四
岩松、久吉、音吉の三人は、もう長いこと黙りこくって、死んで行った水主《かこ》たちの柳行李《やなぎごうり》を一つ一つあらためていた。今までは、たとえ死者の行李とはいえ、他の者の行李に手をふれることはためらわれた。だが、やがて上陸する時のために、三人は、遺族に持ち帰る遺品を選びはじめたのだ。音吉は、兄の吉治郎の行李をひらいていた。紺の刺し子、膝《ひざ》のあたりの少し擦《す》り切れた股引《ももひ》き、木綿縞《もめんじま》の着更《きが》え、一つ一つ見馴《みな》れたものばかりだ。これを着、これをはき、胴の間で、大きな声で何か言っていた姿が目に浮かぶ。
(兄さ、陸が見えてきたで)
音吉は心の中で呼びかける。行李の隅《すみ》には、思いがけなく鳩笛があった。いつ、どこで買ったものか、音吉にはわからない。鳩笛は、裸のままころがっていた。その鳩笛を、音吉はそっと口に当てて吹いた。もの悲しい音色がひびいた。岩松と久吉が音吉をふりかえった。
「何や、鳩笛やないか」
尋《たず》ねる久吉に音吉がうなずいた。
「ああ、兄さのや」
岩松も久吉も黙ってうなずいた。
(この鳩笛を、兄さは吹いたことがあるのやろうか)
吉治郎の唇《くちびる》がこの鳩笛にふれたことがあるのかと思うと、音吉は懐かしさに胸が迫った。
(きっと、八幡社の祭りで買ったんやなあ)
一瞬、小野浦の祭りが目に浮かぶ。音吉はその鳩笛を、形見に持って帰ろうと思った。形見に持って帰る物は、肌身《はだみ》離さず持ち歩ける小さなものでなければならない。
吉治郎の行李《こうり》の中をきちんと整理し、次に開いたのは仁右衛門の行李だった。吉治郎の行李とちがって、少し大型の行李であった。
(おやじさん)
音吉は唇《くちびる》を噛《か》んだ。
(あんなに……喜んでいたのに)
昨日の昼のことを、音吉は思い返した。
岩松、久吉、音吉の三人は、昨日、櫓《やぐら》の上で彼方の山脈を見つめていたが、やがて水主《かこ》部屋に降りて来た。と、仁右衛門が眠りから目をさまして、
「何かあったんか」
と、三人の顔を見上げた。三人の顔に浮かぶ興奮の色を、いち早く見て取ったのだ。岩松が言った。
「水主頭《かこがしら》! 驚いちゃいけねえ。とうとう陸《おか》が見えたんや」
枕《まくら》もとに膝《ひざ》をつき、岩松は声をふるわせた。
「な、なに!? 陸が見えたと? 陸が?」
水主頭の歯ががちがちと音を立てた。黄色くむくんだ顔に血の色がのぼった。
「うん。陸だ。確かに陸だ」
岩松は立ち上がって開《かい》の口の引き戸をあけ、そこに坐《すわ》って、遥《はる》か彼方《かなた》に目を凝らした。が、すぐさま立ち上がると、
「水主頭《かこがしら》! ここからでも見えるで、音、久公、さ、おやじさんの布団を、ここまで運ぶんだ」
と促した。音吉と久吉は、静かに仁右衛門を、布団のまま開《かい》の口まで引きずって行った。
「いいか、水主頭」
岩松はそっと仁右衛門の肩を抱き起こし、うしろから支えた。音吉が素早くかいまきで仁右衛門の体を包んだ。
「ほら、白く見えるだろう。あれが陸や」
岩松が指さす。
「おう! あれが陸か」
仁右衛門の声もふるえた。
「そうや、あれが陸や、あれが……待って待って、待ちくたびれていた陸や」
「そうかあ、とうとう、陸が見えたかあ」
「うん、見えた。あとひと息で、あの陸に上がるんや」
「…………」
仁右衛門は何も言わずに、幾度も幾度も只《ただ》うなずいた。目尻から涙がひと筋流れている。音吉も久吉も、たまらなくなって再び泣いた。
「よかったのう」
元の場所に布団を戻《もど》した時、仁右衛門はしみじみと言った。ひどく優しい声であった。
