(凪《なぎ》やなあ)
音吉は、夢|現《うつつ》の中で、幾度かそう思った。船は全く揺れないのだ。ほんのかすかにも揺れないのだ。
(変やなあ、波は土みたいに、固まってしもうたんかな)
そう思って音吉は目をあけた。と、そこに異様に美しい女の顔を音吉は見た。女の頬《ほお》から髪にかけて、朱色が塗られてある。黒い髪だ。大きな茶色の目だ。驚く音吉に女がにっと頬笑《ほほえ》みかけた。そしてうしろを向き、かん高い声で叫んだ。
「クー・ドゥーク・シトウル!(起きた)」
(誰や? ここはどこや?)
思った途端、音吉は激浪《げきろう》の中に飛びこんだことを思い出した。
(そうか……あのまま、眠ってしまったんやな)
松の木や草の匂いが、思い出された。あの匂いを嗅《か》いだまま、引きこまれるように深い眠りにおちいってしまったのだ。ぐっしょりとぬれた刺し子や股引きは、眠りこんだ音吉の体を冷やした。が、それでも真っ裸であるよりはよかったのだ。音吉はこの家にかつぎこまれ、真っ裸にされ、毛布にくるまれて眠りつづけたのだ。その自分を、祈祷師《きとうし》の女がつきっきりで体をさすり、何やら呪文《じゆもん》をとなえていたことなど、音吉は知る筈もなかった。今、近々と音吉の顔をのぞきこんでいた女が祈祷師であった。
マカハ族の中には、男や女の祈祷師がいた。この祈祷師たちは、医者の代わりもした。
マカハ族は、病気はすべて悪霊が取りつくからだと思っていた。そしてその悪霊は、小川で水を飲む時に口から入ってきたり、海で泳いでいる時に肌《はだ》から入ってきたりするものと信じられていた。そしてその悪霊は、白い蛆虫《うじむし》に姿形を変えているとも信じられていた。
だから祈祷師たちは、患者の体を見、その蛆虫がいると思う箇所に触れる。そして手つきもあざやかに、その白い蛆虫を取り出すような仕種《しぐさ》をした。だが、その白い蛆虫を見た者はない。だからと言って、誰一人その存在を疑う者はなかった。それは祈祷師《きとうし》にしか見えない虫だと、人々は信じていた。
今日も、この女祈祷師は、掌を火であたため、手を幾度も洗い、音吉の体に触れていた。冷たい手と、火で充分あたためられた手が、交互に音吉の体をさすっていたのだ。それらのすべてを、むろん音吉は知らなかった。
女祈祷師が何か叫ぶと、人々が駈《か》けよって来た。音吉はずきずきと頭の痛むのを感じていたが、集まった男や女の顔を見ると、驚いて体を起こした。そして、両手をついてていねいに頭を下げた。
「おせわになりました」
みんなはがやがやと何か言い、そして笑った。主人が大きくうなずき、女|祈祷師《きとうし》の肉づきのよい丸い肩をぽんと叩《たた》いた。女祈祷師は得意げに笑って、音吉を腕の中に抱きかかえた。甘酸っぱい女の匂いが音吉を戸惑わせた。人々はまた笑った。主人が、木の皮で織った上着をかけてくれた。音吉は、膝《ひざ》や肱《ひじ》が痛むのを感じた。岩場に打ちつけたのかも知れないと思いながら、しかし音吉は、おとなしく女の胸に抱かれていた。女はそのまま音吉をマットの上に寝せた。そして何か言った。主人が何か答えた。全くわからぬ言葉に、音吉は驚いた。そして俄《にわか》に岩松や久吉が気になった。
「あのう……舵取《かじと》りさんと、久吉さんはどこにいますか」
人々はがやがやと話し合うばかりだ。そこに木の椀《わん》に入ったあたたかいスープが運ばれて来た。主人が手真似《てまね》で食べよと言った。音吉は再び体を起こし、正座してスープを押しいただいた。スープの中には薄く切った馬鈴薯《ばれいしよ》がたくさん入っていた。それを口に運ぶ音吉を、男も女も物珍しそうにみつめていた。岩松や久吉をみつめた時と同じく、好奇心に満ちた目であった。
スープを取りながら、音吉は涙がこぼれた。岩松や久吉は死んだのだと思ったのだ。
(たった一人ぼっちになって……)
