岩松たち三人が、インデアンの奴隷《どれい》になってから半月近く過ぎた。あと数日で正月が来ると、音吉はひそかに胸の中で数えていた。深い疲れも、岩場で受けた打ち傷もどうやらすっかり治ったその朝——。朝食を終わった途端、俄《にわか》にいつもとちがったあわただしい空気が、家の中にみなぎった。と、
「イワ! イワ!」
呼び立てる声がした。この半月のうちに、この家に住む者たちは三人の名を覚えた。岩松は「イワ」であり、音吉は「オト」であった。そして久吉は「キュウ」であった。が、三人は家の中の者たちの名をなかなか知ることができなかった。あの人なつっこい笑顔を見せる親切な若者は、「ドウ・ダーク・テール(若い鳥)」と呼ばれていた。目つきの鋭い男は、「アー・ダンク(火)」と呼ばれていた。が、それらは綽名《あだな》であって本名ではなかった。インデアンには個々の名がなかった。家系の名があるだけであった。
岩松は、アー・ダンクに呼び立てられて、部屋の片隅《かたすみ》に行った。二、三人の若者たちが、板を部屋隅に持って来た。そしてその板で仕切りをしはじめた。岩松はそれを手伝わせられた。たちまちのうちに部屋隅に小部屋が造られ、マットが運ばれた。
音吉と久吉は、薪《まき》を四つの炉のそれぞれに運びながら、誰があの小部屋に入れられるのかと、少し不安だった。と、思いがけなく、そこにつれて行かれたのは「ピーコー(小さい籠《かご》)」と呼ばれる少女だった。ピーコーは母親につれられてその小部屋のほうに行った。久吉と音吉は何となく顔を見合わせた。二人より一つ二つ年下のピーコーは、つぶらな目の、家族の中で一番色白の少女だった。
このマカハ族のほとんどは黒髪だが、時に茶色で縮れ毛の、肌《はだ》の白い男や女がまじっていた。男も女も黒や赤の顔料を塗り、黄色や青で、その上に模様を書いていたから、誰もが同じ顔色に見えた。が、よく見ると、とりわけ肌の白い者もいる。それらは早くにこの地に渡って来たロシヤ人やスペイン人の血のまじっているマカハ族であった。ピーコーもその一人だった。ピーコーはまるい目の、頬《ほお》に大きな笑くぼのできる愛らしい子だ。ピーコーは主人の娘であった。ピーコーには兄が二人いた。
久吉と音吉は、薪《まき》を運びに外に出た。見上げた空に雲が多い。
「ピーコー、どうしたんやろな」
久吉はひどく気がかりな様子で言った。
「病気かな」
言いながら音吉は、病気でないような気がした。母親が笑っていたし、ピーコーは胸を張って歩いていた。少しはにかんだ様子で母親の顔を見上げてもいた。
「病気? 病気やないわ」
二人は山裾《やますそ》の薪の積んである所に来て海のほうを見た。浜に宝順丸が押し上げられている。三人が助けられたあと、ここの部族総出で、宝順丸を浜まで引き寄せたのだ。北米杉の根と海藻《かいそう》をより合わせてつくったロープが、何本も引きかけられ、宝順丸は満潮を待って引き寄せられたのだ。宝順丸が座礁《ざしよう》した所は浅い海だったから、水主《かこ》部屋の中の物はほとんどぬれてはいなかった。が、座礁の衝撃で開いた一の間から、死人の入った樽《たる》がころがり落ち、それが先ず、浜に打ち上げられた。
インデアンたちは死人を見て仰天《ぎようてん》したが、その扱いは丁重だった。死霊を恐れたのだ。森の中の土を掘って、五つの死体が埋葬された。それらは、仁右衛門、重右衛門、勝五郎、吉治郎、千之助の五体であった。吉治郎は早く死んだのだが、音吉の兄ということで、海に捨てずに置いてくれた。
宝順丸に積んでいた米も、水主《かこ》たちの柳行李《やなぎごうり》も、船頭部屋にあった懸硯《かけすずり》、船箪笥《ふなだんす》、衣裳箱《いしようばこ》などの箪笥類も、すべてはインデアンたちの物になった。せめて故里に持ち帰りたいと思っていた重右衛門の日記、遺言、そしてあの鳩笛や涎《よだれ》かけさえも、三人の手には戻《もど》らなかった。
