一
「音、珍しい木があるで。大きな竹箒《たけぼうき》を突っ立てたような木やなあ」
砂浜に降り立って、言葉もなくしばらく辺《あた》りを見まわしていた久吉が言った。
「ほんとやなあ。けど、竹箒とはちがうわ。ドクターの家にあった羽のはたきのような形や」
音吉も珍しそうに椰子《やし》の木を眺《なが》めた。白い、肌目《きめ》の細かい砂の感触が、船から降りた音吉たちの足に快かった。一キロ程《ほど》離れた海上にはイーグル号が碇泊《ていはく》している。帆をおろしたそのイーグル号から、幾|隻《せき》かのボートが、水兵たちを乗せて陸地に近づいてくる。朝日にきらめく海が眩《まぶ》しい。
イーグル号は全船|燻蒸《くんじよう》のため、今、一人残らず船を離れようとしているのだ。長い航海のあとには、船内に発生する虫や、細菌を殺すため燻蒸がなされた。ロンドンを出たイーグル号は、フォート・バンクーバーでは燻蒸をしなかった。フォート・バンクーバーの十一月は、水兵たちの野営に適さなかったからである。イーグル号は最初からサンドイッチ諸島(ハワイ諸島)に寄港する予定であった、常夏《とこなつ》の島であるこの地は、水兵たちは毛布一枚で野営ができる。
燻蒸《くんじよう》はガン・デッキの中央において行われた。真っ赤に燠《おこ》した炭火で、タールに浸した木の枝や木の葉をいぶすのだ。無論ガンポート(大砲の前の穴)、ハッチも全部ふさぐ。この燻蒸を行う一昼夜、全員が上陸しなければならなかった。
「赤い花やら、黄色い花やら、きれいやなあ。極楽みたいやなあ、舵取《かじと》りさん」
砂の上に腰をおろした岩吉の傍《そば》に、自分も腰をおろしながら、久吉は真っ赤なハイビスカスをはじめ、色とりどりの花に目を奪われて言った。
「ほんとやな」
岩吉がうなずく。音吉も、
「日本では寒い時季やと言うのに、気持ちのいい暖かさや。久吉の言うとおりや。全く極楽みたいや」
「極楽か」
岩吉は呟《つぶや》いて、砂浜につづく花群を見た。その間も、次々と水兵たちが上陸して来る。上陸するなり、両手を上げて躍《おど》り上がる者もいる。大地に寝ころぶ者もいる。予《あらかじ》め定められた区域内に、大勢の水兵たちは思い思いにくつろいでいた。
「ここは何という島やった、音」
久吉が尋《たず》ねた。
「さてな、サンドイッチと言うてたわな」
「サンドイッチって、何のことやった?」
「さあ、何のことやったかな、舵取りさん」
「人の名前だと、サムが言うていたがな」
「人の名前か。知らんかった。何で人の名前なんぞつけたんやろ。日本に、人の名前なんぞつけた島があったかな」
「ないやろな。あのな、サンドイッチってのは、ここの島を見つけたエゲレス人のキャプテン・クックの恩人の名前やそうや」
「ふーん。キャプテン・クックな。その名前なら聞いたことあるわ」
久吉と音吉は、初めて見る島に好奇の目を向けた。
「あ! 草葺《くさぶ》きの家があるで」
やや遠くに見える家々を音吉は指さした。
「ほんとや、草葺きや。懐かしいなあ」
「懐かしいなあ」
その家々から子供たちが物珍しそうに出て来た。が、傍《そば》までは来ず、遠くから眺《なが》めているだけだ。
「ええ所やで、子供がこっちへ来んかなあ」
音吉は言いながら、まだ自分の体が揺れているような気がした。揺れ動かぬ大地に腰をおろしているという実感がない。
「何かうまいものがないかなあ。草の実か、木の実か」
定められた所から離れて、自由に歩きまわることはできない。久吉と音吉が、そんなことを話し合っている傍で、岩吉は水平線に目をやっていた。
今、岩吉の頭にあるのは、マクラフリン博士に見せられた地球儀であった。イーグル号はフォート・バンクーバーを出て、サンドイッチ諸島に寄るのだと、博士は言った。その毛深い指でさし示した島は日本とアメリカのほぼ中間にあるように思われた。少なくともあと二か月船に乗れば、まちがいなく日本に着ける距離に思われた。
(このまま西へ西へと行けば、日本なんや)
不意に岩吉は胸のしめつけられるような懐かしさを覚えた。このままイーグル号から降りてしまいたい思いに駆られた。