その時の声が、今もまだ、まざまざと音吉の耳にある。
だが、それから半刻も経たぬうちに、仁右衛門の容体が急変した。激しい感動が、衰弱していた心臓を悪化させたのかも知れない。まともに受けた冷たい風も、死を早めたのかも知れない。安堵《あんど》が、かえって生きる力を奪ったのかも知れない。何《いず》れにしても、音吉たち三人にとって、それは余りにも早過ぎる死であった。
(おやじさん、何で陸に上がるまで、生きていられせんかった)
仁右衛門の行李《こうり》を整理しながら、音吉は歎《なげ》いた。仁右衛門の持ち物は、吉治郎とは比較にならぬほど多い。着更《きが》えは三枚も入っており、下帯《したおび》の数も多い。剃刀《かみそり》、小刀、手拭《てぬぐ》い、そして縞《しま》の財布もあった。博打《ばくち》に強い仁右衛門は、財布の金も多かった。片膝《かたひざ》を立て、よく透《とお》る声で、
「丁《ちよう》!」
「半!」
と叫んでいた姿が思い出される。
「いい人やったなあ」
死なれてみると、その親しみやすい性格が改めて思い出される。
(もう一度、元気になってくれたらよかったのに)
今は、岩松と久吉と自分の、たった三人になったのかと、やりきれない思いがする。体の頑丈《がんじよう》な水主頭《かこがしら》が生きていてくれたら、どれほど心強かったことかと思う。
(さぞ陸に上がりたかったろうに……)
そう思いながら、手は仁右衛門の残した品々をまとめていく。と、音吉ははっとした。行李の底に赤子の涎《よだれ》かけがあったのだ。幾度か洗ったらしい、しかし白い涎かけだった。
(おやじさん!)
豪快《ごうかい》そうに見えた仁右衛門も、己《おの》が乳呑《ちの》み子のことをいつも心にかけていたのだと、初めて音吉は知った。その涎かけを音吉はくるくると小さく巻いた。これを持って帰ろうと思ったのだ。
音吉は岩松と久吉のほうを見た。二人共それぞれ黙りこくって行李《こうり》の整理をしている。ふっと岩松の手がとまった。何を見たのか、岩松の背が動かない。音吉はその岩松の背をじっとみつめていた。
(兄さ、陸が見えてきたで)
音吉は心の中で呼びかける。行李の隅《すみ》には、思いがけなく鳩笛があった。いつ、どこで買ったものか、音吉にはわからない。鳩笛は、裸のままころがっていた。その鳩笛を、音吉はそっと口に当てて吹いた。もの悲しい音色がひびいた。岩松と久吉が音吉をふりかえった。
「何や、鳩笛やないか」
尋《たず》ねる久吉に音吉がうなずいた。
「ああ、兄さのや」
岩松も久吉も黙ってうなずいた。
(この鳩笛を、兄さは吹いたことがあるのやろうか)
吉治郎の唇《くちびる》がこの鳩笛にふれたことがあるのかと思うと、音吉は懐かしさに胸が迫った。
(きっと、八幡社の祭りで買ったんやなあ)
一瞬、小野浦の祭りが目に浮かぶ。音吉はその鳩笛を、形見に持って帰ろうと思った。形見に持って帰る物は、肌身《はだみ》離さず持ち歩ける小さなものでなければならない。
吉治郎の行李《こうり》の中をきちんと整理し、次に開いたのは仁右衛門の行李だった。吉治郎の行李とちがって、少し大型の行李であった。
(おやじさん)
音吉は唇《くちびる》を噛《か》んだ。
(あんなに……喜んでいたのに)
昨日の昼のことを、音吉は思い返した。
岩松、久吉、音吉の三人は、昨日、櫓《やぐら》の上で彼方の山脈を見つめていたが、やがて水主《かこ》部屋に降りて来た。と、仁右衛門が眠りから目をさまして、
「何かあったんか」
と、三人の顔を見上げた。三人の顔に浮かぶ興奮の色を、いち早く見て取ったのだ。岩松が言った。
