかくしにジュースを飲んだ。
「八千代ちゃんの話はまだるこしくて仕様がないわ。ここから先は私が代わって話したげる。もし違ったら遠慮なく訂正してね。なるべくあんたと、あんたを助けてくれたロマンスグレーの話を忠実に話すつもりだけど」
染子はさりげなく親友へ女らしい心遣いをしてやった。
「八千代ちゃんがせっぱつまって庭づたいに逃げ、夢中でとび込んだ部屋には一人の男性がお酒をのんでたそうよ。六十年配の、私もその人を見たから、私の感じでいうと英国紳士風な、とてもサカサクラゲへなんか行くタイプじゃないんだけど、男性は外見と中身がまるで違うんだから仕方がないわ」
染子は煙草に火をつけ、器用にふかしながら話し続けた。
「八千代ちゃんが逃げ込んだ部屋のロマンスグレー……ええと名前は何て言ったっけ……」
「三浦さん……」
八千代が小さく答えた。
「そうそう、その三浦さんっていうお爺《じい》さんは八千代ちゃんのほうをちらっとみたきり、黙ってお酒をのんでたんですって。八千代ちゃんの後を追っかけて菊四も庭先まで来たんだけれど、お爺さんがあんまり悠然としてるんで度胆《どぎも》を抜かれて声もかけられない。あいつは女をくどく時だけ図々しいけど、その他はまるで意気地がないんだものね。二人がみすくみみたいな恰好《かつこう》で突っ立っていると、やおらお爺さんが八千代ちゃんに言ったんですって……」
老紳士はごく自然に八千代を見て言った。
「あなた、帰りますか」
一瞬、八千代はぽかんとし、慌ててうなずいた。老紳士はベルを押し、女中を呼んだ。
女中が襖《ふすま》口へ手をつくと、
「向こうの部屋へ行って、このお嬢さんの荷物を持って来て下さい」
と言いつけた。女中がそれらを運んでくると紳士はメモ帳をポケットから出し、なにかを書きつけた。それを女中に渡し平然と言ったものだ。
「いつもの女が間もなく来ますから、これを見せて、待っているように伝えて下さい。私はちょっと、このお嬢さんをお送りしてくるから……」
女中は気を呑《の》まれたように、はい、と答えた。老紳士が八千代をうながし、八千代は無我夢中でその後に従った。玄関で靴をはく時にお内儀《かみ》が出て来た。紳士がお内儀に微笑し、お内儀は八千代を見たが何も言わなかった。
「ちょっと行ってくるよ」
老紳士は確かにそう言って「みずがき」の玄関を出た。菊四は姿を見せなかったが、八千代は彼が追ってくるのではないかと絶えずびくびくした。
表通りに出た。都電が走っている。タクシーも通った。八千代は人心地がついた。
「どうも有難うございました。おかげさまで……私」
他に言葉が出なかった。老紳士はいやいやと笑った。
「一人で帰れますか」
「はい、お世話をおかけ致しました」
老紳士はタクシーの空車を探した。そのときに八千代の目の前にタクシーが止まった。人が乗っている。窓をあけて女客が首を出した。
「八千代ちゃんじゃないのさ」
珍しく胸あきのワンピースを着た染子が不思議そうに八千代と老紳士を見較《みくら》べた。
「私は、S堂へ個展を見に行く所だったのよ。別に画なんか好きじゃないし、見たってわかんないんだけど、よくお座敷かけてくれる絵描きさんが切符くれたのよ。その人のグループで個展を開いたんだって……ちょいとイカす人でね。まんざら嫌いじゃない人だから、どんな絵描いてんのかちょっと見てやれと思って出て来たの」
人情でそういう時はせいぜい芸者らしく見えないように気を使うものなのだと染子は笑って言い加えた。
染子を見たとたんに八千代は張りつめていた気がゆるんだ。
「染ちゃん……」
かけよって、自動車を下りた彼女の胸に獅噛《しが》みついた。
「驚いたわよ。あの時は……八千代ちゃんったら子どもみたいにわあわあ泣き出すんだもの。何事かと思う前に恥ずかしかったわ。人がみんなふり返ってみるし……」
ともかくと言うので、染子は八千代と老紳士とを近くの喫茶店へ連れて行った。
そこで、染子は泣きじゃくる八千代と老紳士からあらましの事情を聞いたのである。
「そうしたわけでここまでお送りした所なのですが、幸い、良い保護者とお逢《あ》い出来て安心しました。私は人を待たせているので戻りますが、もし、こちらのお嬢さんの将来のことで私が今日の事件の証人みたいな役に立つ場合はどうぞ御遠慮なく連絡して下さい」
老紳士は染子に一枚の名刺を手渡して喫茶店を出て行った。