音吉はひどく淋《さび》しかった。音吉の涙を見て、笑う者もいた。同情する女もいた。食べ終わると、主人は音吉に、「立て」と手真似で命じた。音吉は立ち上がった。頭はふらつくが、ぐっすり眠ったせいか、意外に体に力があった。
(甘えてはいられない)
音吉は自分にそう言い聞かせて、先立つ主人の後ろについて行った。子供たちが、その音吉にまつわりついた。子供たちはひと目で音吉を好きになったようであった。主人が立ちどまった。そして指示した一画《いつかく》を見て、音吉は思わず、
「あっ!」
と叫んだ。そこには岩松と久吉がいびきを立てて眠っていた。音吉はへたへたと坐《すわ》りこみそうになった。その音吉の体を支えたのは、岩松に人なつっこい微笑を向けたあの若者だった。主人は岩松たちを指さし、音吉に何か言った。
「ここがお前の住む所だ」
と、言ったのだ。そしてそれが音吉には何とはなしにわかった。音吉は、岩松と久吉の枕《まくら》べに坐って、声を上げて泣いた。二人が生きているということが、こんなにもうれしいことだとは想像もしなかった。涙が次から次へと溢《あふ》れ出た。
(生きている! 生きている!)
久吉は口から涎《よだれ》を出して寝ていた。岩松はふだんかいたこともないような大いびきをかいて眠っている。
「よう生きていて……」
一年二か月もの長い漂流生活が、今、音吉の胸に甦《よみがえ》った。初めて遭《あ》ったあの嵐、アカ汲《く》み、帆柱切り、荷打ち、そして、その後も幾度となく襲って来た嵐、岡廻《おかまわ》りや兄吉治郎の死から、水主頭《かこがしら》仁右衛門の死に至るまでの幾度もの辛《つら》い死別、飲み水に苦しみ、黒い斑点におびやかされた陰鬱《いんうつ》な日々、それらが一つになって、音吉の胸の中を駈《か》けめぐった。そしてここに三人、とにかくも生きて異国に辿《たど》り着いたのだ。音吉は只《ただ》、泣くよりほかに仕方がなかった。
音吉は、夢|現《うつつ》の中で、幾度かそう思った。船は全く揺れないのだ。ほんのかすかにも揺れないのだ。
(変やなあ、波は土みたいに、固まってしもうたんかな)
そう思って音吉は目をあけた。と、そこに異様に美しい女の顔を音吉は見た。女の頬《ほお》から髪にかけて、朱色が塗られてある。黒い髪だ。大きな茶色の目だ。驚く音吉に女がにっと頬笑《ほほえ》みかけた。そしてうしろを向き、かん高い声で叫んだ。
「クー・ドゥーク・シトウル!(起きた)」
(誰や? ここはどこや?)
思った途端、音吉は激浪《げきろう》の中に飛びこんだことを思い出した。
(そうか……あのまま、眠ってしまったんやな)
松の木や草の匂いが、思い出された。あの匂いを嗅《か》いだまま、引きこまれるように深い眠りにおちいってしまったのだ。ぐっしょりとぬれた刺し子や股引きは、眠りこんだ音吉の体を冷やした。が、それでも真っ裸であるよりはよかったのだ。音吉はこの家にかつぎこまれ、真っ裸にされ、毛布にくるまれて眠りつづけたのだ。その自分を、祈祷師《きとうし》の女がつきっきりで体をさすり、何やら呪文《じゆもん》をとなえていたことなど、音吉は知る筈もなかった。今、近々と音吉の顔をのぞきこんでいた女が祈祷師であった。
マカハ族の中には、男や女の祈祷師がいた。この祈祷師たちは、医者の代わりもした。
マカハ族は、病気はすべて悪霊が取りつくからだと思っていた。そしてその悪霊は、小川で水を飲む時に口から入ってきたり、海で泳いでいる時に肌《はだ》から入ってきたりするものと信じられていた。そしてその悪霊は、白い蛆虫《うじむし》に姿形を変えているとも信じられていた。
だから祈祷師たちは、患者の体を見、その蛆虫がいると思う箇所に触れる。そして手つきもあざやかに、その白い蛆虫を取り出すような仕種《しぐさ》をした。だが、その白い蛆虫を見た者はない。だからと言って、誰一人その存在を疑う者はなかった。それは祈祷師《きとうし》にしか見えない虫だと、人々は信じていた。
