三
貝と藻の採《と》れた翌暁《よくぎよう》、岩松は三役部屋で目を覚ました。岩松が最初寝ていた一の間には、岡廻《おかまわ》りをはじめ五人の遺体が置かれている。今三役部屋には岩松が一人寝ていた。この部屋で、岡廻りと吉治郎が死んで行った。縁起をかついで、誰もこの三役部屋には寝ようとしない。
目を覚ました岩松は、昨日とは打って変わって、気力が体に充実しているのを感じた。
(貝と、藻を食ったせいか)
食い物とは恐ろしいものだと思いながら岩松はすぐに胴の間に出た。太股《ふともも》の斑点が気になるのだ。早朝の海はまだ青黒い。岩松は右足の太股に目をやった。心なしか斑点がうすれて見える。岩松ははっと目を凝らした。
(まだまだ日が出ないせいかな)
岩松は右足を船端に高く上げ、まじまじと斑点を見た。やはりうすくなったような気がする。
(こんなに効き目があるものか)
岩松は頭をひねった。そして思った。
(そうかも知れん)
毒を飲めば、たちまち毒に当たる。同じように、薬になるものを食えば、てき面に効能があるのかも知れない。岩松は単純にうなずいた。ともあれ、昨日とは打って変わって全身に生気《せいき》が満ちている。
(やっぱり俺は熱田の宮の申し子だ)
岩松は独り言を言った。そして、碇《いかり》の綱のつけ替えを今日はしようと、心に決めた。この二、三日、心にかかっていたのだ。舳《へさき》には、碇が垂らされている。その綱がすり減って、取り替えねばならなかったのだ。だがそれをする気力が、さすがの岩松にもこの幾日か失われていた。
(まだまだ貝はある。藻もある)
この千石船《せんごくぶね》は長さ十六|間《けん》、幅五間はある。その船腹や船底についた貝や藻は、決して少なくない筈《はず》だ。そう思って岩松は安心した。
(大丈夫だ。まだ死ぬことはねえ)
船縁にもたれて岩松は眼下の海を見た。と、その岩松の目が光った。何かがひしめいている。
「おおっ! 魚だ!」
その声に応えたかのように、空中に魚が飛んだ。さすがの岩松も、あわてて水主《かこ》部屋に走った。
「おいっ! 魚だ! 魚だぞ」
「何!? 魚?」
真っ先に飛び起きたのは久吉だった。
つづいて音吉も飛び起きた。
「みんな待っていろ。たくさん釣《つ》ってやるで」
岩松は胴の間に取って返した。釣り道具は三の間にある。
岩松が竿《さお》の一つを手に取り、船端に寄ると、久吉も音吉も同じように竿を手にして岩松に並んだ。
「銀流しやないやろな」
台の上に上がった久吉が呟《つぶや》いた。父親と共に魚を獲っていたから漁のことは詳しい。
「銀流し? それ何のことや」
音吉が尋《たず》ねた。
「銀流しってな、魚が横になって、銀色の腹を見せて泳ぐことや。腹が一杯の時はそうするんや。だから銀流しは釣《つ》れんのや」
言いながら、久吉は海を見やった。が、
「大丈夫や、銀流しではあらせん」
と、バケを海に放りこんだ。
「さすがは久公、鮮やかだな」
岩松も、音吉もバケを放りこんだ。バケは牛の角《つの》で鰯《いわし》の形に作ったものだ。つまり餌《え》である。その尾の部分はフグの皮で包み、そこに釣り針があった。
岩松がバケを放りこむとほとんど同時に、ぐぐっと強い手応《てごた》えがあった。と見る間に、竿《さお》が大きく弓なりに曲がった。胸がとどろく。岩松の両手に力が入る。腰を落とす。太い釣り糸が棒のように張る。と、二尺|程《ほど》もあるかと思われる魚が海面を離れ、みるみる空中に踊った。次の瞬間、魚は胴の間に落下し、ばたばたと音を立てて跳《は》ねまわった。
「鰹《かつお》だっ!」
岩松が叫んだ時、久吉の釣り上げた鰹が、胴の間の板に叩《たた》きつけられた。
「釣れたっ!」
