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黒い扇19

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:死体第四号S病院へ運ばれた中村菊四の怪我《けが》は出血の割合にたいした事はなかった。無論、命に別状はない。「どうせ、今月
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死体第四号

S病院へ運ばれた中村菊四の怪我《けが》は出血の割合にたいした事はなかった。
無論、命に別状はない。
「どうせ、今月は芝居も休みですし、これを機会に病院のベッドの上で自分を反省してみたらと思いますよ。芸の上でも人間としてもね」
病院へかけつけて来た菊四の父親の中村|菊之丞《きくのじよう》は手当ても済み麻酔で眠っている息子を見つめてしみじみと言った。
歌舞伎《かぶき》の社会では押しも押されもせぬ立《たて》女形《おやま》として「先代萩《せんだいはぎ》」の政岡《まさおか》とか「山姥《やまうば》」「茨木《いばらき》」などの所作事でも定評のある名優だが、素顔には六十過ぎの老人の皺《しわ》が深い。
「考えてみれば菊四も可哀《かわい》そうな子でしてね。母親が違う所へ持って来て、腹の違う弟や妹もいる。今の女房が生《な》さぬ仲のあいつだけを特別扱いにしているわけではないんだが、菊四にしてみれば面白くねえ事もあろうし、淋《さび》しい事もあるんだろう。そんなものが外へ出ると爆発しちまって碌《ろく》でもねえ噂《うわさ》の種ばかり作っちまう。図太いように見えても神経の細かい奴《やつ》なんですよ。自分で自分がどうにもならねえでいる。早くいい女房でも出来ると救われるんですがねえ」
菊之丞の言葉に八千代も染子もしんみりとなった。
「僕もそう思いますよ。菊ちゃんってのは根はいい男なんだ」
寛は力をこめて言った。
「今晩だって菊ちゃんは僕をかばってこんな怪我《けが》をしてしまったんだ。本当なら、今頃《いまごろ》、このベッドの上に寝ているのは僕自身であるべきなんです。とんだ災難でした」
「いやいや、それもこれも元はと言えば全て菊四から出たことです。怪我は自業自得ですよ」
病室のドアが開いて菊之丞の後妻の君子が握り寿司を運んで来た。
「皆さんにはすっかり御迷惑をおかけしまして……お疲れでしょう。一つ召し上がってお帰りになって下さいまし」
柔和な、それでいてきびきびした動作である。染子はふと、この気のききすぎるのが菊四にはかえって気づまりな反撥《はんぱつ》を感じさせるのではないかと思った。
S病院を辞して、寛は染子と八千代を自宅へ送った。染子を浜町の家へおろし、二人っきりになった深夜のドライブは快適だった。
「疲れただろう。やっちゃん」
ハンドルを握ったまま、寛は八千代をいたわった。
「寛こそ、大変だったわ」
宮城のお堀端はひっそりと水が黒い。深夜タクシーも殆《ほと》んど姿を消している。
「菊四さん早く治るといいわね」
八千代はぽつんと言った。うなずいた寛の左手がそっと伸びて八千代の手を掴《つか》んだ。車は順調なスピードで八千代の母が待っている銀座の「浜の家」へ向かっていた。
 朝方まで興奮して寝つかれなかった八千代は九時過ぎに女中に起こされた。
「結城の伯父《おじ》様からお電話でございますよ。ええ、お嬢さんにということで……」
八千代はクリーム色のネグリジェのまま、受話器を取った。
結城慎作の喋《しやべ》り方はいつもと変わらなかったが、八千代は直感的に伯父の声の底に或る緊張したものがあると思った。
「八千代かい。ちょっと聞きたい事があってね。いや、別に難しい事じゃない。君は昨夜、寛君と逢《あ》ったかい」
「ええ」
