「はい、そうそう。よくできたじゃない。昭《あき》子《こ》ちゃん、よく練習してるわ」
賞《ほ》められていやな子はいない。——本当のところは、毎日どころか、三日にいっぺん、十五分も練習しているかどうかだろうが、それでもニコニコしている。
「もうちょっとね。この左手の方が、どうしても遅くなるでしょ。それに気を付ければ……。ウーン、ま、いいか。おまけしてあげる!」
一曲、「マルをもらって」、子供の顔にはホッとした表情がうかがえる。
「はい、それじゃ、また来週ね。この次の曲は、前にやったのとよく似てるから、自分で練習してみてね」
ろくに先生の言葉なんか聞いていない。
手早く楽譜をバッグへ入れ、
「さよなら!」
バタバタと玄関から飛び出して行く。
「車に気を付けて」
と、宏《ひろ》美《み》は声をかけた。
聞こえてはいないだろうが、ともかく、つい、そう呼びかけてしまうのは、自分が母親になってからのことである。
——さて。この後は一時間空いている。
次の生徒は、中学生の女の子で、いつも全く練習して来ないので、一向に先へ進まないのが悩みの種だった。
それでいて母親からは、
「ちゃんとお月謝を払ってるんですから、真剣に教えて下さい」
と文句を言われる。
教師のできることなど、大してありはしない。本人が好きで、練習すること。それしかない。
しかし、こんな所で、〈ピアノ教室〉を開いている限り、そんな生徒でも、大事な「お客さん」である。
ともかく——この間に夕ご飯の仕度をしなくては。
宏美は、茶の間を覗いた。早《さ》苗《なえ》が、昼寝から覚めて、指をしゃぶりながら、絵本を見ている。
「あら、起きたの?」
と、宏美は笑顔で言った。
「ママ、おやつ」
と、待っていたように、宏美の膝《ひざ》にのって来る。
「はいはい。何かあったかなあ……」
早苗の好きなゼリーが冷蔵庫に入っている。
「あ、これがあった! 食べる?」
「ウン」
早苗にスプーンを渡して、
「こぼさないでね」
と、頭を軽くなでてやって、台所へ立つ。
——早苗が生まれて、宏美の生活は一変した。もちろん、忙しさは何倍にもなり、生徒をとる数も、減らさざるを得なくなった。
しかし、それでも宏美は幸せである。充実していた。
あのころ……ピアノがイコール「人生」そのものだったころに比べて、もちろん、比較にならないほどささやかな幸せかもしれないが、ともかく、ここにはずっと「人間的なぬくもり」があった。
夫——松《まつ》原《ばら》紘《こう》治《じ》と結ばれるまでの、嵐《あらし》のような日々の後だけに、今の日々の平穏が、退屈でもなく、幸せと感じられるのかもしれない。
冷凍しておいたシチュー。——これで我慢してもらおう。明日はレッスンのない日だから、買物に行ける。
後はミソ汁を作って、サラダ……。もう若くはない夫の体を考えると、できるだけ野菜をとらせておきたい。
電気釜《がま》のスイッチを入れた。——これで、夫が早く帰って来てくれるといいのだが。
玄関のチャイムが鳴った。
「はあい」
公団住宅の中層の中古を手に入れたこの家は、手狭ではあるが、建物がしっかりしているので、ピアノのレッスンをしても、下の部屋から苦情が来たりしないのが何よりである。
もっとも、そのために、下の部屋の小学生の女の子には、タダでピアノを教えている。
「——はい」
と、玄関へ出ると——。
「鍵《かぎ》もかけないの?」
「お母さん……」
と、宏美は言った。「生徒が帰って、そのままだから……。大丈夫なのよ、いつも出入りしてるから」
「そう」
宏美は、
「上って」
と、スリッパを出した。
買って来たばかりの新しいスリッパである。
和《わ》田《だ》涼《りよう》子《こ》は、上り込んで、
「今はレッスン中?」