「まあ菊四ってなんて奴なの。よくも八千代ちゃんをそんな……いくらなんでも玄人《くろうと》ならいざ知らず、八千代ちゃんにそんな事をするなんて夢にも思わなかったわ」
老紳士が居なくなると染子は体をふるわせて怒った。
「そりゃ、菊四が八千代ちゃんに気があるのは知ってたけど、そんな卑劣な真似をするなんて……でも、八千代ちゃん、よく逃げたわ。あんた、えらいわ。立派だわ」
今度は染子がハンカチを眼に当てた。
「私がいけなかったのよ。菊四が八千代ちゃんを好きだってのを承知であんたにあの男を近づけたのは私なんだもの。私はね。あんたと寛さんとの仲がまだるっこしくて仕方がなかったのよ。お互いに好き合っているくせに口喧嘩《くちげんか》ばかりしてる。あんたに菊四を近づければ、それが刺激になって、あんたと寛さんがハッピーエンドになるんじゃないかと思って……それで……ごめんなさいね」
「そうじゃないの。私があんな所へついて行ったのが間違いよ。入口で引き返せばよかったんだわ。バカなのは八千代自身よ」
二人の女は喫茶店のボーイの視線もかまわず泣けるだけ泣いた。
「でも、あのロマンスグレー、いい人だったわね」
染子はテーブルの上の名刺をつまみ上げた。
名刺は中型の品のよいものであった。「三浦兼吉」左下に住所があった。電話番号はない。
「三浦兼吉なんて大工さんみたいな名前ね」
染子が泣き笑いの表情で言った。
「立派な方だわ」
「サラリーマンじゃないわね。実業家でもなさそうだし、勿論、職人じゃないわ。学者か、芸術家……」
染子は名刺をハンドバッグにしまった。
「でもサカサクラゲの常連じゃ、あんまりゴ立派でもないわね」
「常連かどうかわからないわ」
八千代は恩人のために弁護した。
「だって、そこの家のお内儀《かみ》が丁寧な態度だったって、あんた言ったじゃない。常連、それも菊四なんかより上客の証拠よ。それでなけりゃ黙ってあんたを連れ出させるもんですか」
染子の言う通りであった。菊四は「みずがき」のお内儀と馴《な》れ合いか、もしくは了解ずみで八千代をはなれへ連れ込んだに違いないのである。
「なんにしても菊四って男は勘弁ならないわよ。厚釜《あつかま》しいっていうのか、恥知らずっていうのか、とにかく八千代ちゃんは最初っから彼と鳥辺山心中なんか踊る気はないんだし、彼がそういう破廉恥《はれんち》な行為をしたからには、約束なんか反古《ほご》にしたってかまわないって私が言い出してね。早速、茜ますみ先生の所へプログラムの変更を言いに行って来たのよ。今夜ね」
染子は扇風機の風に眼を細くした。
「八千代ちゃん、心配しなくても大丈夫よ。私がうまく茜先生をまるめ込んで来たから」
「なんて言ったの。鳥辺山のこと……」
「なんて言ったと思う」
染子は自信たっぷりに笑った。
「こう言ったのよ。八千代ちゃんが鳥辺山心中をやるそうですが、その相手役が中村菊四さんでは私が困りますって……」
「なぜ……」
「お師匠さんもそう聞いたわ。何故って」
染子は含み笑いをして続けた。
「私、言ってやったのよ。鳥辺山心中を八千代ちゃんと菊四さんが踊って二人がハッピーエンドになっちまっちゃあ、私が不承知なんです。お師匠さん、察して下さいな」
「染ちゃん、いいの、そんな事を言って……」
八千代は正直に狼狽《ろうばい》した。染子が菊四に好意を持っていないのは誰《だれ》よりも八千代が知っている。
「平気よ。私はなにも菊四に惚《ほ》れてるって言ったわけじゃなし、お師匠さんがどう解釈したってそりゃあお師匠さんの勝手だもの」
「茜ますみ先生、何とおっしゃったの」
「考え込んでたわよ。そりゃあ今からプログラムの変更するのは容易じゃないものね。菊四さんへ断る口実も難しいだろうし……」
夜風が出て来たらしい。
軒につるした風鈴《ふうりん》が澄んだ音をたてた。
「でもね。私は、ますみ先生に言ったのよ。先生から菊四さんへお断りしにくいのでしたら私のほうから話をつけますからって。本当を言えば、今度の菊四のやったことをますみ先生に素《す》っ破《ぱ》抜けば、八千代ちゃんが断る理由もはっきりするし、ますみ先生だって文句の言いようがない筈《はず》なんだけど、八千代ちゃんが事を荒立てたくないって言うもんで苦労しちゃったわ」
染子は口で言うほど、苦労にも面倒くさくも思っていない顔つきで八千代を眺めた。