浜に傾く無残な宝順丸を見た音吉は、ふっと視線を外らした。目と鼻の先に、三人の打ち上げられたオゼット島が、この集落を波と風から守るように立ちはだかっており、右手にはオゼット島に直角に、やや離れてケロンボール島とボデルダ島が並んでいた。これらの小島に抱かれたこの集落の海は、ふだんは岸を洗う波さえない。平和な美しい海だ。ケロンボール島の向こう、はるか彼方にうっすらとかすむバンクーバー島を見ると、音吉は鈴鹿山脈を何となく思い出す。起伏《きふく》が似ているのだ。
はっと我に帰って、音吉は薪《まき》を腕の中に抱えた。オルダーと呼ばれるこの薪は、はぜることのない柔らかい薪だ。二人は薪を抱えて家に向かった。十二月も末だというのに、小野浦よりも暖かいのだ。この暖かいフラッタリー岬は、樺太《からふと》と同じ緯度であるが、むろん二人は知る筈《はず》もない。ましてその暖かさが、黒潮の影響であることも、誰一人知る者はなかった。
「わかった!」
入り口に入ろうとして、突如《とつじよ》久吉が言った。
「わかった? 何がわかったんや」
「ピーコーのことや」
「…………」
「あれはな、別鍋《べつなべ》や」
久吉がにやりとした。
「別鍋?」
口に出してから、音吉は顔がほてった。小野浦にいた時、久吉が言ったことがあった。女には月の障りがある。その時は別鍋で食事をするのだと。あの時久吉は、家族と共に食事をしない琴のことを、そう言って教えてくれた。不意に、耐えがたいほどに音吉は琴が恋しくなった。
部屋に入った二人は驚いた。ピーコーの入った小部屋から、子供たちの愛らしい歌声が聞こえて来たからだ。
「何だ、別鍋ではないのか」
久吉は戸惑った顔をした。子供たちは声を張り上げて一心に歌っている。一つの歌が終わると、また始まる。
二人は炉端《ろばた》に薪《まき》を積んでから、また外に出た。
「別鍋ともちがうようだな」
「さあてな」
一日分の薪《まき》を、二人は幾度も運んで四つの炉端に並べなければならない。その薪運びが終わっても、子供たちは歌いつづけていた。
薪運びの終わった二人は、水|汲《く》みにかかった。水はこの家から四丁も離れた小川から汲んでくる。沢水の流れ落ちる所は少しくぼんでいて、皮袋で汲むのに、汲みやすい深さになっていた。水は鹿の皮袋で汲むのだ。そこを往復するのは大変だが、遠いことは二人にとってうれしいことであった。二人で心おきなく話しながら歩けるからだ。裏山の広葉樹はすっかり落葉し、針葉樹の緑がくろぐろと繁っている。水汲みへ行く途中の山際に、重右衛門たちの埋葬された所がある。太いニレの木が枝を張る下だ。二人はそこに来ると手を合わせる。
(守っててくれな、兄さ)
死んだら守ってやると言った吉治郎の言葉を、音吉は忘れない。あの激浪《げきろう》の中を、三人が無事に辿《たど》り着くことのできたのは、やはり兄が守ってくれたからだと、音吉は律義《りちぎ》に信じている。
(それに、船玉《ふなだま》さまも守ってくれたのだ)
船玉さまと、琴がいつも音吉の胸の中で一つになってしまう。
「あ! 鹿や!」
久吉が叫んだ。この辺《あた》りの山には鹿が多い。人間を見ても鹿はほとんど恐れない。鹿は首を伸ばして小川の水を飲んでいる。が、二人が近づいて行くと、ゆっくりと山の小道を登って行った。二人は何となく顔を見合わせて、くすりと笑う。二人が同時に笑うことなど、滅多にない。朝から晩まで、緊張の仕通しなのだ。アー・ダンクが、不意に理由もなく鞭《むち》をふるうことがあるからだ。鞭で打たれると、音吉は自分が牛か馬になったような淋《さび》しさを覚える。なぜ打たれるか、わからないのだ。アー・ダンクは主人の弟だった。が、主人とは顔も気性《きしよう》もちがう。二人は、アー・ダンクを「蝮《まむし》」と蔭《かげ》で呼んでいた。