イーグル号は、ここから真っすぐ日本に向かうのではない。マクラフリン博士は、南アメリカの南端、ホーン岬を通ってイギリスに寄ると言っていた。そしてその後、南アフリカの喜望峰《きぼうほう》を迂回《うかい》して日本に向かうと言った。岩吉の胸に、博士の指さした道筋が鮮やかに刻みこまれている。それは余りにも遠く遥《はる》かな道筋であった。ここから真っすぐ日本に行けば、二か月余で行けるところを、あと一年は航海をつづけなければならない。
(あと一年か)
岩吉は吐息をついた。その一年の間に、船はいかなる嵐に遭《あ》うか。海賊の襲撃に遭うか。あるいは病魔に倒れるか。何《いず》れにせよ危険が待ち構えていることは確かなのだ。
が、岩吉にとって、それらの危険よりも、更《さら》に大きな危惧《きぐ》があった。それは妻の絹のことであった。今なら、絹はまだ一人で、自分の菩提《ぼだい》を弔《とむら》っているような気がする。しかしあと一年となると、家を出て丸三年ということになる。これから一年の間に、あの銀次が妻の絹を口説き落とさぬという保証はない。
(今なら、間に合うかも知れん)
岩吉の目に、絹の淋《さび》しげな姿が浮かぶ。あの路地を駈《か》けまわっているであろう岩太郎の姿が目に浮かぶ。岩吉の胸に、切ない思いが火のように噴き出した。
岩吉は、千石船《せんごくぶね》に乗っていた頃《ころ》、ふっと絹に会いたくなって、仕事半ばで船を脱け出したことがあった。あの時は、お蔭参《かげまい》りの大義名分があった。女、子供であろうと、奉公人であろうと、このお蔭参りには誰の許しもなく脱け出すことができた。
今、岩吉は、あの時以上の激しい思いで、妻子を思っていた。
(このまま真っすぐ帰れば、たったの二か月や)
いわば日本は目の前なのだ。その目の前の日本を後にして、わざわざイギリスに寄らねばならぬ義理はない。
(要するに、俺たちが無事に日本に帰ったらいいんやろ)
岩吉は単純にそう思った。ここで下船したからといって、マクラフリン博士の恩義を裏切ることになるとは思わなかった。むしろここで降りたほうが、経済的負担をかけなくてすむ。むろん、自分たちを送り届けなければならぬ艦長の立場も、わかっている。だが、艦長もまた、ここでの下船を拒む理由はないのではないか。この島から、捕鯨船《ほげいせん》が日本の近くに行っていると、博士が言っていた。イーグル号にもその捕鯨船《ほげいせん》に乗っていた者がいる。
(俺も捕鯨船に乗り組むわけにはいくまいか)
岩吉の胸はとどろいた。
(艦長に頼みこむのだ)
岩吉の目に、絹と銀次の姿がちらつく。
(俺は帰る。もし艦長が許さねば、逃げてでも帰る)
一旦《いつたん》噴き出した火を、岩吉は消すことができなかった。岩吉は、マクラフリン博士が、日英通商の願いもあって、多額の費用を岩吉たちのために払っていることなど、知る筈《はず》もなかった。
捕鯨船に乗って、日本の近くまで帰ることができれば、尾張《おわり》に帰ることは容易な気がした。日本近海まで行けば、漁船の便はある筈だ。漁船に行き会うことが不可能なら、どんな島でもいい、その島に一旦上陸すればいい。岩吉は、異国の軍艦で帰るよりは、そのほうが役人の取り調べもきびしくはあるまいと思った。自分たち三人さえ、アメリカに漂着したと言わなければいいのだ。日本の近くの無人島にでも打ち上げられて二年が過ぎたと言えば、通る筈だ。
(よし! とにかく俺は帰るぞ)
岩吉は自分の決意を確かめるように、胸の中で呟《つぶや》いた。
(だが……艦長が果たしてこの願いを聞いてくれるかどうか)
岩吉は不安になった。自分の心のうちを、充分に訴えることは、岩吉にはできない。
音吉は三人のうちで一番英語がうまい。が、年少の音吉が、艦長を説得するだけの力があるだろうか。
(いっそのこと、闇《やみ》に紛れて……)
岩吉は、傍《かたわ》らで何か話し合っている音吉と久吉に視線を戻《もど》した。
(この二人を置いて行くわけにはいくまい)
自分一人なら、逃げることも、捕鯨船にしのびこむことも、可能のような気がする。だがこの二人と共に行動するのは、容易なことには思えなかった。燻蒸《くんじよう》は一昼夜を要する。もし脱出するとすれば、明朝までに決行しなければならない。岩吉は島の地形に鋭く目を走らせた。
