一
船端を叩《たた》く波の音が、今朝《けさ》はひときわ強い。朝食もとらずに、うとうととまどろむ仁右衛門の枕《まくら》べに坐《すわ》っていた岩松は、ふっと立ち上がって水主《かこ》部屋を出た。そのうしろ姿を、久吉と音吉がぼんやりと見ていた。重右衛門が死んで一月《ひとつき》過ぎた。現《うつつ》ともなく眠っている仁右衛門のまわりに、何か侘《わ》びしい空気が漂っている。岩松が出て行くと、急に部屋の中が森閑《しんかん》とした。
(たった四人か)
思った言葉を、しかし音吉は口に出さなかった。重右衛門が死んでから、音吉も久吉も俄《にわか》に生きる気力を失った。仁右衛門は尚《なお》のことである。
音吉は、自分が仕方なく生きているような気がした。
「どこまで行っても、海ばかりやな」
一日に幾度か久吉が言う。全く久吉の言うとおりなのだ。一年以上も、島影一つ見えない海の真っ只中《ただなか》に漂ってきたのだ。これは一体どういうことなのか。どれほどこの海が広いのか。この海に行きつく果てがあるのか、幾度も幾度も考えてきたことを、音吉はまたしても思う。
(十四人もいたのになあ)
音吉は今更のように水主《かこ》部屋を見まわす。あの片隅《かたすみ》に利七がいた。辰蔵と千之助はあのあたりにいた。兄の吉治郎がよく坐《すわ》っていたのは、ろくろの傍《そば》だ。炊頭《かしきがしら》の勝五郎は、坐ったり、立ったり、いつも忙しかった。時折喧嘩《ときおりけんか》はしたが、全員が生きていた時は、賑《にぎ》やかだったとしみじみ思う。この頃《ごろ》は炊《た》く米の量もほんの僅《わず》かになった。
久吉がごろりと茣蓙《ござ》の上に仰向けになった。どこか一点をみつめて、その目が動かない。音吉は何となく神棚《かみだな》を仰いだ。神棚の傍《かたわ》らに、神々の名を記した美濃紙《みのがみ》が貼《は》られている。岩松が書いた字だ。
(こんなにたくさん神さんや仏さんがいるのに……)
音吉はひどく虚《むな》しい思いがした。一番初めに死んだ岡廻《おかまわ》りも、二番目に死んだ吉治郎も、嵐の度にどれほど真剣に拝んだかわからない。いや、二人だけではない。死んだ誰もが毎朝|水垢離《みずごり》を取り、朝に夕に、神に頼み、仏に念じた。重右衛門など、口から念仏を絶やすことのないほど、信心していた。みんな助かりたくて祈ったのだ。何とか生きのびて、故里《くに》に帰りたいから祈ったのだ。それが、祈った甲斐《かい》もなく、次々と十人も死んだ。やがて仁右衛門が死に、残った自分たち三人も死んでいくにちがいない。としたら、祈っても祈らなくても、結果は同じではないかと、音吉は思った。と、その時、寝ころんでいた久吉が言った。
「音、何考えてる?」
「うん、あの神さんや仏さんの名前を見ていたところや」
「ふーん。俺と同じやな」
乾いた語調だった。
「久吉、お前も神や仏のことを考えていたんか」
「ああそうや。俺はな音、神や仏って、もっとお慈悲のあるもんかと思っていたんや。みんな毎日、ほんとに毎日、欠かさんで祈ったんやで。頼んだんやで。どうか無事に家に帰してほしいと……」
久吉の声がくもった。
「うん、そうやなあ。ほんとにみんな真剣に祈ったわな」
兄の吉治郎や、炊頭《かしきがしら》の勝五郎が、茣蓙《ござ》に額をすりつけていた姿がありありと目に浮かぶ。
「それなのに……なあ音、順々によう殺してくれたもんやなあ」
「…………」
「わしは、神さんや仏さんほど酷《むご》い者はないと思うで。こんなに一心不乱に祈った者の命を、みんな奪ってしもうた。なあ、音、人間のわしだって……あんなに一心に頼まれたら、何とかしてやりたいと考えるで。神や仏は、人間より悪いわ、わしより悪いわ」
