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黒い扇18

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:夜のプールサイド三十分後。湯上りでさっぱりした顔の染子と白いタイトのスカートとレースのブラウスに着替えた八千代を伴って、
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夜のプールサイド

三十分後。
湯上りでさっぱりした顔の染子と白いタイトのスカートとレースのブラウスに着替えた八千代を伴って、能条寛は銀座の駐車場へ向かった。
「まあ、今頃《いまごろ》から三人でどこへ行くの」
なにも知らない八千代の母が玄関へ送って出ながら不思議そうに言ったのには、染子が要領のいい説明をした。
「久しぶりで銀座の夜を散歩して、ついでにどこかのプールでも覗《のぞ》いて来ようって言うんですよ。お母様もいらっしゃいません」
「私は駄目よ。若い人のおつき合いはね。第一、こんなお婆さんがプールサイドをうろうろしたらそれこそ週刊誌の記事にでもされそうじゃないの」
気をつけて行っていらっしゃいと送り出されてから、寛は染子に笑った。
「なんてことを言うんだろうね。もし、八千代ちゃんのお母さんが一緒に行くって言ったらどうする気さ」
「私もよ。ひやひやしちゃった。うちの母って案外、若い人と出かけるの好きなんですもの」
「大丈夫、お母様が今日、出て来れっこないの知ってるから、わざとああ言ったのよ。さっきお風呂《ふろ》へ入ってたら、結城の小父《おじ》様がね寛の親父《おやじ》さんと一緒に来るから部屋があるかってお電話があったらしいわ。八千代ちゃんのお母さんが板前さんに話しているのを聞いちゃったのさ。結城の小父と勘喜郎さんがお出でになるのに、まさか私達と出かけられもしないでしょ」
染子は袂《たもと》で胸をあおぎながら言った。
「へえ、親父と結城の小父さんが来るの。そいつはちょっとしたすれ違いだ」
寛も苦笑した。
「でも可笑《おか》しいわね。勘喜郎の小父様がお見えになるんだったら、さっき玄関でお母さん、どうして寛さんにそれを言わなかったのかしら」
普段の母なら、もうすぐお宅のお父様が見えるんですよ、と気易く寛に告げる筈《はず》である。
「小母《おば》さん、言い忘れたのよ」
染子があっさりその話題を打ち切った。
寛の車のおいてある駐車場はバー「ガス灯」の筋向いを曲がった所である。青いネオンを横目に見て染子が言った。
「そう言えば寛さん、今夜は何故、ガス灯へ行ったの。誰《だれ》かのおつき合い……」
一人でバーへ行く事のめったにない寛である事を、染子も知っていた。
「まさか、最初っから菊四さんと一緒に行ったわけじゃないんでしょう」
「別々だよ。僕は時間が余って……」
それで寛は思い出した。立ち止って腕時計を眺める。
「どうしたの、寛」
不安気に八千代が訊《き》いた。
時計の針は八時十五分過ぎ。
「俺《おれ》、今夜八時に細川京子さんのアパートへ行く約束だったんだ」
染子が目の色を変えたので、寛は急いで説明した。
「ほら、例のアルバム、それを見せて貰《もら》う心算《つもり》だったんだよ」
八千代を差しのぞいた。誤解しないでくれと言いたげに、である。八千代は微笑した。
「それじゃどうなさる。これからすぐにいらっしゃる」
「いいんだよ。アルバムは消えてなくなるわけじゃない。まず、急を要するほうから片付けようね」
「でも、京子さん待ちぼうけで悪いわ」
「いいよ。Pホテルから電話してあやまっとくから」
寛は駐車場へ入って行った。
Pホテルは赤坂の高台にあった。細川京子の住んでいるニューセントラルアパートまでは歩いて十五分ばかりの近さである。
「ねえ、菊四との話し合いが早く終わったら、みんなで京子さんの所へ行ってもいいわね。そのアルバムとやらを見せてもらうだけなんでしょう。用事は……」
染子がPホテルへ向かう車の中で運転している寛へ言った。
「そうだね。勿論《もちろん》、かまわないよ」
