一
「カーン カーン カーン カーン……」
船首甲板《フオクスルデツキ》で、時鐘《じしよう》が鳴った。舷側《げんそく》にもたれて立っていた音吉と久吉は何となく顔を見合わせた。今朝《けさ》、フォート・バンクーバーを出てから、時鐘を幾度か聞いた。今朝初めて聞いた時、二人はその大きな音に驚いたものだが、今は少し馴《な》れた。霧を含んだ風が頬《ほお》をなでる。風はかすかだが、三本マストから出ている無数のロープが絶えず軋《きし》んでいる。
「憎い霧やったなあ」
久吉の言葉に、音吉も、
「ほんとや。フォート・バンクーバーとゆっくり別れを惜しむこともできんかったわ」
と、笑った。それでも今朝は、昨日より霧がうすかった。今、広いコロンビア河の両岸が、霧の中におぼろに見える。
「晴れていたら、あの富士山によう似《に》たマウント・レイニアが見える筈《はず》やのになあ」
「そうやな。けど、今度こそ本当の富士山が見れるんや。ほんもののな」
「そうや。ほんものの富士山が見えるんや。ま、半年も、一年も先のことになるかも知れせんけどな」
「けどなあ、久吉。俺、つくづく思うんやがな。フォート・バンクーバーでは、ほんとにみんなに親切にされたな」
「そうやな。ブレッド焼きのおっさんもええ男やったし、ドクター・マクラフリンもほんとにやさしかった」
「俺たち、小野浦にいた時は、フォート・バンクーバーがあるなんて、思いもせんかったわな。あの海の向こうに、あんな国があって、親切な人がいるなんて、夢にも思わんかったわな」
「思わん、思わん。俺たちの思うことは、父《と》っさまに叱《しか》られんようにとか、隣近所に笑われんようにとか、せいぜいそんなことやった」
「俺もそうや。海の向こうはおろか、隣村のことも、よう考えたことがあらせん」
「だがな音、俺は隣村のことやったら、考えたで。ほら、若い衆が揃《そろ》って、よその村に夜這《よば》いに行ったやろ」
久吉は屈託《くつたく》なく笑った。
「また冗談言って……。なあ、久吉。俺な、今さっき思っていたんやが、よう考えてみると、フラッタリー岬でも、せわになったわな」
「せわになった? そうかな。牛馬みたいに、蝮《まむし》の奴《やつ》に鞭《むち》で殴《なぐ》られたやないか」
「殴られてもなあ久吉、やっぱり人間同士や。飯《めし》も食わせてくれたし、寝る所もつくってくれた。着る物だって、一枚っきりでも、とにかくもろうたでな。これが獣やったら、ああはいかんで。熊や猪《いのしし》ではな。人間同士は、やっぱりありがたいもんや」
音吉は本当にそう思っていた。今、河口に向かって進んで行く軍艦イーグル号の中央|甲板《かんぱん》にあって、音吉はしみじみとそう思っていたのだ。流れる霧に陸地は見えがくれしていたが、とにかく半年住みなれたフォート・バンクーバーを離れた。この地つづきに、北に何百キロか行けばフラッタリー岬がある。そのフラッタリー岬での辛《つら》い生活も、今となっては懐かしく思われてくるのだ。あれが、人間のいない所に打ち上げられたとしたら、果たして三人は生きのびることができたか、どうか。
(人間同士って、ありがたいもんやな)
音吉はしみじみそう思った。蝮《まむし》と綽名《あだな》したアー・ダンクでさえ、今は憎めないような気がした。
「でっかい船やなあ」
「ほんとにでっかい船や」
二人の背後を、水兵たちが絶えず行き来している。艦長の話では、三人が退屈しないように、そのうちにそれぞれの部署に配置するということであった。それぞれの部署と言っても、イーグル号は軍艦である。水兵たちの仲間に入ることはできない。大工か、料理人の手伝いをさせられるにちがいないと、三人は思っていた。
「どんな生活が始まるんやろな」