二人は鹿の去った水べに行って水を汲《く》んだ。水は澄んでいるのだが、底の土が赤錆色《あかさびいろ》だ。その赤い水底を見ると、いかにも異国に来ている感じがする。二人は水を汲み、うしろと前に皮袋を吊《つ》った天秤棒《てんびんぼう》を担《かつ》いだ。この天秤棒は岩松が造ってくれたものなのだ。初めは、両手にじかに下げていた。それはひどく重かった。が、天秤棒で担ぐと、それほど重さを感じない。二人は腰で拍子《ひようし》を取りながら、今来た藪中《やぶなか》の小道を戻って行く。久吉が先で、音吉が後だ。
と、行く手に女の姿が見えた。すらりとしたその姿形で、それが誰か、二人にはすぐにわかった。
「蝮のご新造や」
前を行く久吉が低い声でいう。アー・ダンクの妻は、ゆっくりと小道を歩いてくる。この女が、急いだり、大声を立てたりしているのを、二人はまだ一度も見たことがない。どこかもの憂《う》げなのだが、いつもその唇《くちびる》に微笑を絶やさない。ぽっかりとひらかれた目が、いつも昼寝からさめたような感じなのだ。
「好きやな、あの人」
久吉が言う。
「うん、好きやな」
二人は立ちどまって、道の際に少し体を寄せた。近づいたアー・ダンクの妻は、何か洗濯物《せんたくもの》を胸に抱えていたが、二人を見るとニコッと笑った。久吉はその微笑に応《こた》えたが、音吉はじっと目を伏せて、すれちがうのを待っていた。が、アー・ダンクの妻は音吉の傍《そば》に立ちどまり、何か言った。音吉は仕方なく、顔を上げてアー・ダンクの妻の顔を見た。目が近々と笑っていた。音吉は黙って頭を下げた。何かわからないが、ねぎらいの言葉ではないかと思ったからだ。
アー・ダンクの妻が通り過ぎて行くと久吉が言った。
「あのご新造、何て言うたやろ。な、音吉」
「何や知らんが、ご苦労さんと言うたんやないか」
「そうやないかも知れせんで。いい男やな、と言うたんとちがうか」
久吉がからかった。
「そんなこと言わん、あの人」
音吉はまじめに答えた。どこかで鳥の声がする。
「何の鳥かな」
久吉が木々の梢《こずえ》に目を上げた。
「百舌鳥《もず》に似た声やな」
言いながら音吉は胸が痛んだ。百舌鳥の啼《な》いていた小野浦の山々が、鮮やかに目に浮かぶのだ。
「な、久吉、俺たち一生ここに住まんならんのかな」
「そうかも知れせんな。宝順丸のような大きな船もないし……大きな船があっても、無事に小野浦に帰って行ける筈もないし……」
余りにも長い漂流に、久吉も帰国の手だてはないと、とうに諦《あきら》めていた。
「帰れんのかあ」
二人は藪中《やぶなか》を通って砂浜に出た。白い砂浜だ。二人を捕らえた家は、ずらりと並んだ家々の真ん中あたりにある。二人は並んで歩きながら、
「音、俺たちでも、ここの親分の娘をもらうことはできるんやで」
「…………」
「どうもそうらしいわ。俺、ピーコーをもらうかな」
久吉は楽天的だ。時折《ときおり》、鞭《むち》は飛んでも、マカハ族にはまだ、奴隷《どれい》に対する際立った差別はなかった。奴隷と、他の者の仕事の区別もなかった。魚を漁《と》る時には共に漁り、薪《まき》を挽《ひ》く時には共に挽く。結婚もまた、久吉が素早く見て取ったように、奴隷と主人の娘との結婚も許されていた。また女奴隷を主人の息子が娶《めと》る例も少なくない。同じ部族の若者同士の結婚にしても、余り窮屈なことはなかった。たとえ親が反対しても、一、二か月、若い二人が森の中に隠れ住み、やがて出て来た時には、それほどの摩擦もなく結婚が許される。酋長《しゆうちよう》は一夫多妻だが、他の者たちは一夫一婦であった。音吉たちが捕らえられた家の主人は、どうやらこの辺《あた》りの酋長であるらしく、三人の妻を同じ家の中に持っていた。