寛は簡単に応じたが、八千代は仮に三人が一緒に訪ねて行ったら細川京子がつむじをまげてアルバムを見せないのではないかと思った。
古い昔のアルバムを見せるという親しげな気持ちは能条寛個人へ向けられたもので、そこに細川京子の寛に対する特別な感情があるのを、八千代は本能的に悟っていた。口には出さない。口に出して言うと寛に女の嫉妬《しつと》と思われるようで恥ずかしかったのだ。
Pホテルの玄関|脇《わき》には「テレビ俳優懇親会会場」と書かれた札が出ていた。広い芝生で親睦《しんぼく》パーティが催されているらしい。
三人はフロントの前を通って芝生へ出た。プールは芝生の庭を横切った奥にある。
「菊四の奴《やつ》、まだ居るかしら」
染子が呟《つぶや》いた。気負い込んでいる。
「居るといいけどね」
二人が返事をしないので、染子は頻《しき》りと自問自答していた。
芝生にはテーブルと椅子《いす》が並んでいた。照明が明るく、提灯《ちようちん》や豆スタンドが色とりどりで美しい。パーティで貸切ったらしいバンドがダンス音楽を演奏し、幾組かが踊っていた。
プールへ行く道は脱衣所でふさがれていた。
「泳ぐ目的でない方の入場はお断りしているんですが……」
受付の女性は三人を不思議そうに眺めた。三人共、水着の用意をして来たわけではない。
脱衣所の受付の脇《わき》に柵《さく》があって、その先はゆったりした下り坂になりプールサイドへ続いている。
柵の所からはプールの一部分とビーチパラソルが見えた。かなりの人数である。照明はあっても、ここからは顔は殆《ほと》んど判明しにくい。海水パンツだけの男性は遠眼にはどれもこれも似たりよったりである。
「はだかってのは人間を平等にしちゃうもんね。まるで区別がつかないわよ」
柵から覗《のぞ》いていた染子が嘆息をついた。
「どなたかお探しなんですか」
受付の女の子が染子に言った。
「そうなのよ。急用でね」
「では、お呼び出しを致しましょうか」
「冗談じゃないわ。そんな事をして逃げられたらアブハチとらずだもの」
染子がまるで指名手配中の犯人みたいな言い方をしたので寛が笑い出した。
「まさか、逃げもしまいよ。呼び出して貰《もら》おうじゃないか」
「駄目よ、彼がなまじ用心すると話がしにくくなるわ。こういうときは不意をついて、ぽんぽんと片をつけちまうのが上策なのよ」
強引に染子は主張した。
「ねえ、もう三十分もしたらプールはおしまいになるのよ。帰るのを待ちましょうか」
八千代が気弱く言った。
「馬鹿《ばか》ねえ。そんなのんびりした事言って」
その時、背後から声が呼んだ。
「おい、寛君じゃないか。珍しいな」
ふり返って寛も叫んだ。
「やあ、沼さん」
沼田良介は新劇のベテラン俳優である。テレビや映画にも名脇役《わきやく》としてよく顔を出しているから一般人にも名が知れている。好人物が演技にもにじむような老人である。
寛とも映画では数回、一緒に仕事をしている。
「実はここのプールに知人が来てましてね。ちょっと用事があるんでやって来たんだが水着を持って来るのを忘れちまって」
寛が苦笑まじりに説明すると、沼田は眼を細くした。
「それじゃ僕が探して来てやろうか。いや、実は今夜、ここでテレビのパーティがあるんで、どうせ出席するなら、ダンスの間にプールで一泳ぎしてやれと思ってね。海水パンツを用意して来たんだが年寄りの冷や水はよせとかなんとか言われちまって、まだ泳がずにいるんだよ。なんなら着替えてプールを見て来てやるよ。誰《だれ》さ。僕の知ってるような人かい」
沼田は右手に下げていたタオルと海水パンツを寛にしめして親切に言った。
「有難うございます。実は探しているのは歌舞伎《かぶき》の中村菊四君なんですよ」
寛の尋ね人が中村菊四と聞いて沼田は当惑げな表情になった。
「中村菊四君ねえ」
「御存知ありませんか」
「いや、知っている。知ってるが、彼はちょいとまずいな」
沼田は声をひそめた。
「彼なら確かにプールに居るよ。実は先刻《さつき》、そこの芝生で逢《あ》ったんだ」
「居ますか」
「来て一時間と経っていないし、帰って行く姿を見ないから、おそらく居るだろうが、彼には声をかけたくないんでねえ」
