玄関の方で物音がして、伸子はハッと顔を上げた。
あの子だわ! 圭子が帰って来たんだ。
「ただいま」
と、いつものように少しふくれっつらをして、「何かおやつない?」
十六にもなって、甘いものの好きな子で……。普通なら、太るのを気にして、甘いものは控える年ごろである。
伸子は玄関へ出て行ったが──。
「あなた」
と、伸子は言った。「何してるの?」
古畑良介は、靴をせっせと玄関に並べていた。自分の靴も、伸子の靴も、そして圭子の靴も。広いとは言えない玄関は、靴で一杯になってしまう。
「いや、会社へ行こうと思ったんだ」
と、古畑は靴箱の中を覗《 のぞ》いて、 「これだけしかなかったかな?」
「それだけよ」
「そうか?──圭子の靴が少ないな。ちゃんと買ってやれよ。女の子なんだ。お洒落《しやれ》の一つもしたいだろうしな」
古畑は、会社へ行くときのように、スーツにネクタイという格好をしていた。
「あなた……。会社へは休むって連絡したじゃありませんか」
「休む?──そうだったか?」
古畑は、少しポカンとしていたが、「今日は土曜日か。そうか」
「違いますよ。圭子が死んだのよ。だから休んだんでしょ」
しっかりしなくては。──伸子は自分へ言い聞かせて、夫の手を取った。
「さ、上って。少し横になった方がいいわ」
「いや……。もう充分寝たよ」
と、古畑は言って、それでも妻に逆らうことなく上って来た。
圭子……。そう、圭子は死んだ。
誰かの手で殺されたのだ。何てむごい!
伸子も信じたくない。しかし、現実に死んだ圭子をこの目で見たのだ。
「──さ、座って」
と、夫を居間のソファに座らせると、「ネクタイ、外したら?」
「いや、いつでも出社できるようにしとかんとな。サラリーマンは、それが仕事なんだから」
「そうね」
伸子も、それ以上は逆らわなかった。
圭子の死体を見せられたとき、伸子は泣いてとりすがったが、古畑の方は、ただじっと立ち尽くしているばかりだった。
伸子は、夫が悲しみに堪《た》えているのだとばかり思っていたが、これは正しくなかったらしい。夫はただ、呆《ぼう》然《ぜん》として、 「娘の死」を受け容れることができなかったのだ。
「──和男から電話がありましたよ」
と、伸子は言った。「明日の午後にはこっちへ着くって」
「明日? 何してるんだ。全く!──どこで遊び回ってるんだ、あいつは」
と、古畑は腹立たしげに言った。
「あなた……。和男はアメリカですよ」
と、伸子は言った。「分ってる? アメリカの大学へ行ってるのよ」
「あいつは冷たい奴《やつ》なんだ。妹のことなんか、気にしちゃいない。俺はよく知ってるんだ」
と、夫は伸子の言うことなど聞いていない。
和男は二十歳で、アメリカの大学に留学している。──妹の圭子を可愛がっていたのは、伸子もよく知っていた。圭子も、伸子とは兄のことをよく話したし、一度アメリカに遊びに行きたいと言っていた。
ただ──どういうわけか、和男は父親とそ《ヽ》り《ヽ》が合わず、特に高校生になってからは、ほとんど口をきこうともしなかった。
伸子には、夫と息子との間が、なぜこうも冷たいものになってしまったのか、分らなかった。
ただ、和男がアメリカ留学を決めたのは、父親と毎日一緒にいるのがいやだったからだろうということは、伸子にも分っていたのである。
玄関のチャイムが鳴った。
「──はい」
と、出てみると、
「どうも、奥さん」
と、白髪の老人が顔を出した。
「あ……。泉さん、どうも」
と、伸子は頭を下げた。
「この度は──。娘さんはとんだことで」
「はあ……。何かご用でしょうか」
「ちょっとご主人にお目にかかりたくて。いらっしゃいますか?」
「はあ……」
あんな状態の夫に会わせたくはなかったが、泉は、
「じゃ、ちょっとお邪魔します。すぐ失礼しますから」
と、勝手に上って来てしまった。
「──どうも、古畑さん」
「泉さんですか。どうも……」
伸子は、泉の図々しさに腹が立ったが、帰ってくれとも言えない。仕方なく台所へお茶をいれに行った。
「まあ、力を落とさんようにね」
と、泉は古畑の肩を叩《たた》いた。 「犯人は捕まりますよ」
「ありがとう」
と、古畑が肯く。
泉は元警官で、今は停年退職して、このマンションで暮している。──伸子などには「口やかましい年寄り」として敬遠されているが、当人は時間を持て余し、体力はまだまだあるので、よく「パトロール」まがいの「巡回」をしたりしていた。
「──どうぞ」
と、伸子はお茶を出して、「主人はかなり参っていますので、お話は手早く……」
「ええ、よく分ってます。私もよく心得てますよ」
泉は、いかにも「役人」風の押し付けがましさを感じさせる口調で言った。伸子はどうしてもこの泉という男が好きになれない。
