波のうねりがまだ大きい。今日は一日船の横ゆれがひどかった。帆と帆の間を吹きぬける風の音が、一日鳴りやまなかった。金色の太陽が、水平線に近づきつつあった。先程《さきほど》まで紺青であった海が、次第にレモン色に変わっていく。岩吉、音吉、久吉の三人は今、下士官《かしかん》の一人につれられて、艦長室に行くところだった。
(何で、わしらを呼びつけるんやろ)
音吉は不安だった。輝く茜雲《あかねぐも》を見ながら、音吉は不安だった。艦長に呼ばれたのは、乗船の日だけである。以来今日まで、艦長を間近に見たこともない。まわりにいるのは水兵たちだけだ。艦長は遠い存在だった。艦長とは言葉をかわすこともなく、イギリスへの航海はつづくものと思っていた。それが急に艦長に呼ばれたのだ。
(艦長が、わしらに何の用事やろ。何も悪いこともしておらんつもりやけど)
あと幾日も経たぬうちに、サンドイッチ諸島(ハワイ諸島)に着くと聞いていた。
(まさか、その島で降りろと言うんやないやろな)
不安だけが音吉の胸を占めていた。音吉は肩を並べて歩いている久吉をそっとうかがった。久吉も同じ思いなのか、音吉の顔を見て、首をかしげてみせた。が、岩吉は、いつものように、しっかりとした足取りで二人の前を歩いて行く。三人は今、ジャケツの上にコートを着、靴《くつ》を履《は》いている。盛装である。艦長の前に行くのに暑いなどとは言ってはいられなかった。
ミズン・マストの近くに来て、三人は階段を降りて行った。艦長室のドアの前に立つと、音吉の胸は大きく動悸《どうき》した。下士官が不動の姿勢をとって、ノックした。中から艦長の声がした。
「艦長、三人をつれて参りました」
下士官は緊張した声で告げた。
「よろしい。お前は下がっていい」
威厳のある声がして、艦長が三人を招き入れた。艦長の顔には微笑が漂っていた。音吉はほっとした。艦長が微笑をたたえていることは、滅多にない。日曜日の礼拝の時でさえ、艦長の眼光は鋭く光っていた。
「すわるがいい」
艦長が椅子《いす》を指さした。久吉がすぐに坐《すわ》った。岩吉は一礼し、音吉もそれにならって腰をおろした。
艦長のこの公室は艦長の寝室に隣り合わせで、四畳半|程《ほど》の広さだった。しかもその一部に大砲があった。軍艦である以上、艦長といえども、まず大砲に場所を譲らねばならなかった。が、うす暗いガン・デッキに寝起きしている三人にとって、この部屋はひどく明るく見えた。夕日がガラス窓越しに、部屋の中まで差しこんでいる。三人の腰かけている長椅子の下は、艦長の私物の格納庫になっていた。壁には艦長の外套《がいとう》が下がってい、その壁も、戦時には取り外《はず》されるようになっていた。ニレの木の一枚板でできたその壁を背に、艦長は三人を順々に見た。三人との間に大きなテーブルがあった。テーブルの足は固定されている。テーブルの所々に、コップをはめこむくぼみがあった。
「少しは馴《な》れたかね」
艦長は三人が聞きやすいように、ゆっくりと言った。
「はい、馴れました」
音吉が答えた。岩吉が黙っていたからである。
「そうか。この船に乗って、やがて一か月近くになるね」
「はい、一か月近くになります」
今度は岩吉が答えた。
「つらいことはないかね」
「別にありません」
岩吉がいつもの、やや沈んだ声で答えた。音吉は、
(この船は恐ろしい。千石船《せんごくぶね》とはちがいます)