音吉は改めて三本のマストを見上げた。角帆《かくほ》一枚の千石船《せんごくぶね》とはちがう。それぞれのマストに帆桁《ほげた》が幾本も大きく張り出されている。水兵たちはその、目のくらむような高い帆桁に、綱梯子《つなばしご》を伝って登って行く。どの水兵の尻も、西瓜《すいか》を二つ入れたように、張り切っている。自分たち日本人たちより、実の入ったような体だ。潮焼けした逞《たくま》しいその顔や入れ墨をした腕にくらべると、しばらく陸に上がっていた音吉たちはひどくひ弱《よわ》に見えた。しかし岩松は、船に乗りこんだ途端に言っていた。
「俺はやっぱり、根っからの船乗りやな。何や心が躍《おど》るで」
そう言って、一人どこかに姿を消した。岩松のことだ、恐らくこのイーグル号の艦内を、隅《すみ》から隅まで、その目で確かめようとしているのにちがいない。
「音、俺たちも、船の中を見に行こか」
「そうやなあ。けど、よそさまの船だでな」
「ま、そうやな。大砲がたくさんあって、何や怖《こわ》いわな」
「ほんとや。知った人もあらせんしな」
船の中には、顔見知りはほとんどない。誰も彼も精悍《せいかん》な男ばかりだ。目の鋭い男もいる。鷲《わし》のような鼻の男もいる。グリーンやマクラフリンを見馴《みな》れた目には、荒々しい海の男たちばかりだ。
イーグル号は、大砲を七十四門備えた元三級軍艦であった。それが五十門艦に改装されて、今は四級軍艦である。イギリスの軍艦は、大砲の数によって級が決まっていた。百門以上の大砲を積み三層の砲甲板《ほうかんぱん》を持った軍艦が第一級艦で、九十門から百門までが二級艦であった。イーグル号は四級艦であったが、更《さら》に五級、六級と下があった。六級は二十門から三十門を備えていた。
「エゲレスの船は、大したもんやなあ。船底をぐるりと銅で巻いてあるんやで。音」
「そうやってな。ミスター・グリーンが言ってたわ。船底が海水で腐らんように、虫にも食われんように、銅で巻いたんやってな。けど最初は鉄の釘《くぎ》で打ったで、そこから腐れが出たんやってな」
「ふーん。それは知らんかった。じゃ、今は何の釘や」
「銅の釘や。銅はええもんやな。千石船《せんごくぶね》にも、銅板を使っていたわな」
音吉は懐かしそうに目を細めた。白木に緑青《ろくしよう》の吹いた銅板を取りつけた千石船の船体は美しかった。今、見上げる三本のマストの色は、何《いず》れも茶色がかった黄色だ。
長さ百七十四フィート、幅四十フィートのイーグル号は、二層の砲甲板《ほうかんぱん》から成っていた。大砲を五十門も積んでいるために、水兵たちは、大砲の上に、ハンモックを吊《つ》って寝るのだ、と音吉たちは聞かされた。寝床だけが吊るされているのではない。この船では、テーブルも椅子《いす》も吊り下げるようになっていた。水兵たちは、そこで食事をするという。このイーグル号は、何年か前から就役艦《しゆうえきかん》ではなくなっていた。だが就役指令書が出ると、こうしてアメリカまでも航海することがあった。
「どの順に偉いんか、わからせんな」
二人は高い船尾甲板《コーターデツキ》のほうを見た。千石船で言えば櫓《やぐら》のあるほうである。そこには艦長《キヤプテン》、航海長《マスター》、副航海長《マスターメイト》、海尉《ルフテナント》などが、かたまって何か話し合っていた。
「そのうちにわかるわ、音」
久吉はのんきに言って、
「それはそうと、とうとう船に乗ったでな、もうスクール・チャーチには行かんでもええのや。助かったなあ」
「そうやなあ。もうキリシタンの話は聞かんでもええんやもなあ」
音吉もうなずいた。
「それだけでも、気分がせいせいや。あとは、船が一尺進めば、一尺だけ日本に近づくんや。音、気楽にするとええで」
そう言った時だった。突如《とつじよ》霧が晴れて紺青の海が広がった。
「うわーっ! 海や! 久吉、海や!」
「ほんとや! 海や。しばらくやなあ、海は」
「ほんとにしばらくやなあ」
「生まれてからこのかた、海を見なかった日はなかったのに、もう何か月も海を見んで、過ごしていたわ」
音吉は涙がこぼれそうであった。自分たちの命を脅《おびや》かした海ではあったが、この海のつづきに日本があると思うと、音吉はたまらなかった。
