二
時々雲間を出ていた日が、やや西に傾いて、波が少し荒くなってきたようだ。布団に寝ている仁右衛門も、右に左に大きくゆれる。漂流して二度目の十二月に入っていた。去年の十二月は暖かかった。が、今年の十二月は時折雪が降る。すぐに吹き散らされるほどの雪だが、その雪を見ると、音吉たちの気持ちは滅入った。
「北に流されているんやな」
横なぐりに降る雪を見ながら、昨日岩松が言っていた。風は来る日も来る日も南西風だ。そのためか、雪が降ることはあっても、突き刺さるほどの寒風ではない。股引《ももひき》を穿《は》く日も穿かぬ日もある。
今、岩松、音吉、久吉の三人は、所在なげに仁右衛門の傍《かたわ》らに寄っていた。船頭の重右衛門が逝《ゆ》き、仁右衛門が臥《ふせ》たっきりになってひと月半は過ぎた。
仁右衛門の体にできた薄黒い斑点は意外に濃くもならず、広がりもしなかった。だが仁右衛門は、も早起き上がる気力はなかった。絶えず肩で大息をつき、顔のむくみも次第にひどくなってきた。この幾日かは、食欲もめっきり衰え、今日も昼になって僅《わず》かひと口|粥《かゆ》をすすっただけだ。
水主《かこ》の中で一番がっしりしていた仁右衛門とは思えないほどの痩《や》せようだ。顔だけがぶよぶよと青ぶくれにむくんでいて、到底《とうてい》仁右衛門の顔とは見えない。時折《ときおり》熱も出す。寝汗は毎晩のようにかく。その度に岩松、音吉、久吉の三人が、仁右衛門の痩せた体を拭《ふ》いてやり、布団を取り替えてやった。布団は何枚もあった。死んだ者たちの残していった布団なのだ。
「水、水」
眠っていると思った仁右衛門が、力なく言った。
「おやじさん、今、持ってくるでな」
腰の軽い音吉が、そう声をかけて、部屋|隅《すみ》に行った。部屋隅には水桶《はず》が置かれてある。飯茶碗《めしぢやわん》に入れた水を、音吉はそろそろと運んで来た。岩松は仁右衛門の首をもたげさせて、その水を飲ませた。水が口の端から少しこぼれた。
「うまい」
吐息のような仁右衛門の声だ。岩松は仁右衛門の口端を、腰の手拭《てぬぐ》いでそっと拭ってやった。
「すまん。すまんな、舵取《かじと》り」
仁右衛門がしみじみと言う。
「何の」
岩松はぶっきら棒に答える。岩松たち三人にとって、仁右衛門の看病は唯一の張り合いでもあった。痩せてはいても、骨格のいい仁右衛門の、汗にぬれた寝巻きを取り替えたり、下《しも》の世話をしたり、床を移したりするのは、疲れている三人にとって、そう楽なことではなかった。が、その度に仁右衛門が、「すまん、すまん」とやさしくねぎらう声を聞く時、三人の心は和《なご》んだ。
「うまかった」
仁右衛門の片目がかすかに笑った。
「水でもうまきゃあ、大丈夫だ。水主頭《かこがしら》、あとひと月もしたら、また春が来るでな」
岩松は口端を拭《ふ》いてやった手拭《てぬぐ》いで、仁右衛門の目脂《めやに》を拭ってやった。
「舵取《かじと》り」
じっと岩松を見た仁右衛門の目に、うっすらと涙が浮かんだ。
「何や」
岩松がまたそっけなく言った。涙を見せられるのがたまらないのだ。
「わしはなあ……」
「何や」
「わしは舵取りに、あやまっておかねばならんことがあるで……」
そう言って、仁右衛門は喘《あえ》ぐように息をした。
「あやまる? 何のことや? 水主頭」
岩松が仁右衛門の顔をのぞきこんだ。音吉と久吉が顔を見合わせた。
「舵取りが宝順丸に戻《もど》ると聞いた時な……舵取り、わしは誰よりも反対したんやで」
「そりゃあ、当たり前だで。わしは御蔭参《おかげまい》りに船から脱《ぬ》け出した者だでな」
「……わしはなあ、舵取りはいい加減な男やと、はなっから決めつけていたんや」
「そのとおりや。わしはいい加減な男やで」
岩松は笑ってみせた。その岩松の顔を、久吉はつくづくと見た。音吉は、何か膝《ひざ》を正したいような気がした。
「いやいや、舵取《かじと》りはわしらとはちがう。何か知らんが、根性《こんじよう》がちがう……。なあ、音吉」
音吉はこっくりとうなずいた。が、うなずいてから、仁右衛門に悪いことをしたような気がした。
「舵取り、あやまらにゃならんのは、それだけではない」
口を半びらきにしたまま、仁右衛門は、苦しそうに息をついた。
「水主頭《かこがしら》、もういい。体に障るでな」
岩松の言葉に、仁右衛門はかすかに頭を横にふった。
「いやいや、いつか言おう、いつか言おうと思ってきたことや。このままでは、死ぬにも死ねんでな」