音吉と久吉は、水を家の中の水桶《みずおけ》に入れた。入れながら二人は顔を見合わせた。まだ子供たちの歌が絶えないからだ。朝からもう一|刻《とき》(二時間)も過ぎているのだ。歌はピーコーの小部屋から聞こえてくる。くたびれ切ったような子供たちの歌声だった。と、他の者たちが歌い出した。やや元気な歌声だ。二人は再び水|汲《く》みに行くために外に出た。
「何や! うたいつづけやな」
外に出るなり久吉が言った。
「ほんとや。無理矢理うたわされているみたいやな」
音吉は家の中に岩松の姿がなかったと思いながら言った。
「何であんなにうたうんやろな、音」
「わからんな。小野浦ではあんなことあらせんもな」
冬の太陽が白い。二人は、まだ肌《はだ》に馴《な》れない杉の皮で織った着物を着、裸足《はだし》で歩いて行く。小野浦でも裸足で遊びまわっていたものだが、ちびた草履《ぞうり》でも自分の草履があった。ここでは、遠出をする時に履《は》く靴《くつ》がある。鮭《さけ》の皮で造った靴だ。鮭の皮は薄いが、意外に強かった。二人にはそんな靴は与えられていない。
「もうじき、また正月やな」
音吉は、雲間を縫う白い太陽を見上げながら、淋《さび》しい声を出した。
「ほんとやなあ。今年の正月は海の上やったもなあ」
「うん……」
宝順丸で祝った雑煮《ぞうに》を音吉は思い出した。炊頭《かしきがしら》の勝五郎が、米の飯《めし》を練って餠《もち》のようにしたのだ。赤子の掌ほどもない干し魚が、尾頭《おかしら》代わりに出た。
(あの正月の膳《ぜん》に向かって……兄さは泣いたんだ)
何で泣くと聞く音吉に、これが最後の正月だと言って吉治郎は泣いた。そして間もなく死んでいった。
(兄さが死んで一年になる)
(十一人、みんな死んでしもうた)
久吉がむっつりと音吉の後について来る。久吉も何か考えているのだと、音吉は久吉をふり返った。と、久吉が立ちどまって空を仰いだ。
「なあ、音、あのおてんとさまと、小野浦のおてんとさまと、同じおてんとさまやろか」
「そうやろな。おてんとさまが世界に二つあると聞いたことないでな」
言いながらも、音吉にも自信がない。日本の太陽が日本にだけ照り、この国の太陽は、この辺《あた》りにだけ照るような気もする。
「音! したら、あのおてんとさまは、小野浦にも照るんやな」
「そうかも知れせんな」
「したら、あのおてんとさま、父《と》っさまも母《かか》さまも見ているんやな」
「うん、そうやな。きっとそうやな」
音吉はたまらなくなった。こんなに遠い国で見る太陽が、小野浦で見る太陽と一つだとしたら……思っただけでも胸がつまるのだ。
(父っさまも母さまも、おさとも、お琴も……)
二人は黙って歩き出した。早足で二人は歩いた。藪原《やぶはら》は二人の胸ほどの高さだ。その藪原の中に、今また鹿が迷いこんでいた。
「音、この裏山には、熊もいるんやもなあ」
「うん」
酋長《しゆうちよう》は熊の皮を敷いている。
「よう出てこんな」
「今は冬やからな。眠ってるんやろう」
「ふーん、熊は冬眠るんか。冬の間中眠るんか」
「そうや、いつか舵取《かじと》りさんがそんなこと言うてたで」
岩松は二人とちがって世の中を多く見ている。蝦夷《えぞ》で熊の足跡を見たことがあるとも言っていた。
「じゃあ冬の間は、里には下りてこんな」
「うん、大丈夫や」
二人は山裾《やますそ》の藪中《やぶなか》を出て、沢水の落ちる傍《かたわ》らに近寄って行った。と、音吉ははっと立ちどまった。何気なく目をやった森の中に、男と女の姿を見たからだ。男は岩松であり、女はアー・ダンクの妻であった。
