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海嶺26

时间: 2020-02-28    进入日语论坛
核心提示:角帆     一 少し風は弱いが、雨もすっかり上がって、朝日が背にあたたかい。宝順丸が熱田を出て間もなく、船頭重右衛門は
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角帆
     一
 少し風は弱いが、雨もすっかり上がって、朝日が背にあたたかい。
宝順丸が熱田を出て間もなく、船頭重右衛門は、引き戸をあけて、水主《かこ》部屋(艫《とも》の間)から自分の部屋に入った。岩松が船に戻《もど》ることを拒んでいた水主頭《かこがしら》の仁右衛門も、いざ岩松が船に乗りこむのを見てからは、さして不満そうな顔も見せずに、水主たちを指図していた。今、重右衛門の心にかかるものは何もない。
重右衛門は、三畳ほどの船頭部屋にぽつんと坐《すわ》って帖箱《ちようばこ》をあけた。帖箱は、懸硯《かけすずり》、衣裳櫃《いしようひつ》と共に船箪笥《ふなだんす》と呼ばれていて、透明の漆塗《うるしぬ》りであった。このうちの帖箱を文机《ふづくえ》代わりにも使っていた。
重右衛門はふと思いついて、父源六の書いた宝順丸の見取り図を出して膝《ひざ》の上にひらいた。いつの頃《ころ》からか、重右衛門はこの図面を持ち歩くようになった。父源六が傍《かたわ》らにあるような気がするからだ。
船は大まかに言うと、|舳|《おもて》(船首部)と艫《とも》(船尾部)の二つに大別される。舳から順に言えば、小間、三の間、二の間、赤の間、胴の間、そして次の部分は、三畳ほどの船頭部屋、同じ広さの三役の部屋(脇《わき》の間)、この二つの部屋が帆柱の立っている柱道《はしらみち》(小部屋)を挟《はさ》んで、横に並んでいた。三役とは舵取《かじと》り、岡廻《おかまわ》り、水主頭《かこがしら》を指す。
つづいて、四|間《けん》半に四間半の水主部屋があり、ここには火床《ひどこ》と呼ばれるかまどのほか、帆を巻くためのろくろが二基、部屋の左右に一対となって置かれてあった。この水主部屋は、船頭部屋とも、三役の部屋とも、引き戸で仕切られている。
この三つの部屋の上は、屋根を兼ねた作業|甲板《かんばん》になっていて、帆柱もあれば舵柄《かじつか》もある。帆柱は二尺八寸角の寄せ木の松明《たいまつ》柱だ。
父の源六は、これらの見取り図を、実にわかり易く、几帳面《きちようめん》に書いてある。これは、まだ八歳だった重右衛門に、船の構造を教えるために書いてくれたものなのだ。年々、源六は千石船《せんごくぶね》について、様々なことを重右衛門に教えた。舵が畳八枚ほどの大きさもあること、従ってそれを動かすための舵柄は二十五尺もあること、この大きな舵が、二|股《また》に分かれた船尾の間にぶら下がっていること、浅瀬ではこの舵を引き上げねばならぬこと、この舵を動かすためには、少なくとも二人の力を要すること等々、舵についてだけでも、数々のことを学んだものだ。
「親父さまも、齢《とし》になったのう」
古びたこの見取り図を見ると、重右衛門は若かった頃《ころ》の源六を思い出す。
「無理もない。六十をとうに過ぎたでな」
重右衛門は父源六を尊敬していた。
「親父さまほどの徳が自分にあったらのう」
重右衛門は呟《つぶや》きながら、懸硯《かけすずり》から矢立てを取り出した。この矢立ても父源六から引き継いだ物だ。ついで懸硯から、船日記を取り出した。懸硯は二重造りである。いざという時、海に投げ入れても、中の物が損なわれることは先《ま》ずない。だから、日記や帳簿などの重要書類を懸硯の中に納めておく。
重右衛門は船日記をひらき、
「天保《てんぽう》三年十月十日六つ半(七時)熱田港を出帆《しゆつぱん》す」
几帳面《きちようめん》な性格をそのままに、重右衛門は楷書《かいしよ》で、固い字を並べた。熱田は常夜灯の点《つ》いている暮れ六つから明け六つまでは航行を許されていない。
「乗組員十四名は次のとおり也《なり》」
姿勢を正して重右衛門は書く。波の穏やかな伊勢湾の海は、船の動揺も僅《わず》かだ。
[#ここから3字下げ]