「厄介なことをお願いしてごめんなさいね。でも、私、こんな事をお頼み出来るのは染ちゃん以外にないの。母さんに打ちあけたら、それこそ菊四さんの所へどなり込みかねないし……」
「どなり込ませたっていいじゃないの。どなり込まれるような事をあいつはしたんだものさ」
染子は鼻息があらい。
「でも……嫌だわ、恥ずかしいわ」
「恥ずかしがることないわよ。八千代ちゃんは……。恥ずかしいと思うのは菊四だもの」
「それでも……なんだか……私は無事だったし、荒立てたくないわ」
「わかってますよ。あんたのその主張のおかげで私は茜ますみ先生ん所で汗を流して来たんだから……」
八千代はうなだれた。
「すみません。染ちゃん」
しょんぼりした八千代を見ると染子は慌《あわ》てた。
「なに言ってるのよ。あんたと私はそんな他人行儀な仲なの。寛さんを前において、こう言うのもなんだけど、八千代ちゃんは私の恋人、少なくとも舞台の上じゃ、れっきとした恋女房なんですからね」
染子が歌舞伎《かぶき》役者のような大見得を切ったんで、寛は苦笑した。
「僕はすっかり染ちゃんにお株を取られた形だな」
「肝腎《かんじん》の時にぼんやりしているからですよ」
ぴしゃりきめつけておいて染子は八千代の手をとった。
「心配しなくても平気よ。菊四へは私が明日、話をつけてあげるから……」
「菊四さん、承知してくれるかしら」
なんと言っても相手は男である。染子の一本気では心もとないようだった。単純に済む話とは思えない。
「その話、僕にも一口のせてくれないかな」
不意に寛が言った。
「寛さんが……」
「うん、男は男同士というじゃないか」
寛はてれたように髪をかき上げた。
寛が中村菊四と話し合うという申し出を、染子は一蹴《いつしゆう》した。
「なに言ってんのよ。八千代ちゃんにいい所を見せて名誉回復したいのかも知れないけど、残念ながら寛さんにはその資格がないわ」
「資格……?」
寛には染子の言葉の意味が解らない。
「そうよ。知らぬが仏と思っての浮気だろうけど、天知る。地知る。おのれ知る。悪い事は出来ないものよ」
「染ちゃん……」
八千代は染子が何を言おうとしているのか悟って、制止したが染子は一向にたじろがない。寛は一層、眉《まゆ》を寄せた。
「なんの事だい。染ちゃん」
「白ばっくれるのね。八千代ちゃんの純情をふみにじっておきながら……」
染子の語気が荒くなった。いつぞやの夜、Sパーラーから赤坂のニューセントラルアパートまで彼の後をつけた日の記憶が急になまなましく甦《よみがえ》って来たものらしい。
「僕が八千代ちゃんの純情をふみにじるって、それはどういう事なんだい。染ちゃん、はっきり言ってくれよ」
流石《さすが》に寛は真剣な表情になった、眼がきびしく染子をみつめる。染子も躍起になった。
「じゃあ、言いますよ。ええと、あれは何日だったかしら、今月の始め……一週間か十日位前の夕方だわ。そうだわね。八千代ちゃん……」
染子にふりむかれて八千代は仕方なくうなずいた。本当は、はっきり日も時間も憶えているのだが、口には出せない。
「なにしろ、その夕方、寛さんは女の人と二人でSパーラーへ行ったでしょう」
寛はすぐに応じた。
「行きましたよ。あれは夕方の六時|頃《ごろ》かな。今月の……」
ポケットを探って手帳を出した。撮影のスケジュールを見ながら記憶をたぐった。
「十九日ですよ」
それがどうしたんだと言わんばかりな寛を染子はにらみつけた。
「Sパーラーを出て、それから寛さんどこへいらしたんですの」
「Sパーラーからは赤坂の……」
言いかけて寛は漸《ようや》く染子の追及の意味を知った。
「そうか、すると染ちゃんはその時、Sパーラーに居た僕と京子さんを見たんだね」
寛の顔に微笑が浮かぶのをみとめると染子はいよいよ腹を立てた。
「京子さんだかなんだか知らないけど、八千代ちゃんの前でそんな女の名前を親しげに呼ぶのは止めて欲しいわ。残酷だわ」
「染ちゃん、止めて、お願いだから、もう、そのお話は止めて……私、別になんとも思ってやしません」
八千代の涙声に慌てたのは寛のほうだった。
「八千代ちゃん、誤解だよ。あのことなら全く、とんでもない誤解だ。あの時、僕と一緒に居た女性は細川京子さん、つまり細川昌弥君の妹さんだ」
寛の言葉で八千代は驚いた。
「細川昌弥さんの妹さん……」
「そうなんだ。偶然、ロケ先で逢《あ》ってね。あの日の話も細川昌弥君のことで……」
寛は一世一代みたいに雄弁になった。普段は無口に近い彼である。今度は染子と八千代が煙に巻かれる番だった。
