五
宝順丸は右手に遠く大陸を見ながら、風に押されて進んでいた。帆桁《ほげた》を帆柱にしたその仮の帆柱も、長い漂流の中で、幾度か嵐に遭《あ》い、半《なか》ばからへし折られて無残な姿だ。僅《わず》かに舳《へさき》に弥帆《やほ》をかけて走っている。疾《と》うに舵《かじ》も失った宝順丸は、相変わらず舳に碇《いかり》を垂らしているだけだ。
激しい風だ。嵐になるかも知れぬと、小用に立った岩松は、用を足しながら、雲に見え隠れする半月を見た。無気味なほどに赤い半月だ。
(八《や》つ頃《ごろ》〈午前二時〉だな)
岩松はちぎれ飛ぶ雲を見ながら、期待と不安の入り交じる思いに耐えていた。遠かった白い峰《みね》の輝きも、呼べは答えるほどに間近に見える。峰の手前には、黒々とした森林がどこまでもつづく。
(何とかして、あの岸につけぬものか)
心は焦るが、舵も壊れている。近くには見えても、船と陸との距離は、十五、六里はあるようだ。岩松は運を天に委《まか》せる思いで踵《きびす》を返した。かなりの激しい風が、厚い刺し子の裾《すそ》をあおる。
「南風だな」
呟《つぶや》いてから、
「南風でもたんと吹きゃ寒い」
半月の光を受けた岩松の片頬《かたほお》が苦く笑った。
風が変わったらしいと気づいたのは、それからどれほども経たなかった。かなり激しい風であることは、船の揺れ方でわかった。岩松は急いで胴の間に出た。途端に岩松は、
「あーっ!」
と叫んだ。暁闇《あかつきやみ》の中に黒ぐろと立ちはだかる島を岩松は見た。その島を目がけて、宝順丸は今、狂ったように突進して行くのだった。
島に当たって砕ける波が白い。島は、高さ三、四丈、長さ二、三丁と、岩松はとっさに見て取った。そしてその向こうに、黒々とした大陸が、暗闇の中にくっきりと見えた。島まで、まだ三、四丁はあると見た。岩松は素早く水主《かこ》部屋に走って、
「起きろ! 音! 久!」
と怒鳴った。大きく揺れる船の中でうとうとして二人は、はっと飛び起きた。
「来いっ!」
何が起きたのか二人は知らない。胴の間に飛び出た二人は、岩松のあとについて走った。
「碇《いかり》をおろすんだ!」
「碇?」
不審そうに問い返す久吉に、岩松は目の前に迫る島影を指さした。大波がその岸に、高々と白い沫《あわ》を上げている。久吉と音吉の顔が引きつった。二人は物も言わずに船縁の四番碇に飛びついた。百五貫もある碇だ。
三人が掛け声と共に碇を突き落とした。が、碇が海底につくかつかぬうちに、異様な音響が体を突き上げた。船底が暗礁《あんしよう》に激突したのだ。三人はしたたか床に打ち倒された。と、立ち上がる間もなく船は斜めに向きを変え、次の瞬間、左舷《さげん》がぐらりと傾き、右舷が三人の頭上にあった。
「飛びこめ! 島に取りつくんだ!」
間髪を入れずに、岩松が海に飛びこんだ。つづいて久吉、最後に音吉が飛びこんだ。
三人はたちまち激浪《げきろう》に呑《の》まれた。
音吉は限りなく海底に引きずりこまれるのを感じた。息苦しさに気が遠くなりそうになった時、首が海の上に出た。目の前に黒い岩の頭が忽然《こつぜん》と現れ、そして波に隠れた。
(岩場だ!)
音吉はおののいた。再び体は波の中に引きずりこまれる。髪の毛が逆立《さかだ》つ。
(船玉《ふなだま》さまーっ!)