「なにかあったんですか」
「たいした事じゃないんだが、先だってテレビで彼と一緒の仕事があったんだ。僕の劇団からは僕と荻原《おぎわら》君が出てね」
荻原功は築地小劇場時代からの新劇の老優である。
「本よみからリハーサルから、中村君は遅刻の連続なんだ。殊にリハーサルの時なんぞ一時間近くも待たせた上に、一言の詫《わ》びも言わない。おまけに若い女を三、四人も連れて来てリハーサルを見物させてるんだ。それをつべこべ言うのも年寄りのやきもちと辛抱していると、僕とのやりとりの所でね。彼は台詞《せりふ》をまるで憶《おぼ》えていない。だから呼吸が合いっこない。プロデューサーが注意すると台詞が言いづらいの、芝居がしにくいのと難癖をつけ始めた。それで荻原君が腹をたててね。一刻な老人がつとめておだやかに注意したのを、彼は詫《わ》びる所か逆に……」
沼田は眉《まゆ》をひそめた。
「まあ、それはそれなんだが、先刻《さつき》、逢《あ》っても会釈一つするわけじゃない。そんなわけでね。彼に声をかけるのは、まずいんだよ」
「そうですか」
寛はうなずいた。菊四の性格から考えてもやりかねないと思った。
「君、こうしないか、失礼だが僕の海水パンツをお貸しするから、自分でプールへ行って彼に逢い給えよ。それならいいだろう」
沼田が差し出した海水パンツとタオルを寛は受け取った。
「いいですか。沼さん」
「かまわんとも、君さえよければ使ってくださいよ。どうせ、僕はあっちでビールでも飲んでいるからね」
「じゃ、お借りします」
寛は足早やに脱衣所へ入った。沼田はのんびりと芝生へ戻って行く。
「大丈夫かしら。寛一人で……」
八千代は心細そうに染子を見上げた。
「まかしときなさいよ。彼に……。こんな問題ぐらい解決出来ないようじゃ八千代ちゃんのご亭主として失格だもの」
染子は自分でクロークの横から椅子《いす》を持ってくると柵《さく》のそばへ腰を下した。
プールのふちに立って、寛はゆっくりと周囲を見渡した。
プールサイドのテーブルには五、六組の男女がコーヒーを飲んでいる。
松の木の生えている側のビーチパラソルの下に人影は殆《ほと》んどなかった。蒸し暑い夜だが水泳後は体も冷えるし、夜風も出て来ている。遠く見渡せる夜景はネオンが美しい。寛は細川京子のアパートの部屋の窓から眺めた夜景を思い出した。
ボーイがコーヒーを持って来た。九時近くになって入って来た客を怪訝《けげん》そうに見てコーヒー茶碗《ぢやわん》を傍のテーブルへ置いて行った。コーヒーは甘ったるかった。一口のんだだけで寛は茶碗をテーブルに戻した。
「あら、能条寛じゃないの」
背後で女の子のささやきが聞こえたので寛はどきりとした。こんな所でさわがれてはたまらない。
「嘘《うそ》よ。彼がこんな所へ来るもんですか」
赤い水着が否定した。プールサイドの暗さが寛に幸いしたらしい。
「でも、よく似てる人ねえ、すてきじゃないの」
さりげなくプールの方へ移動した寛の背に若い嘆息が迫った。
プールサイドに中村菊四は居なかった。とすればプールの中である。泳いでいる男女はごちゃごちゃしてわかりにくい。
根気よく眺めていると目が馴《な》れて、中央付近で女と派手にさわいでいる彼の顔が見つかった。
寛は中村菊四から目を放さずにプールへ入った。
水は思ったより温かった。多少、温度を加えているらしい。軽く身体をぬらして、寛は抜き手を切って菊四に近づいた。今年になって始めてのプールだが、汗ばんだ肌に快い。近づいて寛は軽く肩を叩《たた》いた。一度では気づかない。連れの女は先刻《さつき》のバーで見た顔だった。最初からプールへ来る心算《つもり》で水着を用意して来たのだろうか、紫色に白のふち取りをした派手な水着である。
二度目に肩を叩かれて菊四はふりむいた。
「寛、いつ来たんだ」
寛は微笑した。
「ちょっと頼みがあるんだ。まだ泳ぐのかい。泳ぐんなら待ってもいいよ」
「頼み……」
菊四はちょっと考える風だったが、女へ言った。
「どうする。もう上がるか」
「そうね。上がってもいいわ」
