厚子は、コックリと頭を垂れてハッと目を覚ました。
そして急いでベッドの母親の様子を見る。──母、靖子は静かに呼吸していた。
大丈夫だ! 厚子はホッと息をついた。
ほんの何秒間かしか眠っていないつもりだったが、時計を見ると十分近くもたっていてびっくりした。
深夜、もう十二時を回っている。
厚子は伸びをした。──いくら母のことが心配でも、何日も眠らずにいることはできない。
この個室に入っても、靖子の意識は戻らなかった。ずっと点滴で栄養をとり、心拍はナースステーションにつながっている。
「今のところ危険はない」
という医師の言葉も、裏返せば、
「いつどうなってもおかしくない」
ということだ。
厚子は自らこうして母の病室に泊り込んでいるのである。
何が何でも──あの紀子さんや、野田さんというふしぎな人のためにも、母に元気になってもらわなければならなかった。
この入院費用も、紀子の家から出ている。──いつか必ず返すつもりだが、今は紀子の親切に甘えておくしかない。
厚子は、欠伸をした。──もうソファで寝ようか。
その前に顔を洗って来よう。
病室を出ると、警官が椅《い》子《す》にかけて、ドアのすぐわきに待機している。
「今晩は」
と、厚子が会釈すると、
「やあ、まだ起きてるの?」
と、ずいぶん若い警官が微《ほほ》笑《え》んだ。
「今から寝ようと思って。──顔を洗って来ます」
厚子は、自分で持って来たタオルを手に、洗面所へ行った。
ザブザブと顔を洗い、歯もみがいて。──ソファで寝るなんて、どうってことない。五分としない内に寝込んでしまうのだ。
タオルで顔を拭《 ふ》いて、フーッと息をつくと……。
鏡の中に、見たことのある顔が浮んだ。
「──あ!」
厚子は目をみはった。
あの老人──厚子をさらって行こうとした老人が立っていたのだ。
「やあ」
「あの……」
「もう忘れたかね、私にさんざんたかっておいて」
「たかった、だなんて」
「自分が何をしてたか分ってるはずだ」
と、老人は苦々しげに、「オモチャのピストルなんかでおどかしおって!」
「オモチャのピストル?」
「まあいい」
と、老人は言った。「来てもらうよ。あのときの約束だ」
「もういやです」
と、厚子は首を振った。
「ほう。あんなに気持良さそうにしていたのにかい」
厚子は真っ赤になって、
「あれは……お金もらって、仕方なかったから……」
と、口ごもった。
「やっていたことは分っているらしいな、自分でも。あれがばれたら、学校にもいられないだろうね」
「学校って──。でも、私……」
「写真がある」
と、老人はニヤリと笑ってコートのポケットから数枚の写真を取り出した。
「写真なんて──撮ってないはずです」
「こっそりと撮るくらい、今は簡単さ。車の中だって、誰にでも撮れる。君が逃げ出しそうになるのを防ぐためにね、撮っておいたのさ」
パラパラと写真が足下へ落ちる。厚子が拾おうと急いで身をかがめたとき、老人は厚子の後ろに回って、抱きすくめた。
「やめて──」
叫ぼうとするところを、またあの薬をしみ込ませた布を押し当てられる。
ツーンという匂《 にお》いで、頭がクラッとしたが、二度同じ手でやられはしない。必死で息を止めて、厚子は思い切り老人の足を踏みつけてやった。
「ウッ」
と、老人が布を取り落とし、片足を抱えてよろける。
厚子が逃げようとすると、
「待て!」
と、老人が厚子のスカートをつかんだ。「逃がさんぞ!」
そのとき、
「よくやるわね」
と、声がした。
「紀子さん!」
「こりない奴《 やつ》って、こういう男のことなのね」
紀子が拳《 こぶし》を固めると、老人の顎《 あご》に一発食らわした。──もちろん、即KO、とはいかなかったが、老人が尻《 しり》もちをつく。
「痛い!──おい、年寄りをいじめるのか!」
「何言ってんの」
紀子は落ちた布をつかむと、老人を押し倒し、馬乗りになって、薬のしみ込んだ布を老人の顔へギュウギュウ押し当てた。