「…………」
「師崎の夜な、素直に舵取りの言うことを聞いて、船を出していたら、こんな目には遭《あ》わんかった」
「…………」
「あん時、鳥羽に逃げこまずに、思い切って遠州灘《えんしゆうなだ》を突っ走りゃあなあ……舵取りの言うとおりになあ」
「…………」
音吉も久吉も、仁右衛門の言うとおりだと思った。誰もが幾度となく悔いていたことなのだ。
「……舵取《かじと》り、すまんことをした。……許してほしい」
「許すなんて……ま、そんなことを気にせんで、とにかく何としてでも生きぬくことや、水主頭《かこがしら》」
言ったかと思うと、岩松はつと立ち上がって部屋を出た。
沖は灰色にくもっている。南西の風が強い。飛沫《ひまつ》が白い霧のように船の上を流れた。岩松の髪が、みるみるその沫《しぶき》にぬれた。と、その時、岩松は何かの声を聞いたような気がした。絹の声に聞こえた。が、次の瞬間それは、猫の声に聞こえた。猫の声は空に聞こえた。はっとふり仰いだ岩松の目に、白い鳥が飛んでいるのが見えた。
岩松はかっと目を見ひらいた。黄色い嘴《くちばし》が見える。
「鴎《かもめ》だっ!」
岩松の全身が震えた。今まで一年以上も海に漂っていたが、鳥の姿はついぞ一度も見なかった。それが、今、確かに、頭上に鴎が舞っているのだ。岩松は大声で叫びながら走った。
「音っ! 久っ! 鴎だあっ!」
水主部屋をあけると、久吉も音吉も、きょとんと岩松を見た。
「鴎や! 鴎だあっ!」
岩松はそう言い、仁右衛門の枕もとに膝《ひざ》をつくと、
「水主頭っ! 鴎が飛んでいる! 陸《おか》の近い証拠や」
と、声をふるわせた。音吉と久吉が、ようやくそれと知って、胴の間に飛んで出た。岩松があとにつづいた。紛《まぎれ》もなく鴎が二、三羽|啼《な》きながら舞っている。
「助かったぞーっ! 助かったぞーっ!」
岩松が声をふり絞って叫んだかと思うと、がくりと両膝をついた。その岩松にしがみついて、音吉も、久吉も泣いた。ひとしきり泣いてから久吉が言った。
「舵取《かじと》りさん! ほんとに助かったのやな。ほんとやな」
「ほんとや。鴎《かもめ》がいるのは、陸が近い証拠だでな」
岩松もさすがに男泣きに泣いていた。三人は寄り添って視線を凝らした。が、水平線と空の境目は定かではなかった。波が風に白くしぶいているからだ。
「ほんとに、神も仏もあったんやな、音」
久吉が再び声を上げて泣いた。
「北に流されているんやな」
横なぐりに降る雪を見ながら、昨日岩松が言っていた。風は来る日も来る日も南西風だ。そのためか、雪が降ることはあっても、突き刺さるほどの寒風ではない。股引《ももひき》を穿《は》く日も穿かぬ日もある。
今、岩松、音吉、久吉の三人は、所在なげに仁右衛門の傍《かたわ》らに寄っていた。船頭の重右衛門が逝《ゆ》き、仁右衛門が臥《ふせ》たっきりになってひと月半は過ぎた。
仁右衛門の体にできた薄黒い斑点は意外に濃くもならず、広がりもしなかった。だが仁右衛門は、も早起き上がる気力はなかった。絶えず肩で大息をつき、顔のむくみも次第にひどくなってきた。この幾日かは、食欲もめっきり衰え、今日も昼になって僅《わず》かひと口|粥《かゆ》をすすっただけだ。
水主《かこ》の中で一番がっしりしていた仁右衛門とは思えないほどの痩《や》せようだ。顔だけがぶよぶよと青ぶくれにむくんでいて、到底《とうてい》仁右衛門の顔とは見えない。時折《ときおり》熱も出す。寝汗は毎晩のようにかく。その度に岩松、音吉、久吉の三人が、仁右衛門の痩せた体を拭《ふ》いてやり、布団を取り替えてやった。布団は何枚もあった。死んだ者たちの残していった布団なのだ。
「水、水」
眠っていると思った仁右衛門が、力なく言った。
「おやじさん、今、持ってくるでな」
腰の軽い音吉が、そう声をかけて、部屋|隅《すみ》に行った。部屋隅には水桶《はず》が置かれてある。飯茶碗《めしぢやわん》に入れた水を、音吉はそろそろと運んで来た。岩松は仁右衛門の首をもたげさせて、その水を飲ませた。水が口の端から少しこぼれた。
「うまい」
吐息のような仁右衛門の声だ。岩松は仁右衛門の口端を、腰の手拭《てぬぐ》いでそっと拭ってやった。
「すまん。すまんな、舵取《かじと》り」
仁右衛門がしみじみと言う。
「何の」
