岩松たち三人がイーグル号に乗りこんで、早、二十日は過ぎた。出発した当時とちがって、毎日、夏のように暑い日がつづいた。船はサンドイッチ諸島(ハワイ諸島)に向かっていた。潮流と風の関係で、船は一旦《いつたん》南に下り、それからサンドイッチ諸島に向かって迂回《うかい》していたのである。
岩松は今、船底に一人降りていた。船底には、食糧や、飲料水を入れた樽《たる》、そして、バラスト(船を安定させるための鉄塊《てつかい》など)、砲弾などが積みこまれていた。湿っぽい空気の充満している船倉だ。どこかで鼠《ねずみ》の声がした。銅板でくるんだこの船底にも、アカはじわじわと、僅《わず》かながらもたまっていた。巨大な海は、どんな些細《ささい》な隙間《すきま》からでも、その大きな水圧を持って、浸入しようとしているのだ。だから上甲板《じようかんぱん》にはチェーンポンプが四台あって、一日に幾度かは船底のアカを汲《く》み上げていた。
船に乗りこんで三日後、岩松は大工《だいく》の係に組み入れられた。音吉は調理人の下働きとなり、久吉は雑役《ざつえき》専門となって、手押しポンプを押したり、荷物を運んだりした。三人が顔をあわせるのは、食事の時と、夜寝る時だけだ。
岩松は今、頼まれた倉庫の床を、新しい板で補強していた。岩松は、自分の打つ釘《くぎ》の音を聞きながら、思うともなく熱田にいる家族のことを思っていた。立てつけの悪いあの戸口の戸や、開けてすぐの土間がありありと目に浮かぶ。次の障子《しようじ》をあければ、養父母と絹と、岩太郎がいるのだ。が、今、不意に岩松の胸に銀次の顔が浮かんだ。
同じ長屋の奥に住んでいた、顔立ちの整った銀次の、愛想のよい笑顔が、あまりにも鮮やかだった。
「畜生っ!」
岩松の釘を打つ音がひときわ高くなった。
(故里を出てから、丸二年……銀次の奴《やつ》が入りびたったとしても……)
咎《とが》める訳にもいくまいと、岩松は思った。年寄りと子供を抱えた絹が生きていくためには、銀次は必要な存在かとも思う。
時々こんな思いに襲われるのは、この船に乗ってからだ。帰る当てのなかった時は、これほどの気持ちにはならなかった。
(妙なもんだ)
岩松は暗い笑いを浮かべた。船がゆるやかに縦に揺れている。
(帰って行っても、もし絹が、銀次と一緒になっていたなら……)
思っただけでも、岩松は惨《みじ》めな気がした。たとえ熱田に上陸しても、まっすぐわが家には帰れぬと思う。しばらく様子を見て、もし絹が一人でいたなら、家に帰っていく。しかし、再婚していたら、顔を合わさずに熱田を去るより仕方がないと思う。だが去るにしても、せめて物蔭《ものかげ》からでも絹や岩太郎を見たい。養父や養母を見たい。もし許されるなら、自分の無事な姿をひと目見てほしいと思う。そして一言でも、言葉を交わしたいと思う。
(もう一度会えさえすれば、死んでもいい)
ふっと、岩松はそう思った。そしてなぜか自分は、会ったらすぐに死ぬような気がした。
(ひと目でいいんだ。ひと目で……)
そう思いながら岩松は、
「何だ、だらしがねえ」
と、口を歪めて自嘲《じちよう》した。
仕事を終わって、岩松は階段を上がって行った。急な階段だ。
船倉の上はロウアー・デッキと呼ばれる最下層|甲板《かんぱん》で、ここにも火薬庫や食糧庫があり、帆を納める倉庫もあった。
