「ただいま」
と、金山靖子は声をかけた。
「お帰り」
台所から、包丁の音がしている。
「厚子。──いいのよ。あんたは勉強していなさい」
と、靖子は娘に言った。
「そう手間じゃないわ」
と、厚子は皿に盛りつけると、「できたおかずを切っただけ。へへ」
と舌を出す。
靖子は笑ってしまった。
くたびれて帰って来ても、娘の明るさが救いになる。
「お母さん、すぐご飯にしていいんでしょ?」
「ええ。お母さんがやるから」
「早く手を洗って来て! つべこべ言わないで」
これじゃ、親と子の立場が逆だ、と思いつつ金山靖子は嬉《 うれ》しかった。
厚子は十六歳の高校一年生。──二人でこの安アパートに暮すようになって五年もたっている。
厚子が中学生のころは、収入も少なくて苦労した。
そのころに比べると、今は厚子もアルバイトができるので、大分楽である。もちろん、靖子一人の稼ぎで食べられればいいのだが、それは難しいことだった。
「──ご飯食べたら、バイトに行く」
と、厚子が言った。
「こんな時間に? もう夜よ」
「お店の留守番。楽だし、いいお金になるし、勉強もしてられるし」
「大丈夫なの?」
と、靖子が心配して、「体をこわさないでよ」
「平気よ。顔色でも悪い?」
と、厚子は笑って、もりもりと食べている。
「遅くなったら電話して。迎えに行くわ」
「うん。平気よ。夜道っていっても明るいじゃない」
「そりゃそうだけど……」
──早々に食べ終ると、厚子は仕度をして鞄《 かばん》を手にアパートを出た。
そろそろ七時になるころだった。
厚子は、足早にバス通りへ出ると、バス停をそのまま通り過ぎて、道を折れ、もう人気のなくなった公園の辺りで足を止めた。
今夜は来ないんだろうか?
来てくれないと困る、という気持と、来ないでくれたら、という気持と半々だ──。
けれども、やはりそ《ヽ》れ《ヽ》はやって来た。
黒塗りの大きな車が静かに寄せて来て停《 とま》ると、中からドアが開いた。
厚子は、ちょっとためらってから、思い切ったように車に乗り込む。
車はすぐに走り出した。
「来てくれたね」
と、その老人は言った。
「二時間くらいで帰らないと」
と、厚子は言った。「お母さんが心配するから」
「分ってる。大丈夫だよ」
運転席との間が仕切られていて、老人はその窓を閉めた。
「さあ」
と、老人は札入れを出して、厚子に一万円札を何枚か抜いて渡した。
厚子は、それを小さくたたんで、自分のファイルの中へ挟み込んだ。
「すみません、いつも」
「いや、これは施しじゃない。立派な取引きだ。そうだろ?」
と、老人は笑った。
上等な香水が匂《 にお》った。
車が静かに走って行く。
厚子は、老人の手がそっとのびて来て、自分の足に触れると、反射的に身を硬くした。
「力を抜いて。──大丈夫だ」
厚子は、力を抜いた。
そう。ほんのしばらく我慢すればすむことなんだ。何も感じないで、何も知らないでいれば……。
厚子は目をつぶって、シートに身をゆだねた。老人の手が厚子の太《ふと》腿《もも》をさすっている。
いつものことだ。──もう何度もして来たことだ……。
すると──何か妙な匂いがした。
目を開けると、老人の手にした布が厚子の顔に押し当てられる。ツーンとくる匂い。
それを吸い込むと、頭がクラクラした。
やめて! 何するの!
叫ぼうとしても声が出ない。息をする度に、厚子は薬を吸い込んで、気が遠くなっていった。
そして──意識を失った厚子の体がガクッと崩れるように倒れると、老人は微《ほほ》笑《え》んだ。
「──もう君を帰さんよ」
老人は、厚子の体をゆっくりとさすりながら言った。「君は私のものだ」
老人は、仕切りの窓を開けて、
「別荘へやれ」
と言った。
車が郊外へと向う。
クロロホルムの匂いが車内にこもって、老人は少し窓を開けた。
「目を覚ますといかん」
老人はそう呟《 つぶや》くと、ドアのポケットから細い縄を取り出し、厚子の手足を縛り上げた。そして、毛布をかけて隠すと、息をついた。
これでこの子は俺《 おれ》のものだ!