八千代は全身が熱くなるのを感じた。寛がせっかちに二人の結婚のことで結城慎作の許へ相談にでも出かけるのかと早合点した為である。
「どこで逢ったんだ」
慎作の調子は真剣だった。姪《めい》の恋愛を冷やかしている風ではない。
「家でですわ。寛さんが訪ねて来たんです。染ちゃんと一緒に。もっとも染ちゃんとは家の前でばったり逢ったんだそうですけど」
「それは何時|頃《ごろ》」
「七時前後です」
「確かかい」
「ええ」
八千代はちょっと考えて答えた。
「七時過ぎですわ。私が部屋でラジオのニュースを聞いてた時ですから、十五分過ぎより後ではありません」
「寛君は八千代の所へ行く前にどこに居たか聞いたかい」
「撮影所から銀座のガス灯というバーへ、六時すぎだって言ってました」
「ふむ、それで八千代の部屋には何時|頃《ごろ》まで居たんだね」
「八時ちょっと過ぎまで、それから三人でPホテルのプールへ……」
八千代は口ごもって、気がついた。Pホテルのプールでの格闘が問題になったのかと思った。果たして慎作が言った。
「成程、それからタフガイの立ち廻《まわ》りさわぎがあって、菊四君がS病院へかつぎ込まれたという順序だね」
「伯父《おじ》様、やっぱりPホテルのことで寛がどうかしたんですの。でも、あれは寛の罪じゃなくて……」
弁解する八千代の言葉を慎作が遮った。
「そうじゃない。それは心配ないんだ。S病院から帰ったのは何時だね」
「十二時を過ぎてました。一時近かったかしら。染ちゃんを浜町へ送って、私を家まで、それから青山へ帰った筈《はず》ですわ」
八千代は、たまりかねて訊《き》いた。
「伯父《おじ》様、寛さんがどうかしましたの」
「いや」
受話器の声が逡巡《しゆんじゆん》した。それが八千代の不安をかき立てた。
「ねえ、伯父様、おっしゃって……」
結城慎作は落ち着いて、姪《めい》に答えた。
「大丈夫だよ」
「だって、伯父様、可笑《おか》しいわ。何故、昨夜の寛の事ばかり根掘り葉掘りお聞きになったんですの」
「それはね」
慎作は声を区切った。
「寛君に殺人容疑がかかりそうだったからなんだ」
八千代は返事が出来なかった。耳を疑った。受話器を握りしめてやっと言った。
「そんな……伯父様」
「心配する事はない。八千代の言った通りの行動を昨夜、寛君が取っているとすれば、アリバイははっきりしている。慌《あわ》てる事はなにもないんだよ」
「でも、伯父《おじ》様」
八千代はあえいだ。
「私が申し上げたことに嘘《うそ》はありませんわ。お調べになれば解ります。染ちゃんだって証人にたってくれます。でも、どうして、寛が殺人容疑だなんて、そんな馬鹿《ばか》なことになったんですの」
「それは、今日の夕刊を見なさい。じゃ、切るよ」
「伯父様、ずるいわ、ご自分の事ばっかり、伯父様……」
だが、電話は切れた。
胸の鼓動が俄《にわ》かにはっきり聞こえる。八千代は波うちぎわに立っているような不安定な気持ちだった。一人で居るのがたまらない。母は美容院へ出かけている筈《はず》であった。
ダイヤルを回した。染子の家である。
「八千代ちゃん、昨夜はお疲れさま」
てっきり寝ていると思った染子が案外はっきりした声で応じて来た。寝起きの様子ではない。
「丁度よかったわ。これから出かける所だったの。ううん、お稽古《けいこ》じゃない。S病院へね。菊四さんのお見舞いに行ってあげようかと思ってさ」
八千代がもたもたしている中に染子は一人で喋《しやべ》った。
「菊四って男はあんまり立派だとは思わないけど、昨夜ばかりはちっと見直したわよ。まあ、人間、いい所もあるんだわね」
「染ちゃん」
のんびりした染子の調子を八千代は遮った。
「なによ。あんたも一緒にお見舞いに行く。寛の恩人ですもんね」
「一緒に行きたいけど……それが……」
八千代はおろおろした。
「染ちゃん、大変なのよ。寛が殺人容疑で」
「なによ。サツジンヨーギって」
染子はけろりとしている。