と言いたいような気がした。水兵たち誰彼の肩に腰に、気合棒《きあいぼう》がふりおろされるのを見るのは辛《つら》かった。不快だった。恐ろしかった。フラッタリー岬の、アー・ダンクのふりまわす鞭《むち》よりも恐ろしかった。ただ、三人は水兵ではなく、ハドソン湾会社に依頼された便乗者《びんじようしや》であるということで、水兵とは一様には扱われなかった。が、それでも、艦の規律に違反することは、決して許されない。
毎日が緊張の連続であった。
「そうかね。馴《な》れたかね」
艦長はパイプのタバコに火をつけながら、何かを考える顔になった。
「君たちも、船乗りだったそうだが、兵隊ではないね」
「はい、只《ただ》の船員でした」
「なるほど。ところで、君の名は何と言ったかな」
艦長はパイプの煙をくゆらせながら、岩吉を見た。
「岩吉です」
「いわきち? その名を書けるかね?」
「はい、書けます」
「ほほう、書けるのかね」
艦長は紙と鉛筆を岩吉の前に置いた。岩吉は漢字で、自分の名を大きく紙に書いた。艦長は珍しそうに、岩吉の鉛筆の先を見つめていた。
「君も書けるか」
艦長が久吉に言った。
「はい、書けます。お茶の子さいさいです」
前半は英語で答え、後半は日本語で言い、久吉は自分の名をそこに記した。
「君も書けるかね」
艦長は最後に音吉を見た。
「はい。書けます」
静かに答えて、音吉はしっかりとした字でその名を書いた。
艦長は紙を手に持ち、しげしげと三人の書いた字を見つめていたが、その名を読むように、岩吉に言った。岩吉は、一字一字指でおさえながら、ゆっくりと読んだ。
「なるほど、この字を吉と読むのかね」
艦長は満足そうに、指でその字をなぞった。そして言った。
「日本という国は、大したものだね。三人が三人共、自分の名前を書けるとは。この船の水兵たちの中には、自分の名前を書けない者がたくさんいるよ」
そのことは、岩吉たち三人も知っていた。乗船して間もなく、何かのことで全員が名前を書くことになった。だが、半分以上の者が自分の名を書けず、そこに十の字を記しただけだった。十の字は名前の代わりであった。名前を書けぬ者が、なぜ十の字を書くのか、音吉には不思議だった。十の字はキリシタンのしるしだ。この国では、キリシタンのしるしを書けば、たとえ自分の名を書けなくても通用するのかと、驚いたものだった。
「少し、わしにも日本の話を聞かせてくれないかね」
艦長が背を椅子《いす》から離して言った。
「はい。どんなことでしょうか」
岩吉が答えた。
「まず、日本という国は、誰がおさめているのか、知りたいものだ」
「それはお上《かみ》です」
思わず日本語で答えてから、岩吉は、
「音、お上のことを、エゲレスの言葉で何と言う?」
「さあ。ヘッドやろか、ボスやろか」
「ヘッドと言ってもなあ、ちょっとちがうで」
「そや、徳川将軍と言うたらどうや」
久吉が言い、
「けど、みかどは何をしてるんやろ。みかどとお上はちがうわな」
「ちがうちがう。みかどはみかど、お上はお上や」
「でもな、艦長は、日本で一番偉いのは、誰やと聞いているつもりやないのか」
「そうかも知れせんな。舵取《かじと》りさん、みかど言うたらキングのことやな。お上は何やろ」
「お上はお上や。何しろこわいのはお上だでな」
「けど、お上のこと、この国の言葉で何と言うたらいいのかなあ」
岩吉がうなずいて、
「鉛筆と紙を貸して下さいませんか」
グリーンに教えられた丁寧《ていねい》な英語だった。艦長は驚いたように岩吉を見、快くうなずき、新しい紙と共に先程《さきほど》の鉛筆を岩吉の前に置いた。岩吉はその紙の一方に人の絵を書き、キングと言った。他の一方に同じく人の略画を書き、ミスター徳川と言った。そして、この徳川が国をおさめていると伝えた。
「ふーん。ミスター徳川。そしてキング」