つづいて音吉が叫んだ。岩松は暴れる鰹を鷲《わし》づかみにして、針を外《はず》した。はち切れそうに油ののった紡錘形《ぼうすいけい》の鰹は、背が青黒く、腹は銀白色だ。その銀白色に、四、五本のうす黒い筋が縦に走っている。三匹の鰹が朝日を弾いた。
「鰹だっ! 見事な鰹だ!」
三人は亢《たかぶ》る思いを抑えて、次々にバケを投げこむ。二、三十本も釣《つ》り上げたところで、岩松が早速刺し身にした。水主《かこ》たちはその刺し身をものも言わずに食った。
食い終わって、はじめて利七が大声で言った。
「こんなうまい刺し身を食うたことはあらせん」
「全くだで。天の恵みや、これは」
仁右衛門が答える。
「神々の名を書いたのが、よかったのやのう」
重右衛門も言う。と、岩松が、
「まさか、こいつら貝を食いに来たわけじゃないやろな」
「なるほど、貝をなあ」
誰かが答えると、重右衛門が、
「この鰹《かつお》はおもしろい魚でのう。鮫《さめ》に蹤《つ》いて歩くことがあるそうや」
「鮫に?」
「そうじゃ。鰹の群れが鰯《いわし》を取り巻く。すると鮫はその鰯を横取りする。だがの、言ってみればこれは賃金じゃ。鰹を食いに来るマカジキなどを追っぱらってくれるのじゃ」
「なるほど。持ちつ持たれつか」
「そうじゃ。それを鮫附《さめつき》と言ってな。鯨《くじら》につくのが鯨つきじゃ。ところがの、何を勘ちがいしてか、鰹《かつお》は古木にもつくそうじゃ。これを木附《きづき》と言うそうじゃ。この鰹共も、宝順丸を鮫《さめ》か鯨とまちがえて、ついてきたのかも知れせん。何《いず》れにせよ、神々や仏のお蔭《かげ》だ。ありがたいことよのう」
音吉は久しぶりに、人間の世界らしい会話を聞く思いがした。昨日の貝、そして藻に引きつづいて、今日の鰹が、一人一人に生きる力を与えたようであった。
残った鰹を、岩松、久吉、音吉の三人は、煮付けにしたり、干したりしながら、昼過ぎまでひとしきり忙しく立ち働いた。だがその夜、またしても一人が死んだ。政吉であった。既《すで》に、鰹も、貝も、政吉の生きる力にはなり得なかった。
目を覚ました岩松は、昨日とは打って変わって、気力が体に充実しているのを感じた。
(貝と、藻を食ったせいか)
食い物とは恐ろしいものだと思いながら岩松はすぐに胴の間に出た。太股《ふともも》の斑点が気になるのだ。早朝の海はまだ青黒い。岩松は右足の太股に目をやった。心なしか斑点がうすれて見える。岩松ははっと目を凝らした。
(まだまだ日が出ないせいかな)
岩松は右足を船端に高く上げ、まじまじと斑点を見た。やはりうすくなったような気がする。
(こんなに効き目があるものか)
岩松は頭をひねった。そして思った。
(そうかも知れん)
毒を飲めば、たちまち毒に当たる。同じように、薬になるものを食えば、てき面に効能があるのかも知れない。岩松は単純にうなずいた。ともあれ、昨日とは打って変わって全身に生気《せいき》が満ちている。
(やっぱり俺は熱田の宮の申し子だ)
岩松は独り言を言った。そして、碇《いかり》の綱のつけ替えを今日はしようと、心に決めた。この二、三日、心にかかっていたのだ。舳《へさき》には、碇が垂らされている。その綱がすり減って、取り替えねばならなかったのだ。だがそれをする気力が、さすがの岩松にもこの幾日か失われていた。
(まだまだ貝はある。藻もある)
この千石船《せんごくぶね》は長さ十六|間《けん》、幅五間はある。その船腹や船底についた貝や藻は、決して少なくない筈《はず》だ。そう思って岩松は安心した。
(大丈夫だ。まだ死ぬことはねえ)
船縁にもたれて岩松は眼下の海を見た。と、その岩松の目が光った。何かがひしめいている。
「おおっ! 魚だ!」
その声に応えたかのように、空中に魚が飛んだ。さすがの岩松も、あわてて水主《かこ》部屋に走った。