「水主頭《かこがしら》! 驚いちゃいけねえ。とうとう陸《おか》が見えたんや」
枕《まくら》もとに膝《ひざ》をつき、岩松は声をふるわせた。
「な、なに!? 陸が見えたと? 陸が?」
水主頭の歯ががちがちと音を立てた。黄色くむくんだ顔に血の色がのぼった。
「うん。陸だ。確かに陸だ」
岩松は立ち上がって開《かい》の口の引き戸をあけ、そこに坐《すわ》って、遥《はる》か彼方《かなた》に目を凝らした。が、すぐさま立ち上がると、
「水主頭《かこがしら》! ここからでも見えるで、音、久公、さ、おやじさんの布団を、ここまで運ぶんだ」
と促した。音吉と久吉は、静かに仁右衛門を、布団のまま開《かい》の口まで引きずって行った。
「いいか、水主頭」
岩松はそっと仁右衛門の肩を抱き起こし、うしろから支えた。音吉が素早くかいまきで仁右衛門の体を包んだ。
「ほら、白く見えるだろう。あれが陸や」
岩松が指さす。
「おう! あれが陸か」
仁右衛門の声もふるえた。
「そうや、あれが陸や、あれが……待って待って、待ちくたびれていた陸や」
「そうかあ、とうとう、陸が見えたかあ」
「うん、見えた。あとひと息で、あの陸に上がるんや」
「…………」
仁右衛門は何も言わずに、幾度も幾度も只《ただ》うなずいた。目尻から涙がひと筋流れている。音吉も久吉も、たまらなくなって再び泣いた。
「よかったのう」
元の場所に布団を戻《もど》した時、仁右衛門はしみじみと言った。ひどく優しい声であった。
その時の声が、今もまだ、まざまざと音吉の耳にある。
だが、それから半刻も経たぬうちに、仁右衛門の容体が急変した。激しい感動が、衰弱していた心臓を悪化させたのかも知れない。まともに受けた冷たい風も、死を早めたのかも知れない。安堵《あんど》が、かえって生きる力を奪ったのかも知れない。何《いず》れにしても、音吉たち三人にとって、それは余りにも早過ぎる死であった。
(おやじさん、何で陸に上がるまで、生きていられせんかった)
仁右衛門の行李《こうり》を整理しながら、音吉は歎《なげ》いた。仁右衛門の持ち物は、吉治郎とは比較にならぬほど多い。着更《きが》えは三枚も入っており、下帯《したおび》の数も多い。剃刀《かみそり》、小刀、手拭《てぬぐ》い、そして縞《しま》の財布もあった。博打《ばくち》に強い仁右衛門は、財布の金も多かった。片膝《かたひざ》を立て、よく透《とお》る声で、
「丁《ちよう》!」
「半!」
と叫んでいた姿が思い出される。
「いい人やったなあ」
死なれてみると、その親しみやすい性格が改めて思い出される。
(もう一度、元気になってくれたらよかったのに)
今は、岩松と久吉と自分の、たった三人になったのかと、やりきれない思いがする。体の頑丈《がんじよう》な水主頭《かこがしら》が生きていてくれたら、どれほど心強かったことかと思う。
(さぞ陸に上がりたかったろうに……)
そう思いながら、手は仁右衛門の残した品々をまとめていく。と、音吉ははっとした。行李の底に赤子の涎《よだれ》かけがあったのだ。幾度か洗ったらしい、しかし白い涎かけだった。
(おやじさん!)
豪快《ごうかい》そうに見えた仁右衛門も、己《おの》が乳呑《ちの》み子のことをいつも心にかけていたのだと、初めて音吉は知った。その涎かけを音吉はくるくると小さく巻いた。これを持って帰ろうと思ったのだ。
音吉は岩松と久吉のほうを見た。二人共それぞれ黙りこくって行李《こうり》の整理をしている。ふっと岩松の手がとまった。何を見たのか、岩松の背が動かない。音吉はその岩松の背をじっとみつめていた。