心のうちに音吉は叫んだ。再び体が浮いた。岩松の姿も、久吉の姿も見えない。音吉の背に逆巻く波が踊りかかる。音吉は、今目の前に浮かんだ岩に取りすがった。が、引き返す波に、またしても波の中に放りこまれる。打ち寄せられ、打ち返され、音吉は次第に浅瀬に押し上げられていく。足が岩にふれた。また波をかぶる。音吉は、束《つか》の間現れる岩に取りすがる。滝のような波に、目が、耳が、口が叩《たた》かれる。音吉は歯を食いしばった。その音吉の目に、岩礁が墓原のように現れて波に消えた。
(浅瀬だ!)
これからが危険だと、音吉は心をひきしめた。岩角にでも叩きつけられたなら、ひとたまりもない。小野浦の海にも岩場はあった。が、嵐のさ中に泳いだことはない。岩場の恐ろしさを誰もが知っていた。
音吉は、右の小岩に取りすがり、左の小岩に手をさし伸べながら、無我夢中で島岸に近づいて行った。
やがて音吉は、木の匂いを嗅《か》いだ。松の木の匂いだ。海は尚《なお》背後に咆《ほ》えていた。が、波はもはやここまで襲いかかることはなかった。
(草や! 松や!)
一年二か月ぶりに嗅ぐ草木の匂いだった。音吉は自分が夢を見ているような気がした。深い安堵《あんど》と激しい疲労が、たちまち音吉を眠りの中に引きこんでいった。
岩松と久吉は、島の南端に取りついていた。音吉の打ち上げられた所から一丁|程《ほど》離れた所だった。波の打ちこみが幾分おだやかだ。
「もう一息だ、久吉!」
岩に取りついて這《は》いつくばった久吉に、容赦《ようしや》なく波が襲いかかる。ずるずると体が引き戻《もど》される。傾斜はそれほど急ではないが、ぬれた岩が滑る。久吉の手を岩松がぐいと引く。
「舵取《かじと》りさん、もうあかん」
久吉は喘《あえ》いで動こうともしない。
「何があかん! この弱虫が!」
岩松が渾身《こんしん》の力をこめて引き上げる。その二人の背に波がしぶく。
「さあ、立つんだ! あと十歩だ」
岩松が叱咤《しつた》する。久吉のもうろうとした目がふっと吾《われ》に帰る。久吉はよろめきながら立ち上がった。が、二、三歩登ってがっくりと膝《ひざ》をつく。
「この意気地《いくじ》なしが!」
岩松の手が久吉の頬《ほお》に鳴った。久吉が再び立ち上がる。三歩、四歩、岸をよじ登る。その足首を波が捉《とら》える。
「もう一歩だ!」
岩松は気をゆるめない。久吉が大きく喘《あえ》ぐ。手を引く岩松も大きく喘ぐ。
「頑張《がんば》るんだ!」
叫ぶ岩松の声を、とどろく波がかき消す。
打ち寄せる波を避け切って、岩松と久吉は岩の平にへたへたと坐《すわ》りこんだ。その島の上を、雲が矢のように走っていく。いつのまにか、夜はすっかり明けていた。
「音はどこや」
ひと息つく間もなく、岩松が辺《あた》りを見まわした。と、すぐ目の前の陸地に、立ち並ぶ大きな木造の家々を岩松は見た。そしてその前に、ひと塊《かたまり》になって立ち騒ぐ人々を見た。はっと岩松は息をのんだ。今の今まで、岩松はこの島のほんの足もとしか見ていなかった。まさかすぐ目の前に、人家があるとは夢にも思わぬことであった。
「久公! 久公!」
ともすれば眠りかける久吉の肩を岩松は激しく揺さぶった。
「人がいるで! 人が!」
岩松は思い切って、人々に向かって手をふった。せいぜい三、四丁ほどの距離だ。久吉もはっと目をあけて、向こう岸を見た。
「ほんとや! 人や! 人や!」
久吉は狂ったように手をふった。が、誰一人手をふる様子もない。
「見えんのやろか?」
久吉は立ち上がった。
「見えてる筈《はず》や」