今日も、この女祈祷師は、掌を火であたため、手を幾度も洗い、音吉の体に触れていた。冷たい手と、火で充分あたためられた手が、交互に音吉の体をさすっていたのだ。それらのすべてを、むろん音吉は知らなかった。
女祈祷師が何か叫ぶと、人々が駈《か》けよって来た。音吉はずきずきと頭の痛むのを感じていたが、集まった男や女の顔を見ると、驚いて体を起こした。そして、両手をついてていねいに頭を下げた。
「おせわになりました」
みんなはがやがやと何か言い、そして笑った。主人が大きくうなずき、女|祈祷師《きとうし》の肉づきのよい丸い肩をぽんと叩《たた》いた。女祈祷師は得意げに笑って、音吉を腕の中に抱きかかえた。甘酸っぱい女の匂いが音吉を戸惑わせた。人々はまた笑った。主人が、木の皮で織った上着をかけてくれた。音吉は、膝《ひざ》や肱《ひじ》が痛むのを感じた。岩場に打ちつけたのかも知れないと思いながら、しかし音吉は、おとなしく女の胸に抱かれていた。女はそのまま音吉をマットの上に寝せた。そして何か言った。主人が何か答えた。全くわからぬ言葉に、音吉は驚いた。そして俄《にわか》に岩松や久吉が気になった。
「あのう……舵取《かじと》りさんと、久吉さんはどこにいますか」
人々はがやがやと話し合うばかりだ。そこに木の椀《わん》に入ったあたたかいスープが運ばれて来た。主人が手真似《てまね》で食べよと言った。音吉は再び体を起こし、正座してスープを押しいただいた。スープの中には薄く切った馬鈴薯《ばれいしよ》がたくさん入っていた。それを口に運ぶ音吉を、男も女も物珍しそうにみつめていた。岩松や久吉をみつめた時と同じく、好奇心に満ちた目であった。
スープを取りながら、音吉は涙がこぼれた。岩松や久吉は死んだのだと思ったのだ。
(たった一人ぼっちになって……)
音吉はひどく淋《さび》しかった。音吉の涙を見て、笑う者もいた。同情する女もいた。食べ終わると、主人は音吉に、「立て」と手真似で命じた。音吉は立ち上がった。頭はふらつくが、ぐっすり眠ったせいか、意外に体に力があった。
(甘えてはいられない)
音吉は自分にそう言い聞かせて、先立つ主人の後ろについて行った。子供たちが、その音吉にまつわりついた。子供たちはひと目で音吉を好きになったようであった。主人が立ちどまった。そして指示した一画《いつかく》を見て、音吉は思わず、
「あっ!」
と叫んだ。そこには岩松と久吉がいびきを立てて眠っていた。音吉はへたへたと坐《すわ》りこみそうになった。その音吉の体を支えたのは、岩松に人なつっこい微笑を向けたあの若者だった。主人は岩松たちを指さし、音吉に何か言った。
「ここがお前の住む所だ」
と、言ったのだ。そしてそれが音吉には何とはなしにわかった。音吉は、岩松と久吉の枕《まくら》べに坐って、声を上げて泣いた。二人が生きているということが、こんなにもうれしいことだとは想像もしなかった。涙が次から次へと溢《あふ》れ出た。
(生きている! 生きている!)
久吉は口から涎《よだれ》を出して寝ていた。岩松はふだんかいたこともないような大いびきをかいて眠っている。
「よう生きていて……」
一年二か月もの長い漂流生活が、今、音吉の胸に甦《よみがえ》った。初めて遭《あ》ったあの嵐、アカ汲《く》み、帆柱切り、荷打ち、そして、その後も幾度となく襲って来た嵐、岡廻《おかまわ》りや兄吉治郎の死から、水主頭《かこがしら》仁右衛門の死に至るまでの幾度もの辛《つら》い死別、飲み水に苦しみ、黒い斑点におびやかされた陰鬱《いんうつ》な日々、それらが一つになって、音吉の胸の中を駈《か》けめぐった。そしてここに三人、とにかくも生きて異国に辿《たど》り着いたのだ。音吉は只《ただ》、泣くよりほかに仕方がなかった。