「何や、舵取りさんや」
気づいて久吉も声をひそめた。
「イワ! イワ!」
呼び立てる声がした。この半月のうちに、この家に住む者たちは三人の名を覚えた。岩松は「イワ」であり、音吉は「オト」であった。そして久吉は「キュウ」であった。が、三人は家の中の者たちの名をなかなか知ることができなかった。あの人なつっこい笑顔を見せる親切な若者は、「ドウ・ダーク・テール(若い鳥)」と呼ばれていた。目つきの鋭い男は、「アー・ダンク(火)」と呼ばれていた。が、それらは綽名《あだな》であって本名ではなかった。インデアンには個々の名がなかった。家系の名があるだけであった。
岩松は、アー・ダンクに呼び立てられて、部屋の片隅《かたすみ》に行った。二、三人の若者たちが、板を部屋隅に持って来た。そしてその板で仕切りをしはじめた。岩松はそれを手伝わせられた。たちまちのうちに部屋隅に小部屋が造られ、マットが運ばれた。
音吉と久吉は、薪《まき》を四つの炉のそれぞれに運びながら、誰があの小部屋に入れられるのかと、少し不安だった。と、思いがけなく、そこにつれて行かれたのは「ピーコー(小さい籠《かご》)」と呼ばれる少女だった。ピーコーは母親につれられてその小部屋のほうに行った。久吉と音吉は何となく顔を見合わせた。二人より一つ二つ年下のピーコーは、つぶらな目の、家族の中で一番色白の少女だった。
このマカハ族のほとんどは黒髪だが、時に茶色で縮れ毛の、肌《はだ》の白い男や女がまじっていた。男も女も黒や赤の顔料を塗り、黄色や青で、その上に模様を書いていたから、誰もが同じ顔色に見えた。が、よく見ると、とりわけ肌の白い者もいる。それらは早くにこの地に渡って来たロシヤ人やスペイン人の血のまじっているマカハ族であった。ピーコーもその一人だった。ピーコーはまるい目の、頬《ほお》に大きな笑くぼのできる愛らしい子だ。ピーコーは主人の娘であった。ピーコーには兄が二人いた。
久吉と音吉は、薪《まき》を運びに外に出た。見上げた空に雲が多い。
「ピーコー、どうしたんやろな」
久吉はひどく気がかりな様子で言った。
「病気かな」
言いながら音吉は、病気でないような気がした。母親が笑っていたし、ピーコーは胸を張って歩いていた。少しはにかんだ様子で母親の顔を見上げてもいた。
「病気? 病気やないわ」
二人は山裾《やますそ》の薪の積んである所に来て海のほうを見た。浜に宝順丸が押し上げられている。三人が助けられたあと、ここの部族総出で、宝順丸を浜まで引き寄せたのだ。北米杉の根と海藻《かいそう》をより合わせてつくったロープが、何本も引きかけられ、宝順丸は満潮を待って引き寄せられたのだ。宝順丸が座礁《ざしよう》した所は浅い海だったから、水主《かこ》部屋の中の物はほとんどぬれてはいなかった。が、座礁の衝撃で開いた一の間から、死人の入った樽《たる》がころがり落ち、それが先ず、浜に打ち上げられた。
インデアンたちは死人を見て仰天《ぎようてん》したが、その扱いは丁重だった。死霊を恐れたのだ。森の中の土を掘って、五つの死体が埋葬された。それらは、仁右衛門、重右衛門、勝五郎、吉治郎、千之助の五体であった。吉治郎は早く死んだのだが、音吉の兄ということで、海に捨てずに置いてくれた。
宝順丸に積んでいた米も、水主《かこ》たちの柳行李《やなぎごうり》も、船頭部屋にあった懸硯《かけすずり》、船箪笥《ふなだんす》、衣裳箱《いしようばこ》などの箪笥類も、すべてはインデアンたちの物になった。せめて故里に持ち帰りたいと思っていた重右衛門の日記、遺言、そしてあの鳩笛や涎《よだれ》かけさえも、三人の手には戻《もど》らなかった。