「おいっ! 魚だ! 魚だぞ」
「何!? 魚?」
真っ先に飛び起きたのは久吉だった。
つづいて音吉も飛び起きた。
「みんな待っていろ。たくさん釣《つ》ってやるで」
岩松は胴の間に取って返した。釣り道具は三の間にある。
岩松が竿《さお》の一つを手に取り、船端に寄ると、久吉も音吉も同じように竿を手にして岩松に並んだ。
「銀流しやないやろな」
台の上に上がった久吉が呟《つぶや》いた。父親と共に魚を獲っていたから漁のことは詳しい。
「銀流し? それ何のことや」
音吉が尋《たず》ねた。
「銀流しってな、魚が横になって、銀色の腹を見せて泳ぐことや。腹が一杯の時はそうするんや。だから銀流しは釣《つ》れんのや」
言いながら、久吉は海を見やった。が、
「大丈夫や、銀流しではあらせん」
と、バケを海に放りこんだ。
「さすがは久公、鮮やかだな」
岩松も、音吉もバケを放りこんだ。バケは牛の角《つの》で鰯《いわし》の形に作ったものだ。つまり餌《え》である。その尾の部分はフグの皮で包み、そこに釣り針があった。
岩松がバケを放りこむとほとんど同時に、ぐぐっと強い手応《てごた》えがあった。と見る間に、竿《さお》が大きく弓なりに曲がった。胸がとどろく。岩松の両手に力が入る。腰を落とす。太い釣り糸が棒のように張る。と、二尺|程《ほど》もあるかと思われる魚が海面を離れ、みるみる空中に踊った。次の瞬間、魚は胴の間に落下し、ばたばたと音を立てて跳《は》ねまわった。
「鰹《かつお》だっ!」
岩松が叫んだ時、久吉の釣り上げた鰹が、胴の間の板に叩《たた》きつけられた。
「釣れたっ!」
つづいて音吉が叫んだ。岩松は暴れる鰹を鷲《わし》づかみにして、針を外《はず》した。はち切れそうに油ののった紡錘形《ぼうすいけい》の鰹は、背が青黒く、腹は銀白色だ。その銀白色に、四、五本のうす黒い筋が縦に走っている。三匹の鰹が朝日を弾いた。
「鰹だっ! 見事な鰹だ!」
三人は亢《たかぶ》る思いを抑えて、次々にバケを投げこむ。二、三十本も釣《つ》り上げたところで、岩松が早速刺し身にした。水主《かこ》たちはその刺し身をものも言わずに食った。
食い終わって、はじめて利七が大声で言った。
「こんなうまい刺し身を食うたことはあらせん」
「全くだで。天の恵みや、これは」
仁右衛門が答える。
「神々の名を書いたのが、よかったのやのう」
重右衛門も言う。と、岩松が、
「まさか、こいつら貝を食いに来たわけじゃないやろな」
「なるほど、貝をなあ」
誰かが答えると、重右衛門が、
「この鰹《かつお》はおもしろい魚でのう。鮫《さめ》に蹤《つ》いて歩くことがあるそうや」
「鮫に?」
「そうじゃ。鰹の群れが鰯《いわし》を取り巻く。すると鮫はその鰯を横取りする。だがの、言ってみればこれは賃金じゃ。鰹を食いに来るマカジキなどを追っぱらってくれるのじゃ」
「なるほど。持ちつ持たれつか」
「そうじゃ。それを鮫附《さめつき》と言ってな。鯨《くじら》につくのが鯨つきじゃ。ところがの、何を勘ちがいしてか、鰹《かつお》は古木にもつくそうじゃ。これを木附《きづき》と言うそうじゃ。この鰹共も、宝順丸を鮫《さめ》か鯨とまちがえて、ついてきたのかも知れせん。何《いず》れにせよ、神々や仏のお蔭《かげ》だ。ありがたいことよのう」
音吉は久しぶりに、人間の世界らしい会話を聞く思いがした。昨日の貝、そして藻に引きつづいて、今日の鰹が、一人一人に生きる力を与えたようであった。
残った鰹を、岩松、久吉、音吉の三人は、煮付けにしたり、干したりしながら、昼過ぎまでひとしきり忙しく立ち働いた。だがその夜、またしても一人が死んだ。政吉であった。既《すで》に、鰹も、貝も、政吉の生きる力にはなり得なかった。