誤解は忽《たちま》ち説明され尽くした。
寛が京子の部屋へうっかりキイホールダーを忘れ、止むなくタクシーで帰宅して翌朝車を取りに行き、久子を証人にして車を返して貰《もら》ったことまで話すと、八千代の眼に輝きが戻った。
「そうでしたの。それで翌朝も車がアパートのガレージに入っていたのね」
ほっとしたような八千代の台詞《せりふ》を染子が聞き咎《とが》めた。
「嫌だわ。八千代ちゃん、あんた、あの翌日も赤坂のアパートまで車を見に行ったの。そんな事、私に一つも話さなかった癖に……」
染子にずけずけ言われて八千代は真っ赤になった。
「だって、私……」
「寛さんが女の人とアパートへ入って行くのを私と一緒に見た時は平気そうな顔してたくせに、やっぱり八千代ちゃんは……」
染子は語尾を笑って消した。
「よしよし、話が誤解とわかった上は、寛さん、あんたが菊四と話し合うっていう申し出はOKだわ」
染子の台詞に八千代はおろおろした。
「でも、そんな事をして、もし話が難しくなったら、私困るわ」
「大丈夫だよ。僕にまかせなさい。ほら、八千代ちゃんも知っているだろう。ガス灯って名前のバー、あそこで会ったんだ。ガス灯で聞けばきっと行先が判る。明日と言わず、今夜の中に話をつけちまうんだ」
「でも……」
「平気よ。彼が英雄になりたがってるんだから、男同士で心配なら私も寛さんについて行くから」
八千代は眼をあげた。
「私も行くわ。はっきりお断りするわ」
「じゃそうしましょう。みんなで一度に片付けるのよ。後くされがなくていいし、そうときまったら私はちょいと一風呂あびさして貰《もら》うわ。ますみ先生の所で汗かいて帯の下がぐしょぐしょ。八千代ちゃん、お湯|湧《わ》いているでしょう」
染子はさっさと立ち上がった。勝手を知っているから、湯殿のほうへ自分が先に行く。八千代は気を呑《の》まれて忙しく後を追って行った。
染子と八千代が出て行った後、寛がバー「ガス灯」へ電話をかけた。マダムが出た。
「あら、寛さん、どうしたの。忘れもの。なあに、菊四さんの行き先……。ええ? 寄り道するようじゃなかったかって、ちょっと待ってよ。誰《だれ》か聞いてるかも知れないから……」
電話は一度切れて又、続いた。
「わかったわ、Pホテルよ。いいえ泊まりにじゃなくて、あそこのプールが今日から開いてるんですってさ。もっとも泳いだ後でどう変化するかは知りませんけどね」
有難うと寛は答えた。Pホテルのプールなら午後九時までやっている筈《はず》だ。腕時計はまだ八時前である。
「もしもし、寛さん、あなた菊四さんになにか用があるの。もし先刻《さつき》の話のことなら、気にしないほうがいいわよ。あんな男の言うことですもの……」
マダムの声は心配そうに言った。
「そうじゃないんだよ。そんな事にこだわって彼を探しているわけじゃないから……」
受話器を置いて寛が部屋へ戻ると、八千代が新しくグレープジュースを運んで来た所であった。
「染ちゃん、風呂へ入ったの」
寛は自分でも思いがけないほど自然に八千代へ言った。
「ええ」
八千代は短く答えてテーブルへコップを並べた。
「染ちゃんって愉快な人だね。もっとも肝腎《かんじん》の時にのんびりしてたのは僕だったんだけど……」
八千代のあげた眼を寛の眼が捕らえた。
「やっちゃん、ごめんよ。君に誤解されても仕方がない。もっと早くに君と連絡を取っておくべきだったんだ」
「いいえ、あなたは男ですもの、私のほうこそ軽はずみをして……」
八千代は寛の眼をみつめた儘《まま》、言った。
「菊四さんから話をきいて、あなた嫌な気がしたでしょう」
「そりゃあ、嫌だったよ。大事な宝物を汚れた手で触られたような気がした」
「ほんのちょっぴりでも、私を疑わなかったの。本当に……」
「疑えなかったんだ。僕は君を信じている」
「少しも、本当に少しも……」
「君は、そんな女じゃない」
強く言い切って寛は八千代の手を掴《つか》んだ。
「私、幸せだわ」
低く八千代が呟《つぶや》いた時、寛は勇気のありったけをふるい起こして言った。
「やっちゃん、僕は君が好きだ、君を誰《だれ》にもとられたくない」
ラブシーンの苦手な映画俳優は実際にも愛の告白は無器用だった。それでも、八千代の眼は次第にうるんで来た。
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