浜に傾く無残な宝順丸を見た音吉は、ふっと視線を外らした。目と鼻の先に、三人の打ち上げられたオゼット島が、この集落を波と風から守るように立ちはだかっており、右手にはオゼット島に直角に、やや離れてケロンボール島とボデルダ島が並んでいた。これらの小島に抱かれたこの集落の海は、ふだんは岸を洗う波さえない。平和な美しい海だ。ケロンボール島の向こう、はるか彼方にうっすらとかすむバンクーバー島を見ると、音吉は鈴鹿山脈を何となく思い出す。起伏《きふく》が似ているのだ。
はっと我に帰って、音吉は薪《まき》を腕の中に抱えた。オルダーと呼ばれるこの薪は、はぜることのない柔らかい薪だ。二人は薪を抱えて家に向かった。十二月も末だというのに、小野浦よりも暖かいのだ。この暖かいフラッタリー岬は、樺太《からふと》と同じ緯度であるが、むろん二人は知る筈《はず》もない。ましてその暖かさが、黒潮の影響であることも、誰一人知る者はなかった。
「わかった!」
入り口に入ろうとして、突如《とつじよ》久吉が言った。
「わかった? 何がわかったんや」
「ピーコーのことや」
「…………」
「あれはな、別鍋《べつなべ》や」
久吉がにやりとした。
「別鍋?」
口に出してから、音吉は顔がほてった。小野浦にいた時、久吉が言ったことがあった。女には月の障りがある。その時は別鍋で食事をするのだと。あの時久吉は、家族と共に食事をしない琴のことを、そう言って教えてくれた。不意に、耐えがたいほどに音吉は琴が恋しくなった。
部屋に入った二人は驚いた。ピーコーの入った小部屋から、子供たちの愛らしい歌声が聞こえて来たからだ。
「何だ、別鍋ではないのか」
久吉は戸惑った顔をした。子供たちは声を張り上げて一心に歌っている。一つの歌が終わると、また始まる。
二人は炉端《ろばた》に薪《まき》を積んでから、また外に出た。
「別鍋ともちがうようだな」
「さあてな」
一日分の薪《まき》を、二人は幾度も運んで四つの炉端に並べなければならない。その薪運びが終わっても、子供たちは歌いつづけていた。
薪運びの終わった二人は、水|汲《く》みにかかった。水はこの家から四丁も離れた小川から汲んでくる。沢水の流れ落ちる所は少しくぼんでいて、皮袋で汲むのに、汲みやすい深さになっていた。水は鹿の皮袋で汲むのだ。そこを往復するのは大変だが、遠いことは二人にとってうれしいことであった。二人で心おきなく話しながら歩けるからだ。裏山の広葉樹はすっかり落葉し、針葉樹の緑がくろぐろと繁っている。水汲みへ行く途中の山際に、重右衛門たちの埋葬された所がある。太いニレの木が枝を張る下だ。二人はそこに来ると手を合わせる。
(守っててくれな、兄さ)
死んだら守ってやると言った吉治郎の言葉を、音吉は忘れない。あの激浪《げきろう》の中を、三人が無事に辿《たど》り着くことのできたのは、やはり兄が守ってくれたからだと、音吉は律義《りちぎ》に信じている。
(それに、船玉《ふなだま》さまも守ってくれたのだ)
船玉さまと、琴がいつも音吉の胸の中で一つになってしまう。
「あ! 鹿や!」
久吉が叫んだ。この辺《あた》りの山には鹿が多い。人間を見ても鹿はほとんど恐れない。鹿は首を伸ばして小川の水を飲んでいる。が、二人が近づいて行くと、ゆっくりと山の小道を登って行った。二人は何となく顔を見合わせて、くすりと笑う。二人が同時に笑うことなど、滅多にない。朝から晩まで、緊張の仕通しなのだ。アー・ダンクが、不意に理由もなく鞭《むち》をふるうことがあるからだ。鞭で打たれると、音吉は自分が牛か馬になったような淋《さび》しさを覚える。なぜ打たれるか、わからないのだ。アー・ダンクは主人の弟だった。が、主人とは顔も気性《きしよう》もちがう。二人は、アー・ダンクを「蝮《まむし》」と蔭《かげ》で呼んでいた。