女の返事で菊四はクロールでプールサイドへ戻った。女は水の中を歩いて行く。寛はゆっくり平泳ぎで続いた。上にあがったのは寛のほうが先である。菊四は女に手を貸してやって引っぱり上げた。手をつないだ儘《まま》、一つのビーチパラソルのそばへ行く。
白地に赤や黄や黒の派手な模様のタオルで菊四は体を拭《ふ》いた。赤い海水パンツをつけている。
菊四の体は貧弱だった。痩《や》せているし、骨ばってもいた。スポーツできたえた筋肉質の寛と並ぶと一層、目立った。
「頼みってなにさ」
劣等感からか、菊四の声は不機嫌だった。
「茜ますみさんの秋のリサイタルね。あれに君が鳥辺山を踊る話になっているそうだけど、それを一応なかったことにしてもらいたいんだ」
ずばりと寛は言った。菊四は小鼻を皺《しわ》ませて笑った。
「なにかと思えばそんな話か」
ぺっと唾《つば》を吐いて、流し眼に寛を見た。
「なるほど、僕は茜ますみさんのリサイタルに頼まれて鳥辺山を踊ることになっている。相手役は浜八千代ちゃんだ。その話はもう本ぎまりになって仮プログラムにも出ているし、茜流の社中《しやちゆう》でも評判になっている」
菊四は雄弁に統けた。
「けど、まあ、御当人の八千代ちゃんが僕と踊りたくないというのなら、そりゃおりたっていいが困るのは茜ますみさんじゃないのかい。リサイタルに薗八節《そのはちぶし》を使うのは鳥辺山だけだし、その鳥辺山がなくなっちまったら、薗八節の地方《じかた》さんを頼んだのをキャンセルしなけりゃならないし、それじゃ茜ますみさんの面目が丸つぶれになるだろう。僕としても芸界の人間だから、そういう事情がわかっていながら、みすみす役をおりるというわけには行かないよ。うっかりすると僕の責任になっちまうからね」
「そりゃあそうね。あちらさんの都合で中止になったってことは内部の人しか知らない。世間じゃ菊四さんが急に止めたんだと思う人もあるだろうし、そんな事で不義理な男だと思われたりしたらたまらないわね」
タオルを肩にかけて椅子《いす》に坐《すわ》っていた女が口をはさんだ。
「そういう事は、はっきりさせるよ。勿論《もちろん》、薗八の地方さんのほうへは、八千代ちゃんから挨拶《あいさつ》させる」
「嫌だね。少数の人の了解がついたって、誰《だれ》がどう誤解するか知れたもんじゃない。つまらないのはどっちみち僕だもの」
菊四は唇をゆがませた。
「じゃ、どうしたらいいんだ」
穏やかに寛は追及した。
「どうすれば君が納得してくれるのか教えて貰《もら》いたいが……」
「鳥辺山の番組をプログラムからはずさないで貰《もら》いたいね。今更プログラム変更なんて、すっきりしないからねえ。つまり、僕がやる予定の縫之助の役ね。あれを誰《だれ》かが代わってくれる、それも僕以上にあの役にどんぴしゃりな人間がやってくれるというのなら、おりてあげてもいいんだよ」
菊四の注文は難しかった。
鳥辺山心中の踊りは茜流の舞踊曲目の中でもベテランの舞踊家でないと許されない。まして条件から考えても容姿、台詞《せりふ》、舞台上のテクニックなどを数えると女性ではやり難い役なのである。普段は大抵、歌舞伎《かぶき》俳優を特別出演に頼むのも、そういう理由のためであった。
人柄はとにかくとしても歌舞伎の若手ナンバーワンである中村菊四のおりた役を代わるとなると同じ歌舞伎の社会の人間はおいそれと頼めもしないし、又、引き受けもしない。そういう芸能界のかけ引きを承知した上で、菊四は、
「僕に納得出来る代役がいるのなら、役をおりてもいい」
と言ったものだ。
「ねえ、どうなのさあ。君も八千代ちゃんの使者に来るなら、代役の問題くらい、ちゃんと計算ずみなんだろう」
菊四はタオルで肩を巻きながらふてぶてしく迫った。寛の顔からは微笑が消えなかった。おっとりと答えた。
「代役はきまっているよ」
「きまっているって……?」
「ああ」
「誰《だれ》だい。それは、勿論、承諾したんだろうね。いい加減な話じゃあるまいな」
「当人もはっきり言っているよ。鳥辺山の縫之助の役を中村菊四君と代わって、浜八千代ちゃんと踊るってね」
「誰なんだ。そいつは」
菊四は躍起になった。
「僕さ。僕が君の代わりに八千代ちゃんの相手役を勤める事になったんだよ」
