つい時計を何度も見ていたのだろう。
「小栗君はデートかね、今夜は」
と、課長の橋山がからかうように言った。
「いえ、別に……」
どぎまぎしてあわてて目を机の上に戻す。
——おかしい。いつもなら、午後三時には出かけるのに。
もう、四時になるところだった。今日はどうしたのかしら?
汗が背中を伝い落ちる。暑くもない——いや、むしろ少し肌寒いくらいなのだ。それなのに……。
小栗貞子は、ともかく机の上の仕事に集中しようと努力した。
「もうこんな時間か」
と、橋山がやっと腰を上げた。「今日は夕食会で遅くなるんだ。出かけてくるから、小栗君、後を頼むよ」
「はい」
ホッとした気持が顔に出ないように苦労した。伝票には、でたらめな数字が並んでいる。
四時とはいえ、都会のオフィス街の郵便局とは違って、こんな小さな田舎町の郵便局には、ドッと郵便物を抱えてくるOLはいない。
それでも、閉める時間が近付いてくると、お客がふえるのはここも同じ。
橋山が席を立ってロッカールームの方へ行きかけると、
「もう来てる? ねえ!」
と、声の方から先に飛び込んでくる。
「ああ、今日は」
と、橋山はその髪を振り乱した女に、穏やかに笑いかけた。
「ねえ、今日なのよ! 間違いないわ。そうお告げがあったの……」
「小栗君」
と、橋山が促す。
「今日は来ていません」
と、小栗貞子は言った。
「——お聞きの通りでね」
「変だわ。そんなわけないのよ」
女は貞子のいるカウンターの窓口へと走り寄ると、「確かに、聞いたの。今日は間違いなく着くって。ね、今日の郵便、もう一度捜してちょうだい!」
「でも、書留なら——」
「小栗君」
と、橋山が言った。「ああおっしゃってるんだ。調べてごらん」
貞子はチラッと時計を見た。——これで二十分近くもかかってしまうのだ。
でも——そうだ。いつもの通りに。
いつもなら、この少し頭のネジのゆるんだ女と一時間でも付合ってやっている。それを今日に限って追い帰したら、変に思われる。
いつもの通り。いつもの通りに見せなければ……。
「じゃ、出かけてくる」
橋山が上着を着て出てくると、表の扉を開けて出て行った。——これで、郵便局の中は貞子とその女の二人きり。
「あの課長さんとはねえ、小学校で机を並べたことがあるのよ。あのころは鼻水ばっかりたらして、課長さんなんかになるなんて、誰も思わなかったのよねえ……」
独特の、声を立てない笑い方。これも神経にさわるのだが、何より同じ話を少なくとも三十回は聞かされているのが、正に地獄の責苦である。
一通一通、ていねいに書留を見ていく。
「あの子はねえ、いつもケーキを二つ食べたいところを一つで我慢して、私の所にお金を送ってくるのよ」
「ご立派ですねえ」
このやりとりも毎回くり返される。男の子なのに、どうして「ケーキ」なのか、それがおかしい。
「——ありませんね」
と、貞子は全部見終って言った。
お願い。これで帰ってよ。帰って!
「変ねえ……。今日に限って、書留にするのを忘れたってこともあるわね。普通の郵便の中にない?」
いい加減にして!
