「あなた」
と、恵美が軽く肩を押した。「——あなた。起きて」
「うん……」
と、返事をしたものの、まだ目は覚めていなかった。
今、自分はどこにいるのか。この快い揺れは何なのか。
「いやね。ちゃんと起きて下さいよ」
と、恵美が笑った。
そうか。——列車だ。この単調なリズムは、遠い昔と少しも変っていない。
そのリズムが眠気を誘ったのでもあったが、同時にそのリズムの「記憶」が目覚めを促したのだ。——この白髪の実業家の目覚めを。
「鉄橋を過ぎたか?」
町田国男は、ほとんど無意識にそう訊いていた。
「鉄橋ですか?」
と、恵美は面食らった様子で、「気が付かなかったけど——」
と言っているとき、列車が鉄橋へさしかかり、ゴーッという響きが二人の会話を中断させた。
そうか。——俺は憶《おぼ》えていたのだ。
何も考えずに、「そろそろ鉄橋を通る」と分っていたのだ。
「あなた、この列車に乗ったことがあるのね」
鉄橋が後方へ去ると、列車は山間をクネクネと縫って進んで行く。
「——ずっと前にな」
と、町田は外へ目をやった。
「よく憶えてるわね、鉄橋のことなんか」
妻の言葉にはあえて答えず、
「お前は明日帰るんだな」
「だって、約束があるのよ。前から分ってれば、断ったのに——」
「いや、いいんだ。俺は二、三日のんびりしていくからな」
「ええ。何も電話もファックスも通じない山奥ってわけじゃないんですものね」
「そうだな」
と、腕時計を見る。「もうじき着く。二、三分だな」
「まあ詳しいのね」
恵美は冷やかすように、「それであんなに熱心だったのね」
「何のことだ」
「ホテルよ。あんな小さな田舎町にホテル作って、どうするのかと思ってたの。やっと分ったわ」
「おい、勝手に分るな。——俺は商売人だ。損をするなら、予め取り止めるさ」
「そう? でもお客さんが来る?」
「それは努力次第だ」
と、町田は言った。
「あんなのんびりした田舎町の人たちが、熱心にホテルで働いてくれるかしら」
町田は妻を見て、
「おい、やりたくないのなら、建てる前に言ってくれ。今さら何だ」
「分ってるわ。あなたの勘は信じてるわよ」
恵美は首を振って、「でも、今回の件に関しては、あなたがすべての指揮を取ってよ」
町田は何か言いかけたが、やめた。そのとき、列車がはっきりとスピードを落とし、駅の近いことを告げていたからだ。
——町田国男、六十歳。
ホテルチェーンとレストランの経営で指折りの実業家である。
常識的に考えたら、とても客を呼べない土地にホテルを建て、巧みなPRとマスコミとの連携で黒字にしてしまう手腕は、「魔術師」という呼び名にふさわしいものだった。
妻の恵美は五つ年下だが、「内助の功」というタイプではない。今も、夫のホテルチェーンのレストラン部門で〈取締役〉の肩書を持ち、忙しく飛び回っている。
それにふさわしく、明るい色のスーツに包んだ体は細く、身のこなしも若々しい。五十五歳という年齢は、薄く紫色に染めた髪の、もとの白さをみなければ、想像もつくまい。
「降りるぞ」
立ち上って、町田は棚から自分のボストンバッグを下ろした。
「物好きね、車で来れば良かったのに。こんなオンボロ列車、お尻が痛くなるだけだわ」
「旅ってのは、こういうものなんだ。腹が空いたら、まずい駅弁を買って食べる。それが楽しいんじゃないか」
「はいはい」
恵美も、夫の頑固には慣れっこである。
「ホテルの人が出迎えに来てるんでしょうね」
返事を聞く必要はなかった。
列車がホームへ入って行くと、突然、ワーッと声が上り、拍手の音が響き渡ったのである。
恵美は窓から外を覗《のぞ》いて、目を丸くした。
「ホテルの人——どころじゃないわ。町中の人が来てるんじゃないの?」
町田も窓の外を見てびっくりした。
プラットホームに人が並んで、手に手に小旗を持って振ったりしている。