岩松はうつむいたまま、更《さら》に階段を登って行った。ガン・デッキだ。大砲が両舷《りようげん》にずらりと並んでいる。ここに来ると、なんとなくきな臭い。ここしばらく戦《いくさ》はなかったが、乗組員たちが航海に倦《う》み疲れてくると、突如《とつじよ》として艦長は、訓練を命ずるのだ。訓練は種々あった。毎朝の甲板掃除《かんぱんそうじ》できれいになっている甲板を、更《さら》に一斉《いつせい》に磨くこともあった。マストの帆を不意に外《はず》して取り付ける訓練もあった。高さ六十メートルもある帆桁《ほげた》まで駈《か》け登って、帆を上げたり下げたりするのは、非常に危険な作業であった。そしてまた、大砲を撃つ訓練を課せられることもあった。このきな臭いガン・デッキに、岩松たちは他の水兵たちと共に、ハンモックに揺られて寝た。船の動きと共に、ゆらゆらと揺られる経験は、岩松たちにはなかった。仰向けに寝ても、横に寝ても、初めのうちは何とも不安定で、眠りが浅かったが、近頃《ちかごろ》は馴《な》れた。
ガン・デッキに上がると、艦首の方で羊の鳴く声がした。乗組員たちは忙しげに走り廻《まわ》っていて、その声に目を向ける者もいない。片隅《かたすみ》の空間に二つの檻《おり》があり、片側に豚が五頭、羊が三頭いた。岩松はその檻に近づいて行った。羊が岩松を見て、再び鳴いた。
「腹が空《す》いたか」
岩松は声をかけた。この豚や羊は、水兵たちの口には入らない。艦長や士官たちの私物であった。
(食われるのか)
岩松は心の中で呟《つぶや》きながら、羊のやさしい目を見つめた。女を思わせる目であった。士官たちは、この豚や羊の他に|※[#「奚+隹」、unicode96de]《にわとり》も飼っていた。船の中に飼われている※[#「奚+隹」、unicode96de]は、時々思い出したように卵を生んだ。艦内で出る毎日の献立は、大体決まっていた。塩漬けの豚肉、乾パンである。バターやチーズはめったに出なかった。士官たちだけが私物として買い込んでいた。さらに士官たちは、缶詰《かんづ》めを切り、ビン詰めの口をあけることもあった。
岩松たちが初めて缶詰めを食べたのは、グリーンの家においてであった。
「これはフランス人が発明したものです」
缶詰めの作り方を聞いて、岩松たち三人は驚いたものである。その時音吉が思わず言った。
「なあ、舵取《かじと》りさん。日本にも缶詰めやビン詰めがあったら、船の中で助かったのになあ」
炊《かしき》をしていた音吉の実感だった。炊頭《かしきがしら》の勝五郎が、ほとんど米しかない漂流の毎日の中で、どんなに苦労したことか。つくづくと三人は、異国の進歩に舌を巻いたものだ。艦内には重要な艦内飲料としてライムジュースが用意されていた。ライミー(ライムジュースを飲む人)とは、英国水兵の代名詞でもあった。それほどに、このレモンに似た果物をしぼってつくったジュースはよく飲まれた。これは壊血病《かいけつびよう》予防の貴重薬《きちようやく》でもあった。
羊のやさしい目を見ると、岩松はいつも、あの人形劇を思い出す。スクール・チャーチで見た人形劇だ。谷底に迷いこんだ羊を助けるために、険しい崖《がけ》を降りて行ったジーザス・クライストという男の姿が思い出される。しかもその男は、ゴルゴダという丘で十字架にかかった。子供の喜ぶ人形芝居だというのに、なぜか三十歳の岩松の心にも沁《し》み入る物語だった。
(それにしても、驚いたな)
岩松はふっと笑った。イーグル号に乗って初めてのサンデーの朝だった。三百人以上の水兵たちと共に、岩松たちもスパーデッキ(上甲板《じようかんぱん》中央部)に集められた。何が始まるのかと思っているうちに、まず艦長の訓話が始まった。それが終わると、驚いたことに礼拝が始まったのである。バイブルが朗読《ろうどく》され、祈りがあり、讃美歌《さんびか》がうたわれた。
「船ん中でも、チャペルがあるんや! たまげたなあ。逃げられせんわ、もう。キリシタンて、凄《すご》い信心《しんじん》やなあ」
「エゲレスの船には、船玉《ふなだま》さまは祀《まつ》っておらんのやろか」
「おらんようやな。誰も彼もキリシタン一本|槍《やり》みたいや」
