「一体どうなってるの?」
恵美は、叩《たた》きつけるように言った。
「申しわけありません」
河野は、ただひたすら頭を下げるばかり。
「謝ってもすむことじゃないでしょ、——主人は何をしてるの? あんな田舎町で!」
重役室で、背もたれの高い大きな椅《い》子《す》に腰をおろした恵美は、険しい表情になっていた。
苛《いら》立《だ》ちで、机を叩きながら、
「電話しても、『やることがある』って言うだけ! 本社の会議をすっぽかして、あんな町で何をしてるの?」
「ホテルのオープンで、色々と——」
「分ってるわよ、それくらい!」
と、恵美は遮って、「でも、河野君、あなたまで帰って来てるってのは、どういうこと? 主人を一人で残して来るなんて」
「社長のご命令で」
「いくら『ご命令』でも、いつもなら言うこと聞かないでしょう。それが今回はどうして?」
「それは……」
河野の額に汗がにじんでいるのを見て、恵美もびっくりした。
「いいわ。分った。——言いたくなければいいわよ」
「奥様——」
「ごめんなさい。あなたに当っても仕方ないのにね。もう行って。会議の日程だけでも、何とか出すように主人に言ってちょうだいね」
河野は黙って頭を下げると、重役室を出て行く。
——恵美は少し冷めたお茶を飲んで、息をついた。
何かがおかしい。恵美は敏感に感じ取っていた。地震を予知して動物が騒ぐように、恵美も近付いてくる「異変」を感じていた。
ドアが開いた。
「何か忘れたの?」
恵美の問いには答えず、河野は真直ぐ机までやって来ると、
「社長は、あの町の女性に恋をされたんです。それで帰りたくないとおっしゃっているんです」
と、早口に言った。「——それだけです」
パッと一礼して出て行く河野を、恵美は止めることもできずに、呆《ぼう》然《ぜん》として見送っていた……。
生徒たちの声が聞こえてくる。
応接室といっても、半ば物置と化して、いつのものやら分らない優勝カップとか楯《たて》が並んで、埃《ほこり》をかぶっていた。
谷口良子は、もう三十分もここで待たされていた。——言われた通りの時間に来たのに、ここへ通されて、
「少し待ってて下さい」
と言われたきり。
何があったんだろう?
良子は、このところ忙しくて、ほとんど連日帰宅は夜中だった。ホテルの中がまだうまく動かないせいでもあるが、予想以上の客が来ているのも原因だった。
料理長の宮田も、毎日、睡眠三、四時間で頑張っている。しかし、忙し過ぎるというのは、ぜいたくな悲鳴だろう。
良子は本来「皿洗い」が仕事だが、結局臨時雇いの子の面倒までみなくてはならなかった。「教育係」というわけだ。
良子としては、娘のひとみを大学へやりたい。そのためには、ホテルでの仕事が正規の「社員」として続けられたら理想的だった。
そこまではまだまだかかりそうだったが……。
ひとみは、「大学へ行きたい」と言っているわけではない。しかし、この高校の友だちの、ほとんど全部が大学へ進むのである。当人も行きたいだろうが、そう口には出せずにいる。
もう高三だ。ひとみの進路も決めなくてはならない。
——応接室のドアが開いた。
「あ、どうも……」
立ち上って、担任の先生に頭を下げたが、その後から校長、そして何と町長の橋山まで入って来て、良子は言葉もなかったのである……。
「——お待たせして」
と、何だか汗をかいている担任の明石が口を開いた。「こちらの打ち合せに手間どりまして、申しわけありません」
明石は、三十代半ばの、一見、どこかのサラリーマンかと思える男である。いつもきちんと背広にネクタイで、真夏でも上着こそ着ていないが、ネクタイはしめて、涼しげに歩いている。
その明石が今日は汗をかいているのだ。——何ごとだろう? 良子は不安がつのって、思わずソファに座り直してしまった。
「こちらは……ご存知と思いますが、町長の橋山さん、それに校長先生——」
「もちろん存じています。あの……ひとみが何かしたんでしょうか?」
「いやいや」
と、校長の小田が首を振って、「別に何かしたというわけじゃないのです。ただ、まあ——困ったことがありまして」
校長の小田は、いつも持って回った言い方で評判が悪い。教師としては影の薄い存在だったのだが、県の教育委員会には忠誠をアピールして、校長の地位を手に入れた。
校長になって、まだ二年という点を考えに入れても、貫禄のない「校長先生」だった。