再び二人は手をふった。とにかくあそこに人間がいる。泣きたい思いで二人は手をふった。が、二人は知らなかった。陸の者たちがみつめていたのは、宝順丸が打ち倒されている姿であったことを。
激しい風だ。嵐になるかも知れぬと、小用に立った岩松は、用を足しながら、雲に見え隠れする半月を見た。無気味なほどに赤い半月だ。
(八《や》つ頃《ごろ》〈午前二時〉だな)
岩松はちぎれ飛ぶ雲を見ながら、期待と不安の入り交じる思いに耐えていた。遠かった白い峰《みね》の輝きも、呼べは答えるほどに間近に見える。峰の手前には、黒々とした森林がどこまでもつづく。
(何とかして、あの岸につけぬものか)
心は焦るが、舵も壊れている。近くには見えても、船と陸との距離は、十五、六里はあるようだ。岩松は運を天に委《まか》せる思いで踵《きびす》を返した。かなりの激しい風が、厚い刺し子の裾《すそ》をあおる。
「南風だな」
呟《つぶや》いてから、
「南風でもたんと吹きゃ寒い」
半月の光を受けた岩松の片頬《かたほお》が苦く笑った。
風が変わったらしいと気づいたのは、それからどれほども経たなかった。かなり激しい風であることは、船の揺れ方でわかった。岩松は急いで胴の間に出た。途端に岩松は、
「あーっ!」
と叫んだ。暁闇《あかつきやみ》の中に黒ぐろと立ちはだかる島を岩松は見た。その島を目がけて、宝順丸は今、狂ったように突進して行くのだった。
島に当たって砕ける波が白い。島は、高さ三、四丈、長さ二、三丁と、岩松はとっさに見て取った。そしてその向こうに、黒々とした大陸が、暗闇の中にくっきりと見えた。島まで、まだ三、四丁はあると見た。岩松は素早く水主《かこ》部屋に走って、
「起きろ! 音! 久!」
と怒鳴った。大きく揺れる船の中でうとうとして二人は、はっと飛び起きた。
「来いっ!」
何が起きたのか二人は知らない。胴の間に飛び出た二人は、岩松のあとについて走った。
「碇《いかり》をおろすんだ!」
「碇?」
不審そうに問い返す久吉に、岩松は目の前に迫る島影を指さした。大波がその岸に、高々と白い沫《あわ》を上げている。久吉と音吉の顔が引きつった。二人は物も言わずに船縁の四番碇に飛びついた。百五貫もある碇だ。
三人が掛け声と共に碇を突き落とした。が、碇が海底につくかつかぬうちに、異様な音響が体を突き上げた。船底が暗礁《あんしよう》に激突したのだ。三人はしたたか床に打ち倒された。と、立ち上がる間もなく船は斜めに向きを変え、次の瞬間、左舷《さげん》がぐらりと傾き、右舷が三人の頭上にあった。
「飛びこめ! 島に取りつくんだ!」
間髪を入れずに、岩松が海に飛びこんだ。つづいて久吉、最後に音吉が飛びこんだ。
三人はたちまち激浪《げきろう》に呑《の》まれた。
音吉は限りなく海底に引きずりこまれるのを感じた。息苦しさに気が遠くなりそうになった時、首が海の上に出た。目の前に黒い岩の頭が忽然《こつぜん》と現れ、そして波に隠れた。
(岩場だ!)
音吉はおののいた。再び体は波の中に引きずりこまれる。髪の毛が逆立《さかだ》つ。
(船玉《ふなだま》さまーっ!)
心のうちに音吉は叫んだ。再び体が浮いた。岩松の姿も、久吉の姿も見えない。音吉の背に逆巻く波が踊りかかる。音吉は、今目の前に浮かんだ岩に取りすがった。が、引き返す波に、またしても波の中に放りこまれる。打ち寄せられ、打ち返され、音吉は次第に浅瀬に押し上げられていく。足が岩にふれた。また波をかぶる。音吉は、束《つか》の間現れる岩に取りすがる。滝のような波に、目が、耳が、口が叩《たた》かれる。音吉は歯を食いしばった。その音吉の目に、岩礁が墓原のように現れて波に消えた。
(浅瀬だ!)