その夜、ハンモックの中で、音吉と久吉がひそひそと歎《なげ》き合っていた。
岩松もまた、キリシタンの船に送られて日本に帰ることに、新たな危惧《きぐ》を抱かずにはいられなかった。
岩松は今、船底に一人降りていた。船底には、食糧や、飲料水を入れた樽《たる》、そして、バラスト(船を安定させるための鉄塊《てつかい》など)、砲弾などが積みこまれていた。湿っぽい空気の充満している船倉だ。どこかで鼠《ねずみ》の声がした。銅板でくるんだこの船底にも、アカはじわじわと、僅《わず》かながらもたまっていた。巨大な海は、どんな些細《ささい》な隙間《すきま》からでも、その大きな水圧を持って、浸入しようとしているのだ。だから上甲板《じようかんぱん》にはチェーンポンプが四台あって、一日に幾度かは船底のアカを汲《く》み上げていた。
船に乗りこんで三日後、岩松は大工《だいく》の係に組み入れられた。音吉は調理人の下働きとなり、久吉は雑役《ざつえき》専門となって、手押しポンプを押したり、荷物を運んだりした。三人が顔をあわせるのは、食事の時と、夜寝る時だけだ。
岩松は今、頼まれた倉庫の床を、新しい板で補強していた。岩松は、自分の打つ釘《くぎ》の音を聞きながら、思うともなく熱田にいる家族のことを思っていた。立てつけの悪いあの戸口の戸や、開けてすぐの土間がありありと目に浮かぶ。次の障子《しようじ》をあければ、養父母と絹と、岩太郎がいるのだ。が、今、不意に岩松の胸に銀次の顔が浮かんだ。
同じ長屋の奥に住んでいた、顔立ちの整った銀次の、愛想のよい笑顔が、あまりにも鮮やかだった。
「畜生っ!」
岩松の釘を打つ音がひときわ高くなった。
(故里を出てから、丸二年……銀次の奴《やつ》が入りびたったとしても……)
咎《とが》める訳にもいくまいと、岩松は思った。年寄りと子供を抱えた絹が生きていくためには、銀次は必要な存在かとも思う。
時々こんな思いに襲われるのは、この船に乗ってからだ。帰る当てのなかった時は、これほどの気持ちにはならなかった。
(妙なもんだ)
岩松は暗い笑いを浮かべた。船がゆるやかに縦に揺れている。
(帰って行っても、もし絹が、銀次と一緒になっていたなら……)
思っただけでも、岩松は惨《みじ》めな気がした。たとえ熱田に上陸しても、まっすぐわが家には帰れぬと思う。しばらく様子を見て、もし絹が一人でいたなら、家に帰っていく。しかし、再婚していたら、顔を合わさずに熱田を去るより仕方がないと思う。だが去るにしても、せめて物蔭《ものかげ》からでも絹や岩太郎を見たい。養父や養母を見たい。もし許されるなら、自分の無事な姿をひと目見てほしいと思う。そして一言でも、言葉を交わしたいと思う。
(もう一度会えさえすれば、死んでもいい)
ふっと、岩松はそう思った。そしてなぜか自分は、会ったらすぐに死ぬような気がした。
(ひと目でいいんだ。ひと目で……)
そう思いながら岩松は、
「何だ、だらしがねえ」
と、口を歪めて自嘲《じちよう》した。
仕事を終わって、岩松は階段を上がって行った。急な階段だ。
船倉の上はロウアー・デッキと呼ばれる最下層|甲板《かんぱん》で、ここにも火薬庫や食糧庫があり、帆を納める倉庫もあった。
岩松はうつむいたまま、更《さら》に階段を登って行った。ガン・デッキだ。大砲が両舷《りようげん》にずらりと並んでいる。ここに来ると、なんとなくきな臭い。ここしばらく戦《いくさ》はなかったが、乗組員たちが航海に倦《う》み疲れてくると、突如《とつじよ》として艦長は、訓練を命ずるのだ。訓練は種々あった。毎朝の甲板掃除《かんぱんそうじ》できれいになっている甲板を、更《さら》に一斉《いつせい》に磨くこともあった。マストの帆を不意に外《はず》して取り付ける訓練もあった。高さ六十メートルもある帆桁《ほげた》まで駈《か》け登って、帆を上げたり下げたりするのは、非常に危険な作業であった。そしてまた、大砲を撃つ訓練を課せられることもあった。このきな臭いガン・デッキに、岩松たちは他の水兵たちと共に、ハンモックに揺られて寝た。船の動きと共に、ゆらゆらと揺られる経験は、岩松たちにはなかった。仰向けに寝ても、横に寝ても、初めのうちは何とも不安定で、眠りが浅かったが、近頃《ちかごろ》は馴《な》れた。
