コトッと音がして、ケンジは目が覚めた。
やはり、いつもよりは緊張しているのだろう。いつもなら、少々の物音じゃ目を覚まさないところだ。
何の音だろう?──ブルブルッと犬みたいに頭を振って、ボイラー室の中を見回す。
床に、小石が落ちていた。白い紙でくるんである。
あの窓から投げ込んだらしい。
あのじいさんかな?
もう大分夜も遅くなっているだろう。そろそろ迎えに来てくれるころだ。
全く、運良くあのじいさんに出くわしたもんだ。でなきゃ、今ごろはとっくに捕まってる。
小石をくるんだ紙を開いて、外からの薄明りが射し込んでいる辺りへかざしてみると、走り書きで、
〈逃げなさい。殺されますよ〉
とあった。
「──何だ、これ?」
殺される? 俺が何をしたっていうんだ。
いたずらか? でも──ここに俺がいることを知ってるっていうのも妙だ。
殺される……。
あのじいさんに? ケンジは、足音が聞こえて来たのに気付き、ドキッとした。
じいさんかな?
ケンジは、耳を澄ました。──足音は一人じゃない。
ドアをトントンと叩《 たた》く音がして、
「起きてるか?」
と、あのじいさんの声がした。「迎えに来たぜ」
「ああ……。起きてるよ」
と、ケンジは言った。
だが──考えてみれば、何の係わり合いもない人間が、どうしてケンジのことを助けてくれるだろう。
「一人かい?」
と、ケンジは訊《 き》いた。
「ああ、もちろんだ」
ガチャッと鍵《 かぎ》があく。ドアがキーッと音をたてて開き、
「待ったかい?」
と、じいさんが顔を出した。「さあ、行こう」
「うん……」
ケンジは、ドアの方へと歩いて行った。「悪いね」
「なあに。さ、出て」
「うん……」
ケンジは、じいさんのわきを通り抜けようとして──ドンとじいさんを突きとばし、飛び出した。
ドアの外、すぐわきに、バットを振りかざした男が立っていたが、ケンジが飛び出して来たので、あわてて振り下ろしたバットは空を切った。
ケンジは、夢中で駆け出した。
「追っかけろ!」
と、あのじいさんが怒鳴った。
畜生!──騙《 だま》しやがったな! 畜生!
ケンジは必死で駆けた。
しかし──方向に弱いケンジは、外の道へ出ようとして、マンションの間の細い道へと迷い込んでしまった。
行く手に、何人かの男たちが現われた。
「いたぞ!」
「捕まえろ!」
あわてて戻ろうとするケンジの前に、あのじいさんと、バットを持った男が現われた。
「見付けたぞ!」
ケンジは、前後を挟まれて、逃げ場を失った。
階段。──非常階段がある。
ケンジは夢中でそのスチールの階段を上り始めた。
「やったぞ!」
と、泉がニヤリと笑った。「予定通りだ」
「逃げますよ」
と、古畑がバットを振り直す。
「大丈夫。ちゃんと考えてあるんです」
反対側から来た男たちと合流すると、泉は先頭に立って非常階段を上り始めた。
「住人の方たちも協力してくれたんでね。いや、実にありがたいですよ」
泉たちは急がなかった。
足音が止った。
非常階段の上の方から、やはりバットやゴルフクラブを手にした男たちが、四、五人現われて下りて来たのだ。
犯人は、途中の階のドアを開けようとしたが、外からは開かない。
ガタガタと足音が重なり合って、上と下から、その男へと近付いて行く。
「やめてくれ!」
と、男は叫んだ。「降参するから……。助けてくれ! 俺がやったんじゃないんだ!」
泉は鼻先で笑うと、
「誰でもそう言うのさ」
と、言い返した。「──さあ。この人は、被害者のお父さんだ。あの娘さんの味わった苦しみの何分の一かでも、味わうんだな」
「やめてくれ……」
男は身を縮めて、うずくまった。
「──さあ、古畑さん」
と、泉が促す。「娘さんの恨みを」
古畑はバットを振り上げると、男へ近付き、振り下ろした。シュッと空を切る音がして、バットが男の肩をしたたかに打った。
