悲鳴が聞こえた。
「──何だ?」
と哲《てつ》郎《お》は顔を上げた。 「おい、ケンジ。何か聞こえなかったか?──おい、ケンジ!」
哲郎は振り返って、舌打ちした。そして、妙に腰を振りながら、体をクネクネさせているケンジの耳から、イヤホーンをはたき落とした。
「何だよ、兄貴! 壊れちまうよ俺《おれ》の大事なウォークマンが」
「いい加減にしろ」
と、哲郎はにらんで、「仕《ヽ》事《ヽ》してるときにそんなもん、聞いてる 奴《やつ》があるか!」
「ちゃんと見張ってるぜ」
と、ケンジが口を尖《 とが》らす。
「聞こえなかったろう、変な叫び声が」
「叫び声って?」
「ま、いい。ともかく、ちゃんと用心してろよ」
哲郎は、周囲を見回した。
大丈夫だ。誰も見ちゃいない。
この駐車場は、哲郎たちの仕事にうってつけである。夜間の照明がない。道の街灯の光は、遠くてほとんど中へ届いていない。
それに、屋外で、どの車もシートさえかけていない。そう高級な車があるわけじゃないが、それだけに、妙な防犯装置なんかわざわざつける奴はいない。
加えて、場所がいい。──いや、車の持主にとっては逆だが、この駐車場は、マンション二棟分の車が置かれていて、しかも、どっちのマンションからも死角になっていて、見えないのだ。
これじゃ、「どうぞ好きにして下さい」と並べてくれているようなものである。
そして哲郎は、こんなときに遠慮する男じゃなかった。
「──兄貴」
と、ケンジが言った。
「何だよ」
「TVカメラがあるぜ」
合い鍵《 かぎ》を捜して、重い鍵の束をジャラジャラいわせながら、目の前の車にためしていた哲郎は、顔を上げた。
「ほら、あそこに」
と、ケンジが指さす方向に、薄暗くてよく見えないが、確かに塀の上の高い位置にTVカメラが設置してある。
「映ってんじゃない、俺たち?」
「心配すんな」
と、哲郎は笑って、「カメラがあるのは知ってたさ。でもな──安心しろ。あれは外形だけ。中身は空っぽなんだ。カカシと一緒さ。カメラを見りゃびびると思って、くっつけてあるんだ」
「何だ、そうか」
と、ケンジがつまらなそうに、「せっかくよく映ろうと思って、髪も整えたんだぜ」
「呑《のん》気《き》な奴だな」
と、哲郎は苦笑いした。「ちゃんと道の方を見てろよ」
「うん」
ケンジがブラッと駐車場から道路の方へ出て行く。
哲郎は首を振った。──頼りない奴だが、哲郎のことを、「兄貴」と呼んでくっついて来る。追い払うというわけにもいかなかった。
「──よし、開いた」犯人を捜す犯人
車の中を、了《あらかじ》め懐中電灯で照らし、何かありそうな車だけ開ける。そして、バッグとかアクセサリーとか、金になりそうな物だけをとる。
哲郎は、他の連中のように、何も見付からなかったからといって、腹いせに車を叩《たた》き壊すような馬鹿な真似《まね》はしなかった。むだに罪状を重ねて、万一捕まったときの刑期を長くすることはない。
「──OK」
と呟《つぶや》いた。
置き忘れたのだろう、バッグの中から、ネックレスやイヤリングが出て来た。
哲郎は慣れているので、本物かガラスか、その光で見分けられる。──こいつは結構な品物だ。素早くポケットへ入れる。
さて……。あと二、三台やったら、今日は引揚げよう。もう少し、もう少し、という欲が災いのもとだ。
次の車へ移ろうとして、哲郎は目を上げた。
TVカメラが見える。──ちゃんと調べてるんだぜ。そんな「はったり」にごまかされやしねえ。
ニヤリと笑って、次の車の中を覗《のぞ》こうとした哲郎は、あのTVカメラがゆっくり首を振っているのを見て、愕然《がくぜん》とした。
動いた……。確かに動いた!
あれがただの外箱だけのものなら、首など振らない。──畜生!