と訊いた。
「ううん。そうじゃないの。今は空き。——早苗、おばあちゃんよ」
早苗は、この見るからに厳格そうな祖母に、恐れを感じている様子で、
「おばあちゃん……」
と、小さな声で言って、母親のスカートのかげに隠れている。
「また大きくなったわね」
和田涼子も、孫を見ると笑顔になる。
「もう、ずいぶん見てないでしょ」
「そうね。一年くらい? もうじき三つでしょ」
「うん」
「大きくなるわけよね……」
と、和田涼子は茶の間へ入って、座布団に座った。
「ママ、ピアノいじってていい?」
と、早苗が言った。
「いいけど、お手々を拭《ふ》いてから」
宏美は、タオルで、早苗の手をていねいに拭く。
早苗が隣の部屋へ駆けて行くと、すぐにポン、パン、と鍵《けん》を叩く音が聞こえて来る。
「——お茶を」
「ありがと」
宏美は、母の髪にずいぶん白いものが目立つのに気付いた。
「どうかしたの?」
と、宏美は言った。「具合でも——」
「聞いてないの? 影《かげ》崎《さき》先生のこと」
宏美は、その名前を久しぶりに聞いてハッとした。
「先生が……」
「倒れたの。演奏中に。知らなかった?」
「倒れた?」
宏美は一瞬青くなった。「知らなかった……。新聞見てる間もないの」
「一応命はとり止めたらしいけど、心臓ですって。当分入院の様子よ」
「そう……」
「松原さんは知ってるの?」
「あの人? さあ……。そういえば、ゆうべ遅かったけど、ずいぶん。朝はあわただしく出て行くから、そんな話する暇なかった」
宏美はそう言って、「お母さん、私も〈松原〉よ」
「そうだったね」
母の涼子は、少し冷ややかな口調になって、「紘治さん——だっけ。もう五十?」
「まだ四十九よ。なったばかりだわ」
「四十九で、子供が三つね。——大変だね」
「お母さん、やめて……。そのことはもう——」
「分ってるわよ。でもね、あんたがこんなアパートで、近所の子供相手にバイエルだのブルグミュラーだの教えてるのかと思うとね……。こんなことさせるために、あんたを音大へやったわけじゃなかった」
「それを言いに来たの?」
と、宏美は少し挑むような口調で、言った。「夕ご飯の仕度をするの。あと四十五分もしたら、次の生徒さんが来るわ」
「宏美」
と、母が言った。「今日、電話がかかって来たの。あんたの連絡先を知りたいって」
「何の用で?」
「今井さんって、憶《おぼ》えてる?」
「今井?」
「ヴァイオリンの。ほら、影崎先生の上の娘さんと——」
「ああ、今井君か。今井 初《はじめ》君でしょ」
「そう。今、そのみさんと暮してるんですって」
「そのみさんと?——結婚してるの?」
と、宏美は訊いた。
「いいえ。知ってるでしょ、そのみさんのことは」
「うん……。じゃ、今は今井君なのね」
今井は宏美より大分後輩である。ここのところ、名前をあまり見ない。
「今、何してるの、今井君」
「ちょっと鳴かず飛ばずね。——で、今度、Tホールの小さい方で、室内楽をやるんですって。ピアノ五重奏——ドヴォルザークに出るはずだったピアノの人が、突然ドイツへ留学しちゃったとかで。代りの人を必死で捜してるの。で、あんたにどうかって訊いてみてくれってことなの」
涼子の早口な言葉は、途中で遮られることを恐れているようだった。
「そんな……。無理よ」
と、宏美は首を振って、「もうずっと本格的に練習なんかしてないわ」
「分ってるけど……。もちろん、お金になる仕事じゃないわ。でも、あんたが少しでも……」
言いかけて、母の声が小さく消える。
宏美は、母がまだ夢を捨てていないことを知った。——娘が、いつの日か一流のピアニストとして、ステージに立つ、その夢を。
「とても無理。そう言って」
と、宏美は言った。
「でも——」
「無理よ」