砂浜に降り立って、言葉もなくしばらく辺《あた》りを見まわしていた久吉が言った。
「ほんとやなあ。けど、竹箒とはちがうわ。ドクターの家にあった羽のはたきのような形や」
音吉も珍しそうに椰子《やし》の木を眺《なが》めた。白い、肌目《きめ》の細かい砂の感触が、船から降りた音吉たちの足に快かった。一キロ程《ほど》離れた海上にはイーグル号が碇泊《ていはく》している。帆をおろしたそのイーグル号から、幾|隻《せき》かのボートが、水兵たちを乗せて陸地に近づいてくる。朝日にきらめく海が眩《まぶ》しい。
イーグル号は全船|燻蒸《くんじよう》のため、今、一人残らず船を離れようとしているのだ。長い航海のあとには、船内に発生する虫や、細菌を殺すため燻蒸がなされた。ロンドンを出たイーグル号は、フォート・バンクーバーでは燻蒸をしなかった。フォート・バンクーバーの十一月は、水兵たちの野営に適さなかったからである。イーグル号は最初からサンドイッチ諸島(ハワイ諸島)に寄港する予定であった、常夏《とこなつ》の島であるこの地は、水兵たちは毛布一枚で野営ができる。
燻蒸《くんじよう》はガン・デッキの中央において行われた。真っ赤に燠《おこ》した炭火で、タールに浸した木の枝や木の葉をいぶすのだ。無論ガンポート(大砲の前の穴)、ハッチも全部ふさぐ。この燻蒸を行う一昼夜、全員が上陸しなければならなかった。
「赤い花やら、黄色い花やら、きれいやなあ。極楽みたいやなあ、舵取《かじと》りさん」
砂の上に腰をおろした岩吉の傍《そば》に、自分も腰をおろしながら、久吉は真っ赤なハイビスカスをはじめ、色とりどりの花に目を奪われて言った。
「ほんとやな」
岩吉がうなずく。音吉も、
「日本では寒い時季やと言うのに、気持ちのいい暖かさや。久吉の言うとおりや。全く極楽みたいや」
「極楽か」
岩吉は呟《つぶや》いて、砂浜につづく花群を見た。その間も、次々と水兵たちが上陸して来る。上陸するなり、両手を上げて躍《おど》り上がる者もいる。大地に寝ころぶ者もいる。予《あらかじ》め定められた区域内に、大勢の水兵たちは思い思いにくつろいでいた。
「ここは何という島やった、音」
久吉が尋《たず》ねた。
「さてな、サンドイッチと言うてたわな」
「サンドイッチって、何のことやった?」
「さあ、何のことやったかな、舵取りさん」
「人の名前だと、サムが言うていたがな」
「人の名前か。知らんかった。何で人の名前なんぞつけたんやろ。日本に、人の名前なんぞつけた島があったかな」
「ないやろな。あのな、サンドイッチってのは、ここの島を見つけたエゲレス人のキャプテン・クックの恩人の名前やそうや」
「ふーん。キャプテン・クックな。その名前なら聞いたことあるわ」
久吉と音吉は、初めて見る島に好奇の目を向けた。
「あ! 草葺《くさぶ》きの家があるで」
やや遠くに見える家々を音吉は指さした。
「ほんとや、草葺きや。懐かしいなあ」
「懐かしいなあ」
その家々から子供たちが物珍しそうに出て来た。が、傍《そば》までは来ず、遠くから眺《なが》めているだけだ。
「ええ所やで、子供がこっちへ来んかなあ」
音吉は言いながら、まだ自分の体が揺れているような気がした。揺れ動かぬ大地に腰をおろしているという実感がない。
「何かうまいものがないかなあ。草の実か、木の実か」
定められた所から離れて、自由に歩きまわることはできない。久吉と音吉が、そんなことを話し合っている傍で、岩吉は水平線に目をやっていた。
今、岩吉の頭にあるのは、マクラフリン博士に見せられた地球儀であった。イーグル号はフォート・バンクーバーを出て、サンドイッチ諸島に寄るのだと、博士は言った。その毛深い指でさし示した島は日本とアメリカのほぼ中間にあるように思われた。少なくともあと二か月船に乗れば、まちがいなく日本に着ける距離に思われた。
(このまま西へ西へと行けば、日本なんや)
不意に岩吉は胸のしめつけられるような懐かしさを覚えた。このままイーグル号から降りてしまいたい思いに駆られた。