寛はけろりと言ってのけた。
「君が……」
菊四の顔色が変わった。
「まさか……」
T・S映画で最高の売れっ子スターである能条寛が、舞踊のリサイタルに特別出演をしたら、それこそ芸能界のビッグニュースである。
「冗談も休み休み言い給え。茜ますみさんのリサイタルは九月だぜ。君のスケジュールは来年の三月まで、ぎっしりだって言うじゃないか。踊りなんぞに出る暇はあるまい」
菊四が言ったのには裏づけがあった。この秋に歌舞伎《かぶき》と映画の人気俳優を揃《そろ》えて芝居興行の話が、すこぶるの好条件で能条寛を勧誘した所、T・S映画のスケジュールがぎっしりで割り込む余地がなく断ったという話を菊四は一昨日、関係者から直接、聞いたばかりであった。
「出ると言ったら間違いなく出るよ。僕のスケジュールなのだから、やりくりはつけられる。そこで菊四君、僕の代役では不承知かい。それとも……」
寛はやんわりと菊四へ言った。
菊四の表情がゆがんだ。
「そうかい。君が八千代ちゃんと鳥辺山を踊るってのか」
遠いネオンへ落ち付かない視線を投げた。
「納得してくれるかい」
「仕方がないさ」
言葉を丸めて放り出すような菊四の台詞《せりふ》だった。
「君じゃ、太刀打ち出来っこないさ。歌舞伎に居た時分から踊りは天才の君だ。それにしてもマスコミがさわぐだろうな。相思相愛の二人が鳥辺山を踊る。まるで茜流のジンクスの裏をかくようなもんだ。八千代ちゃんもいい恋人を持って幸せだね」
自嘲《じちよう》めいた呟《つぶや》きに、寛は素直に応じた。
「もう何年も舞扇を持っていないからね。自信なんかまるでないが、まあ、君が了解してくれるなら一生懸命にやるつもりだよ。君の代役として恥ずかしくないようにね」
「了解も不承知もあるもんか。今更。どうぞ君たちの御自由にと申し上げる他はないじゃないか」
「有難う。茜ますみさんのほうへは僕らから改めて話に行くよ。じゃ、僕は染ちゃんと八千代ちゃんが待っているから」
会釈して帰りかけた寛の背へ菊四は未練がましく言った。
「寛、君はそれほど八千代ちゃんに惚《ほ》れているのかい」
ゆっくりと寛は微笑の顔をふりむけた。
「惚れているよ」
その自信たっぷりな返事が菊四には癪《しやく》にさわった。つい、言わずもがなの事を言った。
「彼女を信じているんだな」
「信じているよ」
「俺《おれ》と温泉マークへしけ込んでもか」
寛の微笑がまるで自分の言葉を問題にしていないのを知ると菊四はむしゃくしゃした。あの晩、八千代に逃げられた時のぶざまな自分の恰好《かつこう》が思い出されて、自尊心の強い菊四は頭の中が熱くなった。
「ふん、甘い男だ」
テーブルの上のコーヒー茶碗《ぢやわん》に手を伸ばした。一口飲んで、冷えたコーヒーの甘ったるさを我慢がならないというように、茶碗に残った液体を横へぱっとあけた。運悪くプールから上がったばかりの若い青年のグループが傍を通った。先頭の男の白い海水パンツから胸へかけてコーヒーがぶちまけられた形になった。
「おい、なにするんだ」
若い男が気色ばんだ。しまったと思ったのだが、菊四は虚勢をはった。寛の手前もあった。
「何んとか挨拶《あいさつ》したらどうだ。人にコーヒーをぶっかけやがって……」
つめ寄ってくるのへ、菊四はうそぶいた。
「失敬したな。後に眼がないんでね」
先刻《さつき》からの苛々《いらいら》の八ツ当たりである。
菊四にコーヒーをかけられたグループは完全に腹を立てた。もともと柄のよい連中ではない。Pホテルの客としてふさわしい人間ではないが、もともとホテルの宿泊人専用に作られたプールを夏場だけ一般へも開放しているので、お門違いな人間もまぎれ込む。
「なんだと、言いやがったな」
白い海水パンツがいきなり菊四の腕を掴んだ。その手を横から寛が押さえた。
「待ち給え」
菊四へ別に言った。
「菊四君、あやまれよ。君が悪い。知らずにした事だが被害者が出来た以上、詫《わ》びるべきだ」
菊四は反抗的な表情を見せたが相手が悪いと悟ったのだろう。
「すみませんでした」
不承不承に頭を下げた。
「すみませんで済むか。人をなめやがって」
白い海水パンツがわめき、他の連中もそうだそうだとけしかけた。