「寛が人殺しをしたと思われてるらしいの」
「なんですって、寛さんが人殺しッ」
染子の声がもんどり打った。
受話器の中からけたたましい物音が聞こえて来た。染子が抱えていたハンドバッグを取り落としたものらしい。
「ちょっと八千代ちゃん、それ本当、寛さんがいつどこで人殺しなんぞ……」
染子の早合点に八千代は憤慨した。
「嫌だわ。寛が人殺しなんかするもんですか。ただ、そういう疑いがかかったっていうのよ。勘違いしないで……」
「なんだ。そうなの。八千代ちゃんの言い方が悪いのよ。寛が人殺しなんぞする筈《はず》ないもんね。けど、容疑だなんて失礼しちゃうね。大体、人を殺すようなお人柄と思うのかね」
現金に染子の声が落ち着いて来た。
「それにしてもなんでそんな疑いがかかったのよ」
「わからないのよ。それが、今、結城の伯父《おじ》様から知らせて来たの。詳しいことは夕刊を見ろって……」
「そいじゃ、夕刊みたらいいのに……」
「だって、今夜の夕刊よ。まだ売ってやしないわ。お昼前だもの」
「そうか、結城の伯父様も思わせぶりね。八千代ちゃん心配だろうね」
「当たり前よ。居ても立ってもいられないわ」
「そりゃそうね」
染子は生ぬるい風呂《ふろ》へ入ったような答え方をした。
「寛さんはどこに居るの」
「わからないわ。本当なら撮影所の筈《はず》だけれど……私、逢《あ》いに行ってはいけないかしら」
そうでなくても八千代は彼に逢いたいと思った。昨夜以来、寛は八千代にとってこの世で只《ただ》一人の男性になってしまっている。
「逢いたいのは分かるけど……寛さんに殺人容疑がかかったのは昨日のことなんでしょうね」
「そうらしいわ。伯父《おじ》様は昨日の夕方から寛の行動を根掘り葉掘り聞いたわ。それだけ立派なアリバイがあれば大丈夫だって」
「なるほどねえ。そうすると私達は寛さんのアリバイの証人っていうわけだわ」
染子は慎重に言った。
「そうなると、八千代ちゃん。こりゃあうっかり動けないわね」
「なぜ」
「なぜってそうじゃない。私たちが泡を喰《く》ってごちゃごちゃ動き回ったらアリバイの打ち合わせをしてるんじゃないかと疑われるわよ。近頃《ちかごろ》のおまわりさんってそそっかしいからね。痛くもない腹を探られて、おまけに寛さんの不利になったら馬鹿馬鹿《ばかばか》しいもの。ここが思案のしどころよ。夕刊が出るまでは辛くてもじっとしてなさいよ。間違っても寛さんに電話なんかしては駄目よ。わかったわね」
染子の声は司法官のように重々しかった。
それにしても、寛に殺人容疑がかかりかけたというだけで、誰《だれ》がどこで殺されたのかまるっきり解らないことが二人を不安にさせた。
「八千代ちゃん、あんた、なにか見当がつかないの」
「全然よ。頭がくらくらして考える気力もないわ」
八千代は弱音を吐いた。
「私たちの知ってる人かしら」
「さあ」
「とにかく、待ちましょうよ。夕刊が出るまで。くどいようだけど、なまじな動き方をしては駄目よ。わかったわね」
念を押して染子は電話を切った。
八千代は時計を眺めた。夕刊が発売になるのを午後三時過ぎと見つもっても、まだ五時間以上もある。それだけの時間を不安の中で辛抱するのは怖しいようだった。
一言でも寛の声が聞きたかった。だが、染子の言うように寛と連絡を取ることが、彼のアリバイに捜査官の疑念をはさむような結果となっては大変である。
八千代はのろのろと部屋へ戻った。こんな場合、どうしてよいのか見当もつかない。自分がひどく無力でたまらない気がする。ネグリジェを脱いで普段着に着替えた。朝の洗面をしていると内玄関に聞き馴《な》れた母の足音が帰って来た。出迎えた女中と二言三言|喋《しやべ》りながら茶の間へ入った様子だ。八千代は母のタオルを冷水でしぼって持って行った。
「お帰りなさい」
「ああ、有難う」
母はタオルで顔を拭き、二の腕を浴衣《ゆかた》の下でぎゅっぎゅっとこすり上げた。
