重右衛門の日記はここで終わっていた。重右衛門が死んだのは、それから十日目である。その日、初めて雪が降った。ほんのひと時の間だった。が、雪は斜めに鋭く降った。その雪の降るさ中《なか》に重右衛門は死んだ。
「仲ような……」
それが重右衛門の最後の言葉であった。父源六の名も、妻の名も、子供たちの名も呼ばなかった。残されたのは、仁右衛門、岩松、久吉、音吉の四人となった。しかもその仁右衛門の足首には、既《すで》に死のしるしである斑点ができていた。
侘《わ》びしい通夜《つや》であった。仁右衛門は時折《ときおり》体を横たえながら、低い声で経を読んだ。一人岩松の声だけが、はっきりと聞こえた。久吉、音吉は、只《ただ》しゃくり上げながら口を動かすだけであった。
(やっぱり親方さまでも死ぬんやなあ)
音吉はつくづくと思った。なぜか船頭というものが、自分たちとはちがった人間のように思っていたのだ。そう易々《やすやす》と自分たちに先立って死ぬとは思わなかった。
(この次は水主頭《かこがしら》か)
限りなく気が滅入った。喧嘩《けんか》をしても、つかみ合いをしても、仲間たちが生きていたのは、よいことだったと改めて思う。
(水主頭の次は誰や?)
そう思って音吉はぞっとした。自分かも知れない。久吉かも知れない。あるいは岩松かも知れないのだ。久吉が死ぬのは、思っただけでも吾《わ》が身を引き裂かれるような気持ちだった。と言って、岩松に死なれるのは、太陽が天から落ちるようなものであった。音吉は心の底で、自分がどんなに岩松を頼りにして来たかを、しみじみと思った。岩松に死なれて、久吉と二人だけ残されたとしたら、到底《とうてい》生きていく気力はない。久吉と二人だけの、この大海での生活を思うと、目の先が真っ暗になる思いであった。
(親方さま! 何で死んだんや。もうこれ以上誰も死なんといてくれ)
音吉は心の中にお琴を思い、船玉《ふなだま》に祈った。
(わしには、お琴の髪を納めた船玉さまと、兄さの魂の守りがあるでな)
そう自分に言い聞かせた時、読経《どきよう》は終わった。重右衛門の死体もまた樽《たる》に納められた。政吉の遺骸《いがい》を海に送ったあとの樽に、重右衛門は泣いているような、笑っているような顔で納められた。
その夜岩松は、船頭部屋の懸硯《かけすずり》の中に、二通の遺言を見いだした。一通は水主《かこ》たちの家族に宛《あ》てたものであり、一通は重右衛門の家族に宛てたものであった。重右衛門は、生前岩松に遺言のことを洩《も》らしたことがあった。
「生き残った者が、遺言状だけは必ず故里《くに》に持ち帰って欲しい」
その言葉を思いながら、遺言状をひらいて見た。
〈父上
思わぬ嵐に遭《あ》い、船を壊せしこと御許し下され。大事な水主たちを次々に死なせしこと、御許し下され。わしも又、先立つこと重々《かさねがさね》の不孝と、まことに申し訳なし。これ又御許し下され。世間の皆様に何卒《なにとぞ》お詫《わ》び申し伝えて下され。
お琴、甚一、重二郎、
父《と》っさまは、大きな嵐に遭《お》うて、大海の中にて死に行く。いかにもして、いかにもしてお前たちの顔を見たしと思えども、それもかなわず。心引裂かるる思いなり。この上は祖父《じじ》様|母《かか》様を大事に、姉弟仲よう暮らすべし。お琴、音吉も死ぬかも知れぬ。何年待ちても音吉帰らぬ時は、良き婿《むこ》に嫁ぐべし。
お紋、
後のこと一切《いつさい》頼む。難儀かけて相済まぬ。