イーグル号は、ここから真っすぐ日本に向かうのではない。マクラフリン博士は、南アメリカの南端、ホーン岬を通ってイギリスに寄ると言っていた。そしてその後、南アフリカの喜望峰《きぼうほう》を迂回《うかい》して日本に向かうと言った。岩吉の胸に、博士の指さした道筋が鮮やかに刻みこまれている。それは余りにも遠く遥《はる》かな道筋であった。ここから真っすぐ日本に行けば、二か月余で行けるところを、あと一年は航海をつづけなければならない。
(あと一年か)
岩吉は吐息をついた。その一年の間に、船はいかなる嵐に遭《あ》うか。海賊の襲撃に遭うか。あるいは病魔に倒れるか。何《いず》れにせよ危険が待ち構えていることは確かなのだ。
が、岩吉にとって、それらの危険よりも、更《さら》に大きな危惧《きぐ》があった。それは妻の絹のことであった。今なら、絹はまだ一人で、自分の菩提《ぼだい》を弔《とむら》っているような気がする。しかしあと一年となると、家を出て丸三年ということになる。これから一年の間に、あの銀次が妻の絹を口説き落とさぬという保証はない。
(今なら、間に合うかも知れん)
岩吉の目に、絹の淋《さび》しげな姿が浮かぶ。あの路地を駈《か》けまわっているであろう岩太郎の姿が目に浮かぶ。岩吉の胸に、切ない思いが火のように噴き出した。
岩吉は、千石船《せんごくぶね》に乗っていた頃《ころ》、ふっと絹に会いたくなって、仕事半ばで船を脱け出したことがあった。あの時は、お蔭参《かげまい》りの大義名分があった。女、子供であろうと、奉公人であろうと、このお蔭参りには誰の許しもなく脱け出すことができた。
今、岩吉は、あの時以上の激しい思いで、妻子を思っていた。
(このまま真っすぐ帰れば、たったの二か月や)
いわば日本は目の前なのだ。その目の前の日本を後にして、わざわざイギリスに寄らねばならぬ義理はない。
(要するに、俺たちが無事に日本に帰ったらいいんやろ)
岩吉は単純にそう思った。ここで下船したからといって、マクラフリン博士の恩義を裏切ることになるとは思わなかった。むしろここで降りたほうが、経済的負担をかけなくてすむ。むろん、自分たちを送り届けなければならぬ艦長の立場も、わかっている。だが、艦長もまた、ここでの下船を拒む理由はないのではないか。この島から、捕鯨船《ほげいせん》が日本の近くに行っていると、博士が言っていた。イーグル号にもその捕鯨船《ほげいせん》に乗っていた者がいる。
(俺も捕鯨船に乗り組むわけにはいくまいか)
岩吉の胸はとどろいた。
(艦長に頼みこむのだ)
岩吉の目に、絹と銀次の姿がちらつく。
(俺は帰る。もし艦長が許さねば、逃げてでも帰る)
一旦《いつたん》噴き出した火を、岩吉は消すことができなかった。岩吉は、マクラフリン博士が、日英通商の願いもあって、多額の費用を岩吉たちのために払っていることなど、知る筈《はず》もなかった。
捕鯨船に乗って、日本の近くまで帰ることができれば、尾張《おわり》に帰ることは容易な気がした。日本近海まで行けば、漁船の便はある筈だ。漁船に行き会うことが不可能なら、どんな島でもいい、その島に一旦上陸すればいい。岩吉は、異国の軍艦で帰るよりは、そのほうが役人の取り調べもきびしくはあるまいと思った。自分たち三人さえ、アメリカに漂着したと言わなければいいのだ。日本の近くの無人島にでも打ち上げられて二年が過ぎたと言えば、通る筈だ。
(よし! とにかく俺は帰るぞ)
岩吉は自分の決意を確かめるように、胸の中で呟《つぶや》いた。
(だが……艦長が果たしてこの願いを聞いてくれるかどうか)
岩吉は不安になった。自分の心のうちを、充分に訴えることは、岩吉にはできない。
音吉は三人のうちで一番英語がうまい。が、年少の音吉が、艦長を説得するだけの力があるだろうか。
(いっそのこと、闇《やみ》に紛れて……)
岩吉は、傍《かたわ》らで何か話し合っている音吉と久吉に視線を戻《もど》した。
(この二人を置いて行くわけにはいくまい)
自分一人なら、逃げることも、捕鯨船にしのびこむことも、可能のような気がする。だがこの二人と共に行動するのは、容易なことには思えなかった。燻蒸《くんじよう》は一昼夜を要する。もし脱出するとすれば、明朝までに決行しなければならない。岩吉は島の地形に鋭く目を走らせた。