艦長は不審そうにその名を呟《つぶや》いていたが、やがて言った。日本にも軍隊があるのかという質問であった。岩吉はちょっと首を傾けたが、
「はい、あります」
と言い、再び鉛筆を持って、旗指物《はたさしもの》を背に、馬に乗っている武士の姿を巧みに描いた。
「うーん。騎馬隊か。で、鉄砲はあるのかね」
「ございますとも」
音吉が大きな声で答えた。
「では、海軍もあるわけだね?」
三人は顔を見合わせた。英国の海軍にあたるものが日本にあるかどうか、判然とはしない。だが、武士が船に乗っているのを海軍というならば、それは昔からある筈《はず》だ。良参寺の和尚《おしよう》から、音吉と久吉は寺子屋で聞いたことがある。二百四十年も前にあった話だ。慶長五年|九鬼嘉隆《くきよしたか》が、伊勢湾を渡って小野浦に攻めて来た。何隻もの船に、数千人の兵をひきいて来たと聞いた。あわてふためいた村人はみんな山に逃げた。ある男は熊の皮をかぶって山に逃げ、以来熊の皮清兵衛という綽名《あだな》をもらったと聞いている。小野浦には牛皮という家があって、熊の皮変じて牛皮となったとも聞いている。久吉も音吉も、この話を聞いて、げらげらと笑ったものだった。だから、二百四十年前、既《すで》に海軍はあったと言っていいだろう。しかし、英国のように、こんな大きな軍船はない。第一、日本の国から他の国に出て行く船はない。が、それでも、戦《いくさ》船はあるだろうと三人は考えた。
「ふーん、海軍もあるのか」
艦長の頭の中に描かれた日本は、しかし現実の日本の姿ではなかった。
「軍人も多いのだな」
「はい」
うなずきながら岩吉は、その国その国を所領する大名を、何と説明してよいかわからなかったし、家老《かろう》や藩士《はんし》、足軽《あしがる》、仲間《ちゆうげん》のどこまでが、軍人というべきかもわからなかった。
「学校は?」
「スクール?……」
寺子屋はスクールかも知れない。そう思いながら、学校もあると答えた。
「その数は多いのかね」
艦長は身を乗り出すように言った。
「たくさんあります」
確かに寺子屋はたくさんあるのだ。
「なるほど。では工業は盛んかね」
「工業?」
何を聞かれているのか、三人にはわからなかった。
「何か機械はあるのかね」
「あります、あります」
久吉は勢いづいて答えた。久吉の頭の中に、機織《はたお》り機が目に浮かんだ。
「それで、食物は?……」
艦長は次々と衣食住について質問を発した。岩吉は面倒がらずに、図に描きながら、ていねいに答えた。
いつしか日はすっかり没し、窓の外の海は暗くなっていた。上甲板《じようかんぱん》のほうで、時折号笛《ときおりごうてき》が聞こえた。その抑揚によって、笛は様々な号令を水兵たちに伝えていた。当番兵が来て点《つ》けて行った鯨油《くじらゆ》の灯りが、時折大きくゆらいだ。
「ふーん。なるほど、米を食べて、髪の形をそんなふうにして、生活している国があるのか。家の中には靴《くつ》を脱《ぬ》いで入って行く。実に妙な国だねえ。いや、靴がないと言ったね」
今しがた岩吉の描いた下駄《げた》やわらじ、草履《ぞうり》、足駄《あしだ》などに目をやりながら、
「おもしろい国だ」
と、興味深げに大きくうなずいた。そして言った。
「さぞ、国に帰りたいことだろうね」
三人はうつむいた。言われるまでもなく、今、胸一杯に泣きたいほどの懐かしさを抱きながら、日本の様子を艦長に説明していたのだ。家のことを語れば、わが家の様子が目に浮かぶ。ちゃぶ台のことを語れば、食事のことが思い出される。胸の張りさける思いで、三人は三人それぞれの家族を思っていた。しかし艦長は、すぐに別のことを言った。