「久吉、そんな……そこまで言うちゃあかん。神罰《しんばつ》がこわいでな」
あわてる音吉に、久吉はにやりと笑った。
「音、わしはな、神罰なんて……何とも思わん。こう言うてわしが罰が当たって、たった今ころりと死んだって、五十歩百歩や。どうせそのうちに死ぬ命だでな」
「あかんな、そんなことを言うて」
「何や、音、お前まだ神や仏が頼みになると思うとるのか」
「……それはなあ、わしにもわからんようになった。だけどな、折角《せつかく》今日まで祈ってきたんやからな、久吉のようにそうあっさりとは言えんわ」
「ふーん、お前まだ船玉《ふなだま》さまを信じているんやな。お琴の髪の毛が入っているでな。だけど船玉さまって一体何や。人間の髪の毛に、そんな大きな力があるんか」
「…………」
「音、わしは、そんなものに何の力もないと思うわ。力があるんなら、どうして親方さまが死ぬ? 親方さまはお琴の父《と》っさまやで。自分の親を見捨てる神さんなんぞ、あるわけないやろ」
「それもそうやな」
「お琴はええ気性《きしよう》やったでな。親方さまが病んでるのを見たら、足をさすったり、背中をさすったり、きっと一生懸命看病するやろな。だけどな、髪の毛だけではな、どこをさすることもできん。人間より力がないわ、船玉さんなんて……」
久吉に言われてみると、全くそのとおりのような気がする。神や仏には、慈悲もなければ、力もないような気がする。その無力で無情な神や仏に縋《すが》るということは、一体どういうことなのか、音吉にもわからない。と言って、神や仏は、全くいないとも音吉には言えないのだ。
「久吉、もしかしたらなあ、もっと力のある情け深い神さんがいるんかも知れせんで。その神さんの名前を、書かんかったで怒っとるのとちがうか」
「音、お前、ほんとにそう思うのか」
久吉は起き上がって片膝《かたひざ》を立てた。そしてその立てた膝に自分の肱《ひじ》を置き、頬杖《ほおづえ》をついた。
「うん、それがなあ、神さんや仏さんって、わしも正体を見たことがあらせんしなあ」
「正体なんぞ、見なくたってわかるわ。第一正体なんてあらせんのよ」
「…………」
「不満そうな顔やな。だけどな、音、お前今、もっと力のある情け深い神がほかにいるんやないかって、言うたやろ。それが第一おかしいんや。ほんとうに力があって、ほんとに情け深いんなら、頼まんでも助けてくれる筈《はず》やないか」
「なるほどなあ、久吉、お前頭がええな」
「こんなこと、頭がなくたってわかるわい。だってそうやろが。俺たちだって、ほら、覚えてるだろが。小野浦の浜でよ、子供が溺《おぼ》れてばたばたした時、音と二人で助けたやないか。別に頼まれもせんかったけどなあ」
「そうやったなあ。そうかあ、ほんとの神なら、祈らなくても助けてくれるのがほんとやなあ」
「そうや。わしらが神社に行ってお賽銭《さいせん》上げるのも、守ってくれるからお礼に上げるんやろ。わしもな、八幡社に何遍《なんべん》お賽銭上げたか、知れせんで。あのお賽銭を受け取った義理だけでも、助けてくれてよさそうなものやがな」
「ほんとやなあ。神さんって、人間を守るためにあるんやろうしなあ」
「そうよ、守ってくれると思うから、ぺこぺこ頭を下げていたんや。守ってもくれせんもんに、何で頭を下げんならん?」
「…………」
「それによ、わしだって、舵取《かじと》りだって、御蔭参《おかげまい》りに行ってるんやで。御蔭参りに行ったらいいことあるなんて、あれは嘘《うそ》八百や。これこのとおりとんだ災難に遭《お》うてしもうたでないか」
うなずきながら音吉は、ひどく淋《さび》しい気がした。船玉《ふなだま》にはほんとうに力がないのか。お琴の髪の毛を納めた船玉に、音吉は限りない信頼を寄せていたのだ。