「代々木の兄さんから電話があったんだってね」
娘に訊《たず》ねた。代々木初台に自宅のある結城慎作を彼女はそういう呼び方をしていた。
「それがね。お母さん……」
八千代は少しためらってから結局、電話の内容について説明した。母親は八千代が思ったより驚かなかった。
「そりゃあ大変な事だね」
話を聞き終えて言った調子も落ち着いていた。
「だけれど、そりゃなにかの間違いだよ、他の人ならとにかく寛ちゃんが人殺しなんぞするわけがない。代々木の兄さんだってよく知っているし、たといなにかの拍子でそんな疑いがかかったとしても調べてみればすぐにわかる事だもの。そうだ、私から代々木の兄さんに電話して詳しいことを聞いてみようか」
よっこいしょっとはずみをつけて立ち上がる母を八千代は心から頼もしいと感じた。母が電話の前に立ったとき、待ちかまえていたように電話のベルが鳴った。取りあげた母が、
「八千代、寛ちゃんからだわよ」
受話器を手に当てたまま、背後の八千代を手まねきした。
「もしもし、やっちゃん、茜ますみさんのリサイタルの件ね。仕事の繰り合せもついたし、会社のOKもとれたから心配しなくていいよ。二、三日したら稽古《けいこ》も始めるからね」
快活な寛の声は殺人容疑なぞどこ吹く風といった調子であった。
「そんな……寛、あなた、それどころじゃないでしょう……。私、聞いたのよ。結城の伯父《おじ》から……どんなに……」
逢《あ》いたかったかと言いかけて八千代は傍の母に気がねして言葉を切った。
「ああ、殺人容疑の事かい。それなら心配ないんだ。容疑という程の話でもないし、大丈夫なんだよ。そのことでね。さっき結城の小父《おじ》さんから僕の所へも電話があって、今夜、代々木のお宅へ来ないかと言われたんだ。いや、勿論容疑とは別問題さ。今度の事件が要するに僕らが疑問を持っていた前の事件とどうやら関係がありそうだという事について結城の小父さんと話し合おうというわけさ。八千代ちゃんも一緒に来るようにとこれは結城の小父さんからの伝言だけど、都合はどうかな」
「行きますわ。どこへだって……」
八千代は思わずそう答えた。事件の概要はわからなかったが、寛と一緒ならどこへでも行こうと感情的になっていた。
「それじゃ、五時|頃《ごろ》に迎えに行くよ、くわしい話はその時にね。ここは撮影所の電話だから……」
他聞をはばかるという意味らしかった。八千代は慌てて言った。
「待って、寛、一つだけ教えて、今度の事件って何なの。なにが起こったの。誰《だれ》が殺されたの」
寛の殺人容疑というからには殺人事件が発生したことは間違いなかった。
寛の声が低く短く告げた。
「細川……京子さんなんだ。昨夜らしいよ」
切れた受話器を握りしめて八千代は茫然《ぼうぜん》とした。
(細川京子さんが殺された……)
実感にはならなかった。
(しかも、昨夜……)
昨夜と言えば、中村菊四に逢《あ》うために染子と寛と三人で赤坂のPホテルのプールへ行っていた。本来なら寛はその夜、八時にPホテルとはすぐ近くのニューセントラルアパートへ細川京子を訪問し、彼女からアルバムを見せて貰《もら》う約束になっていた。それが、思わぬ菊四と八千代の問題で変更になり、Pホテルでは更にプールサイドの活劇ということになって細川京子との約束は完全に放擲《ほうてき》されてしまったのだ。
「いいよ。京子さんには明日、電話であやまるから……」
と寛は昨夜、八千代に言ったものだ。
「八千代、どうだったの」
ぼんやりしている八千代の背後で母が心配そうに尋ねた。
 赤坂のニューセントラルアパートにおける細川京子変死事件を、その日の夕刊はどこの新聞社も三面記事のトップに扱っていた。