二人は鹿の去った水べに行って水を汲《く》んだ。水は澄んでいるのだが、底の土が赤錆色《あかさびいろ》だ。その赤い水底を見ると、いかにも異国に来ている感じがする。二人は水を汲み、うしろと前に皮袋を吊《つ》った天秤棒《てんびんぼう》を担《かつ》いだ。この天秤棒は岩松が造ってくれたものなのだ。初めは、両手にじかに下げていた。それはひどく重かった。が、天秤棒で担ぐと、それほど重さを感じない。二人は腰で拍子《ひようし》を取りながら、今来た藪中《やぶなか》の小道を戻って行く。久吉が先で、音吉が後だ。
と、行く手に女の姿が見えた。すらりとしたその姿形で、それが誰か、二人にはすぐにわかった。
「蝮のご新造や」
前を行く久吉が低い声でいう。アー・ダンクの妻は、ゆっくりと小道を歩いてくる。この女が、急いだり、大声を立てたりしているのを、二人はまだ一度も見たことがない。どこかもの憂《う》げなのだが、いつもその唇《くちびる》に微笑を絶やさない。ぽっかりとひらかれた目が、いつも昼寝からさめたような感じなのだ。
「好きやな、あの人」
久吉が言う。
「うん、好きやな」
二人は立ちどまって、道の際に少し体を寄せた。近づいたアー・ダンクの妻は、何か洗濯物《せんたくもの》を胸に抱えていたが、二人を見るとニコッと笑った。久吉はその微笑に応《こた》えたが、音吉はじっと目を伏せて、すれちがうのを待っていた。が、アー・ダンクの妻は音吉の傍《そば》に立ちどまり、何か言った。音吉は仕方なく、顔を上げてアー・ダンクの妻の顔を見た。目が近々と笑っていた。音吉は黙って頭を下げた。何かわからないが、ねぎらいの言葉ではないかと思ったからだ。
アー・ダンクの妻が通り過ぎて行くと久吉が言った。
「あのご新造、何て言うたやろ。な、音吉」
「何や知らんが、ご苦労さんと言うたんやないか」
「そうやないかも知れせんで。いい男やな、と言うたんとちがうか」
久吉がからかった。
「そんなこと言わん、あの人」
音吉はまじめに答えた。どこかで鳥の声がする。
「何の鳥かな」
久吉が木々の梢《こずえ》に目を上げた。
「百舌鳥《もず》に似た声やな」
言いながら音吉は胸が痛んだ。百舌鳥の啼《な》いていた小野浦の山々が、鮮やかに目に浮かぶのだ。
「な、久吉、俺たち一生ここに住まんならんのかな」
「そうかも知れせんな。宝順丸のような大きな船もないし……大きな船があっても、無事に小野浦に帰って行ける筈もないし……」
余りにも長い漂流に、久吉も帰国の手だてはないと、とうに諦《あきら》めていた。
「帰れんのかあ」
二人は藪中《やぶなか》を通って砂浜に出た。白い砂浜だ。二人を捕らえた家は、ずらりと並んだ家々の真ん中あたりにある。二人は並んで歩きながら、
「音、俺たちでも、ここの親分の娘をもらうことはできるんやで」
「…………」
「どうもそうらしいわ。俺、ピーコーをもらうかな」
久吉は楽天的だ。時折《ときおり》、鞭《むち》は飛んでも、マカハ族にはまだ、奴隷《どれい》に対する際立った差別はなかった。奴隷と、他の者の仕事の区別もなかった。魚を漁《と》る時には共に漁り、薪《まき》を挽《ひ》く時には共に挽く。結婚もまた、久吉が素早く見て取ったように、奴隷と主人の娘との結婚も許されていた。また女奴隷を主人の息子が娶《めと》る例も少なくない。同じ部族の若者同士の結婚にしても、余り窮屈なことはなかった。たとえ親が反対しても、一、二か月、若い二人が森の中に隠れ住み、やがて出て来た時には、それほどの摩擦もなく結婚が許される。酋長《しゆうちよう》は一夫多妻だが、他の者たちは一夫一婦であった。音吉たちが捕らえられた家の主人は、どうやらこの辺《あた》りの酋長であるらしく、三人の妻を同じ家の中に持っていた。