「ところで、昨日の日曜日の午後のことだがね。君たちはサムと話していたようだね」
さりげない言い方だった。見張り台の士官は、そうしたことにも充分に目を配っているのだ。
「はい」
「サムは何を話していたかね」
「さあ……」
岩吉は静かに艦長の眼を見つめながら、
「どうという話でもありませんが」
と言った。久吉は、
「あ、名前を聞かれたよ、それから……」
何か言おうとした時、岩吉が言った。
「そうそう、名前の意味や、酒のこと、女のことでした」
「ふーん。それだけかね」
「大体、そんなことでした」
「サムという男の背中に、傷のあるのを見たろうね」
「見た見た」
久吉が大きくうなずいた。持ち前の陽気な気性《きしよう》が、艦長の前でも現れ始めていた。
「あの傷の話は聞かなかったかね」
「聞きませんでした」
岩吉はきっぱりと答えた。音吉はちらりと岩吉の顔を見た。確かあの時、サムは言ったのだ。
「これは鞭打《むちう》ちの刑の名残《なごり》さ」
サムはそう言いながらラム酒を飲んでいた。
「どうしてそんな……鞭打ちなんて」
音吉がサムに尋《たず》ねると、
「アイ アイ サアと言わなかったからさ。つまり反抗的だと敵は言うんだ」
と、不敵な顔で笑っていた。その言葉は岩吉も聞いた筈《はず》だ。
確かサムは、船は監獄も同然だと言っていた。士官も水兵も同じ人間だと言った。三百人の人間が、十人ばかりの男に怒鳴りまくられているのは、おかしな話だとも言った。
音吉はそう思いながら、艦長が自分たちに何を聞こうとしているのか、わかるような気がした。
(さすが、舵取《かじと》りさんやな)
「ああ、確か、二つの赤ん坊がどうとかと言う話もしていました」
久吉が言った。金持ちの子が二歳で海軍に登録し、出世を計る話だ。音吉は思わず久吉の背をつついた。岩吉が間を置かずに言った。
「うん、どっかの子供が死んだ話な」
久吉も、音吉に腰を突つかれた意味がわかったようだった。
「そやそや」
久吉はあわてて、日本語で大きくうなずいた。
「そうかね。それぐらいの話だったかね。何しろ、水兵たちは気の荒い者が多いのでね」
艦長はおだやかな微笑を浮かべて、当番兵を呼んだ。ドアの外にいた当番兵がすぐに入って来た。
「コーヒーをいれてくれ」
当番兵は直ちに室外に出た。コーヒーと言っても、艦長でさえ麦粉を焦がして飲んでいたのだ。艦長の言うとおり、当時英国の水兵は荒くれ者が集まっていた。英国の水兵たちは、プレス・ギャング(水兵強募隊)によってかき集められた。少しの過失でも、気絶する程《ほど》、皮の鞭《むち》で殴《なぐ》りつける罰と、過酷な労働と、安い俸給《ほうきゆう》に甘んじなければならぬ水兵には、誰もなりたがらなかったからだ。水兵強募隊は、一斉《いつせい》に英国の港町に現れ、遊女屋にいる者、酒場にいる者、浮浪者、乞食《こじき》、囚人、そしてまた港に入港した商船の船員などを、こん棒や短剣をもって殴りつけ、脅《おど》しつけて連れ去った。ある者はこん棒に殴られて気絶し、気がついた時には船の中にいるということさえあった。中には志願兵もいたが、こうした制度が、イギリスの水兵たちに伝統的な荒々しい気風をもたらした。しかも、反逆する者はむろんのこと、些細《ささい》な罪でも帆桁《ほげた》に吊《つ》るされ、処刑される時代がつづいた。こうして、絶対服従は不文律となった。だが、水兵たちの心の中まで服従させることはむずかしく、十六、七世紀には反乱が絶えなかった。一八三〇年代の当時は、以前ほど鞭《むち》はふるわれなくなったが、それでもなお、水兵たちはこの世からあぶれた者たちの寄り集まりと言ってよかった。艦長は、その中のサムに、常に警戒の目を怠らなかったのである。