哲郎は急いで駐車場を出た。──あのカメラで、ここを監視している人間がいたとしたら、一一〇番して、もうパトカーがこっちへ向っている。いや、もうここへ着いていてもおかしくない。
畜生! 失敗だった。
もし逃げられても、あのカメラがこっちの顔をはっきり撮っていたら……。
「ケンジ!──ケンジ!」
と、哲郎は押し殺した声で言った。「どこだ!──ケンジ!」
どこに行った? あの馬鹿め!
苛《いら》々《いら》しながら見回していると──植込みから、フラッとケンジが出て来た。
「おい! 何してたんだ。早く逃げるんだ。パトカーが来るぞ」
と、哲郎は走りかけたが──。
ケンジがついて来ないのである。ボーッと突っ立っている。
「おい! 捕まりたいのか! しっかりしろ!」
と、駆け戻り、ケンジの手をつかんで引張ろうとしたが……。
ベタッと何かが手にくっつく感覚があった。
「──ケンジ。何だ、これ?」
手を街灯の明りにかざして、それが血らしいと気付いた哲郎は、愕然とした。
「どうしたんだ?──どこでつけた!」
ケンジは、哲郎に肩をつかんで揺さぶられ、やっと我に返った様子で、
「兄貴……。俺じゃない! 俺じゃないんだよ。本当だ。足が見えて……。で、中を探ってみたら……」
「足?」
哲郎は初めて気付いた。歩道と駐車場の間を分けている植込みから、白い足首が覗《のぞ》いている。
哲郎は、近寄ってかがみ込んだ。──ほとんど全身が植込みの間に押し込まれているので、よく見えないが、足首だけでも若い女の子だろうと分る。
触らないように用心しながら植込みを左手で押しやって、明りで照らしてみる。
哲郎でさえ、一瞬血の気がひいた。
少女──たぶん、十五、六だろう。ブレザーの制服。プリーツスカート。
今、それは血に染まっていた。
刃物の傷が、少女の喉《のど》から胸、腹へと一気につながって、血が 溢《あふ》れるように出ただろうと思われた。
「──ひどい」
立ち上って、さすがに少しよろけた。
「兄貴……。これ……例の?」
ケンジの声はかすれていた。
「たぶんな……。ともかく、俺たちは関係ないんだ。行くんだ、急いで」
二人は足早にその場を離れた。走ると目立つ。少し急いでいる感じで歩くのだ。
「兄貴……」
と、ケンジがふらついて、「吐きそうだ」
「しっかりしろ! 早く逃げねえと──」
と言っているそばから、ケンジは道端にかがんで吐いてしまった。
「急げよ。人が来るぞ!」
哲郎は気が気じゃなかった。そして、周囲を見回したが……。
そのとき、一番見たくないものが目に入った。──道の向うから、サッと光が射したと思うと、パトカーが現われたのである。
運悪く、哲郎たちは隠れようもなく、ライトの中に入ってしまった。
「逃げろ!」
と、哲郎は、ケンジの腕をつかんだ。「急げ!」
二人が駆け出した。当然、パトカーは追って来る。
「止れ!──そこの二人、止れ!」
マイクを通した声が、辺りに響きわたった。
ケンジは、まだふらついていて、とても一緒には走れない。
「分れるんだ!」
と、哲郎は怒鳴って、ケンジを反対側へと押しやった。「走れ! 死にもの狂いで走れ!」
それ以上、言ってやる言葉もない。哲郎はパトカーが自分を追って来るように、目立つ走り方をした。もちろん、パトカーと競っても、かなうはずがない。しかし、少しでもケンジを遠くへ逃がしてやりたかったのだ。
パトカーがキーッとブレーキの音をたてて停《とま》り、警官が一人、飛び出して来た。その警官がケンジの後を追い、パトカーはまた走り出して、哲郎を追って来た。
哲郎はその間に少し走れたが、何といっても向うは車である。たちまち後ろへ追って来た。
それでも哲郎は必死で走った。──心臓が破裂しそうだったが、ともかく走った。
逃げられると思っていたわけではない。ただ、走り続けるしかなかったのだ。立ち止る、なんてことを考える余裕もなかった。
わきへ逃げ込める道はないかと目は必死で左右へ走ったが、運悪くどっちにも塀が続いている。
畜生! ひき殺す気かよ!
パトカーが唸《うな》りを上げて迫って来る。
──もうだめだ!
