(一体いつになったら歌いやむんやろ)
音吉は寝床の中でつぶやいた。夜も深まって、誰もがもう床の中に横たわっている。百五十畳ほどあるこの大きな家《や》ぬちには、魚油の灯を二つだけ残して、あとは消されてしまった。が、部屋|隅《すみ》に仕切られた一画からは、依然として歌声は絶えない。
(ひる前から歌いつづけやもな)
音吉は寝台から、歌声のする方を見下ろした。音吉たちの寝台は三段になっていて、音吉が一番上で、二番目は久吉だ。奴隷《どれい》以外は段にはなっていない。
酋長《しゆうちよう》の娘ピーコーが、急造のしきりの中に入るや否や、子供たちは歌いはじめたのだ。それが、人の寝しずまったあともつづいている。
(いったいどうしたんやろ)
言葉の通じぬ音吉たちには、何が始まったのかわからない。いくら何でも夜になったら歌いやむと思っていたのに、子供たちは交替で歌いつづけているのだ。
(ピーコーもうるさいやろな)
ピーコーはよく笑う少女だ。その度に笑くぼが大きく頬《ほお》に浮かぶ。
(子供たちも、くたびれたやろな)
この集落には、幼い子供たちがたくさんいる。今歌っているのは、三、四人の声だ。先刻まで歌っていた子供たちと、交替したばかりだ。この子たちが疲れると、又他の組が代わるのだろう。
いつもなら、この時刻には、部屋のあちこちから異様な息づかいが聞こえてくる。どの夫婦もみな、厚い幕をおろして寝るのだが、その幕を通して、荒々とした息づかいが洩《も》れるのだ。
はじめの頃《ころ》、音吉は、裏山からけものが降りて来て、家のまわりをうろついているのかと思った。犬と山羊《やぎ》がうなり合っているのかも知れぬとも考えて、久吉に尋《たず》ねたことがある。
「なあ、久吉、夜うなってるの、何やろ、まさか熊やないし、何のけものやろ」
「けもの?」
「うん、山羊やろか、犬やろか」
「ばかやな、音」
「何で?」
「何でって、お前、あれはメスとオスやがな」
「何のメスとオスや」
「人間に決まっとるやないか」
「人間が? 人間が何であんなにうなるんや」
「何や、お前、本当に初心《うぶ》な男やな。あれはな、男と女やで。夫婦やで」
「夫婦?」
「そうや、舵取《かじと》りさんに聞いてみな」
赤くなった音吉を久吉は笑ったが、
「しかしな、舵取《かじと》りさんは偉いで、毎晩よう寝とるわ。血も騒がせんと」
真顔になって言っていた。
音吉はそのことを思い出し、今日森の中に見た岩松とアー・ダンクの妻ヘイ・アイブ(鳩の意)の姿を思った。岩松とヘイ・アイブは、じっと向かい合って身うごきもしなかった。二人の間は、一寸と離れていないように見えた。音吉と久吉は息をつめてみつめていた。見てはならないと思っても、目を外《そ》らすことができなかった。
と、ヘイ・アイブの片手がゆらりと動いて岩松の肩に置かれた。瞬間、岩松は一歩退き、すばやく山の小径を降りてきた。音吉と久吉は思わず木かげに身を寄せた。岩松の手には、先刻女の持っていた洗濯物《せんたくもの》があった。岩松は川下に向かって大股《おおまた》で歩いて行った。マカハ族では、洗濯や衣服の仕立て、つくろいは男の仕事だった。
二人はヘイ・アイブが、ゆっくりと傍らを過ぎて行くのを待って水|汲《く》みをはじめた。
「驚いたな」
久吉がささやいた。
「うん」
音吉は不安だった。あのヘイ・アイブの夫アー・ダンクは、蝮《まむし》のような男なのだ。言葉の通じぬことにいらだって、ともすれば、音吉たち三人に鞭《むち》を振るう。
「きっと、あの女は舵取りさんに惚《ほ》れたんやな」
鹿皮の袋に水を汲みながら久吉はにやにやした。
「さあ」
「舵取《かじと》りさんもあの女に惚れたんやな」
「まさか」
音吉は、岩松の妻絹の姿を思って、頭を横に振った。
「な、音、蝮の奴《やつ》に知れたら大変やで」
久吉は一層声をひそめて言った。
そのことを思い出しながら、音吉はいま不安に襲われた。
岩松はあの女の前から逃げたのだ。決して自分から近づいたわけではない。だから、岩松には罪がないと音吉は考える。だが、なぜ岩松とヘイ・アイブがあの森の中に二人っきりでいたのだろう。岩松が柴を集めに行ったのを、ヘイ・アイブは知って山まで洗濯物《せんたくもの》を持っていったのか。
音吉は、子供たちの歌声を聞きながらさまざまに考える。
(舵取りさんも大変やな)
あの熱田の港で、一度見たっきりの絹の美しい姿を音吉は忘れてはいない。二度と日本に帰れぬとしたら、岩松と絹とはあれが一生の別れだったのだと改めてしみじみと音吉は思う。
ふっと思いは、小野浦に飛ぶ。目をつむれば、家の中の畳の破れや、黄色くなった障子《しようじ》がありありと目に浮かぶ。父が口を半開きにして寝ている顔や、行灯《あんどん》の傍《そば》でつくろい物をしている母親の横顔が、たまらないほどなつかしい。
「兄さ」
と呼ぶさとの愛らしい声も耳に聞こえるようだ。
(お琴も正月が来たら十六になる)
十六になったら、誰かの嫁になるにちがいないと、音吉は胸がしめつけられる思いだ。
(おれは、ここに生きておるのに)
音吉は吐息をついた。自分たちはとうに死んだと、父母も琴も思っているにちがいない。
(お琴! 嫁になるのか!)