「戦争中の出征風景だな、まるで」
「何なの、あの黄色い旗?」
「——ホテルのマークが入ってる! むだな金を使って!」
「渋い顔しないのよ」
と、恵美は笑って、「あちらは歓迎して下さってるんですからね」
列車が停って、町田たちが出口へ行きかけると、
「社長!」
と、通路を駆けて来たのは、転った方が早そうな、町田の秘書であった。
「何だ、河野。お前来てたのか」
「お持ちします」
今年二十八歳になる河野悟は、町田の秘書として既に四年、勤めている。細身の町田に比べ、太目の河野は、年齢はともかく、「貫禄なら、お前の方が社長だ」と町田にからかわれていた。
「僕に何も言わずに、ご出張なんて」
と、不服そうだ。「どこにおいでか、訊かれても返事ができないんじゃ、秘書として立場がありません」
そうか。恵美が知らせたのだな、と町田は思った。
「怒るな。お前も忙しいだろうから、少し休ませてやりたかっただけさ」
町田は、河野について出口へと歩きながら、
「この騒ぎは、お前の仕掛けか?」
「いえ、町の人たちが自分から。——本当ですよ!」
「嘘《うそ》だとは言っとらん」
ホームへ出ると、一斉に拍手が起り、カメラのフラッシュが光る。
「地方紙の記者とカメラマンです」
と、河野が小声で素早く耳打ちする。「地元では力があります。あんまり無愛想にしないで下さい」
「分った」
町田は、それこそ老人から子供まで、びっしりとホームを埋めた人々に笑顔で手を振って見せた。
「——お待ちしておりました」
老人が一人、ダブルのスーツで進み出て来た。「感激です! 言葉にならない喜びです!」
もう八十近いだろうか。足下がやや危い感じである。
「町長です」
と、河野が小声で言った。
「町長さん、わざわざ恐れ入ります」
と、町田は手を差し出した。
町長はその手を両手でしっかり挟んで握りしめると、深々と頭まで下げて、
「これでこの町も生き返ります!」
と、声を震わせている。
「いやいや、そう大げさに言わんでください。——あ、家内です」
と、恵美を紹介する。
「初めまして」
と、恵美はにこやかに言った。
大げさな歓迎は、むしろ恵美の方が喜ぶ。
「これは奥様でいらっしゃいますか!」
と、声を上ずらせ、「町長の橋山と申します」
一気に——四十年近い時間が逆戻りした。
町田は、愕《がく》然《ぜん》としてその町長を見つめた。
橋山……。「山の中の橋」と、あまりに合った名前で忘れられなかった。もちろん、顔も知っている。
これが……。
あのとき、あの吊橋へと走って来た、郵便局の課長。それが今は町長なのだ。
「——どうぞこちらへ」
と、誰かが言って、町田はハッと我に返った。
同時に、一瞬心配した。自分のことを、かつてこの町に住んでいた「増田邦治」という男だと気付いた者はいないか。
だが、それは取り越し苦労だった。
四十年近くも前のことを、一体誰が憶《おぼ》えているものか。
「いや、全く感激で胸が一杯で……」
と、町長——橋山はくり返しつつ、先に立って駅を出た。
人々もそれにつられるようにして、駅のホームから通りへと出る。
町田は、図面の上でしか知らなかった幻の町の中へと足を踏み入れたのだった。
「おい! 間が空いてるぞ!」
と、支配人の赤ら顔がキッチンを覗《のぞ》く。「手早くやらんとだめだ。そんなんでオープンできると思ってるのか?」
「人手がまだ揃《そろ》ってないんですから」
と、料理長の宮田が言い返した。「精一杯やってますよ、みんな」
支配人の畑も、言い過ぎたと思ったのか、
「いや、分ってるよ。——ま、ご苦労さん」
と、わけの分らないことを言って出て行く。
少し間があって、キッチンに居合わせた人間が一緒に笑い出した。
「——宮田さんはいいわねえ」