突然、車が急ブレーキをかけた。老人は、
「ワッ!」
と声を上げ、前につんのめって、仕切りにおでこをぶつけた。
厚子の体が弾みで床へ落ちる。
「おい! どうした!」
と、老人が怒鳴ると、
「どうもしないよ」
開けた窓から男が一人覗《 のぞ》き込んでいる。
「何だ、お前は?」
と言って、老人はギョッとした。
男の手に拳《 けん》銃《 じゆう》が握られていたからだ。
「やめてくれ!」
「おとなしく、その女の子を渡しゃ、何もしないさ」
「何だって?」
「床に寝てる、その子だよ」
「分った。──持ってけ」
「ありがとう」
男はドアを開けると、軽々と厚子の体を抱え上げ、「──行ってもいいぜ。しかし、こんな子供をどうしようってんだ?」
「大きなお世話だ」
と、老人は言い返した。
「そうか」
男が引金を引いた。
大久保は、夜の道を急いでいた。
帰りが遅くなったので、腹が空いていたのである。
あの男──野田という男が、「夕食でも」とすすめてくれたのだが、断ってきた。
間近紀子も、ふしぎな知り合いを持っているものだ。
野田が、本心から力を貸してくれるつもりなのは、大久保にもよく分った。今回は、力を借りるしかあるまい。
しかし、やはり野田はまともな仕事をしている男ではない。教師として、食事をごちそうになることまでは、自分に許せなかったのである。
しかし──大久保のアパートは駅から二十分も歩く。お腹がグーグー鳴って、大久保は夕食の誘いを断ったことを、少々悔んでいるのだった……。
気が付くと──誰かが行く手をふさぐようにして立っている。
二人だ。どうも大久保を待ちうけているようだった。
「何か──」
と言いかけて気付くと、後ろにも一人、いつの間にやら立っている。
「用件は何です?」
と、大久保は言った。
三人の男は、どう見てもヤクザ。
金目当てか? いや、それならもっと別の誰かを狙《 ねら》うだろう。
──間近紀子が殺されかけたことを思い出す。
男たちの手に、何か棒のような物が見えたと思うと、一斉に殴りかかってくる。
パッと頭を下げると、大久保は後ろの男のわきの下をかいくぐって、ダッと駆け出した。
かつてラグビーをやっていたので、その要領である。
男たちは、大久保がこんなに素早く逃げるとは思っていなかったらしい。あわてて、
「待て!」
「野郎!」
と、口々にわめいて追って来る。
待ってたまるか! 大久保は必死で走った。
このときばかりは空腹も忘れた。そして──。
アッと思ったときには、派手に転んでしまっていた。
追いつかれる! 急いで立ったが膝《 ひざ》を打っていて、痛みが走る。
「畜生!」
と呟《 つぶや》いて、それでも何とか走り出すと、
「何してる!」
と、怒鳴る声がした。「おい! みんな来い! 強盗だぞ!」
追って来た三人の男たちは、足を止め、ちょっとためらっていたが、
「行くぞ!」
と一人が声をかけて、三人一斉に駆けて行ってしまった。
──助かった!
大久保がハアハア息をしていると、
「大丈夫ですか」
と、居合せた男がやって来た。
「ありがとう……。襲われたんで……。危いところでした……」
大久保は汗を拭《 ふ》いた。
「あれ?」
と、街灯の明りで大久保を見て、「大久保じゃないか!」
「え?」
「俺だ。真田だよ」
「ああ!──先輩!」
ラグビー部の先輩だった、真田浩一である。
「こんな所でラグビーか」
「そうじゃないんです。──でも、助かりましたよ」
「教師をやってるんだろ、まだ?」
「ええ」
「ふーん」
と、真田は肯《 うなず》いて、 「教師も命がけだな」
「あの──」
と言いかけると、大久保のお腹が安心したのか、グーッと声を上げた。
「おい、腹が減ってるのか」
と、真田は笑って、「よし、何か食いに行こう。食べながら話を聞く」
「はい」
大久保は、正直なところ何か食べられることの方が、ヤクザから助かったことより嬉しかったのである……。
「──気が付いた?」
と、紀子は言った。
金山厚子は、目を開けると、戸惑ったように紀子を見上げた。
「あの……」
「じっとして。──まだ頭がクラクラするわよ、きっと」
「ええ……。あ、痛い……」
ソファに起き上って、厚子は頭を抱えた。
「もう少し寝てた方が……。ここは私の家よ。大丈夫」
「あの……どうして、私……」
「あのじいさんに薬かがされて、眠っちゃったのよ」
「──そうだ。そうだっけ」
「危いことしてたわね。お金もらって、あんな奴の相手して」
厚子は目を伏せて、
「でも……私が少しは稼がないと、食べていけないし、といって勉強しないと、学校はついていけないんだもの……」
「気持は分るけど、お母さんが知ったら、大変でしょ」
「お母さん!」
ハッとした厚子は、「今、何時?」
「じき、十時かな」
「大変! お母さん、心配してる」
「じゃ、電話すればいいわ」
と、紀子はコードレスホンを渡して、「お友だちの所で遅くなったけど、今から帰るって。送って行ってあげるから」
厚子は、家に電話して母を安心させると、ちょっと息をついた。
「──さ、クッキーでも食べて」
と、紀子は言った。
「お金持なんだ」
と、厚子は部屋の中を見回して、「あなたの部屋?」
「うん」
「でも──どうして私のこと──」
「調べてることがあって、あなたの家に行ったの。そしたら、ちょうどあなたが出て来て、どうも様子がおかしいのでね、尾行したってわけ」
「調べるって……。私のことを?」
「あなたのお母さん」
「お母さんが、何を──」
「むきにならないで。さ、今、紅茶が来るから」
ちょうどドアが開いて、母の由利が紅茶を運んで来てくれた。
「あら、もう大丈夫なの?」
と、厚子を見て、「紀子。ちゃんと送ってさしあげるのよ」
「うん」
紅茶を置いて由利が出て行くと、しばらく厚子は黙っていたが、
「──いただきます」
と、紅茶を一口飲んで、「おいしい」
と言った。
「そう?」
「──うちのお母さんと、笑顔がそっくり」
と、厚子は言った。「助けてくれて、ありがとう」
紀子は微笑んだ。
二人はクッキーをつまんだ。──紀子の話を聞いて、
「お母さんが、そんなことしないと思うけど……」
と、厚子は首をかしげた。
「自分で気付かない内に、ってこともあるんじゃない?」
「たとえば?」
「誰かに、『これを売ってくれ』って頼まれるとか」
厚子は肯いて、
「それなら分るわ」
「お母さんに、付合ってる男の人はいない?」
紀子の問いに、厚子の表情がふっとくもった