被害者が今年の正月、失踪《しつそう》の末、自殺した映画俳優、細川昌弥の実妹であること、変死現場が都内でも指折りのデラックスアパートの一室の、しかもバスルームの中であった事、それと死体発見者が大東銀行の頭取、岩谷忠男氏のお抱え運転手で、その結果、被害者のパトロンが他ならぬ岩谷氏自身であることなどが暴露されたからである。
「まあ二人共、一応は新聞を読んで来ただろうが、話のついでに一通り順を追って説明しよう」
御自慢のダンヒルのパイプをくゆらしながら結城慎作は姪《めい》とその恋人へ柔らかな微笑を向けた。
代々木初台にある結城慎作の応接間、テラスに面した広い庭からは蜩《ひぐらし》の声がひっきりなしに聞こえていた。
日が落ちたばかりなので庭はまだ明るい。百日紅《さるすべり》が濃いピンクの花を枝一杯に咲かせていた。テラスの前の芝生のすみには紫色の小さな花が群れている。夏桔梗《なつききよう》というその名を八千代は昨年の夏、伯母《おば》から聞かされた。可憐《かれん》な、しかも地味な雑草の花を伯父夫妻は殊更に愛しているらしい。
開け放したドアから伯母がクリスタルグラスに淡雪のようなアイスクリームの山を載せて入って来た。
「お手製なのよ。ハワイのアイスクリームよりおいしいから……」
カップに取り分けながら八千代と寛を見くらべた。
「今日はまア、二人共、気を揃《そろ》えて浴衣《ゆかた》なのね。こんな事なら、私も結城とペアのワンピースでも着て見せつけてあげるんだったわ。ねえ、貴方《あなた》、そうでしたわね」
と夫へ笑いかけた顔が年齢に似げなく稚《おさな》い感じである。子供のない夫婦のせいか、いつまでも若々しい。八千代はちらと寛と眼を見合せた。
その寛はくすんだグリーンで兼平格子をモダン化したような洒落《しやれ》た浴衣に紺の博多帯を締めている。撮影所からの汗とほこりを八千代の家で一風呂浴びて、彼女のお手製の浴衣を着て用意しておいた帯を結んで出て来たものだ。八千代のほうはこれも白地に大きく芭蕉《ばしよう》の葉をスモークグリーンで描いた浴衣に若草色の帯を小さく文庫に結んでいた。地味な色調がかえって彼女の若さをにおうように包んでいる。
「若いってのはいいもんだな」
微笑して慎作は、ふとテーブルの上の新聞に眼を落とした。ぎっしりつまった活字の中に細川京子の若い笑顔の写真が出ている。
「咲く花もあり、散る花もあり。世の中は非情なもんだねえ」
若い二人にアイスクリームを勧めて、慎作は事件の概要を語った。
「まず死体発見だがね。これは今朝の九時十五分すぎ、発見者は新聞に出ている通り岩谷忠男氏のお抱え運転手の杉山君だ。何故、そんな時間に杉山君がニューセントラルアパートの細川京子の部屋を訪ねたかというと、今日の十時十分上野発の臨時列車で岩谷氏は軽井沢へゴルフに出かける予定だった。細川京子はそれに同行する約束で、岩谷氏は彼女を迎えにニューセントラルアパートへやって来たわけなのだ。彼は車の中で待ち、運転手の杉山君が彼女を呼びにアパートの部屋を訪ねたという寸法になる」
杉山が部屋の前でドアをノックしたが返事がない。寝過しているのかと試みに把手《とつて》を廻《まわ》すとドアが開いた。鍵《かぎ》がかかっていないのだ。
声をかけても答えはなく、おそるおそる入ってみたが、部屋にも寝室にも京子の姿はなかった。念のためにキッチンへ出る。隣がバスルームだ。戸が開け放しになっている。浴桶の中に裸体の細川京子が上半分を浴桶のふちへ乗り出したような恰好《かつこう》で倒れていた。
「杉山君は最初、湯当たりでもしてのびているのかと思ったらしいんだ。さわってみると冷たい。ぎゃあというわけだね」
運転手の知らせでアパート中は蜂《はち》の巣を突ついたような騒ぎになった。引っかかり上、岩谷も逃げ出すわけには行かない。警官が駈《か》けつけ、警視庁からも捜査官が車をとばして来た。
「死因は青酸カリの中毒死だと判明した。居間のテーブルの上にあったコップには半分程ビールが残っていて、それからも青酸カリが検出された。という事は細川京子は青酸カリ入りのビールを飲んで死んだということだ」
