五回か六回か。
ともかく、かなりしつこくチャイムを鳴らしたことは確かだった。
真田充江は、もう諦《 あきら》めて帰ろうかと思った。そのとき、
「──どなた?」
と、インタホンから声が聞こえたのである。
「あ……。真田です。すみません」
と、充江はつい謝っていた。
「ああ、真田さん」
と、倉田信子は言った。「何かご用?」
いかにも面倒くさそうな言い方で、充江は気後れしたが、
「あの……この間のお薬のことなんです」
と言った。
「じゃあ、少し待って」
倉田信子が、少し愛想のいい口調になって言った。充江はホッとした。
しかし、それから充江は十五分も玄関の前で待たされることになったのである。
──やっとドアが開くと、
「じゃ、失礼します」
と、背広姿の男が出て来た。
「よろしくね」
倉田信子は、その男を送り出して、「さ、入って」
と、充江を中へ入れた。
「今のは……」
「ああ、証券会社の人。株のことでね。ときどき来ては、あれこれ売り込んで行くのよ」
信子はそう言って、「あの薬、どうだった?」
充江は、ちょっとの間別のことを考えていた。
証券会社の人?──それは本当かもしれないが、すれ違ったとき、充江ははっきり石ケンの匂《 にお》いらしいものに気付いていたのである。
「あの──」
と、我に返って、「とてもよく効きましたわ。おかげさまで、主人も喜んでいて──」
と言いかけてポッと赤くなる。
「結構じゃないの。結局、妻が幸せでいるのが一番なのよ」
「はい……。それで、あれをまたわけていただけないかと思って」
「もうのんでしまったの? まあ」
と、信子は笑って、「じゃあ……。どうしようかしら」
「もし、お持ちの分がないようでしたら」
「いえ、私の分がね、ほとんど手をつけてないから、譲ってあげてもいいわ」
「そんな申しわけない──」
「いえ、いいのよ。すぐにも欲しいんでしょ?」
「ええ……。あれがないと思うと、何だか不安で」
と、充江は言った。「よろしいんですか、いただいても」
「ええ。待っててね」
と、信子は奥へ入って、じきに戻って来た。「──さ、どうぞ」
と、びんをテーブルに置く。
「すみません」
充江は息をついて、「じゃ、お代を」
と、財布を取り出す。
「ええ。三《ヽ》万《ヽ》円《ヽ》ね」
「──え?」
充江の手が止った。「三万円……。この間は三千円でいただいたと思うんですけど」
「ああ、初めての人にはね、試供品ということで、特別の値段で売ってあげるの。ねえ、あれだけ良く効くのに、三千円ってことはないと思わない?」
充江は、じっとそのびんを見つめた。
「──今、持ち合せが……」
「じゃ、待ってるわ。お宅へ戻って、お金を持って来て」
と、信子は言った。「いえ、これが私自身の売っているものだったら、いくらでも待ってあげるんだけど、人のものだから。分るでしょ?」
「はい……」
──三万円!