そのとき、突然目の前の角を曲って、車が現われたのだ。
一瞬、哲郎はそれが現実のものなのか、幻なのかと疑った。
その車がクラクションを鳴らす。正面からのライトがまぶしく視界を覆う。
前と後ろから車が──。
哲郎は何も考えていたわけではない。考えている余裕などなかった。体の方が勝手に反応していた。
哲郎は横へと飛んだ。思い切り。
道へ転がるより早く、車と車のぶつかる音がした。哲郎は頭を抱えて、道に転がった。
野田は、体を揺さぶられて目を覚ました。
「──何だ。何してる?」
と、覗き込んでいるアケミを見上げて言った。
「何してる、はないでしょ」
アケミは、ちょっと口を尖《とが》らして、 「私、あなたの〈愛人〉でしょう。同じベッドにいてどこが悪いの?」
「そうか。──分った、分った」
野田は欠伸《あくび》をして、 「どうしたんだ? 今夜はあっちが忙しいのか」
「電話」
「俺に?」
「だから起こしたのよ。急な用ですって」
と、アケミは言った。「あの子よ。ハンサムな……。何てったっけ? テツオ?」
「哲郎か」
野田は起き上った。「あいつが何の用だ、こんな時間に」
「さあ。直接訊《き》いて」
アケミはベッドから出ると、「向うへ行ってる?」
「そうだな。──じゃ、そうしてくれ」
野田は、アケミに気をつかわれて苦笑していた。
やれやれ……。四十五で、女に起こされないと電話にも出られないのか。
ナイトテーブルの明りを点《つ》けて、外して置いてある受話器へ手を伸ばした。
野田重人は、このところたいてい一人で寝ている。──妻と子供は北海道にいて、めったに会うこともない。しかし、それは安全のためでもあった。
何しろ野田は「裏の顔」を持つ企業人である。身辺は充分に警護させていたが、家族のガードにまでは手が回らないというのが正直なところだ。
その代り、「女」には不自由しないし、また野田を知る人間の間では、「女殺し」で通っている。アケミもその「大勢」の一人なのだが……。
「──もしもし」
と、野田が出ると、
「あ。──哲郎です。社長、すみません。しくじっちまって」
哲郎の声は普通ではなかった。ひどく息を切らし、しかも人目をはばかっている様子である。
「何だ、どうした?」
「車をやってて……パトカーが来ちまったんです」
「そいつはまずかったな。で、逃げたのか」
「何とか……。でも、ケンジの奴と別々になったんで、あいつがどうしたか分りません」
哲郎は、少し間を置いて、「防犯カメラに映ってたらしいんです」
「何だと? お前らしくもないな」
「すみません。もうご連絡はしません。縁を切ったことに……」
「そうか。──分った」
「俺は何とか逃げます。それから……」
「それから? まだあるのか」
哲郎はためらった。そして、
「人が来るんで。もう切ります」
と、早口に言うと、「色々お世話になりました」
「ああ。気を付けてな」
「ありがとうございます。じゃ」
あわただしく電話を切ってしまう。
少しして、アケミが戻って来た。
「どうかしたの?」
と、大きなベッドへ入って来る。
「うむ?──忘れろ」
と、野田は言った。「いいな。哲郎のことは全《ヽ》部《ヽ》忘れるんだ」
アケミが真顔になって、
「じゃ……まずいことになったのね」
「ああ、そうらしい。何も知らずにいろ。その方が、偽証せずにすむ」
野田は、アケミの肩を抱いた。
「──死ぬの?」
「哲郎か? どうかな。律儀な奴《やつ》だから、そうするかもしれん。こっちへ迷惑をかけないように消えるだろう」
「可哀《かわい》そう。いい子だったじゃないの」
「仕方ない。そういう決りだ」
野田は明りを消して、「──もう寝ろ」
と言った。
アケミは、何やらブツブツ呟《つぶや》いていたが、五分としない内に眠ってしまう。
野田は、もう四十五で、一旦起きてしまうとそうすぐには寝直せない。
それにしても……。哲郎がもう一つ言わなかったことが、何だったのか。それが気にかかった。
いやな、重苦しい予感がしている。
そして野田のこういう予感は、たいてい当るのだった……。