(何で、わしらを呼びつけるんやろ)
音吉は不安だった。輝く茜雲《あかねぐも》を見ながら、音吉は不安だった。艦長に呼ばれたのは、乗船の日だけである。以来今日まで、艦長を間近に見たこともない。まわりにいるのは水兵たちだけだ。艦長は遠い存在だった。艦長とは言葉をかわすこともなく、イギリスへの航海はつづくものと思っていた。それが急に艦長に呼ばれたのだ。
(艦長が、わしらに何の用事やろ。何も悪いこともしておらんつもりやけど)
あと幾日も経たぬうちに、サンドイッチ諸島(ハワイ諸島)に着くと聞いていた。
(まさか、その島で降りろと言うんやないやろな)
不安だけが音吉の胸を占めていた。音吉は肩を並べて歩いている久吉をそっとうかがった。久吉も同じ思いなのか、音吉の顔を見て、首をかしげてみせた。が、岩吉は、いつものように、しっかりとした足取りで二人の前を歩いて行く。三人は今、ジャケツの上にコートを着、靴《くつ》を履《は》いている。盛装である。艦長の前に行くのに暑いなどとは言ってはいられなかった。
ミズン・マストの近くに来て、三人は階段を降りて行った。艦長室のドアの前に立つと、音吉の胸は大きく動悸《どうき》した。下士官が不動の姿勢をとって、ノックした。中から艦長の声がした。
「艦長、三人をつれて参りました」
下士官は緊張した声で告げた。
「よろしい。お前は下がっていい」
威厳のある声がして、艦長が三人を招き入れた。艦長の顔には微笑が漂っていた。音吉はほっとした。艦長が微笑をたたえていることは、滅多にない。日曜日の礼拝の時でさえ、艦長の眼光は鋭く光っていた。
「すわるがいい」
艦長が椅子《いす》を指さした。久吉がすぐに坐《すわ》った。岩吉は一礼し、音吉もそれにならって腰をおろした。
艦長のこの公室は艦長の寝室に隣り合わせで、四畳半|程《ほど》の広さだった。しかもその一部に大砲があった。軍艦である以上、艦長といえども、まず大砲に場所を譲らねばならなかった。が、うす暗いガン・デッキに寝起きしている三人にとって、この部屋はひどく明るく見えた。夕日がガラス窓越しに、部屋の中まで差しこんでいる。三人の腰かけている長椅子の下は、艦長の私物の格納庫になっていた。壁には艦長の外套《がいとう》が下がってい、その壁も、戦時には取り外《はず》されるようになっていた。ニレの木の一枚板でできたその壁を背に、艦長は三人を順々に見た。三人との間に大きなテーブルがあった。テーブルの足は固定されている。テーブルの所々に、コップをはめこむくぼみがあった。
「少しは馴《な》れたかね」
艦長は三人が聞きやすいように、ゆっくりと言った。
「はい、馴れました」
音吉が答えた。岩吉が黙っていたからである。
「そうか。この船に乗って、やがて一か月近くになるね」
「はい、一か月近くになります」
今度は岩吉が答えた。
「つらいことはないかね」
「別にありません」
岩吉がいつもの、やや沈んだ声で答えた。音吉は、
(この船は恐ろしい。千石船《せんごくぶね》とはちがいます)
と言いたいような気がした。水兵たち誰彼の肩に腰に、気合棒《きあいぼう》がふりおろされるのを見るのは辛《つら》かった。不快だった。恐ろしかった。フラッタリー岬の、アー・ダンクのふりまわす鞭《むち》よりも恐ろしかった。ただ、三人は水兵ではなく、ハドソン湾会社に依頼された便乗者《びんじようしや》であるということで、水兵とは一様には扱われなかった。が、それでも、艦の規律に違反することは、決して許されない。