船首甲板《フオクスルデツキ》で、時鐘《じしよう》が鳴った。舷側《げんそく》にもたれて立っていた音吉と久吉は何となく顔を見合わせた。今朝《けさ》、フォート・バンクーバーを出てから、時鐘を幾度か聞いた。今朝初めて聞いた時、二人はその大きな音に驚いたものだが、今は少し馴《な》れた。霧を含んだ風が頬《ほお》をなでる。風はかすかだが、三本マストから出ている無数のロープが絶えず軋《きし》んでいる。
「憎い霧やったなあ」
久吉の言葉に、音吉も、
「ほんとや。フォート・バンクーバーとゆっくり別れを惜しむこともできんかったわ」
と、笑った。それでも今朝は、昨日より霧がうすかった。今、広いコロンビア河の両岸が、霧の中におぼろに見える。
「晴れていたら、あの富士山によう似《に》たマウント・レイニアが見える筈《はず》やのになあ」
「そうやな。けど、今度こそ本当の富士山が見れるんや。ほんもののな」
「そうや。ほんものの富士山が見えるんや。ま、半年も、一年も先のことになるかも知れせんけどな」
「けどなあ、久吉。俺、つくづく思うんやがな。フォート・バンクーバーでは、ほんとにみんなに親切にされたな」
「そうやな。ブレッド焼きのおっさんもええ男やったし、ドクター・マクラフリンもほんとにやさしかった」
「俺たち、小野浦にいた時は、フォート・バンクーバーがあるなんて、思いもせんかったわな。あの海の向こうに、あんな国があって、親切な人がいるなんて、夢にも思わんかったわな」
「思わん、思わん。俺たちの思うことは、父《と》っさまに叱《しか》られんようにとか、隣近所に笑われんようにとか、せいぜいそんなことやった」
「俺もそうや。海の向こうはおろか、隣村のことも、よう考えたことがあらせん」
「だがな音、俺は隣村のことやったら、考えたで。ほら、若い衆が揃《そろ》って、よその村に夜這《よば》いに行ったやろ」
久吉は屈託《くつたく》なく笑った。
「また冗談言って……。なあ、久吉。俺な、今さっき思っていたんやが、よう考えてみると、フラッタリー岬でも、せわになったわな」
「せわになった? そうかな。牛馬みたいに、蝮《まむし》の奴《やつ》に鞭《むち》で殴《なぐ》られたやないか」
「殴られてもなあ久吉、やっぱり人間同士や。飯《めし》も食わせてくれたし、寝る所もつくってくれた。着る物だって、一枚っきりでも、とにかくもろうたでな。これが獣やったら、ああはいかんで。熊や猪《いのしし》ではな。人間同士は、やっぱりありがたいもんや」
音吉は本当にそう思っていた。今、河口に向かって進んで行く軍艦イーグル号の中央|甲板《かんぱん》にあって、音吉はしみじみとそう思っていたのだ。流れる霧に陸地は見えがくれしていたが、とにかく半年住みなれたフォート・バンクーバーを離れた。この地つづきに、北に何百キロか行けばフラッタリー岬がある。そのフラッタリー岬での辛《つら》い生活も、今となっては懐かしく思われてくるのだ。あれが、人間のいない所に打ち上げられたとしたら、果たして三人は生きのびることができたか、どうか。
(人間同士って、ありがたいもんやな)
音吉はしみじみそう思った。蝮《まむし》と綽名《あだな》したアー・ダンクでさえ、今は憎めないような気がした。
「でっかい船やなあ」
「ほんとにでっかい船や」
二人の背後を、水兵たちが絶えず行き来している。艦長の話では、三人が退屈しないように、そのうちにそれぞれの部署に配置するということであった。それぞれの部署と言っても、イーグル号は軍艦である。水兵たちの仲間に入ることはできない。大工か、料理人の手伝いをさせられるにちがいないと、三人は思っていた。
「どんな生活が始まるんやろな」