(ほんとに、神も仏もないんやろか)
口をあけて、肩で大息をついている仁右衛門を見ながら、音吉は言いようもない暗い思いに閉ざされていった。
(たった四人か)
思った言葉を、しかし音吉は口に出さなかった。重右衛門が死んでから、音吉も久吉も俄《にわか》に生きる気力を失った。仁右衛門は尚《なお》のことである。
音吉は、自分が仕方なく生きているような気がした。
「どこまで行っても、海ばかりやな」
一日に幾度か久吉が言う。全く久吉の言うとおりなのだ。一年以上も、島影一つ見えない海の真っ只中《ただなか》に漂ってきたのだ。これは一体どういうことなのか。どれほどこの海が広いのか。この海に行きつく果てがあるのか、幾度も幾度も考えてきたことを、音吉はまたしても思う。
(十四人もいたのになあ)
音吉は今更のように水主《かこ》部屋を見まわす。あの片隅《かたすみ》に利七がいた。辰蔵と千之助はあのあたりにいた。兄の吉治郎がよく坐《すわ》っていたのは、ろくろの傍《そば》だ。炊頭《かしきがしら》の勝五郎は、坐ったり、立ったり、いつも忙しかった。時折喧嘩《ときおりけんか》はしたが、全員が生きていた時は、賑《にぎ》やかだったとしみじみ思う。この頃《ごろ》は炊《た》く米の量もほんの僅《わず》かになった。
久吉がごろりと茣蓙《ござ》の上に仰向けになった。どこか一点をみつめて、その目が動かない。音吉は何となく神棚《かみだな》を仰いだ。神棚の傍《かたわ》らに、神々の名を記した美濃紙《みのがみ》が貼《は》られている。岩松が書いた字だ。
(こんなにたくさん神さんや仏さんがいるのに……)
音吉はひどく虚《むな》しい思いがした。一番初めに死んだ岡廻《おかまわ》りも、二番目に死んだ吉治郎も、嵐の度にどれほど真剣に拝んだかわからない。いや、二人だけではない。死んだ誰もが毎朝|水垢離《みずごり》を取り、朝に夕に、神に頼み、仏に念じた。重右衛門など、口から念仏を絶やすことのないほど、信心していた。みんな助かりたくて祈ったのだ。何とか生きのびて、故里《くに》に帰りたいから祈ったのだ。それが、祈った甲斐《かい》もなく、次々と十人も死んだ。やがて仁右衛門が死に、残った自分たち三人も死んでいくにちがいない。としたら、祈っても祈らなくても、結果は同じではないかと、音吉は思った。と、その時、寝ころんでいた久吉が言った。
「音、何考えてる?」
「うん、あの神さんや仏さんの名前を見ていたところや」
「ふーん。俺と同じやな」
乾いた語調だった。
「久吉、お前も神や仏のことを考えていたんか」
「ああそうや。俺はな音、神や仏って、もっとお慈悲のあるもんかと思っていたんや。みんな毎日、ほんとに毎日、欠かさんで祈ったんやで。頼んだんやで。どうか無事に家に帰してほしいと……」
久吉の声がくもった。
「うん、そうやなあ。ほんとにみんな真剣に祈ったわな」
兄の吉治郎や、炊頭《かしきがしら》の勝五郎が、茣蓙《ござ》に額をすりつけていた姿がありありと目に浮かぶ。
「それなのに……なあ音、順々によう殺してくれたもんやなあ」
「…………」
「わしは、神さんや仏さんほど酷《むご》い者はないと思うで。こんなに一心不乱に祈った者の命を、みんな奪ってしもうた。なあ、音、人間のわしだって……あんなに一心に頼まれたら、何とかしてやりたいと考えるで。神や仏は、人間より悪いわ、わしより悪いわ」
「久吉、そんな……そこまで言うちゃあかん。神罰《しんばつ》がこわいでな」
あわてる音吉に、久吉はにやりと笑った。
「音、わしはな、神罰なんて……何とも思わん。こう言うてわしが罰が当たって、たった今ころりと死んだって、五十歩百歩や。どうせそのうちに死ぬ命だでな」