毎日が緊張の連続であった。
「そうかね。馴《な》れたかね」
艦長はパイプのタバコに火をつけながら、何かを考える顔になった。
「君たちも、船乗りだったそうだが、兵隊ではないね」
「はい、只《ただ》の船員でした」
「なるほど。ところで、君の名は何と言ったかな」
艦長はパイプの煙をくゆらせながら、岩吉を見た。
「岩吉です」
「いわきち? その名を書けるかね?」
「はい、書けます」
「ほほう、書けるのかね」
艦長は紙と鉛筆を岩吉の前に置いた。岩吉は漢字で、自分の名を大きく紙に書いた。艦長は珍しそうに、岩吉の鉛筆の先を見つめていた。
「君も書けるか」
艦長が久吉に言った。
「はい、書けます。お茶の子さいさいです」
前半は英語で答え、後半は日本語で言い、久吉は自分の名をそこに記した。
「君も書けるかね」
艦長は最後に音吉を見た。
「はい。書けます」
静かに答えて、音吉はしっかりとした字でその名を書いた。
艦長は紙を手に持ち、しげしげと三人の書いた字を見つめていたが、その名を読むように、岩吉に言った。岩吉は、一字一字指でおさえながら、ゆっくりと読んだ。
「なるほど、この字を吉と読むのかね」
艦長は満足そうに、指でその字をなぞった。そして言った。
「日本という国は、大したものだね。三人が三人共、自分の名前を書けるとは。この船の水兵たちの中には、自分の名前を書けない者がたくさんいるよ」
そのことは、岩吉たち三人も知っていた。乗船して間もなく、何かのことで全員が名前を書くことになった。だが、半分以上の者が自分の名を書けず、そこに十の字を記しただけだった。十の字は名前の代わりであった。名前を書けぬ者が、なぜ十の字を書くのか、音吉には不思議だった。十の字はキリシタンのしるしだ。この国では、キリシタンのしるしを書けば、たとえ自分の名を書けなくても通用するのかと、驚いたものだった。
「少し、わしにも日本の話を聞かせてくれないかね」
艦長が背を椅子《いす》から離して言った。
「はい。どんなことでしょうか」
岩吉が答えた。
「まず、日本という国は、誰がおさめているのか、知りたいものだ」
「それはお上《かみ》です」
思わず日本語で答えてから、岩吉は、
「音、お上のことを、エゲレスの言葉で何と言う?」
「さあ。ヘッドやろか、ボスやろか」
「ヘッドと言ってもなあ、ちょっとちがうで」
「そや、徳川将軍と言うたらどうや」
久吉が言い、
「けど、みかどは何をしてるんやろ。みかどとお上はちがうわな」
「ちがうちがう。みかどはみかど、お上はお上や」
「でもな、艦長は、日本で一番偉いのは、誰やと聞いているつもりやないのか」
「そうかも知れせんな。舵取《かじと》りさん、みかど言うたらキングのことやな。お上は何やろ」
「お上はお上や。何しろこわいのはお上だでな」
「けど、お上のこと、この国の言葉で何と言うたらいいのかなあ」
岩吉がうなずいて、
「鉛筆と紙を貸して下さいませんか」
グリーンに教えられた丁寧《ていねい》な英語だった。艦長は驚いたように岩吉を見、快くうなずき、新しい紙と共に先程《さきほど》の鉛筆を岩吉の前に置いた。岩吉はその紙の一方に人の絵を書き、キングと言った。他の一方に同じく人の略画を書き、ミスター徳川と言った。そして、この徳川が国をおさめていると伝えた。
「ふーん。ミスター徳川。そしてキング」
艦長は不審そうにその名を呟《つぶや》いていたが、やがて言った。日本にも軍隊があるのかという質問であった。岩吉はちょっと首を傾けたが、