「船頭  樋口重右衛門  小野浦在
舵取《かじとり》岩  松熱田宮宿在
岡廻《おかまわり》六右衛門小野浦在
水主頭《かこがしら》仁右衛門同 右
水主利  七同 右
水主辰  蔵伊勢|波切《なぎり》在
水主政  吉小野浦在
水主三 四 郎同 右
水主千 之 助伊勢若松在
水主常 治 郎小野浦在
水主吉 治 郎同 右
炊頭《かしきがしら》勝 五 郎新居浜在
炊《かしき》久  吉小野浦在
炊音  吉同 右」
[#ここで字下げ終わり]
重右衛門は筆を置いた。が、目は音吉の二字に向けたままである。
(音吉か)
重右衛門は少し苦い顔をした。
音吉を琴の婿養子《むこようし》に決めたと、源六から聞かされたのは、もう二年前になる。源六は言った。
「わしの目に狂いはない。音吉はよい婿になる。よい船頭になる」
重右衛門は黙って頭を下げた。この家では、源六の言葉を返すことのできる者はいない。と言って、源六は威圧的なのではない。誰もが、源六のすることにはまちがいがないと心服しているからだ。
わけても息子の重右衛門が、源六を尊敬していた。源六の言葉には、偽りがなかったし、すべての面において判断が確かであった。気魄《きはく》はあるが、高圧的ではない。重右衛門の最も誇るべき存在が、この父源六であった。
(だが、あの時だけは……)
重右衛門は腕組みをして目をつむった。二年前のあの日のことが、ありありと目に浮かぶ。琴はまだ十二歳であった。重右衛門にとって、初めての子である琴は、言いようもなく愛《いと》しい存在であった。琴はやや利かぬ気だが、思いやりのある素直な性格だ。一年のうち、十か月近くの間船に乗っている重右衛門にとって、帰宅するごとに、目に見えて成長する子供たちの姿ほど、うれしいものはない。
十二歳の琴は、まだまだ重右衛門には稚《おさな》い童《わらべ》であった。家に帰ると、琴は重右衛門に抱きついて喜んだ。夜寝る時、琴は枕《まくら》を抱いて重右衛門の床に入って来ることもあった。そんな幼い琴に、婿養子《むこようし》が決まった。自分に一言の相談もなく、妻の紋にさえ何の話もなかったという。
確かにその日まで、すべては源六の裁量によって、決定して来た。それに不満はなかった。が、娘琴のことになると、これは別であった。
(琴の婿だけは、わしが決めたかったのう)
自分の宝を預けるべき相手を、自分で決めたかったと、重右衛門は未《いま》だかつて持ったことのない不満を源六に対して抱いた。しかも、音吉の家と樋口の家では身分がちがう。その上、音吉も十二歳という稚さであった。
以来、二年、重右衛門は重右衛門なりに音吉を見てきた。確かに音吉は、気立てもよく、利発でもあった。これと言った欠点もなく、誰からもかわいがられた。昨年二度、炊《かしき》として江戸までつれて行ったが、音吉は今までの炊の中でも、衆に優れていた。何の文句もつけようがないのだ。だが重右衛門には、音吉を婿養子としては認めたくない思いが、依然として心に残っていた。
(確かに難はない)
今も重右衛門は心のうちに思った。重右衛門自身が他に婿養子を探したとしても、音吉ほどの者は、見つからないような気がした。にもかかわらず重右衛門には承服し難いのだ。それは、言って見れば重右衛門の、男親特有の、娘に対する情愛の故《ゆえ》であったかも知れない。
(琴を誰にもやりとうない)
それが父親としての、重右衛門の胸の中の叫びであった。
「琴の奴《やつ》……」
重右衛門は呟《つぶや》いた。小野浦の浜を、艀《はしけ》に乗って出立した時を、重右衛門は思い浮かべたのだ。琴の視線は、父親の自分に注がれなかったような気がする。琴は一心に音吉を見ていた。二人が一の字を書いたり、円を描いたりして、ひたすら別れを告げていた様子が、重右衛門の胸に刺さっていた。
ついこの間まで、父親である自分の床の中に、甘えて入って来た娘が、も早自分をふり向かなくなった。十四歳の琴の胸には、音吉だけがいる。それが重右衛門には何とも淋《さび》しく思われるのだ。
と、引き戸の外で声がした。
「親方さま。お茶を持って参じました」
音吉の澄んだ声音であった。
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