あきらめていたつもりの琴への想いが、噴きだして来そうであった。
「お琴!」
音吉はそっと口に出して呼んでみた。
(誰の嫁にもなるな、お琴!)
必ず何とかして帰るからと、出来ないことを音吉は思った。
歌声が少し低くなった。また疲れてきたのだ。音吉はそっと寝返りを打った。岩松が手すりをつけてくれたから下に落ちることはない。が、それでも落ちそうな気がして、音吉は気をつけるのだ。
板壁に向くと、音吉はねむろうと思った。が歌声が耳について眠れない。ふいに、音吉は琴の小さな乳房を思い出した。千石船《せんごくぶね》が小野浦の沖についた日だった。子供たちは、みな真っ裸になって、船をめがけて泳いで行った。千石船では、握り飯を食わせてくれる。それが楽しみだったのだ。
泳ぎついた子供たちが、水主《かこ》部屋で握り飯を食べていた時だった。のっそりと水主部屋に入ってきた男がいた。男は子供たちをじろりと見、すぐ傍《そば》にいた琴のふくらみかけた乳房を荒々しくつかんだのだ。
(あれが、舵取《かじと》りさんやったんやもな)
音吉には信じられない。あの時の岩松と、その後一年二か月漂流を共にした岩松とは重ならない。あれは別の男だったと思う。だが、思い出すと、岩松がいやな男に思われてくる。
(そうか、それや)
音吉は、今日森の中に見た岩松とヘイ・アイブの姿を再び思った。あの二人が近々と向かい合って立っているのを見た時、音吉はなぜかふっと琴を思い出した。なぜ思い出したのか、それが今やっと、音吉にもわかったような気がした。
(舵取りさんも、血が騒ぐんやな)
音吉はそう思った。
子供たちの歌声が次第に遠くなった。音吉は、いつしか眠りに落ちて行った。
音吉は寝床の中でつぶやいた。夜も深まって、誰もがもう床の中に横たわっている。百五十畳ほどあるこの大きな家《や》ぬちには、魚油の灯を二つだけ残して、あとは消されてしまった。が、部屋|隅《すみ》に仕切られた一画からは、依然として歌声は絶えない。
(ひる前から歌いつづけやもな)
音吉は寝台から、歌声のする方を見下ろした。音吉たちの寝台は三段になっていて、音吉が一番上で、二番目は久吉だ。奴隷《どれい》以外は段にはなっていない。
酋長《しゆうちよう》の娘ピーコーが、急造のしきりの中に入るや否や、子供たちは歌いはじめたのだ。それが、人の寝しずまったあともつづいている。
(いったいどうしたんやろ)
言葉の通じぬ音吉たちには、何が始まったのかわからない。いくら何でも夜になったら歌いやむと思っていたのに、子供たちは交替で歌いつづけているのだ。
(ピーコーもうるさいやろな)
ピーコーはよく笑う少女だ。その度に笑くぼが大きく頬《ほお》に浮かぶ。
(子供たちも、くたびれたやろな)
この集落には、幼い子供たちがたくさんいる。今歌っているのは、三、四人の声だ。先刻まで歌っていた子供たちと、交替したばかりだ。この子たちが疲れると、又他の組が代わるのだろう。
いつもなら、この時刻には、部屋のあちこちから異様な息づかいが聞こえてくる。どの夫婦もみな、厚い幕をおろして寝るのだが、その幕を通して、荒々とした息づかいが洩《も》れるのだ。
はじめの頃《ころ》、音吉は、裏山からけものが降りて来て、家のまわりをうろついているのかと思った。犬と山羊《やぎ》がうなり合っているのかも知れぬとも考えて、久吉に尋《たず》ねたことがある。
「なあ、久吉、夜うなってるの、何やろ、まさか熊やないし、何のけものやろ」
「けもの?」
「うん、山羊やろか、犬やろか」
「ばかやな、音」
「何で?」
「何でって、お前、あれはメスとオスやがな」
「何のメスとオスや」
「人間に決まっとるやないか」
「人間が? 人間が何であんなにうなるんや」
「何や、お前、本当に初心《うぶ》な男やな。あれはな、男と女やで。夫婦やで」
「夫婦?」
「そうや、舵取《かじと》りさんに聞いてみな」
赤くなった音吉を久吉は笑ったが、
「しかしな、舵取《かじと》りさんは偉いで、毎晩よう寝とるわ。血も騒がせんと」
真顔になって言っていた。
音吉はそのことを思い出し、今日森の中に見た岩松とアー・ダンクの妻ヘイ・アイブ(鳩の意)の姿を思った。岩松とヘイ・アイブは、じっと向かい合って身うごきもしなかった。二人の間は、一寸と離れていないように見えた。音吉と久吉は息をつめてみつめていた。見てはならないと思っても、目を外《そ》らすことができなかった。