「はい、あります」
と言い、再び鉛筆を持って、旗指物《はたさしもの》を背に、馬に乗っている武士の姿を巧みに描いた。
「うーん。騎馬隊か。で、鉄砲はあるのかね」
「ございますとも」
音吉が大きな声で答えた。
「では、海軍もあるわけだね?」
三人は顔を見合わせた。英国の海軍にあたるものが日本にあるかどうか、判然とはしない。だが、武士が船に乗っているのを海軍というならば、それは昔からある筈《はず》だ。良参寺の和尚《おしよう》から、音吉と久吉は寺子屋で聞いたことがある。二百四十年も前にあった話だ。慶長五年|九鬼嘉隆《くきよしたか》が、伊勢湾を渡って小野浦に攻めて来た。何隻もの船に、数千人の兵をひきいて来たと聞いた。あわてふためいた村人はみんな山に逃げた。ある男は熊の皮をかぶって山に逃げ、以来熊の皮清兵衛という綽名《あだな》をもらったと聞いている。小野浦には牛皮という家があって、熊の皮変じて牛皮となったとも聞いている。久吉も音吉も、この話を聞いて、げらげらと笑ったものだった。だから、二百四十年前、既《すで》に海軍はあったと言っていいだろう。しかし、英国のように、こんな大きな軍船はない。第一、日本の国から他の国に出て行く船はない。が、それでも、戦《いくさ》船はあるだろうと三人は考えた。
「ふーん、海軍もあるのか」
艦長の頭の中に描かれた日本は、しかし現実の日本の姿ではなかった。
「軍人も多いのだな」
「はい」
うなずきながら岩吉は、その国その国を所領する大名を、何と説明してよいかわからなかったし、家老《かろう》や藩士《はんし》、足軽《あしがる》、仲間《ちゆうげん》のどこまでが、軍人というべきかもわからなかった。
「学校は?」
「スクール?……」
寺子屋はスクールかも知れない。そう思いながら、学校もあると答えた。
「その数は多いのかね」
艦長は身を乗り出すように言った。
「たくさんあります」
確かに寺子屋はたくさんあるのだ。
「なるほど。では工業は盛んかね」
「工業?」
何を聞かれているのか、三人にはわからなかった。
「何か機械はあるのかね」
「あります、あります」
久吉は勢いづいて答えた。久吉の頭の中に、機織《はたお》り機が目に浮かんだ。
「それで、食物は?……」
艦長は次々と衣食住について質問を発した。岩吉は面倒がらずに、図に描きながら、ていねいに答えた。
いつしか日はすっかり没し、窓の外の海は暗くなっていた。上甲板《じようかんぱん》のほうで、時折号笛《ときおりごうてき》が聞こえた。その抑揚によって、笛は様々な号令を水兵たちに伝えていた。当番兵が来て点《つ》けて行った鯨油《くじらゆ》の灯りが、時折大きくゆらいだ。
「ふーん。なるほど、米を食べて、髪の形をそんなふうにして、生活している国があるのか。家の中には靴《くつ》を脱《ぬ》いで入って行く。実に妙な国だねえ。いや、靴がないと言ったね」
今しがた岩吉の描いた下駄《げた》やわらじ、草履《ぞうり》、足駄《あしだ》などに目をやりながら、
「おもしろい国だ」
と、興味深げに大きくうなずいた。そして言った。
「さぞ、国に帰りたいことだろうね」
三人はうつむいた。言われるまでもなく、今、胸一杯に泣きたいほどの懐かしさを抱きながら、日本の様子を艦長に説明していたのだ。家のことを語れば、わが家の様子が目に浮かぶ。ちゃぶ台のことを語れば、食事のことが思い出される。胸の張りさける思いで、三人は三人それぞれの家族を思っていた。しかし艦長は、すぐに別のことを言った。
「ところで、昨日の日曜日の午後のことだがね。君たちはサムと話していたようだね」