音吉は改めて三本のマストを見上げた。角帆《かくほ》一枚の千石船《せんごくぶね》とはちがう。それぞれのマストに帆桁《ほげた》が幾本も大きく張り出されている。水兵たちはその、目のくらむような高い帆桁に、綱梯子《つなばしご》を伝って登って行く。どの水兵の尻も、西瓜《すいか》を二つ入れたように、張り切っている。自分たち日本人たちより、実の入ったような体だ。潮焼けした逞《たくま》しいその顔や入れ墨をした腕にくらべると、しばらく陸に上がっていた音吉たちはひどくひ弱《よわ》に見えた。しかし岩松は、船に乗りこんだ途端に言っていた。
「俺はやっぱり、根っからの船乗りやな。何や心が躍《おど》るで」
そう言って、一人どこかに姿を消した。岩松のことだ、恐らくこのイーグル号の艦内を、隅《すみ》から隅まで、その目で確かめようとしているのにちがいない。
「音、俺たちも、船の中を見に行こか」
「そうやなあ。けど、よそさまの船だでな」
「ま、そうやな。大砲がたくさんあって、何や怖《こわ》いわな」
「ほんとや。知った人もあらせんしな」
船の中には、顔見知りはほとんどない。誰も彼も精悍《せいかん》な男ばかりだ。目の鋭い男もいる。鷲《わし》のような鼻の男もいる。グリーンやマクラフリンを見馴《みな》れた目には、荒々しい海の男たちばかりだ。
イーグル号は、大砲を七十四門備えた元三級軍艦であった。それが五十門艦に改装されて、今は四級軍艦である。イギリスの軍艦は、大砲の数によって級が決まっていた。百門以上の大砲を積み三層の砲甲板《ほうかんぱん》を持った軍艦が第一級艦で、九十門から百門までが二級艦であった。イーグル号は四級艦であったが、更《さら》に五級、六級と下があった。六級は二十門から三十門を備えていた。
「エゲレスの船は、大したもんやなあ。船底をぐるりと銅で巻いてあるんやで。音」
「そうやってな。ミスター・グリーンが言ってたわ。船底が海水で腐らんように、虫にも食われんように、銅で巻いたんやってな。けど最初は鉄の釘《くぎ》で打ったで、そこから腐れが出たんやってな」
「ふーん。それは知らんかった。じゃ、今は何の釘や」
「銅の釘や。銅はええもんやな。千石船《せんごくぶね》にも、銅板を使っていたわな」
音吉は懐かしそうに目を細めた。白木に緑青《ろくしよう》の吹いた銅板を取りつけた千石船の船体は美しかった。今、見上げる三本のマストの色は、何《いず》れも茶色がかった黄色だ。
長さ百七十四フィート、幅四十フィートのイーグル号は、二層の砲甲板《ほうかんぱん》から成っていた。大砲を五十門も積んでいるために、水兵たちは、大砲の上に、ハンモックを吊《つ》って寝るのだ、と音吉たちは聞かされた。寝床だけが吊るされているのではない。この船では、テーブルも椅子《いす》も吊り下げるようになっていた。水兵たちは、そこで食事をするという。このイーグル号は、何年か前から就役艦《しゆうえきかん》ではなくなっていた。だが就役指令書が出ると、こうしてアメリカまでも航海することがあった。
「どの順に偉いんか、わからせんな」
二人は高い船尾甲板《コーターデツキ》のほうを見た。千石船で言えば櫓《やぐら》のあるほうである。そこには艦長《キヤプテン》、航海長《マスター》、副航海長《マスターメイト》、海尉《ルフテナント》などが、かたまって何か話し合っていた。
「そのうちにわかるわ、音」
久吉はのんきに言って、
「それはそうと、とうとう船に乗ったでな、もうスクール・チャーチには行かんでもええのや。助かったなあ」
「そうやなあ。もうキリシタンの話は聞かんでもええんやもなあ」
音吉もうなずいた。
「それだけでも、気分がせいせいや。あとは、船が一尺進めば、一尺だけ日本に近づくんや。音、気楽にするとええで」
そう言った時だった。突如《とつじよ》霧が晴れて紺青の海が広がった。
「うわーっ! 海や! 久吉、海や!」
「ほんとや! 海や。しばらくやなあ、海は」
「ほんとにしばらくやなあ」
「生まれてからこのかた、海を見なかった日はなかったのに、もう何か月も海を見んで、過ごしていたわ」
音吉は涙がこぼれそうであった。自分たちの命を脅《おびや》かした海ではあったが、この海のつづきに日本があると思うと、音吉はたまらなかった。