岩松たち三人は、マクラフリン博士の食前の祈りの間、神妙《しんみよう》にうつむいていた。今夜はフォート・バンクーバーでの最後の晩餐《ばんさん》である。三人は、グリーン夫妻と共に、マクラフリン博士に招待されたのだ。顔見知りの軍人や、今回イーグル号でフォート・バンクーバーに来た士官も、数人席につらなっていた。
音吉は、トランクに荷を詰めながら久吉が言っていた言葉を思い出していた。
「船に乗ったら、サンデーのスクールもチャーチもないやろ。そう思うとスーッとするわ」
久吉はそう言ったのだ。
(ほんとやな。久吉の言うとおりや)
音吉は今、そう思っていた。キリシタンのことを学ばなくなれば、それだけ心の荷が軽くなる。船に乗ることは、それだけでも喜ばしいことだった。しかも船は、一日走れば一日故里に近づく。フォート・バンクーバーにじっとしていては、近づきようはないのだ。
(舵取《かじと》りさんは浮かん顔をしていたけど、とにかく帰れるのや)
博士の祈りが終わり、いつしか食事が始まっていた。初めてこの広間で食事をした日のことを音吉は思った。あの時、皿の両側にピカピカ光るフォークやスプーンやナイフがずらりと並んでいるのを見て、驚いたものだった。
(日本では一ぜんの箸《はし》だけで、魚でも味噌汁《みそしる》でも食うことができるのに……)
最初の頃《ころ》はつくづくそう思った。料理が変わるごとに、スプーンを使ったり、フォークを使ったりした。フォークを左手に持って肉を切ることなど、日本では決してしなかった。それにスプーンやフォークは使うのに順序があった。何もかもわからないことばかりだった。それが、半年経つうちにすっかり馴《な》れた。
(半年もいたんやなあ)
改めてしみじみと音吉は思う。
(ここには蝮《まむし》のようなアー・ダンクはおらなんだし、舵取《かじと》りさんと仲よくなる女もおらなんだし……)
穏やかな日々であったと音吉は思う。久吉は時々夜中に大声で、
「あーっ!」
と、うなされることがあった。
「どうしたんや!?」
と、揺り起こすと、
「ああ、夢か。蝮の鞭《むち》がびゅんびゅんと鳴りながら追いかけて来てよ」
と、その度に言ったものだった。しかしアー・ダンクのような男は、ここにはいなかった。
(みんなに大事にされたんやなあ)
音吉は思いながら、スープを飲み終えた。音を立てずにスープを飲むことも、すっかり身についていた。マクラフリンはイーグル号の士官たちと何かしきりに語っていた。それはどうやら自分たち三人のことらしかった。時々同意を求めるように、博士は三人のほうを向いて、
「ね、それでいいだろう」
とか、
「そういう希望だったね」
と言ったが、船長や士官との会話はひどく早口で、聞きとり難かった。
「なあ、音。とにかく帰れるんや。よかったなあ」
食事が終わった時、久吉がつくづくと言った。と、そこに、大きな地球儀が運ばれて来た。マクラフリン博士は、
「イワ、キュウ、オト」
と三人に呼びかけ、
「ここがフォート・バンクーバー。ここがコロンビア河。ここが太平洋」
と、ゆっくりと言った。三人は一抱えもある大きな地球儀をみつめながらうなずいた。マクラフリン博士の、金色の毛の生えている指は、太平洋を徐々に移動しながら、地球儀を静かにまわした。そして、
「ここが日本」
と言った。三人は大きくうなずいた。既《すで》に地球儀は幾度か見せてもらっている。
(とにかく、この大海を渡って、日本に帰るんや)
音吉は喜びをおさえかねた。
「しかしね、イーグル号は先ずここに寄る」
博士はサンドイッチ諸島(ハワイ諸島)を指さした。三人はうなずいた。そこに寄ってそれから日本に行くのだと思った。が、博士の指はそこから南アメリカの先端ホーン岬をまわり、大西洋のほうに逆|戻《もど》りして行った。
(どこへ行くんやろ?)