さりげない言い方だった。見張り台の士官は、そうしたことにも充分に目を配っているのだ。
「はい」
「サムは何を話していたかね」
「さあ……」
岩吉は静かに艦長の眼を見つめながら、
「どうという話でもありませんが」
と言った。久吉は、
「あ、名前を聞かれたよ、それから……」
何か言おうとした時、岩吉が言った。
「そうそう、名前の意味や、酒のこと、女のことでした」
「ふーん。それだけかね」
「大体、そんなことでした」
「サムという男の背中に、傷のあるのを見たろうね」
「見た見た」
久吉が大きくうなずいた。持ち前の陽気な気性《きしよう》が、艦長の前でも現れ始めていた。
「あの傷の話は聞かなかったかね」
「聞きませんでした」
岩吉はきっぱりと答えた。音吉はちらりと岩吉の顔を見た。確かあの時、サムは言ったのだ。
「これは鞭打《むちう》ちの刑の名残《なごり》さ」
サムはそう言いながらラム酒を飲んでいた。
「どうしてそんな……鞭打ちなんて」
音吉がサムに尋《たず》ねると、
「アイ アイ サアと言わなかったからさ。つまり反抗的だと敵は言うんだ」
と、不敵な顔で笑っていた。その言葉は岩吉も聞いた筈《はず》だ。
確かサムは、船は監獄も同然だと言っていた。士官も水兵も同じ人間だと言った。三百人の人間が、十人ばかりの男に怒鳴りまくられているのは、おかしな話だとも言った。
音吉はそう思いながら、艦長が自分たちに何を聞こうとしているのか、わかるような気がした。
(さすが、舵取《かじと》りさんやな)
「ああ、確か、二つの赤ん坊がどうとかと言う話もしていました」
久吉が言った。金持ちの子が二歳で海軍に登録し、出世を計る話だ。音吉は思わず久吉の背をつついた。岩吉が間を置かずに言った。
「うん、どっかの子供が死んだ話な」
久吉も、音吉に腰を突つかれた意味がわかったようだった。
「そやそや」
久吉はあわてて、日本語で大きくうなずいた。
「そうかね。それぐらいの話だったかね。何しろ、水兵たちは気の荒い者が多いのでね」
艦長はおだやかな微笑を浮かべて、当番兵を呼んだ。ドアの外にいた当番兵がすぐに入って来た。
「コーヒーをいれてくれ」
当番兵は直ちに室外に出た。コーヒーと言っても、艦長でさえ麦粉を焦がして飲んでいたのだ。艦長の言うとおり、当時英国の水兵は荒くれ者が集まっていた。英国の水兵たちは、プレス・ギャング(水兵強募隊)によってかき集められた。少しの過失でも、気絶する程《ほど》、皮の鞭《むち》で殴《なぐ》りつける罰と、過酷な労働と、安い俸給《ほうきゆう》に甘んじなければならぬ水兵には、誰もなりたがらなかったからだ。水兵強募隊は、一斉《いつせい》に英国の港町に現れ、遊女屋にいる者、酒場にいる者、浮浪者、乞食《こじき》、囚人、そしてまた港に入港した商船の船員などを、こん棒や短剣をもって殴りつけ、脅《おど》しつけて連れ去った。ある者はこん棒に殴られて気絶し、気がついた時には船の中にいるということさえあった。中には志願兵もいたが、こうした制度が、イギリスの水兵たちに伝統的な荒々しい気風をもたらした。しかも、反逆する者はむろんのこと、些細《ささい》な罪でも帆桁《ほげた》に吊《つ》るされ、処刑される時代がつづいた。こうして、絶対服従は不文律となった。だが、水兵たちの心の中まで服従させることはむずかしく、十六、七世紀には反乱が絶えなかった。一八三〇年代の当時は、以前ほど鞭《むち》はふるわれなくなったが、それでもなお、水兵たちはこの世からあぶれた者たちの寄り集まりと言ってよかった。艦長は、その中のサムに、常に警戒の目を怠らなかったのである。