「ワッ!」
男は這《 は》うようにして、 「痛《 いて》えよ! やめてくれ! 助けて!」
と金切り声を上げた。
古畑は、荒く息をすると、
「死ね!」
と怒鳴って、再びバットを振り下ろした。
男の頭を打った。バキッと無気味な音がした。
「やれ!」
泉が、他の一人の手からゴルフクラブをとると、男を殴りつけた。
それがきっかけになって、一斉にみんなが殴りかかる。
──ケンジは、どうして自分がこんな目に遭うのか分らなかった。
体中が裂け、バラバラになるような痛みで声も上げられない。
しかし──やがてケンジは意識も薄らいで、何も分らなくなった。痛みさえも。
「──もういいだろう」
泉は息を弾ませて、「害虫なんか、これで充分だ」
泉が足でぐいと押すと、ケンジの体は、手すりの下の隙《 すき》間《ま》から下の道へと落ちて行き、ドサッという音がした。
「さあ、これですんだ」
泉は、古畑の肩を叩いて、「少しは気がすみましたか」
「ええ……。ありがとう」
古畑は汗をかいていた。
「今日のことは誰も知らない。──それでいいですな?」
泉は、集まった男たちを見回して言った。「さ、戻りましょう」
──夜は、また静けさを取り戻したのである。
誰もが当惑した様子で、顔を見合せた。
野田は、ゆっくりと集まった顔ぶれを眺めて、久しぶりの快感を味わっていた。
いや快《ヽ》感《ヽ》などと言っては、哲郎とケンジが可哀そうかもしれない。しかし、長いこと「当り前の仕事」ばかりに明け暮れていた野田は、自分が思い切ったことのできない男になりかけていたことに、今気付いたのである。
「──親分、それはどういうことです?」
と、やっと一人が訊いた。
「言った通りだ」
野田は面白がっている。「俺たちの手で犯人を見付ける」
「しかし──もう哲郎たちが手配されてます」
「知ってるとも。だからこそ急ぐ必要があるんだ」
「ですが……。警察の仕事ですぜ、それは」
「分ってる。俺が何も考えずに、そんなことをすると思うか?」
「いえ、もちろんそれは分ってますが……」
野田は、一つ息をついて、
「当惑するのも当然かもしれんが、今度の事件は、哲郎たちのやったことじゃねえ。みんなもそう思うだろう」
と言った。
「確かにそうです」
と言ったのは、若くて切れる安井だった。「ですが、肝心なのは一《いつ》旦《たん》手配されたら、よほどのことがない限り、警察は他に犯人がいるなんて認めないってことですよ」
「だから、連中は哲郎たちを捜している。本当の犯人を見付けようって気は全くない。俺たちでやれることは色々あるんだ」
「ですが──」
「考えてみろ」
と、野田は少し厳しい声で、「今度の一件だけじゃねえ。前にも女の子が切り裂かれるようにして殺された。似た手口が二件だ。あれは……どれくらい前だったかな」
「ふた月と十日前です」
と、安井が即座に言った。
「同じ犯人だとしたら、恨みじゃなく、通り魔的な犯行かもしれん。そうなると、哲郎たちが犯人に仕立て上げられたら、本当の犯人はまた安心して人を殺すかもしれん」
と、野田は言った。「俺は何も社会奉仕しようってんじゃない。俺たちが安心して仕事をするには、警官があちこちの角に立っている、ってのはまずい。分るか?」
「それはまあ──」
「警察はどう思ってるかはともかく、哲郎たちの身も危い。あいつはたぶん……。ケンジの奴とは別々に逃げてるらしいが、うまく隠れたつもりでもいずれは見付かってしまうもんだ。──どうする?」
みんなが顔を見合せている。言いたいことがあるのに、どう切り出したものやら、分らずに困っているという図だ。
「みんなの心配していることは分ってる」