ガン・デッキに上がると、艦首の方で羊の鳴く声がした。乗組員たちは忙しげに走り廻《まわ》っていて、その声に目を向ける者もいない。片隅《かたすみ》の空間に二つの檻《おり》があり、片側に豚が五頭、羊が三頭いた。岩松はその檻に近づいて行った。羊が岩松を見て、再び鳴いた。
「腹が空《す》いたか」
岩松は声をかけた。この豚や羊は、水兵たちの口には入らない。艦長や士官たちの私物であった。
(食われるのか)
岩松は心の中で呟《つぶや》きながら、羊のやさしい目を見つめた。女を思わせる目であった。士官たちは、この豚や羊の他に|※[#「奚+隹」、unicode96de]《にわとり》も飼っていた。船の中に飼われている※[#「奚+隹」、unicode96de]は、時々思い出したように卵を生んだ。艦内で出る毎日の献立は、大体決まっていた。塩漬けの豚肉、乾パンである。バターやチーズはめったに出なかった。士官たちだけが私物として買い込んでいた。さらに士官たちは、缶詰《かんづ》めを切り、ビン詰めの口をあけることもあった。
岩松たちが初めて缶詰めを食べたのは、グリーンの家においてであった。
「これはフランス人が発明したものです」
缶詰めの作り方を聞いて、岩松たち三人は驚いたものである。その時音吉が思わず言った。
「なあ、舵取《かじと》りさん。日本にも缶詰めやビン詰めがあったら、船の中で助かったのになあ」
炊《かしき》をしていた音吉の実感だった。炊頭《かしきがしら》の勝五郎が、ほとんど米しかない漂流の毎日の中で、どんなに苦労したことか。つくづくと三人は、異国の進歩に舌を巻いたものだ。艦内には重要な艦内飲料としてライムジュースが用意されていた。ライミー(ライムジュースを飲む人)とは、英国水兵の代名詞でもあった。それほどに、このレモンに似た果物をしぼってつくったジュースはよく飲まれた。これは壊血病《かいけつびよう》予防の貴重薬《きちようやく》でもあった。
羊のやさしい目を見ると、岩松はいつも、あの人形劇を思い出す。スクール・チャーチで見た人形劇だ。谷底に迷いこんだ羊を助けるために、険しい崖《がけ》を降りて行ったジーザス・クライストという男の姿が思い出される。しかもその男は、ゴルゴダという丘で十字架にかかった。子供の喜ぶ人形芝居だというのに、なぜか三十歳の岩松の心にも沁《し》み入る物語だった。
(それにしても、驚いたな)
岩松はふっと笑った。イーグル号に乗って初めてのサンデーの朝だった。三百人以上の水兵たちと共に、岩松たちもスパーデッキ(上甲板《じようかんぱん》中央部)に集められた。何が始まるのかと思っているうちに、まず艦長の訓話が始まった。それが終わると、驚いたことに礼拝が始まったのである。バイブルが朗読《ろうどく》され、祈りがあり、讃美歌《さんびか》がうたわれた。
「船ん中でも、チャペルがあるんや! たまげたなあ。逃げられせんわ、もう。キリシタンて、凄《すご》い信心《しんじん》やなあ」
「エゲレスの船には、船玉《ふなだま》さまは祀《まつ》っておらんのやろか」
「おらんようやな。誰も彼もキリシタン一本|槍《やり》みたいや」
その夜、ハンモックの中で、音吉と久吉がひそひそと歎《なげ》き合っていた。
岩松もまた、キリシタンの船に送られて日本に帰ることに、新たな危惧《きぐ》を抱かずにはいられなかった。