訝かる三人にまなざしを向けて博士は小さな島を指さした。
「ここがイギリス。ロンドンに寄ります。そして、南アフリカの喜望峰《きぼうほう》を回って、マカオに寄り、それから日本へ行くのです。一年以上はかかるでしょう」
三人は顔を見合わせた。
「何で真っすぐに日本へ行かんのや」
がっかりしたように久吉が言った。説明が終わると、みんなはオルガンに合わせて歌をうたい始めた。今朝《けさ》、学校で生徒たちがうたってくれた「神共にいまして」の歌であった。
音吉は、トランクに荷を詰めながら久吉が言っていた言葉を思い出していた。
「船に乗ったら、サンデーのスクールもチャーチもないやろ。そう思うとスーッとするわ」
久吉はそう言ったのだ。
(ほんとやな。久吉の言うとおりや)
音吉は今、そう思っていた。キリシタンのことを学ばなくなれば、それだけ心の荷が軽くなる。船に乗ることは、それだけでも喜ばしいことだった。しかも船は、一日走れば一日故里に近づく。フォート・バンクーバーにじっとしていては、近づきようはないのだ。
(舵取《かじと》りさんは浮かん顔をしていたけど、とにかく帰れるのや)
博士の祈りが終わり、いつしか食事が始まっていた。初めてこの広間で食事をした日のことを音吉は思った。あの時、皿の両側にピカピカ光るフォークやスプーンやナイフがずらりと並んでいるのを見て、驚いたものだった。
(日本では一ぜんの箸《はし》だけで、魚でも味噌汁《みそしる》でも食うことができるのに……)
最初の頃《ころ》はつくづくそう思った。料理が変わるごとに、スプーンを使ったり、フォークを使ったりした。フォークを左手に持って肉を切ることなど、日本では決してしなかった。それにスプーンやフォークは使うのに順序があった。何もかもわからないことばかりだった。それが、半年経つうちにすっかり馴《な》れた。
(半年もいたんやなあ)
改めてしみじみと音吉は思う。
(ここには蝮《まむし》のようなアー・ダンクはおらなんだし、舵取《かじと》りさんと仲よくなる女もおらなんだし……)
穏やかな日々であったと音吉は思う。久吉は時々夜中に大声で、
「あーっ!」
と、うなされることがあった。
「どうしたんや!?」
と、揺り起こすと、
「ああ、夢か。蝮の鞭《むち》がびゅんびゅんと鳴りながら追いかけて来てよ」
と、その度に言ったものだった。しかしアー・ダンクのような男は、ここにはいなかった。
(みんなに大事にされたんやなあ)
音吉は思いながら、スープを飲み終えた。音を立てずにスープを飲むことも、すっかり身についていた。マクラフリンはイーグル号の士官たちと何かしきりに語っていた。それはどうやら自分たち三人のことらしかった。時々同意を求めるように、博士は三人のほうを向いて、
「ね、それでいいだろう」
とか、
「そういう希望だったね」
と言ったが、船長や士官との会話はひどく早口で、聞きとり難かった。
「なあ、音。とにかく帰れるんや。よかったなあ」
食事が終わった時、久吉がつくづくと言った。と、そこに、大きな地球儀が運ばれて来た。マクラフリン博士は、
「イワ、キュウ、オト」
と三人に呼びかけ、
「ここがフォート・バンクーバー。ここがコロンビア河。ここが太平洋」
と、ゆっくりと言った。三人は一抱えもある大きな地球儀をみつめながらうなずいた。マクラフリン博士の、金色の毛の生えている指は、太平洋を徐々に移動しながら、地球儀を静かにまわした。そして、
「ここが日本」
と言った。三人は大きくうなずいた。既《すで》に地球儀は幾度か見せてもらっている。
(とにかく、この大海を渡って、日本に帰るんや)
音吉は喜びをおさえかねた。
「しかしね、イーグル号は先ずここに寄る」
博士はサンドイッチ諸島(ハワイ諸島)を指さした。三人はうなずいた。そこに寄ってそれから日本に行くのだと思った。が、博士の指はそこから南アメリカの先端ホーン岬をまわり、大西洋のほうに逆|戻《もど》りして行った。
(どこへ行くんやろ?)
訝かる三人にまなざしを向けて博士は小さな島を指さした。
「ここがイギリス。ロンドンに寄ります。そして、南アフリカの喜望峰《きぼうほう》を回って、マカオに寄り、それから日本へ行くのです。一年以上はかかるでしょう」
三人は顔を見合わせた。
「何で真っすぐに日本へ行かんのや」
がっかりしたように久吉が言った。説明が終わると、みんなはオルガンに合わせて歌をうたい始めた。今朝《けさ》、学校で生徒たちがうたってくれた「神共にいまして」の歌であった。