貞子は叫びたかった。わめき散らしてやりたかった。
そうだ。どうせ、もうこの町にはいなくなるのだから、どう思われたって構うもんか。
それでも、ついていねいな口調で、
「普通便まで調べると、凄《すご》く時間がかかるんです。今夜、よく見ておきますので、明日またいらして下さいませんか」
「あら、そう……」
明日。——そうだ。明日、と言っておけばいい。明日なんて、私にはないんだから。
「どうもすみません」
話し足りない様子で出て行く女へ、貞子はそう声をかけてやる余裕さえあった。
一人になる。——一人だ。
四時を十五分ほど過ぎた。大丈夫。充分間に合う。
却《かえ》って、邪魔が入らないことが不安の種だったりする。
小栗貞子、二十四歳。
高校を出て、この郵便局に六年。もう「ベテラン」の域である。
だが、鏡を見ると、そこにはもう「中年」の女の顔がある。疲れて、退屈して、夢を失った顔。
それも今日限りだ。明日からは新しい生活が始まるのだ。
そのためには、「冒険」も必要だ。高い吊《つり》橋《ばし》から飛び下りるほどの決心が必要なのだ。
一人になって、五分待った。
それからロッカーへ行き、持って来た、小さくたためる布の手さげ袋を出して、金庫のある〈局長室〉へ。
局長は、隣町の郵便局と兼任しているので、ここにはほとんど来ない。どっちも小さい町だが、向うには少なくとも飲み屋の並んだ一画がある。
それに局長は隣町に「愛人」を置いているという噂《うわさ》もあり、ここへほとんど顔を出さないのはそのせいか……。
金庫が開くと、貞子は一万円の札束をバッグの中へていねいに納めて行った。
橋には、もう彼の姿があった。
貞子は息を切らすほどの勢いで走って来たのだが、橋の上に増田邦治の姿を見付けると、また足どりを速めてさえいたのだった。
「走らないで! 走らなくていいよ!」
と、増田邦治は大きく手を振って、貞子に呼びかけた。
貞子は思い出した。彼が高所恐怖症で、この山間の深い谷川にかかる吊橋を怖がっていたことを。
決して危険というわけではない。しっかりと作られた真新しい吊橋なのである。しかし、人が上を走ったりすると、その揺れが大きくなって、怖いほど揺れることもある。
だから、貞子に向って、
「走らないで!」
と、あわてて叫んだのだった。
「待った? ごめんなさい。なかなか出られなくて」
と、少し息を弾ませながら貞子は言って、増田邦治の胸に、少し汗ばんだ頬《ほお》を押し当てた。
「大丈夫?」
と、増田は訊《き》いた。
「ちゃんと持って来たわ」
と、貞子が手さげ袋を見せた。
「お金のことじゃない。君の体のことを心配してるんだ。そんなに息を切らして!」
「大丈夫よ。こんなことでへばってたら、東京へ出てやって行けないわ」
「そうだな。でも——無理をするなよ」
「やさしいのね」
貞子は少し伸びをして素早く増田にキスすると、「——間に合う? 五時十五分の列車でしょ?」
と、心配になって言った。
「バイクがある。あれなら十分で駅まで行くさ」
「良かった! 気が気じゃなかったのよ」
「さあ、汗を拭いて」
と、ハンカチを出して貞子の額を拭《ぬぐ》うと、「その袋?」
「ええ。——変ね。そんなに重いわけじゃないのに、ずっしりと手《て》応《ごた》えがあるの」
「僕が持つよ」
と、増田はその布の袋を受け取って、「悪いな。決して後悔させないからね」
「そんなこと、言わないで。私も承知でやったのよ」
と、増田の唇に指を当て、「急ぎましょう。大丈夫だとは思うけど」
「うん。バイクを、あっちの木のかげに置いてある。君、ここで待っててくれ。これを積んで、すぐ来る」
「ええ」
増田が足早に行ってしまうと、急に周囲の静寂や寂しさが迫って来て、貞子はふと寒気さえ感じた。
秋に入って、山はもう高い辺りで色づき始めていた。
吊橋の手すりに両手をついて、下の谷川を見下ろすと、目がくらむようだ。
ふと、心臓がひどく早く打っているのに気付いて目を閉じる。——大丈夫。大丈夫。
落ちついて。何ともないのよ。
わざわざ、深い谷間を覗《のぞ》きたくなる。その心理は今の貞子の気持に似たところがあった。
——一千万。
いつもなら、あんな小さな町の郵便局にそんな現金はない。ただ、毎月、十五日の月給日の前日だけ、あの金庫に一千万円の現金が眠っているのだ。
明日になれば、この近くにある唯一の大きな工場(といっても大したことはないが)の給料として支払われる。
盗むこと。——そんなことを、自分がやってのけるとは、思ってみたこともない。
増田からその話を聞いたときも、笑ってしまって、まともに話ができなかったくらいである。
しかし、増田との関係が深くなり、この小さな町では、誰と誰が付合っているか、隠しておくことはとてもできないことで……。
貞子は両親から増田と付合うことを厳しく禁じられた。——両親は、娘が反抗することなど、考えてもいなかった。
確かに、貞子は今までほとんど親の言うなりになって来た。今度も、素直に言うことを聞くだろうと親が思っても無理はない。