結城慎作はパイプの煙を吐いた。
「そのテーブルのそばの椅子《いす》の上には細川京子の衣類一式がそっくり脱いであった。尚《なお》、テーブルの上にあったビール瓶のほうからは青酸カリは検出されていない。居間からバスルームまでは二つドアがあるが、これは開けっぱなし、部屋の中は別段、乱雑でもないしと言ってきちんと整理されてもいない。要するに細川京子が平常、そうしていたらしい状態のままという事になるだろうか」
「伯父《おじ》様、もっと具体的におっしゃってよ」
たまりかねて八千代は言った。
「要するに細川京子は青酸カリを飲んで衣服を脱ぎ、バスルームへはいって死んだという状態なんだがね。八千代は少しは聞きかじってるだろうが、青酸カリっていうのは効き目がすこぶる早い。殊にビールから検出された致死量は嚥下《えんか》して数分を経ずして絶命する程なんだよ。衣類を脱いでフルスピードでバスルームまで走ったとしても間に合わない」
冗談めかした言い方をしているくせに結城慎作の表情は笑っていなかった。
「ここまでの状態から想像すると、細川京子は昨夜、何者かによって青酸カリ混入のビールを飲まされ、瞬時にして絶命したということになる。その後、何者かは彼女の着衣を剥《は》ぎ、バスルームへ運んだという事になると思うんだが」
まさか女性が素裸でビールを飲んだにしてはビールのコップが居間にあるし、バスルームの中に湯も水もないのが可笑《おか》しい。
「すると伯父様、犯人はどうしてそんな事をしたのかしら。わざわざ死体をバスルームへ運ぶなんて、なにかそうする必要があったと考えるべきなの」
「さあ、それは犯人に訊《き》いてみなければわからない。が少なくとも僕は重大な意味があると思っている。死体がバスルームに置かれていたことについてだよ」
「細川京子さんの所への昨日の訪問者はわからないんですか。つまり生きている京子さんを最後に確認した人というのは……」
寛がツボにはまった質問をした。
「それが難しいんだ。今朝の死体発見以前に被害者を見たのは管理室の青年で加藤君という人なんだが、この彼の証言によると被害者は昨日午後四時から一時間程、外出している。買い物に行くと言い、実際、五時過ぎに戻って来た時には食料品の入った大きな紙袋を二つも抱えていたそうだ」
加藤青年は細川京子がアパートへ戻って来た際、階段の下の掃除をしていた。エレベーターが使用中で、それを待っていた京子と軽い会話をかわしている。
「随分、仕入れて来ましたね。宴会でもやるんですか」
加藤青年が言うと京子は紙袋をのぞいて嬉《うれ》しそうに笑ったという。
「今夜は素敵な恋人が来るのよ。だから腕によりをかけて御馳走《ごちそう》を作るの。ああ、このブランデー、恋人の好物なのよ。デパートのOSSへ行って買って来たんだわ」
いそいそとヘネシーのブランデーと、チューリップ型のブランデーグラスまで加藤青年に出して見せた。
「凄《すご》いゴキゲンですね。恋人とのパーティは何時からです」
冷やかし気分で加藤青年が訊《たず》ねたのは京子にパトロンがあるのを知っているせいである。
「八時からよ。それまでにお料理をして髪をセットしてお化粧して、大変だわ」
いそいそと京子はエレベーターへ乗った。
「それが被害者の生きている最後の姿というわけなんだ。つまり昨日の午後五時以後、細川京子は部屋へ入ったきり誰《だれ》にも姿をみせていない。今朝、死体となって発見されるまで声を聞いた者も今の所ないらしい」
八千代は思わず隣に腰かけている寛を眺めた。八時に細川京子の部屋を訪れる客、即ち京子がブランデーの仕度をしていそいそと待っていた相手とは、能条寛に違いないのである。
結城慎作の説明を聞きながら八千代は忙しく思案した。
(能条寛に殺人容疑がかかったのは八時に京子の部屋へやってくる客が彼である事が判明した為であろうか)