岩松はぶっきら棒に答える。岩松たち三人にとって、仁右衛門の看病は唯一の張り合いでもあった。痩せてはいても、骨格のいい仁右衛門の、汗にぬれた寝巻きを取り替えたり、下《しも》の世話をしたり、床を移したりするのは、疲れている三人にとって、そう楽なことではなかった。が、その度に仁右衛門が、「すまん、すまん」とやさしくねぎらう声を聞く時、三人の心は和《なご》んだ。
「うまかった」
仁右衛門の片目がかすかに笑った。
「水でもうまきゃあ、大丈夫だ。水主頭《かこがしら》、あとひと月もしたら、また春が来るでな」
岩松は口端を拭《ふ》いてやった手拭《てぬぐ》いで、仁右衛門の目脂《めやに》を拭ってやった。
「舵取《かじと》り」
じっと岩松を見た仁右衛門の目に、うっすらと涙が浮かんだ。
「何や」
岩松がまたそっけなく言った。涙を見せられるのがたまらないのだ。
「わしはなあ……」
「何や」
「わしは舵取りに、あやまっておかねばならんことがあるで……」
そう言って、仁右衛門は喘《あえ》ぐように息をした。
「あやまる? 何のことや? 水主頭」
岩松が仁右衛門の顔をのぞきこんだ。音吉と久吉が顔を見合わせた。
「舵取りが宝順丸に戻《もど》ると聞いた時な……舵取り、わしは誰よりも反対したんやで」
「そりゃあ、当たり前だで。わしは御蔭参《おかげまい》りに船から脱《ぬ》け出した者だでな」
「……わしはなあ、舵取りはいい加減な男やと、はなっから決めつけていたんや」
「そのとおりや。わしはいい加減な男やで」
岩松は笑ってみせた。その岩松の顔を、久吉はつくづくと見た。音吉は、何か膝《ひざ》を正したいような気がした。
「いやいや、舵取《かじと》りはわしらとはちがう。何か知らんが、根性《こんじよう》がちがう……。なあ、音吉」
音吉はこっくりとうなずいた。が、うなずいてから、仁右衛門に悪いことをしたような気がした。
「舵取り、あやまらにゃならんのは、それだけではない」
口を半びらきにしたまま、仁右衛門は、苦しそうに息をついた。
「水主頭《かこがしら》、もういい。体に障るでな」
岩松の言葉に、仁右衛門はかすかに頭を横にふった。
「いやいや、いつか言おう、いつか言おうと思ってきたことや。このままでは、死ぬにも死ねんでな」
「…………」
「師崎の夜な、素直に舵取りの言うことを聞いて、船を出していたら、こんな目には遭《あ》わんかった」
「…………」
「あん時、鳥羽に逃げこまずに、思い切って遠州灘《えんしゆうなだ》を突っ走りゃあなあ……舵取りの言うとおりになあ」
「…………」
音吉も久吉も、仁右衛門の言うとおりだと思った。誰もが幾度となく悔いていたことなのだ。
「……舵取《かじと》り、すまんことをした。……許してほしい」
「許すなんて……ま、そんなことを気にせんで、とにかく何としてでも生きぬくことや、水主頭《かこがしら》」
言ったかと思うと、岩松はつと立ち上がって部屋を出た。
沖は灰色にくもっている。南西の風が強い。飛沫《ひまつ》が白い霧のように船の上を流れた。岩松の髪が、みるみるその沫《しぶき》にぬれた。と、その時、岩松は何かの声を聞いたような気がした。絹の声に聞こえた。が、次の瞬間それは、猫の声に聞こえた。猫の声は空に聞こえた。はっとふり仰いだ岩松の目に、白い鳥が飛んでいるのが見えた。
岩松はかっと目を見ひらいた。黄色い嘴《くちばし》が見える。
「鴎《かもめ》だっ!」
岩松の全身が震えた。今まで一年以上も海に漂っていたが、鳥の姿はついぞ一度も見なかった。それが、今、確かに、頭上に鴎が舞っているのだ。岩松は大声で叫びながら走った。
「音っ! 久っ! 鴎だあっ!」
水主部屋をあけると、久吉も音吉も、きょとんと岩松を見た。
「鴎や! 鴎だあっ!」
岩松はそう言い、仁右衛門の枕もとに膝《ひざ》をつくと、
「水主頭っ! 鴎が飛んでいる! 陸《おか》の近い証拠や」
と、声をふるわせた。音吉と久吉が、ようやくそれと知って、胴の間に飛んで出た。岩松があとにつづいた。紛《まぎれ》もなく鴎が二、三羽|啼《な》きながら舞っている。
「助かったぞーっ! 助かったぞーっ!」
岩松が声をふり絞って叫んだかと思うと、がくりと両膝をついた。その岩松にしがみついて、音吉も、久吉も泣いた。ひとしきり泣いてから久吉が言った。
「舵取《かじと》りさん! ほんとに助かったのやな。ほんとやな」
「ほんとや。鴎《かもめ》がいるのは、陸が近い証拠だでな」
岩松もさすがに男泣きに泣いていた。三人は寄り添って視線を凝らした。が、水平線と空の境目は定かではなかった。波が風に白くしぶいているからだ。
「ほんとに、神も仏もあったんやな、音」
久吉が再び声を上げて泣いた。