「こいつ」
寛に掴《つか》まれた手をふりはなそうとして眉《まゆ》をしかめた。やんわり掴んでいるように見えて寛の手は相手の自由を全く奪っていた。
「放せ……放せったら……」
もがきながら、どなった。寛は微笑し、さりげなく力を抜いた。
「失礼しました。こいつもわざとやったわけじゃありません。もののはずみです。勘弁してやって下さい」
丁寧に頭を下げた。白い海水パンツは大人しい寛の言葉に再び喰《く》ってかかった。
「貴様はこの男のなんだ」
「友人です」
「代理にあやまるってのか」
「そうです」
「よし、こっちへ来い」
白い海水パンツは寛の肩を押してプールのそばへ寄った。寛は相手に逆らわなかった。
「あの男に代わってあやまれ」
プールのふちで白い海水パンツは改めて言った。その二人の姿は脱衣所の柵《さく》の所で覗《のぞ》いている染子と八千代に見えた。声は聞こえないが、ただならぬ様子は察せられる。
「寛がどうかしたのかしら」
八千代が不安そうに言った。出来れば柵を乗り越えてそばへ行きたげな八千代である。
「そうねえ、なんだろう」
染子が呟《つぶや》いたとき、寛は白い海水パンツへ向かって再度、言った。
「申しわけありませんでした」
頭を下げるのを待っていたように白い海水パンツが寛の横顔へ猛烈なパンチをとばした。が、ぼんやりなぐられる寛ではなかった。プールのふちへ連れて来られた時から相手がそうした行動に出ようとしているのは察知していた。とっさに身を沈める。かわされて白い海水パンツは勢余って自分からプールへとび込んだ。
柵《さく》にしがみついていた八千代が悲鳴をあげたのは、白い海水パンツの男がプールへ落ちるのと同時に左右から二人の男が寛へとびかかったのを見た故《せい》である。
しかし、八千代の恋人は沈着で身軽だった。一人は腰車であっさりプールへはねとばし、もう一人をはね腰にかけた。そのとたん、
「寛、あぶない」
八千代は柵を突きとばして走り出した。残った男が折りたたみ椅子《いす》を寛の背後からふり下そうとする瞬間である。
「きやあ」
染子は顔を押さえた。中村菊四が猛然とその男にぶつかった。二つの体はぶつかり合ったまま椅子と一緒に倒れた。椅子は菊四の頭上に落ち、男は菊四の体当りでプールへ落ちて行った。
「寛」
八千代は寛に全身ですがりついた。
「どこも怪我《けが》はない。怪我は……」
恥ずかしさも日ごろの慎しみもふっとんでしまった形で、八千代は寛の裸をなで回した。
「大丈夫だ。それより菊四君が」
寛は八千代を片手に抱いた儘《まま》、倒れている菊四へ近づいた。
「菊四ちゃん、菊四ちゃん、しっかりして」
菊四にまつわりついて泣き声をあげているのは染子だった。菊四のつれの女はいつのまにか姿を消していた。かかわり合いになるのを怖れたものか。
「菊四君、しっかりしろ、菊四君」
寛が抱き起こすと、菊四はうめき声をあげながら寛を見た。
「寛君」
後頭部から血が流れていた。菊四は寛を見上げ、にっと笑ったきり、気を失った。
茫然《ぼうぜん》と眺めていたボーイや係員が漸《ようや》く走り寄って来た。
「怪我人《けがにん》を、すぐに運んで下さい。S病院が近い。担架はありませんか」
寛はてきぱきと指図した。だが、ボーイ達は事態がのみ込めずに右往左往するばかりである。誰《だれ》かが連絡したらしく、芝生を横切って警官が走って来た。
「八千代ちゃん、君、むこうのガーデンパーティへ行って、沼さんを呼んで来てくれないか。どうも面倒くさいことになりそうだから……とにかく菊四ちゃんの手当てをしなけりゃ。沼さんに来てもらって一応、僕の身分証明を頼むんだ」
「わかったわ。呼んで来ます」
八千代は寛の手を握りしめ、素早くプールサイドをかけ抜けた。
「あぶないよ。すべらないように……」
見送って、寛は菊四のそばへしゃがみ込んだ。染子が泣きじゃくりながらハンカチで菊四の怪我《けが》を押さえている。緊急の際なのに、寛はそうした染子のポーズがすこぶる女性的なのに気がついた。
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