音吉と久吉は、水を家の中の水桶《みずおけ》に入れた。入れながら二人は顔を見合わせた。まだ子供たちの歌が絶えないからだ。朝からもう一|刻《とき》(二時間)も過ぎているのだ。歌はピーコーの小部屋から聞こえてくる。くたびれ切ったような子供たちの歌声だった。と、他の者たちが歌い出した。やや元気な歌声だ。二人は再び水|汲《く》みに行くために外に出た。
「何や! うたいつづけやな」
外に出るなり久吉が言った。
「ほんとや。無理矢理うたわされているみたいやな」
音吉は家の中に岩松の姿がなかったと思いながら言った。
「何であんなにうたうんやろな、音」
「わからんな。小野浦ではあんなことあらせんもな」
冬の太陽が白い。二人は、まだ肌《はだ》に馴《な》れない杉の皮で織った着物を着、裸足《はだし》で歩いて行く。小野浦でも裸足で遊びまわっていたものだが、ちびた草履《ぞうり》でも自分の草履があった。ここでは、遠出をする時に履《は》く靴《くつ》がある。鮭《さけ》の皮で造った靴だ。鮭の皮は薄いが、意外に強かった。二人にはそんな靴は与えられていない。
「もうじき、また正月やな」
音吉は、雲間を縫う白い太陽を見上げながら、淋《さび》しい声を出した。
「ほんとやなあ。今年の正月は海の上やったもなあ」
「うん……」
宝順丸で祝った雑煮《ぞうに》を音吉は思い出した。炊頭《かしきがしら》の勝五郎が、米の飯《めし》を練って餠《もち》のようにしたのだ。赤子の掌ほどもない干し魚が、尾頭《おかしら》代わりに出た。
(あの正月の膳《ぜん》に向かって……兄さは泣いたんだ)
何で泣くと聞く音吉に、これが最後の正月だと言って吉治郎は泣いた。そして間もなく死んでいった。
(兄さが死んで一年になる)
(十一人、みんな死んでしもうた)
久吉がむっつりと音吉の後について来る。久吉も何か考えているのだと、音吉は久吉をふり返った。と、久吉が立ちどまって空を仰いだ。
「なあ、音、あのおてんとさまと、小野浦のおてんとさまと、同じおてんとさまやろか」
「そうやろな。おてんとさまが世界に二つあると聞いたことないでな」
言いながらも、音吉にも自信がない。日本の太陽が日本にだけ照り、この国の太陽は、この辺《あた》りにだけ照るような気もする。
「音! したら、あのおてんとさまは、小野浦にも照るんやな」
「そうかも知れせんな」
「したら、あのおてんとさま、父《と》っさまも母《かか》さまも見ているんやな」
「うん、そうやな。きっとそうやな」
音吉はたまらなくなった。こんなに遠い国で見る太陽が、小野浦で見る太陽と一つだとしたら……思っただけでも胸がつまるのだ。
(父っさまも母さまも、おさとも、お琴も……)
二人は黙って歩き出した。早足で二人は歩いた。藪原《やぶはら》は二人の胸ほどの高さだ。その藪原の中に、今また鹿が迷いこんでいた。
「音、この裏山には、熊もいるんやもなあ」
「うん」
酋長《しゆうちよう》は熊の皮を敷いている。
「よう出てこんな」
「今は冬やからな。眠ってるんやろう」
「ふーん、熊は冬眠るんか。冬の間中眠るんか」
「そうや、いつか舵取《かじと》りさんがそんなこと言うてたで」
岩松は二人とちがって世の中を多く見ている。蝦夷《えぞ》で熊の足跡を見たことがあるとも言っていた。
「じゃあ冬の間は、里には下りてこんな」
「うん、大丈夫や」
二人は山裾《やますそ》の藪中《やぶなか》を出て、沢水の落ちる傍《かたわ》らに近寄って行った。と、音吉ははっと立ちどまった。何気なく目をやった森の中に、男と女の姿を見たからだ。男は岩松であり、女はアー・ダンクの妻であった。
「何や、舵取りさんや」
気づいて久吉も声をひそめた。