どうしよう? しかし、充江は、この薬をのんだときの、あのすばらしく楽しい気分昂《こう》揚《よう》し、すべてが美しく見えるような、あの気分を、忘れることができなかった。
三万円。
充江の家計からひねり出すのは容易なことではない。でも──でも、夫だって喜んでくれていたのだ。
あれをのむと、普段の何倍も「感じやすく」なって、夫との交わりにも夢中になれた。たぶん──結婚してから初めてのことだ。
た《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》三万円。──あら、たった三万円なんだわ。
充江はそう考え直した。
「分りました。じゃ、ちょっと待って下さい」
と、充江は立ち上った。「すぐお金を取って来ます」
本当は、銀行からおろして来なくてはいけなかった。もう二時半を回っている。
急がなくては。──充江があわてて玄関から出て行くと、
「あわてないでもいいのよ」
と、信子は声をかけた。「ちゃんと、取っておいてあげるから。──あなたがお金を持って来るまでね」
最後の言葉は、もう空っぽの玄関に向って言われたのだった……。
信子は、声をたてずに笑うと、電話の方へと歩いて行った。
「憶えてる?」
と、紀子は訊いた。
「たぶん……」
栗田みゆきは、大きく引き伸ばされた写真を、じっと見つめた。
「──いつも見てるはずなのに、結構憶えてないものね」
と、紀子は言った。
「ええ……」
栗田みゆきは自宅謹慎中なので、紀子は学校の帰りにやって来た。そして、昼休み、生徒のための売店で、コーラやパンを売っている「おばさん」たちを撮った写真を大きく引き伸ばして、みゆきに見せているのである。
「──この人かな」
と、みゆきは指さした。
「確か?」
と、紀子も覗《 のぞ》き込む。
「そう……。そうだわ! 憶えてる。胸のところに、このマークがついてたんだ。思い出した」
と、みゆきが肯《 うなず》く。 「この人から、あのコーラを買ったの」
「そう……」
紀子は、写真のその「おばさん」にサインペンで丸印をつけた。
「でも、どうするの?」
と、みゆきは訊いた。
「この人を当るわ。もちろん、この人がやったという証拠はないけど」
「でも、安東先生は……」
と、みゆきがため息をつく。「もう戻らないんだ」
「薬のせいなのよ。みゆきのせいじゃない」
「ありがとう」
みゆきは、紀子の手を取った。
「元気出してね。──じゃ、また来るよ」
と、紀子は立ち上った。
──栗田みゆきの家を出て、紀子が足早に歩き出すと、車のクラクションが後ろで鳴った。
足を止め、振り向くと、
「おい、乗れよ」
と、大きな外車の窓から野田が顔を出している。
「どうしたんですか?」
と、後ろの座席に野田と並んで座ると、紀子は言った。
「うん……。用心のためだ」
と、野田は言った。「おい、オフィスへやれ」
「はい」
車を運転している部下が肯く。
「急に親切になったんですね」
「憎まれ口叩《 たた》くな。お前が無茶してるんだろうが」
「そりゃ分ってますけど」
と、紀子は澄ましている。
「実はな──」
と、野田が、例のインタホンの話をすると、紀子は呆気《あつけ》に取られていたが、すぐ笑い出してしまった。
「──何がおかしい。謝ってるだろ」
「野田さんって、もっと切《ヽ》れ《ヽ》る《ヽ》人かと思ってたら、結構ドジなんだ。安心したな」
野田も苦笑している。紀子は、
「誰がそれを聞いてたんですか?」
「それが、あのときは会合を開くことになっててな。外の人間が何人も来てた。その誰がたまたまインタホンの聞こえる位置にいたか、とても当り切れない」
「頼りないの」
と、紀子は言った。「こっちは、これ」
写真を取り出して、丸で囲った女性を指さす。
「この人が、みゆきにコーラを売ったらしいんです。外れてもともと。一応、身許を調べてもらえません?」
「ふーん、そうか」
と、野田は写真を眺めていたが、「忙しいんでな。時間がない」
「ケチ」
と、紀子は言ってやった。「じゃ、自分で調べるからいいです」
「だから先に、あそこで働いてる連中、全部を調べて来た」
と、野田は自分のブリーフケースからファイルを取り出し、紀子へ渡した。「その女は、たぶん金山靖子って名だ」
「早く出してくれりゃいいのに! 素直じゃないんだから」
と、にらむ。
ファイルをめくって、
「──金山靖子。未亡人か。娘が一人。働いて高校に娘をやってる……」
と、目を通し、「こんな人がやるかしら、麻薬なんて」
「売る人間は決してやらない。分るだろ。しかし、これほど簡単に金になる仕事はないからな」
「でも……。違ってればいいけど」
と、紀子が言うと、
「やさしいな、お前は」
と、野田が言った。「──どうする?」
「でも、この人しか手がかりがないんですから。ともかく会ってみます」
「よし。じゃ、行くか」
「これから? 待って。大久保先生が待ってるんです。会ってもらわないと」
「そうか、分った」
と、野田は肯いてから、「おい、そいつは何の先生なんだ?」
「学校の」
「分ってる! 教えてる科目を訊《 き》いてるんだ!」
「どうしてそんなこと──」
「俺は、理数系の先生に会うと、やたら緊張するく《ヽ》せ《ヽ》があるんだ」
「誰にでもあるく《ヽ》せ《ヽ》ですよ。劣等生なら、誰にでも」
と、紀子は素直に言った……。