伸子は、ソファにかけたが、泉の方はあからさまに伸子に「いてほしくない」という様子を見せた。
「じゃ、何かあったら、呼んで下さい」
と、伸子は言って、台所へ行く。
泉は、古畑の方へ近寄って座ると、
「古畑さん。──ショックでしょうな」
と、少し低い声で言った。
「それはそうですよ」
「当然ですな。可愛い娘さんだった」
と、泉は肯いて、「しかし、これで犯人が捕まったとして、奴らはどうなるか。弁護士は精神鑑定を申請する。裁判は何年もかかります。下手すりゃ、奴らの方が『社会の犠牲者』扱いされて同情される。──冗談じゃない! 人殺しは殺してやりゃいいんです。親ごさんの気持になったら。ねえ、そうでしょう?」
古畑は、肯いて、
「そうですな」
と言った。
しかし、その目は、泉を見ているようでいて、何も見ていないようでもあった。
「──古畑さん」
と、泉は顔を寄せて、「娘さんはこのすぐ近くの駐車場のそばで殺された。犯人は、近くでパトカーに見られて逃げた。──ところがね」
泉はチラッと台所の方へ目をやって、
「見付けたんですよ一《ヽ》人《ヽ》」
と言った。
古畑は、無表情のまま泉を見て、
「──見付けた?」
「ええ。偶然ですがね、ボイラー室で音がしたのを耳にしたもんですから、入ってみたんです。そしたら、あの片割れが……。目を疑いましたよ!」
泉は声が上ずっていた。
「じゃ……もう捕まったんですか」
と、古畑は訊《 き》いた。
「いいえ。──私はね、もちろん一一〇番すべきだということも分っています。でもね、考えたんです。古畑さんのお気持を。きっと自《ヽ》分《ヽ》の《ヽ》手《ヽ》で《ヽ》敵《かたき》を討ちたいだろう、と思ったんですよ」
古畑の目に、やっと光が戻って来た。
「つまり……そいつはまだいるんですね、そこに?」
「ええ。──抜けた奴《 やつ》でね。自分の正体がばれてるとは知りません。私が、ちょっとやさしい声をかけてやり、安い弁当一つ、買って来て食わしてやったんで、すっかり信用してるんですよ」
泉は得意げに言った。「で、言ってやったんです。今出てくと必ず見付かって、浮浪者は警官に引き渡される。夜になってから出てった方がいいって。奴もすぐその気になりましたよ」
「──それで?」
「誰も入れないようにしとくから、と言って、ボイラー室の鍵《 かぎ》を借りて来てかけときました。奴を閉じこめたわけですよ」
泉は声が出ないようにして笑い、「夜、迎えに来てやる、とあいつに言っときました。あいつはおとなしく待ってるでしょう」
「じゃ……そのときに私も?」
「ぜひ、敵をお討ちなさい。娘さんの恨みを晴らさなくちゃ。私が手伝いますよ」
古畑は、大きく息をついて、
「──分りました」
と言った。「そいつを、この手で殺してやりますよ」
「そう! それでこそ父親ですよ」
と、泉が得たりという顔で肯く。
「しかし──警察から何か言われませんかね?」
「私が証言します。正当防衛ということにしてもいい。大丈夫ですよ。私は退職しちゃいますが、いくらでも知り合いがいるんです」
「ありがとう!」
古畑は、泉の手を強く握った。「ありがとう」
頬《 ほお》は紅潮し、目には輝きが戻っていた。
「奥さんには内緒ですよ」
と、泉が言って立ち上ると、「お迎えに来ます。──夜十時ごろにしましょう」
「待ってますよ」
と、古畑は肯いて言った……。
野田は電話を切ると、ため息をついた。
野田は、警察の中にも色々情報網を持っている。しかし、今のところ二人が見付かっていないのは確かなようだ。
電話が鳴って、出てみると、アケミからだった。
「──お母さんと食事してるの」
と、アケミは言った。
「良かったな。よろしく言ってくれ」
「ええ。それで──一つ、お願いがあるんだけど」
と、アケミがおずおずと言う。
「何だ?」
「お母さんが、このホテルのショップで見たバッグをとても気に入って……。買ってあげてもいいかしら?」
野田はちょっと笑って、
「何かと思ったぞ。いいとも。金は足りるのか? 足りなきゃ誰かに持たせるぞ」
「いえ、充分よ。──いいのね? ありがとう!」
と、アケミが飛びはねそうに喜んでいる。
「誰か来た。──じゃ、ゆっくりして来い」
「はい。じゃあね」
野田は少し気分が軽くなった。
「入れ。──何だ?」
がっしりした体つきの用心棒が、戸惑った顔で立っている。
「社長にどうしても会わせてくれって女が来てるんですが」
「女?」
野田は眉《 まゆ》をひそめて、 「どんな女だ」
「私です」
と、大きな男のわきをすり抜けるようにして入って来た女学生に、野田は目を丸くした。
「おい! 勝手に入るな!」
と、用心棒が怒鳴る。