「あかんな、そんなことを言うて」
「何や、音、お前まだ神や仏が頼みになると思うとるのか」
「……それはなあ、わしにもわからんようになった。だけどな、折角《せつかく》今日まで祈ってきたんやからな、久吉のようにそうあっさりとは言えんわ」
「ふーん、お前まだ船玉《ふなだま》さまを信じているんやな。お琴の髪の毛が入っているでな。だけど船玉さまって一体何や。人間の髪の毛に、そんな大きな力があるんか」
「…………」
「音、わしは、そんなものに何の力もないと思うわ。力があるんなら、どうして親方さまが死ぬ? 親方さまはお琴の父《と》っさまやで。自分の親を見捨てる神さんなんぞ、あるわけないやろ」
「それもそうやな」
「お琴はええ気性《きしよう》やったでな。親方さまが病んでるのを見たら、足をさすったり、背中をさすったり、きっと一生懸命看病するやろな。だけどな、髪の毛だけではな、どこをさすることもできん。人間より力がないわ、船玉さんなんて……」
久吉に言われてみると、全くそのとおりのような気がする。神や仏には、慈悲もなければ、力もないような気がする。その無力で無情な神や仏に縋《すが》るということは、一体どういうことなのか、音吉にもわからない。と言って、神や仏は、全くいないとも音吉には言えないのだ。
「久吉、もしかしたらなあ、もっと力のある情け深い神さんがいるんかも知れせんで。その神さんの名前を、書かんかったで怒っとるのとちがうか」
「音、お前、ほんとにそう思うのか」
久吉は起き上がって片膝《かたひざ》を立てた。そしてその立てた膝に自分の肱《ひじ》を置き、頬杖《ほおづえ》をついた。
「うん、それがなあ、神さんや仏さんって、わしも正体を見たことがあらせんしなあ」
「正体なんぞ、見なくたってわかるわ。第一正体なんてあらせんのよ」
「…………」
「不満そうな顔やな。だけどな、音、お前今、もっと力のある情け深い神がほかにいるんやないかって、言うたやろ。それが第一おかしいんや。ほんとうに力があって、ほんとに情け深いんなら、頼まんでも助けてくれる筈《はず》やないか」
「なるほどなあ、久吉、お前頭がええな」
「こんなこと、頭がなくたってわかるわい。だってそうやろが。俺たちだって、ほら、覚えてるだろが。小野浦の浜でよ、子供が溺《おぼ》れてばたばたした時、音と二人で助けたやないか。別に頼まれもせんかったけどなあ」
「そうやったなあ。そうかあ、ほんとの神なら、祈らなくても助けてくれるのがほんとやなあ」
「そうや。わしらが神社に行ってお賽銭《さいせん》上げるのも、守ってくれるからお礼に上げるんやろ。わしもな、八幡社に何遍《なんべん》お賽銭上げたか、知れせんで。あのお賽銭を受け取った義理だけでも、助けてくれてよさそうなものやがな」
「ほんとやなあ。神さんって、人間を守るためにあるんやろうしなあ」
「そうよ、守ってくれると思うから、ぺこぺこ頭を下げていたんや。守ってもくれせんもんに、何で頭を下げんならん?」
「…………」
「それによ、わしだって、舵取《かじと》りだって、御蔭参《おかげまい》りに行ってるんやで。御蔭参りに行ったらいいことあるなんて、あれは嘘《うそ》八百や。これこのとおりとんだ災難に遭《お》うてしもうたでないか」
うなずきながら音吉は、ひどく淋《さび》しい気がした。船玉《ふなだま》にはほんとうに力がないのか。お琴の髪の毛を納めた船玉に、音吉は限りない信頼を寄せていたのだ。
(ほんとに、神も仏もないんやろか)
口をあけて、肩で大息をついている仁右衛門を見ながら、音吉は言いようもない暗い思いに閉ざされていった。