三
冷たい雨が降っている。赤い花が限りなく一面に咲いている。その花を、妹のさとが摘んでいた。背中に赤ん坊をくくりつけられ、その赤ん坊の足がひどく大きかった。
「さと、雨にぬれるで」
音吉が言った。と、その時、不意に琴が現れた。琴が蛇《じや》の目の傘《かさ》をさとにさしかけて、何か言っている。優しい顔だ。
「お琴、どこにいるんや!」
音吉が言うと、琴は、
「いつもここにいるやない?」
と、かぼそい声で言った。その顔が青ざめている。
(お琴はどこか病気やな)
音吉はそう思い、その琴の体に、さとの摘《つ》んだ花が効くのだと、何となく合点《がてん》した。
「その花、何の花や?」
尋《たず》ねてみたが、琴もさとも答えない。と、突如《とつじよ》、はるか彼方《かなた》から、大波が襲いかかってきて、琴の姿も、さとの姿も一瞬の間に波の中に呑《の》まれてしまった。
はっと思った瞬間、音吉は目をさました。
「何や、夢か」
呟《つぶや》いたが、胸がまだ動悸《どうき》している。琴やさとの上に、何かが起こったような気がした。
(いやな夢やなあ)
なぜ、波の中に二人の姿がかき消えてしまったのか。夢ではあっても、何かいやな心地《ここち》がした。音吉はそっと起き上がり、いつものようにかまどに火をつけた。火打ち石の音が、今朝は妙に侘《わ》びしくひびいた。琴とさとの波に消えた姿が、音吉の心にかかって離れない。
音吉はかまどの蓋《ふた》をあけて、昨日|磨《と》いでおいた米の水盛りを、改めて調べた。米だけはまだ充分にある。十四人の水主《かこ》たちのうち十人も死んだため、まだ一年や二年、米に困ることはなかった。
だが音吉は知らなかった。故国日本では、去年の天保《てんぽう》三年以来|飢饉《ききん》が始まり、天保四年の今年は、多くの餓死者が出ていたことを。そしてこの天保大飢饉が、今後何年もつづくことを、知る筈《はず》もなかった。更に、この大飢饉が、音吉たち自身の運命を大きく狂わすことになろうとは、夢想だにできぬことであった。
「音、起きたんか」
火打ち石の音に目をさました久吉がむっくりと体を起こした。
「ああ。久吉はもっと寝ていてもいいで」
「音、寝てなどいられんわ。今日の天気はどうか。陸《おか》が見えるかも知れせんでな」
「そうや! ほんとや」
琴とさとの夢に、音吉の心はふさがれていた。昨夜寝る時、明日は何より先に櫓《やぐら》の上に上がって、陸地があるかないかを見定めようと思ったのだ。まだ眠っている仁右衛門をちらりと見ながら、二人は梯子《はしご》を登って櫓《やぐら》に出た。と、既《すで》に岩松がそこに立っていた。
「舵取《かじと》りさん。お早うございます」
声を揃《そろ》えた二人に、岩松は遠く右手を指さした。昨日の雲は吹き払われて、水平線がはっきりと見える。その向こうに、帯状に白く輝く山脈が見えた。
「雲やな」
久吉がのんきな声で言った。
「ちがう! 陸や」
凛然《りんぜん》と岩松が答えた。
「陸!? ほんとか舵取りさん」
「ほんまだ。わしの目に狂いはない」
「雲とちがうか。あんなに白い陸なんぞ、見たことあらせんで」
朝の太陽が輝いている。その光を受けて遠くに輝くのは、雲か、陸か、音吉はじっと目を凝らした。雲を陸と見まちがえた苦い経験がある。が、とにかく昨日は鴎《かもめ》を見たのだ。陸が近いことだけは確かだ。岩松が言った。
「久吉、今は冬だでな。山脈《やまなみ》に雪がかぶっとるんや」
「だけど舵取りさん、小野浦から見える鈴鹿山脈は、七合目位までしか、雪はあらせんで。あんなに下まで真っ白やないで」
「久吉、ここは北やで。それにな、陸は高い所から順々に見えてくるんや。もっと近づけば、山裾《やますそ》も見えれば、家も見えてくるかも知れせん」
視線を彼方《かなた》に据《す》えたまま、岩松は深い感動の面持《おもも》ちで言った。刺し子を着、股引《ももひ》きをはいているとはいえ、この朝早くから、岩松は一人、長いこと櫓《やぐら》に上がっていたにちがいない。音吉も、大きな感動を覚えて、遥《はる》か彼方の白い輝きに目を凝らした。
(あれが陸か、陸なんやな)
この一年二か月、夢にみつづけて来た陸の姿を、音吉はじっとみつめた。陸には人が住んでおり、水があり、土がある。
(土があるんや、土が!)