と、ヘイ・アイブの片手がゆらりと動いて岩松の肩に置かれた。瞬間、岩松は一歩退き、すばやく山の小径を降りてきた。音吉と久吉は思わず木かげに身を寄せた。岩松の手には、先刻女の持っていた洗濯物《せんたくもの》があった。岩松は川下に向かって大股《おおまた》で歩いて行った。マカハ族では、洗濯や衣服の仕立て、つくろいは男の仕事だった。
二人はヘイ・アイブが、ゆっくりと傍らを過ぎて行くのを待って水|汲《く》みをはじめた。
「驚いたな」
久吉がささやいた。
「うん」
音吉は不安だった。あのヘイ・アイブの夫アー・ダンクは、蝮《まむし》のような男なのだ。言葉の通じぬことにいらだって、ともすれば、音吉たち三人に鞭《むち》を振るう。
「きっと、あの女は舵取りさんに惚《ほ》れたんやな」
鹿皮の袋に水を汲みながら久吉はにやにやした。
「さあ」
「舵取《かじと》りさんもあの女に惚れたんやな」
「まさか」
音吉は、岩松の妻絹の姿を思って、頭を横に振った。
「な、音、蝮の奴《やつ》に知れたら大変やで」
久吉は一層声をひそめて言った。
そのことを思い出しながら、音吉はいま不安に襲われた。
岩松はあの女の前から逃げたのだ。決して自分から近づいたわけではない。だから、岩松には罪がないと音吉は考える。だが、なぜ岩松とヘイ・アイブがあの森の中に二人っきりでいたのだろう。岩松が柴を集めに行ったのを、ヘイ・アイブは知って山まで洗濯物《せんたくもの》を持っていったのか。
音吉は、子供たちの歌声を聞きながらさまざまに考える。
(舵取りさんも大変やな)
あの熱田の港で、一度見たっきりの絹の美しい姿を音吉は忘れてはいない。二度と日本に帰れぬとしたら、岩松と絹とはあれが一生の別れだったのだと改めてしみじみと音吉は思う。
ふっと思いは、小野浦に飛ぶ。目をつむれば、家の中の畳の破れや、黄色くなった障子《しようじ》がありありと目に浮かぶ。父が口を半開きにして寝ている顔や、行灯《あんどん》の傍《そば》でつくろい物をしている母親の横顔が、たまらないほどなつかしい。
「兄さ」
と呼ぶさとの愛らしい声も耳に聞こえるようだ。
(お琴も正月が来たら十六になる)
十六になったら、誰かの嫁になるにちがいないと、音吉は胸がしめつけられる思いだ。
(おれは、ここに生きておるのに)
音吉は吐息をついた。自分たちはとうに死んだと、父母も琴も思っているにちがいない。
(お琴! 嫁になるのか!)
あきらめていたつもりの琴への想いが、噴きだして来そうであった。
「お琴!」
音吉はそっと口に出して呼んでみた。
(誰の嫁にもなるな、お琴!)
必ず何とかして帰るからと、出来ないことを音吉は思った。
歌声が少し低くなった。また疲れてきたのだ。音吉はそっと寝返りを打った。岩松が手すりをつけてくれたから下に落ちることはない。が、それでも落ちそうな気がして、音吉は気をつけるのだ。
板壁に向くと、音吉はねむろうと思った。が歌声が耳について眠れない。ふいに、音吉は琴の小さな乳房を思い出した。千石船《せんごくぶね》が小野浦の沖についた日だった。子供たちは、みな真っ裸になって、船をめがけて泳いで行った。千石船では、握り飯を食わせてくれる。それが楽しみだったのだ。
泳ぎついた子供たちが、水主《かこ》部屋で握り飯を食べていた時だった。のっそりと水主部屋に入ってきた男がいた。男は子供たちをじろりと見、すぐ傍《そば》にいた琴のふくらみかけた乳房を荒々しくつかんだのだ。
(あれが、舵取《かじと》りさんやったんやもな)
音吉には信じられない。あの時の岩松と、その後一年二か月漂流を共にした岩松とは重ならない。あれは別の男だったと思う。だが、思い出すと、岩松がいやな男に思われてくる。
(そうか、それや)
音吉は、今日森の中に見た岩松とヘイ・アイブの姿を再び思った。あの二人が近々と向かい合って立っているのを見た時、音吉はなぜかふっと琴を思い出した。なぜ思い出したのか、それが今やっと、音吉にもわかったような気がした。
(舵取りさんも、血が騒ぐんやな)
音吉はそう思った。
子供たちの歌声が次第に遠くなった。音吉は、いつしか眠りに落ちて行った。