「待て。──何の用だね、娘さん?」
「野田さんですね」
と、その少女は言った。「私、中野哲郎の恋人です」
野田は呆気《あつけ》にとられた。
「哲郎のことで、お話ししたいんです、私、間近紀子といいます。十七歳です」
「──分った」
野田は手を振って、用心棒に出て行かせた。
「間近……紀子? ふーん。哲郎にこんな友だちがいたのか」
と、まじまじと眺めて、「──その制服、もしかして……」
「はい。殺された子と同じ学校です」
と、紀子は言って、「哲郎は犯人じゃありません。ご存知でしょ?」
野田は首を振って、
「俺は何も知らないよ、娘さん」
と言った。「もう、哲郎とは何の縁もないのさ」
「知ってます。──あなたが見捨てても、私は見捨てません」
野田は苦笑して、
「勇ましいね。しかし、君に何ができる?」
「お弁当をあげて、お金を渡しました。でも、長くは逃げられっこありません。遠からず捕まります」
「哲郎と会った?」
「はい。今どこにいるかは知りませんけど」
「そうか。──で、何の話だね?」
「哲郎を助けて」
と、紀子は言った。「私でできることなんて限られてます。でもあなたなら、それができます」
「無理だよ。もう奴は指名手配されてる。逃がしたところで、いずれ見付かる」
「分ってます。ですから、哲郎を救う方法は一つしかありません。本当の犯人を見付けることです」
野田は唖《 あ》 然《 ぜん》とした。この娘の度胸に圧倒されそうだった。
「おい。うちは警察じゃないんだよ。犯人捜しをやれって言うのか」
「できるのは、あなたしかいません」
「残念だが──」
「哲郎を気に入ってるんでしょ」
少女の言葉に、野田が詰った。少女は続けて、
「哲郎は言ってました。こんな仕事、やめたいけど、社長にはずいぶん世話になった。だから、やめられないんだ、って」
野田は、ホッと息をついて、
「確かに、哲郎のことは気に入ってる。しかしね、しょせん奴はチンピラの一人さ。さあ帰りな。俺《 おれ》を恨むがいいさ。こういう世界なんだ」
と肩をすくめた。
紀子は、ゆっくりと首を振って、
「気にしてるんですね」
と言った。「でなけりゃ、そんなこと、私に言うわけないもの」
いちいち言うことが当っている。野田は苛《いら》々《いら》した。そして、ちょっと皮肉に笑って、
「哲郎に女がいたとは知らなかった。どこまで行ってたんだ?」
と訊《 き》いた。
紀子は少し間を置いて、
「キスはしました。でも、寝てはいません」
と言った。
「ふーん。そうか」
野田は、じっと紀子を見ていたが、「もし、ここで俺のものになったら、言う通りにしてやってもいいがね」
と言った。
「──約束してくれますか」
と、紀子は言った。
「ああ」
紀子は念を押さなかった。ドアの方へタッタッと歩いて行くと、出て行くのでなく、ロックして戻って来た。
そして、傍らのソファのそばへ行くと、
「じゃそ《ヽ》う《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》下さい」
と言った。
「自分で脱いでくれ。面倒でね、女の下着は」
野田は、そう言って立ち上った。
紀子は、無言でブレザーを脱ぐと、ソファの隅へ投げ出し、プリーツスカートのファスナーをシュッと下ろした。
「──遅いなあ」
と、伊東みどりは呟《 つぶや》いて、腕時計を見た。
大丈夫かしら、紀子?
もう、紀子がそのビルへ入って行って二時間近くたつ。みどりは、この喫茶店で、紀子の鞄《かばん》を預かって、戻るのを待っているのだ。
もう暗くなっていた。紅茶はすっかり冷め切っている。
紀子……。無茶して!
みどりは、紀子を行かせたことを後悔していた。──何といっても、相手はまともな連中じゃないのだ。
それに……。紀子は怒るかもしれないけれど、あの哲郎という男の子だって、確かに人殺しなんかしそうには見えなかったけれど、人は見かけだけじゃ分らないものだし。
ちゃんと警察だって調べているだろう。本当に哲郎が犯人だったら、紀子も罪を犯していることになる……。
みどりは、あと少し待って紀子が戻らなかったら、警察へ連絡しようと思った。
そのとき、ドアの開く音がして、
「──ごめん!」
と、紀子が入って来た。「心配したでしょ?」
「当り前よ」
と、みどりは息をついて、「足、ちゃんとついてる?」
「ご覧の通り」
紀子は座って、「ちゃんと話をつけたよ」
「話って?」
「本当の犯人を捜してくれるって」
みどりは目を丸くして、
「本当なの?」
と言った。
「うん。──大勢子分がいるからね。警察が哲郎を見付けるのと、どっちが早いか賭《 か》ける?」
「やめてよ、もう!」
と、みどりは紀子をにらんでやったのだった……。