と、野田は言った。「だが、やってもいないことで、うちの誰かが捕まるなんてことは、黙って見過ごしていいことか? もちろん、警察の真似《まね》ごとをするつもりはない。しかし、哲郎とケンジの二人は救ってやりたいんだ」
もちろん、野田としては話せないことがある。
あの少女──間近紀子に頼まれたから、こうして提案しているのだとは。
確かに、間近紀子にああして頼まれなかったら、野田もここまでやる気にはなれなかったろう。しかし、約束してしまったのだ。
あの少女の体と引きかえに。
──野田は、間近紀子を抱いたわけではなかった。実は、そこまではしなかったのである。
ああ言えば、少女が逃げて帰るだろうと思ったのだった。
しかし、間近紀子は、並の少女ではなかった。何のためらいもなく、服を脱ぎ捨ててしまって、野田を圧倒した。
野田は、紀子が一《いつ》旦《たん》納得すると、一切のためらいも見せずに裸になったのを見て、感心したのだった。脱いでいく途中、紀子は全くその手を止めなかった。
特に野田を驚かせたのは、最後の下着を脱ぐときでさえ、何のためらいも見せなかったことで……。紀子はソファに腰をおろして、真直《まつす》ぐに野田を見て、
「いいですよ」
と、はっきりした口調で言った。
野田は、実はこのところ女の方が全くだめなのである。──何が原因なのかよく分らないのだが、もう半年近く、女を抱いていない。
しかし、はた目には「女殺し」と見られている立場上、そんなことは口にできない。
アケミを可愛がっているのは確かだが、それも「気持の上」だけである。しかし、アケミは決してそのことを口にしない。気のいい女で、少しも不平や文句を言わない。
だから、野田はアケミと年中寝ているように見せかけるのに苦労していた。
ところが──間近紀子。
あの少女の、白くてまだ子供らしい丸みを帯びた体を見たとき、野田はときめく思いを体験した。あのまま抱いていれば、可能だったかもしれない。
だが、怖かった。もっと時間をかけ、じっくりと抱いてみたいと思った。
「──服を着ろ」
と、野田は言った。「今はいい。その代り、もし本当の犯人を捕まえたら、俺のものになりに来るんだ」
「はい」
と、紀子はためらわず答えた……。
「──あなた」
と、ドアが開いて、アケミが顔を出す。
「勝手に開けるな。──どうした?」
「ごめんなさい……。今、下で──」
アケミが青ざめている。
「何だ?」
「見付けて来たんです、若い人が。──ケンジさんの死体を」
野田は耳を疑った。
「今──死《ヽ》体《ヽ》と言ったのか?」
「ええ。そりゃあひどい様子」
と、アケミは涙ぐんでいる。
「どこだ?」
と、立ち上る。「みんな、来い!」
下の居間に、ケンジの死体は布をかけられて横たわっていた。
「──例の死体の見付かった現場の近くなんです。騒ぎが聞こえて……」
と、若い子分が言った。「静かになって行ってみると、非常階段の下に、ケンジが……」
布をめくって、野田は顔をしかめた。
「──どういうんだ、これは?」
「落ちたせいですか」
「落ちただけじゃない」
安井が、かがみ込んでケンジの服を脱がせた。
紫色になった肌のあちこち、頭にも血がこびりついている。
「──こりゃ、リンチですよ」
と、安井が言った。「あちこち殴られてはれ上っている。骨も何か所も折れてるみたいです」
「何てざまだ」
と、野田は首を振って、「ひどいことしやがって!」
「親分」
と、安井が言った。「──やりましょう。あの娘を殺した奴《 やつ》だけじゃなく、ケンジをこんな目にあわせた奴も見付けてやる」
「うん」
野田は、しっかりと肯《 うなず》いた。 「アケミ。ケンジの体は渡さねえぞ」
「でも──」
「本当の犯人と揃《 そろ》えて突き出してやる!」
野田の声は、珍しく──全く珍しいことだったが──怒りに震えていた。