これからが危険だと、音吉は心をひきしめた。岩角にでも叩きつけられたなら、ひとたまりもない。小野浦の海にも岩場はあった。が、嵐のさ中に泳いだことはない。岩場の恐ろしさを誰もが知っていた。
音吉は、右の小岩に取りすがり、左の小岩に手をさし伸べながら、無我夢中で島岸に近づいて行った。
やがて音吉は、木の匂いを嗅《か》いだ。松の木の匂いだ。海は尚《なお》背後に咆《ほ》えていた。が、波はもはやここまで襲いかかることはなかった。
(草や! 松や!)
一年二か月ぶりに嗅ぐ草木の匂いだった。音吉は自分が夢を見ているような気がした。深い安堵《あんど》と激しい疲労が、たちまち音吉を眠りの中に引きこんでいった。
岩松と久吉は、島の南端に取りついていた。音吉の打ち上げられた所から一丁|程《ほど》離れた所だった。波の打ちこみが幾分おだやかだ。
「もう一息だ、久吉!」
岩に取りついて這《は》いつくばった久吉に、容赦《ようしや》なく波が襲いかかる。ずるずると体が引き戻《もど》される。傾斜はそれほど急ではないが、ぬれた岩が滑る。久吉の手を岩松がぐいと引く。
「舵取《かじと》りさん、もうあかん」
久吉は喘《あえ》いで動こうともしない。
「何があかん! この弱虫が!」
岩松が渾身《こんしん》の力をこめて引き上げる。その二人の背に波がしぶく。
「さあ、立つんだ! あと十歩だ」
岩松が叱咤《しつた》する。久吉のもうろうとした目がふっと吾《われ》に帰る。久吉はよろめきながら立ち上がった。が、二、三歩登ってがっくりと膝《ひざ》をつく。
「この意気地《いくじ》なしが!」
岩松の手が久吉の頬《ほお》に鳴った。久吉が再び立ち上がる。三歩、四歩、岸をよじ登る。その足首を波が捉《とら》える。
「もう一歩だ!」
岩松は気をゆるめない。久吉が大きく喘《あえ》ぐ。手を引く岩松も大きく喘ぐ。
「頑張《がんば》るんだ!」
叫ぶ岩松の声を、とどろく波がかき消す。
打ち寄せる波を避け切って、岩松と久吉は岩の平にへたへたと坐《すわ》りこんだ。その島の上を、雲が矢のように走っていく。いつのまにか、夜はすっかり明けていた。
「音はどこや」
ひと息つく間もなく、岩松が辺《あた》りを見まわした。と、すぐ目の前の陸地に、立ち並ぶ大きな木造の家々を岩松は見た。そしてその前に、ひと塊《かたまり》になって立ち騒ぐ人々を見た。はっと岩松は息をのんだ。今の今まで、岩松はこの島のほんの足もとしか見ていなかった。まさかすぐ目の前に、人家があるとは夢にも思わぬことであった。
「久公! 久公!」
ともすれば眠りかける久吉の肩を岩松は激しく揺さぶった。
「人がいるで! 人が!」
岩松は思い切って、人々に向かって手をふった。せいぜい三、四丁ほどの距離だ。久吉もはっと目をあけて、向こう岸を見た。
「ほんとや! 人や! 人や!」
久吉は狂ったように手をふった。が、誰一人手をふる様子もない。
「見えんのやろか?」
久吉は立ち上がった。
「見えてる筈《はず》や」
再び二人は手をふった。とにかくあそこに人間がいる。泣きたい思いで二人は手をふった。が、二人は知らなかった。陸の者たちがみつめていたのは、宝順丸が打ち倒されている姿であったことを。