「何でしょうか。このところ、私もホテルの仕事が忙しくて帰宅が遅いものですから。娘ともあまり話しておりません。何か問題を起したのだとしたら、はっきりおっしゃって下さい」
「当人が問題をあれしたわけではないのでしてね。要するに、私どもとしても大変困ったことになったと思っておるわけで……」
「校長先生」
と、橋山町長が言った。「それじゃ、谷口さんには何のことか分らんよ」
「はあ……」
「谷口さん。——あんたも一度は東京へ出たが、結局、この町へ帰って来た。この町のことを大切に思ってくれとるだろう」
「はあ」
「今、ホテルにオーナーの町田国男さんが泊っておられるのは、知っての通りだ」
橋山は穏やかに言った。「娘さんが、町田さんと会ったことがあるのは知っていたかね?」
「ひとみがですか。——ええ、一度、あの吊《つり》橋《ばし》の所でお目にかかって、お話ししながら帰って来たことがあります。迎えに行って、出会ったんですけれども」
「その後も、町田さんとひとみ君は吊橋で会っているのだよ」
「——そうですか。あの子、何も言わないで……」
と、良子は言いかけて、「——何か、町田さんに失礼でもしたんですか?」
「いや、むしろその逆だ」
「逆、というと……」
「町田さんが、すっかりひとみ君を気に入ってしまわれた。ひとみ君を東京へ連れて行きたいとおっしゃってるんだよ」
良子は愕《がく》然《ぜん》とした。
町田は、部屋に備えたファックスが、ジーッと音をたてて、受信された文書がプリントアウトされて出てくるのを見ていた。
読む気にもなれなかった。内容は分っている。本社からのファックスが、もう何十枚もたまっていて、部屋の隅に投げ出してある。
町田は一切見ないことにしていた。——結論が出るまでは一切見ない、と決めていた。
ホテルの一番広いスイートルームのドアをノックする音がした。
——橋山町長が、ややおずおずと入って来る。
「かけて下さい」
と、町田はソファをすすめて、「話はしてくれましたか」
「はあ……」
橋山は目を伏せて、「一応、母親と話をしまして……」
「一応、では困る! はっきり返事をもらいたい。いいですか、私も東京に仕事を山と待たせておる。一日ごとに何千万の損を出している。長くは待てんのです」
町田は厳しい口調で言った。
「よく分っております。しかし、母親にも寝耳に水だったようで、びっくりしているばかりなんです。せめて、帰って娘と話したいと……。ひとみ君は今日、学校を早退しています」
「それで?」
「よく説明しました。町田さんが決して遊びのつもりでひとみ君をそばに置きたいとおっしゃっておられるんじゃない、と。ひとみ君の気持ももちろん尊重する。ただ、何といっても、まだ十八で、母親としては手放したくないだろうが——」
「結論を」
と、町田は遮った。「ひとみが承知なら、母親も了解してくれるのですか?」
「それは……。そこまでは言い切れませんでした。やはり、娘とよく話し合った上でなければ……」
「町長さん、私はこの町が好きだ」
と、町田は言った。「だからこそこのホテルも建てた。このホテルが町の人を優先的に従業員として雇っているのは、大変にコスト的にはむだをしているのです」
「それは分っております」
「三人ですむところに、四人、五人と人がいる。しかし、長い目で見て、この町のためになるのでなければ、ホテル経営の意味はない、と私は思っているのです」
「そのお気持は——」
「それなら、お分りいただきたいものですな。私がひとみを連れ帰ることができれば、このホテルを必ず成功させてみせます。しかし、それができないとなれば……。私はこの町に失望するでしょう。そして、二度とこの町へ足を踏み入れることはない。——そうなれば、このホテルはどうなります? 私にとっては、いくつもあるホテルの一つだ。ここを閉めたところで、どうということはない。よく考えて下さい」
橋山は、やや青ざめた顔で、
「よく分りました」
と言った。「谷口良子によく言って聞かせましょう」
「ご返事をお待ちしています」
町田は、さっさと立って行ってドアを開け、「今夜中に。——よろしいですね。明日は帰京します」
問答無用だ。——橋山は、重苦しい足どりでスイートルームを出て行った……。
——ドアを閉め、町田は苦い思いをかみしめながら、窓辺へと歩み寄った。
「ろくでなしめ……」
と、呟《つぶや》く。
俺はいつからヤクザの真似をして、人を脅すようになったんだ?