こみ上げてくる思いに耐えながら、音吉は岩松の傍《かたわ》らに立っていた。ふと岩松を見上げると、岩松の頬《ほお》に涙が光っていた。音吉の目にも涙が盛り上がった。
「ほんとに陸なんやなあ」
久吉の声も泣いていた。鴎を見た時のあの喜びとはまたちがった深い思いが、胸をしめつける。風は陸に向かって吹いていた。この分だと、三日も経《た》てば着くにちがいない。音吉は白く輝く山脈から目を外らすことができなかった。
(どんな国があるんやろ)
手の甲で涙を拭《ぬぐ》いながら、音吉は岩松を見た。きりっと結んだ岩松の唇《くちびる》が、かすかにふるえている。岩松は死んで行った仲間たちのことを考えていたのだ。死んで行った大方の者は、生きる意欲を失って死んで行った。
(なぜ今まで生きていれなかったのだ)
岩松はそう問いたいような気がしていた。十四人一人残らずこの日まで生きていたら、どんなに心強かったことか。そう思う岩松に久吉が言った。
「どんな人が住んでいるんやろな。舵取《かじと》りさん」
「さあて、なあ」
岩松は、いつか一度見たことのある異人の絵を思い浮かべた。髪が縮れ、目がくぼみ、鷲鼻《わしばな》のその顔は、何とも親しみの持てない顔であった。
「舵取りさん、どんな国の人でも、人間にはちがいないわな」
音吉の言葉に、
「そうよなあ」
と、岩松は考える顔になった。故里《くに》を出て一年二か月になろうとしている。その一年二か月も経《た》たなければ、着くことのできないほどの遠い国だ。如何《いか》なる人種が住んでいるのか、見当のつく筈《はず》もない。とてつもない大男が住んでいるような気もする。鬼のような男がいるような気もする。
「色の真っ黒なのとちがうやろか」
久吉が言う。
「そうかも知れん」
二十九歳の岩松にも、海外の知識はほとんどない。北前船《きたまえぶね》に乗って蝦夷《えぞ》の江差《えさし》まで行った時に、アイヌを見たことがあった。彫りの深い、目の大きい、見馴《みな》れぬ顔立ちだったが、みな純朴な男たちであった。また、長崎の出島《でじま》には、オランダ人がいると聞いた。が、その出島には番所があり、日本人は自由に出入りができない。オランダ人もまた、勝手にその出島から出ることはできぬと聞いた。二百年に及ぶ鎖国《さこく》の中で、日本人が異国の人々に触れることはほとんどなかった。
「舵取《かじと》りさん、まさか取って食われはせんやろな」
不意に久吉が不安な顔になった。
「うん、そうやなあ」
岩松の目がかげった。折角《せつかく》陸が近いと喜んでは見ても、そこは全く未知の世界なのだ。久吉が、
「だけど、海の中よりええわなあ。土があるだけでもええわなあ」
と、自分自身に言い聞かせるように言う。
「そりゃあ土があるだけでもええ」
音吉がうなずく、とにかく海には倦《あ》きたのだ。当てどもなく海を漂う生活には倦《あ》きたのだ。
(きっといいことが待っている)
あの白く輝く山脈の下に、悪いことがあるとは音吉には思えなかった。いつのまにか、岩松が二人を両腕で抱き寄せていた。その腕のぬくもりが、音吉と久吉を力づけた。
「さと、雨にぬれるで」
音吉が言った。と、その時、不意に琴が現れた。琴が蛇《じや》の目の傘《かさ》をさとにさしかけて、何か言っている。優しい顔だ。
「お琴、どこにいるんや!」
音吉が言うと、琴は、
「いつもここにいるやない?」
と、かぼそい声で言った。その顔が青ざめている。
(お琴はどこか病気やな)
音吉はそう思い、その琴の体に、さとの摘《つ》んだ花が効くのだと、何となく合点《がてん》した。
「その花、何の花や?」