もしそうだとすれば、その時刻、彼は八千代や染子と同行してPホテルに居たわけである。彼のアリバイの証人はいくらでもあるわけだ。よかった、と八千代は思った。もし昨日八時に寛が一人でニューセントラルアパートを訪問したとしたら……。
「伯父《おじ》様、その細川京子さんを八時にたずねてくるというお客様は実際に昨夜は来なかったんでしょう」
つい正直に八千代は言った。
「それがわからないんだよ。あのアパートを訪問する客は一応、管理室の前を通るが、一人一人管理人に声をかけて行くわけじゃない。加藤青年にしたってトイレにも立つし、読書に熱中して、うっかり見逃したという事もあるかも知れないというんだ。しかし、加藤青年が言うのはそうした見逃しはあるかも知れないが、どうも八時に京子さんの部屋を訪問する筈《はず》の客は来なかったのではないかというんだ」
「まあ、なぜ」
「加藤青年も若いからね。細川京子が冗談にもせよ恋人と称した程の訪問客に興味を持ったんだな。どんな男がやってくるのかとね。それで、八時前からはなるべく管理室を動かないで入口に注意もしていたらしい。ところが十時を過ぎてもそれらしい客は入って来なかったというんだよ」
「やっぱり……」
八千代はなんとなくほっとした。
「ところで来なかったのかも知れないが、その被害者が待ちかねていた客というのが誰《だれ》だったかという事は捜査上、問題だ」
ところが細川京子は八時に来る客の名前を加藤青年には話していない。勿論《もちろん》、他に誰も彼女から聞いている人間はなかった。常識として考えられるのは彼女のパトロンである岩谷忠男氏だが、彼は昨夜は銀行の宴会で柳橋の料亭に居た。彼自身、細川京子とそういう約束はしなかったと申し立てている。それに、岩谷忠男氏はビール党でブランデーのような強い酒は好まない。だから細川京子の部屋の電気冷蔵庫にはいつも四、五本のビールが入っているが、他には彼女の好みでジョニーウォーカーの赤が一本、貰《もら》い物らしいリキュール瓶が一本、棚に並んでいるだけである。岩谷氏がその夜の客ならば、わざわざブランデーを用意する必要はない。
「つまり、その夜の細川京子の客はブランデーの好きな、おそらく若い男性に違いないと捜査本部では見当をつけた。が、それ以上は雲を掴《つか》むような話だ。細川京子に幾人ボーイフレンドが居るか知らないが、その中に該当者が発見出来るかどうか……」
結城慎作はそこでにやにや笑い出した。
「しかし、驚いたね。問題の八時に来る客が能条寛君だったとは……」
図星を指されて八千代は唇まで白くした。
「なぜ、僕だとおわかりになりました」
寛は微笑して言った。驚いていない。
「八千代の表情をみている中に気がついたよ。僕の話を聞きながらどきどきしっ放しだ。おまけにちょろちょろ寛君の顔を見る。正直なもんだねえ」
「伯父《おじ》様ったら、まるで刑事だわ」
八千代は両手で頬《ほお》を押さえた。
「もっとも、八時の客が寛君だと断言したのは他にもあるんだよ。それで寛君に危く容疑がかかりそうになったんだがね」
「誰《だれ》です。それは……」
落付いて寛が訊《き》く。
「岩谷忠男氏だよ。八時の客の一件が問題になったら、彼が言ったものだ。その男はT・S映画の能条寛というチンピラに違いない。この間中から細川京子につきまとっていた、とね」
「まあ、ひどい、失礼だわ」
「岩谷氏だけじゃない。管理室の加藤青年も能条君がニューセントラルアパートへ細川京子を訪問した事がある。それも深夜だと証言した。おまけに、そう言えば昨夜九時すぎに白い背広姿にサングラスをかけ、髪を短くカットしてポマードなしという若い男が随分、遅くまで弁慶橋からアパートの周辺を彷徨《ほうこう》していたという目撃者が現れた」
「嫌だわ。そんな……」