老人はバタバタと手足を動かしてもがいていたが……。やがてグッタリしてしまう。
「自分の用意したものでのびてりゃ、世話ないや」
と、紀子は息を弾ませて、「──大丈夫?」
「ありがとう」
と、厚子は言った。「つい、引っかかっちゃった」
写真を拾い上げると、厚子は顔をしかめる。
「──他の子ね」
と、紀子も覗《 のぞ》いて、眉《 まゆ》をひそめた。 「吐き気がする」
どう見ても七、八歳という幼い子から、厚子くらいの子まで、どれも裸やスカートをまくり上げた写真。
「警察へ引き渡してやる。ちょうどいい」
と、紀子は言った。「お母さん、どう?」
「ええ。変りません」
「こいつはしばらく寝てるでしょ。病室へ行こう」
「はい。──紀子さん、どうしてこんなに遅く?」
「私、夜遅い方が元気が出るの」
「へえ。吸血鬼みたい」
「言ったな」
と、紀子は笑って、「病院の中じゃ、静かにしなきゃ」
「──病室の前にお巡りさんを置いてくれたのも、野田さんなんですか?」
「そう。──ああいう人はね、刑事さんとも結構仲がいいのよ」
と、紀子は言った。「あれ? こっちじゃなかった?」
「いえ、この先──。おかしいな」
と、厚子が言ったのは、母の病室の前に、警官の姿が見えなかったからだ。
「──あれは?」
紀子は駆け出した。
廊下の角を曲ると、少し薄暗がりになった所に、警官が倒れている。椅子も投げ出してあった。
「大変だ!」
と、紀子が言った。「看護婦さんを早く!」
しかし、呼ぶより早く、夜勤の看護婦が駆けつけて来る。
「今、オシログラフが──」
「誰かが病室へ入ったんです!」
もしかしたら、そいつがまだ中にいるかもしれない。
紀子にも分っていたが、ためらっている暇はなかった。病室へパッと飛び込むと、ベッドの靖子の顔に、大きな枕がのせられている。
「お母さん!」
と、厚子が叫んだ。
看護婦が、枕を投げ捨てて、
「すぐ先生を呼びます」
と、駆け出して行く。
「お巡りさんも、倒れています」
と、紀子は後ろから声をかけた。
「お母さん! しっかりして!」
と、すがる厚子の肩をつかんで、
「今は、お医者さんに任せて」
と、紀子は言った。
しかし──何という犯人だろう。警官がいるというのに!
すぐに医師が駆けつけて来た。紀子と厚子は、病室の隅に退がって、じっと手を取り合っていた……。
「──何だ」
と、野田が目をこすって、「もう夜中だぞ!」
「あなた、ヤクザでしょ」
と、アケミが言った。「こんな早寝のヤクザなんていないわよ」
「大きなお世話だ」
と、野田はベッドで大欠伸《 あくび》した。
「お電話」
「誰からだ、こんな時間に?」
「あなたの可《かわ》愛《い》い子からよ」
野田は目をパチクリさせて、
「紀子か。──なら、そう言え。もしもし」
と、受話器を受け取って、また欠伸をする。「──ああ。──何だって?」
いっぺんに眠気がふっとぶ。
アケミもギョッとして、ベッドに起き上った。
「それで……。──うん、そうか。──分った。俺の方でやる。──ああ、そうだな」
野田は、電話を切って、少しの間呆然と座っていた。
「どうかしたの?」
「あの女……死んだ」
「あの女って……。入院してた人? 助かったんじゃなかったの」
「殺されたんだ。──畜生!」
野田が珍しく怒りを見せた。「しかも、警戒してた警官もやられた」
「気の毒に」
「──俺が頼んで出してもらったのに。とんでもないことになった。警官の方は死んじゃいないようだが、重態だとさ」
「今から行く?」
野田は、少し迷って、
「いや……。もう遅い。──あの女の葬式をやってやらなくちゃ」
「そうね……。可哀そうに」
「お前、手配を頼んでくれるか」
「ええ。今からすぐ?」
「すぐだ」
「分ったわ」
アケミは、そんなとき、面倒がったりしない。すぐに起き出して、寝室を出て行った。
野田は、ブルブルッと頭を振ると、腕組みをして、考え込んだのだった……。