町のため?——我ながら笑ってしまう。
俺はただ、あの子が欲しいのだ。それだけなのだ。
「——ひとみ」
と、呟く。
その名は、もう彼の中で特別なひびきを持っていた。
「学校を早退した」
と、町長は言った。
町田は、コートをつかんで、駆け出すように部屋を出た。
吊橋が見えてくるころには、もう辺りは薄暗くなり始めていた。
町田はかなり息を切らして、それでも足どりを緩めようとはしなかった。確信があった。——あの子はあの吊橋にいる。
そして——本当に、ひとみの姿は吊橋の上にあった。
鞄を足下に置いて、手すりに両手をのせて、じっと遥か下の谷川を見下ろしている。
町田が近付いて行っても、ひとみは顔を向けなかった。
「——ひとみ。やっぱりここにいたんだな」
「来ると思った」
と、ひとみは言った。「待ってたのよ」
「そうか。しかし——」
「私の心の中ぐらい分るでしょ。そんなに愛してくれているのなら」
ひとみの言い方には、どこか自分を責めているようなところがあった。
「分るもんか」
町田は、手すりに背中をもたせかけて、「人が何を考えているか、誰だって分りゃしない。自分が考えてることだって、ろくに分らないのに」
「六十年も生きてても?」
「生きれば生きるほど分らなくなる」
と、町田は言った。「分らないから、信じるんだ。分らないのに信じるから、価値があるんだ。そうだろ?」
ひとみは、ゆっくりと町田を見て、
「私を——本当に東京へ連れて行きたいの?」
「ああ。君の中に、私は初めて自分の未来を見たんだ」
と、町田は言った。「もう、未来なんかないと思っていた。老いて、死んでいくだけだと。——作り上げた、ホテルもレストランも、その内見も知らぬ奴の手を転々として、滅びていくんだと……」
「今は違うの?」
「違う。——私にははっきり見えた。君が私の子供を抱いて乳を含ませているのが。その子が私の築いたものを受け継いで、もっともっと大きくしていくのが。ひとみ。君は可愛い。だが、私はそれだけで君にこだわっているわけじゃない。君の中にしか、私の未来がないからなんだ」
町田の言葉を聞いて、ひとみはまた谷川の底へと目をやった。
「私が——あなたの子を産むの?」
「そうだ。いやか?」
「さあ……。想像もつかない」
ひとみの目は、暮れかかる空を見上げた。
「ひとみ——」
「私、ここへ帰って来たくなかった」
と、ひとみは言った。「東京にいたのよ、ずっと。それが……。お母さんがどうしても帰ると言い出して。私、いやだった。でも、まだ十五だった私が、一人で東京に残るわけにいかなかったの」
「どうして東京へ出たんだ?」
「さあ……。私が三つのときだもの。何も憶《おぼ》えていないわ」
「父親は?」
「顔も知らない。私が赤ん坊のとき死んだって……。そして、お母さんは働かなきゃいけなかったの。それには、この町じゃ無理だった……」
「そうか。——お母さんと一緒に東京へ来ればいい。暮しは私が見る」
「お母さんはここにいるわ」
「あの宮田という料理人がいるからか」
ひとみは町田を見て、
「知ってるの」
「それらしいと思っただけだ」
町田は、ひとみの肩を抱いた。ひとみも逆らわなかった。
「——私を捨てない?」
「ああ」
「誓う?」
「誓うとも。——誓いを破るほど長くは生きていない」
ひとみはちょっと笑った。そして——伸び上って町田の唇に自分の唇を押し付けた。
吊橋の辺りは、ゆっくりと「夜」に包まれていった。