尋《たず》ねてみたが、琴もさとも答えない。と、突如《とつじよ》、はるか彼方《かなた》から、大波が襲いかかってきて、琴の姿も、さとの姿も一瞬の間に波の中に呑《の》まれてしまった。
はっと思った瞬間、音吉は目をさました。
「何や、夢か」
呟《つぶや》いたが、胸がまだ動悸《どうき》している。琴やさとの上に、何かが起こったような気がした。
(いやな夢やなあ)
なぜ、波の中に二人の姿がかき消えてしまったのか。夢ではあっても、何かいやな心地《ここち》がした。音吉はそっと起き上がり、いつものようにかまどに火をつけた。火打ち石の音が、今朝は妙に侘《わ》びしくひびいた。琴とさとの波に消えた姿が、音吉の心にかかって離れない。
音吉はかまどの蓋《ふた》をあけて、昨日|磨《と》いでおいた米の水盛りを、改めて調べた。米だけはまだ充分にある。十四人の水主《かこ》たちのうち十人も死んだため、まだ一年や二年、米に困ることはなかった。
だが音吉は知らなかった。故国日本では、去年の天保《てんぽう》三年以来|飢饉《ききん》が始まり、天保四年の今年は、多くの餓死者が出ていたことを。そしてこの天保大飢饉が、今後何年もつづくことを、知る筈《はず》もなかった。更に、この大飢饉が、音吉たち自身の運命を大きく狂わすことになろうとは、夢想だにできぬことであった。
「音、起きたんか」
火打ち石の音に目をさました久吉がむっくりと体を起こした。
「ああ。久吉はもっと寝ていてもいいで」
「音、寝てなどいられんわ。今日の天気はどうか。陸《おか》が見えるかも知れせんでな」
「そうや! ほんとや」
琴とさとの夢に、音吉の心はふさがれていた。昨夜寝る時、明日は何より先に櫓《やぐら》の上に上がって、陸地があるかないかを見定めようと思ったのだ。まだ眠っている仁右衛門をちらりと見ながら、二人は梯子《はしご》を登って櫓《やぐら》に出た。と、既《すで》に岩松がそこに立っていた。
「舵取《かじと》りさん。お早うございます」
声を揃《そろ》えた二人に、岩松は遠く右手を指さした。昨日の雲は吹き払われて、水平線がはっきりと見える。その向こうに、帯状に白く輝く山脈が見えた。
「雲やな」
久吉がのんきな声で言った。
「ちがう! 陸や」
凛然《りんぜん》と岩松が答えた。
「陸!? ほんとか舵取りさん」
「ほんまだ。わしの目に狂いはない」
「雲とちがうか。あんなに白い陸なんぞ、見たことあらせんで」
朝の太陽が輝いている。その光を受けて遠くに輝くのは、雲か、陸か、音吉はじっと目を凝らした。雲を陸と見まちがえた苦い経験がある。が、とにかく昨日は鴎《かもめ》を見たのだ。陸が近いことだけは確かだ。岩松が言った。
「久吉、今は冬だでな。山脈《やまなみ》に雪がかぶっとるんや」
「だけど舵取りさん、小野浦から見える鈴鹿山脈は、七合目位までしか、雪はあらせんで。あんなに下まで真っ白やないで」
「久吉、ここは北やで。それにな、陸は高い所から順々に見えてくるんや。もっと近づけば、山裾《やますそ》も見えれば、家も見えてくるかも知れせん」
視線を彼方《かなた》に据《す》えたまま、岩松は深い感動の面持《おもも》ちで言った。刺し子を着、股引《ももひ》きをはいているとはいえ、この朝早くから、岩松は一人、長いこと櫓《やぐら》に上がっていたにちがいない。音吉も、大きな感動を覚えて、遥《はる》か彼方の白い輝きに目を凝らした。
(あれが陸か、陸なんやな)
この一年二か月、夢にみつづけて来た陸の姿を、音吉はじっとみつめた。陸には人が住んでおり、水があり、土がある。
(土があるんや、土が!)