と、手伝いにかり出されて料理を運んでいる「おばさん」が言った。「手に技術があるって、強いじゃないの。何言われたって、ガツンと言い返してやれるしね」
宮田は東京のホテルにいたのを、引き抜かれてこの田舎町へやって来たのだ。
「おい、鍋! 火を弱くして!」
宮田の鋭い声が飛んで、「——どこだって、オープンのときはギクシャクするもんさ。半年もすりゃ、ふしぎなくらいスラスラ流れるようになるものなんだ」
料理長といっても、まだ宮田は三十代の半ば。それでも、怒らせて辞められては困るので、支配人の畑も気をつかっているのである。
「——ね、お皿が足りないの。洗ったの、もう一回使って」
と、伝言が来て、宮田は露骨にいやな顔をした。
「しょうがないな! ちゃんと数えとけよ」
と、文句を言いながら、「谷口さん、大丈夫?」
宮田が声をかけたのは、一人せっせと皿を洗っている女性だった。
「はい、もう洗うのは追いつきました。——どのお皿を使います?」
「さっきのと同じ、と思われたくないから、できるだけ目立たない皿がいいね」
「じゃ、二番めのね。——すぐ拭きます。乾かしていたら間に合わない」
「頼むよ」
宮田が気軽に声をかけているのは、谷口良子が、ほぼ同じくらいの年代ということ——谷口良子の方が、二、三歳年上だろうか——もあったろうが、この場に居合せる大勢の人たちの中で、彼女が一番プロらしいものを持ち合せていたからだろう。
谷口良子が皿を並べると、それを追いかけるように、宮田が料理を盛りつけていく。
「OK。——運んでくれ」
宮田は軽く息をついて、「少し間を置こう。ここで何か挨拶が入るんだと言ってた」
「食事の途中で?」
と、谷口良子がびっくりしている。
「なあ、ひどい話だ。でも、色々都合もあるのさ」
宮田は椅《い》子《す》に軽く腰をおろして、「——谷口さん、今日、娘さんは手伝いに来ないの?」
「今、学校が試験中なんです」
と、谷口良子は言った。
「試験か……。そんなものがあったね」
と、呟《つぶや》いて、伸びをした。
そこへ、
「すまんが、水を一杯くれるかね」
と、白髪の紳士が顔を出した。
「はい。冷たい方がよろしいんですか?」
と、谷口良子がすぐにグラスを出して、「お薬でもおのみでしたら、少しぬるくしますけど」
「そうしてくれるかな。ありがとう」
宮田は次の料理にかかっていた。
「——どうぞ」
「や、どうも」
と、グラスを受け取り、粉薬をのんでから、息をつく。
「もう、社長の話とかってのは終ったんですか?」
と、宮田が訊いた。
「いや——まだこれからだよ。どうして?」
「料理が冷めちまうからね。大体、コース料理の途中でスピーチなんて、ふざけた話ですよ」
「——そうかね」
「食事の前に短くすませときゃいいんだ。何十分もしゃべるつもりでいるんだろうな、きっと」
「そう長くはならんだろうがね」
と、老紳士は言った。
そこへ、河野が顔を出して、
「社長、お話を」
と言った。
「うん、今行く」
居合せた全員の手が止る。
「手短にするよ」
と、老紳士は言った。「大丈夫。料理が冷めるようなことにはさせないから」
「頼みますよ」
宮田も落ちついたものだ。
「お話の中で、ちょっと県知事の名前を出していただきたいんですが——」
一緒に戻って行く河野が、町田に説明する、その声が遠ざかって、
「ああ、びっくりしたわ!」
と、声が上った。「心臓が止るかと思った」
「本当ね」
と、谷口良子も胸に手を当てて、「あれが社長さん? 駅に迎えに行かなかったから、顔、分らないしね」
「でも、なかなかできた人じゃないの。ね、宮田さん?」
料理長は柔らかいヒレ肉を薄く切り分けながら、
「そうだな」
と、大して関心のない様子。「おい、炭火、ちゃんと見とけよ」
みんな、またあわただしく動き回り始めた……。