八千代は寛を眺めた。相変わらず油っけのないぼさぼさの前髪が少し額に垂れ下っている。人気スター能条寛のトレードマークみたいな髪形だった。白い背広も、寛はあまり好きではないが商売柄二着は持っている。サングラスをかけるのも俳優業の特徴みたいなものである。
「いろいろ係官の調べを聞いてみると背恰好《せかつこう》も寛君に似ている。どきりとしたね。なにも寛君が殺人犯だと思ったわけじゃないが、こいつはとんだスキャンダルになりそうだと思ったし、寛君にもし相思相愛の恋人でもあったらさぞかし嘆くだろうとねえ」
「伯父《おじ》様、それは寛じゃありませんわ。今朝も電話で申し上げたように、寛は昨夜、私と染ちゃんと一緒に……」
「わかっているよ。その事は既に昼間、寛君のアリバイがはっきりしすぎる程、はっきりしちまったのさ。Pホテルの乱闘事件がちゃんと警察へ報告されていたわけだ。少なくともアパート付近をうろうろしていた男は寛君じゃない。第一、彼はS病院から染ちゃんと八千代を自宅へ送り、青山の家へ帰りついた時、門前でパトロールの警官と逢《あ》っている」
パトロールの警官は能条寛と顔見知りだった。
「随分、おそいんですね」
「いや、ちょっと友達が怪我《けが》をしましてね」
そんな挨拶《あいさつ》をして寛が家へ入ってから警官は腕時計で時間を確かめている。一時十五分過ぎだった。
「寛君がS病院を染ちゃんと八千代と三人で出て行った時間は宿直の話だと一時十分前ぐらいだそうだ」
慎作は手帳のメモを確かめて言った。
「ええ、そうですわ。玄関の所の時計をみて染ちゃんがもう一時になるのってびっくりしたの憶えてます」
八千代は白い壁にかかった大きな時計が、如何《いか》にも外科病院らしく冷たくそっけなく見えたのを思い出しながら言った。
「要するに寛君はS病院から柳橋、銀座を回って三十分足らずで青山へ帰っている。深夜で車が空いていたにしてもこの時間では彼が途中でどこかへ寄り道する時間の余裕はない。これで彼のアリバイは完全なんだ。警察の発表では発見された細川京子の死体は死後最低十二時間は経っているということなんだ。つまり凶行は時間を大幅に見つもっても昨夜の午後六時以後、午前一時以前に限定されるわけだ」
「危かったなあ。全く……」
寛が首をすくめて頭を掻《か》いたので八千代の気持ちも和んだ。
「伯父《おじ》様ったら俺《おれ》は寛君を疑わないっておっしゃったくせに、そんな細かい事まで調べるなんて……」
八千代は抗議した。
「僕が疑ったわけじゃない。捜査官のご連中だ。それにしても狼狽《ろうばい》したね。ブランデーが好きなことといい、細川京子が惚《ほ》れている様子といい、どうしたって相手は寛君らしい。それに、寛君なら細川京子に近づきたがる可能性が大いにあるだろう」
結城慎作は眼を細めた。
「被害者が細川昌弥の妹でなければ、勿論《もちろん》、僕ももっと落ち着けたんだよ」
慎作と寛の視線が初めて絡み合った。
「率直に言います。僕が京子さんの死因について思い当たることと言ったら一つしかありません。万が一、それが彼女の殺される原因だとしたら、今度の事件は正《まさ》しく細川昌弥の死につながっていると思います。そして僕の推定では更にその前の海東英次先生の死とも同じ線の上における事件ではないかと思うんです」
寛の言葉に慎作はゆっくりうなずいた。
「僕はそれに小早川喬|轢死《れきし》事件も加えたい。昨年から起こった四つの死に共通した犯人を想定してみたいんだ。確証は目下の所、口に出して説明出来る程、揃《そろ》ってはいない。だが今度の事件が或《あ》る人間の殺人第四号なのではないかという根拠がある事は事実なんだ。それは私にとって非常に悲しむべきことなんだが……」
結城慎作は何故かそれ以上語ろうとしなかった。
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