こみ上げてくる思いに耐えながら、音吉は岩松の傍《かたわ》らに立っていた。ふと岩松を見上げると、岩松の頬《ほお》に涙が光っていた。音吉の目にも涙が盛り上がった。
「ほんとに陸なんやなあ」
久吉の声も泣いていた。鴎を見た時のあの喜びとはまたちがった深い思いが、胸をしめつける。風は陸に向かって吹いていた。この分だと、三日も経《た》てば着くにちがいない。音吉は白く輝く山脈から目を外らすことができなかった。
(どんな国があるんやろ)
手の甲で涙を拭《ぬぐ》いながら、音吉は岩松を見た。きりっと結んだ岩松の唇《くちびる》が、かすかにふるえている。岩松は死んで行った仲間たちのことを考えていたのだ。死んで行った大方の者は、生きる意欲を失って死んで行った。
(なぜ今まで生きていれなかったのだ)
岩松はそう問いたいような気がしていた。十四人一人残らずこの日まで生きていたら、どんなに心強かったことか。そう思う岩松に久吉が言った。
「どんな人が住んでいるんやろな。舵取《かじと》りさん」
「さあて、なあ」
岩松は、いつか一度見たことのある異人の絵を思い浮かべた。髪が縮れ、目がくぼみ、鷲鼻《わしばな》のその顔は、何とも親しみの持てない顔であった。
「舵取りさん、どんな国の人でも、人間にはちがいないわな」
音吉の言葉に、
「そうよなあ」
と、岩松は考える顔になった。故里《くに》を出て一年二か月になろうとしている。その一年二か月も経《た》たなければ、着くことのできないほどの遠い国だ。如何《いか》なる人種が住んでいるのか、見当のつく筈《はず》もない。とてつもない大男が住んでいるような気もする。鬼のような男がいるような気もする。
「色の真っ黒なのとちがうやろか」
久吉が言う。
「そうかも知れん」
二十九歳の岩松にも、海外の知識はほとんどない。北前船《きたまえぶね》に乗って蝦夷《えぞ》の江差《えさし》まで行った時に、アイヌを見たことがあった。彫りの深い、目の大きい、見馴《みな》れぬ顔立ちだったが、みな純朴な男たちであった。また、長崎の出島《でじま》には、オランダ人がいると聞いた。が、その出島には番所があり、日本人は自由に出入りができない。オランダ人もまた、勝手にその出島から出ることはできぬと聞いた。二百年に及ぶ鎖国《さこく》の中で、日本人が異国の人々に触れることはほとんどなかった。
「舵取《かじと》りさん、まさか取って食われはせんやろな」
不意に久吉が不安な顔になった。
「うん、そうやなあ」
岩松の目がかげった。折角《せつかく》陸が近いと喜んでは見ても、そこは全く未知の世界なのだ。久吉が、
「だけど、海の中よりええわなあ。土があるだけでもええわなあ」
と、自分自身に言い聞かせるように言う。
「そりゃあ土があるだけでもええ」
音吉がうなずく、とにかく海には倦《あ》きたのだ。当てどもなく海を漂う生活には倦《あ》きたのだ。
(きっといいことが待っている)
あの白く輝く山脈の下に、悪いことがあるとは音吉には思えなかった。いつのまにか、岩松が二人を両腕で抱き寄せていた。その腕のぬくもりが、音吉と久吉を力づけた。