しかし、貞子はもう二十四で、小さな子供ではなかったのだ。これまで、何度も抑えつけられて来た「自分の人生」が、一気に爆発したのである。
犯行が発覚するときは、明日を待たずにやって来る。それまでに列車に乗って、この町を離れている必要があった。
両親が、この小さな町でどんな立場に置かれるか、それを思うと胸が痛まないわけではなかった。
でも——でも、もう選んでしまったのだ。
私は増田邦治を選んでしまったのだ。
——増田のことを、貞子の両親が信用しなくても、責めることはできない。東京の大学へ行った増田は、覚醒剤を持っていて捕まり、退学処分を受けてこの町へ戻って来たのだった。
そんな増田にとって、この町が居心地のいい場所であるわけもなく、「もう一度東京へ出る」ことだけを考え続けていたのも当然だろう。
彼について行く。——貞子がその決心をしたのは、もう何か月も前だ。
その障害になったのは、東京へ行っても、数百万の借金のけりをつけなければ、また「悪い道」へ引張り込まれてしまうのが目に見えているということだった。
そこから、郵便局のお金を盗んで逃げるという考えまでは無限の距離があったが、それを飛び越えさせたのは、貞子の中に増田の子が宿っていると分ったことだ。
検査のために、列車で二時間の町まで行ったが、いつまでも親の目をごまかしてはおけないし、一《いつ》旦《たん》知れれば、貞子は家から出ることさえできなくなるだろう……。
善悪の判断がつかないわけではない。ただ——他に選ぶ余地がなかった。それだけのことなのだ。
これきりだ。これで、もう二度と「道に外れたこと」はしない。貞子はそう自分へ言い聞かせていた。
——風が、谷間を抜けて、かすれた口笛のような音をたてた。
薄暗くなりかけている。
バイクの音がして、増田が橋の方へとやって来た。
貞子は肩からさげたバッグを軽く揺ってかけ直すと、手すりから離れて、バイクがやって来るのを待った。
そのとき——信じられないものが聞こえた。
「小栗君!」
課長の橋山の声が、山間に響いたのだ。
まさか……。どうして課長が?
振り返った貞子の目に、町からの道を喘《あえ》ぎ喘ぎ駆けてくる橋山の姿が映った。——お願い! やめて! 幻なら早く消えて!
だが、それは消えようとはしなかった。
どうしてだか、橋山は局へ戻って、金庫の現金が消えているのを発見した。そして、この道を来た貞子を誰かが見ていて、橋山に教えたのだろう。
「——待て! 小栗君! 馬鹿なことはよせ!」
橋山も、もう走る余力は失っていて、ヨタヨタと橋の方へやってくる。
増田のバイクが停った。
「見付かったんだわ! 逃げましょう」
貞子はバイクへ駆け寄ると、後ろにまたがろうとした。
「——貞子」
ヘルメットをかぶった増田が振り向く。
「え?」
増田の手が、貞子の胸をいきなり押した。貞子がバイクから落ちて尻もちをつく。
「あなた!」
と、貞子は起き上ろうとして叫んだ。
バイクの音が高くなり、増田は貞子の方をチラッと見ただけで——。
バイクはたちまち走り去って行く。町とは逆の方向だった。
「待って!」
貞子は立ち上ると、バイクを追って走り出した。「——待って! お願い、置いてかないで!——あなた!」
バイクの速度は大したことはない。貞子は、夢中で駆ければ追いつけそうな気がした。
しかし、息が切れ、胸が苦しくなって、足がもつれると、もう増田のバイクは山道をどんどん遠ざかって、見えなくなる。
貞子は、道にガクッと膝《ひざ》をつき、そのまま座り込んでしまった。
増田は、貞子を突き落とした。そして金の入った袋だけを持って、逃げて行った。
貞子は、自分が単に利用され、捨てられたのだということ——しかも、その男の子を宿していることを思って、打ちのめされた。
あなた……。あなたは……私を愛してなんかいなかったのね……。
涙は出なかった。ただ、心臓の辺りにポッカリと穴が空いたようで、自分の生きていることが信じられなかった。
「——小栗君」
と、声がした。
振り仰ぐと、橋山が肩で息をしながら、彼女を見下ろしていた。
「課長さん……」
と、貞子は言った。「私を橋まで連れてって下さい」
「小栗君……」
「私が飛び下りるのを、手伝って」
「馬鹿なこと言うもんじゃない」
と、橋山はかがみ込んで、貞子の肩に手を置くと、「さ、町へ戻ろう。——立てるか?」
「ええ……」
貞子はそろそろと立ち上った。そして、突然橋へと駆け出したのである。
「——小栗君! やめなさい!——待ってくれ!」
橋山があわてて後を追ったが、とても追いつけない。
貞子は走った。あの吊橋。——あそこで私はおしまいになったんだ。何もかも、おしまいだ。
「小栗君!」
橋山の声が背後に遠い。貞子は橋の真中まで一気に駆けて立ち止った。
吊橋はゆっくりと揺れている。
「あなた……」
貞子は、手すりをつかんだ。
そして——甲高い叫び声が山間に響いた。