宏美の言葉に、母親は諦《あきら》めた様子で、
「そうだろうとは思ったけどね……」
と、ため息をついた。「一応、連絡先を置いてくわ。——今井さんのじゃなくて、そのコンサートのマネジメントをしてる人の所ですって。今井さんは今、あの人と一緒だものね」
メモ用紙がテーブルに置かれる。——むだよ。持って帰って。捨てられるだけなんだから。
宏美はそう言おうとして、何とかのみ込んだ。それだけきつい言葉を母に向って言うためには、宏美にも後ろめたいところがあったのである。
「——いつから幼稚園?」
と、母が話題を変えた。
宏美は、十分遅れて来たその中学生の女の子が、いつもの通り、少しも練習しなかったことを、すぐに見ぬいた。
「ちゃんとやってんだけど」
と平気で言っても、プロの目はごまかせない。
「はい。このくり返しの所から、もう一度」
辛抱強く、宏美は言った。
実際、近所の子供たちを教えてみて、宏美はずいぶん辛抱強くなった。教える身にとって、生徒が練習しないで来ることが、どんなに腹立たしいかも、よく分った。
「——ほら、よく見て!」
と、宏美は言った。
同じところで、もう五回も引っかかっている。
「面倒かもしれないけど、くり返してけいこするしかないの。分る? 指が憶えるまでやるのよ」
注意されるとか叱《しか》られるということに、今の子は慣れていない。すぐにプーッとふくれてしまうのである。
叱る方が悪い。教え方が悪い。——何でも悪いのは「自分じゃない」のである。
「ね、先生」
「なに?」
「先生の旦《だん》那《な》さんって、凄《すご》い年《と》齢《し》とってんですって?」
宏美は一瞬絶句した。
「そんなこと、あなたと関係ないでしょ」
「聞いたよ、ママから」
「何を?」
「よその旦那さん、とっちゃったんだって? やるじゃない、先生」
宏美は、怒りがこみ上げて来るのを、必死で抑えた。——この子の母親は、この辺では有名な「実力者」である。
「そんなこと、どうでもいいの。はい、もう一度」
「もう飽きたよ!」
と、女の子は伸びをして、「ね、先生、弾けんの?」
「何を」
「これ。先生弾くの、聞いたことないなあ。ママが言ったよ。『あの先生、本当はうまくないんじゃないの?』って」
どこまで本当か。しかし、あの母親なら言いかねない。——宏美は、目の前で、人を小馬鹿にしたような顔で笑っている女の子を、ひっぱたいてやりたかった。
自分が習っていた先生だったら——影崎多《た》美《み》子《こ》ほど偉くなくても——とっくに一発くらっていただろう。
いやならやめればいい。——親の意志で無理に習わされている子には、宏美も同情していた。そういう子は、少々できが悪くても、あまり叱らないようにしている。
しかし、この子のように「練習しないけど、うまくなって、いいカッコしてみたい」という子には猛烈に腹が立つのだ。
「どいて」
と、宏美は言った。
「え?」
「どいてごらんなさい」
女の子が立つと、宏美はピアノに向った。そして——猛然と弾き始めた。鍵《けん》盤《ばん》が揺らぐかと思うほどの力で、叩きつけ、指は目にも止らぬスピードで走った。
びっくりした早苗が覗きに来たくらいだ。中学生の女の子は、その凄《すさ》まじい勢いに、呆《あつ》気《け》にとられて立っていた。
ほんの何分かだろうが——小さなレッスン室の中は、弾くのをやめてもしばらく、ジーンと音が鳴り響いているようだった。
宏美は立ち上って、
「もう、帰っていいわ」
と、言った。
「でも……」
レッスンの時間は、まだ十五分も残っている。
「練習して来なかったら、一時間やっても同じ。来週は少しでも練習してらっしゃい」
「はい……」
女の子はすっかり呑《の》まれてしまっている。
「さよなら」
「楽譜、忘れたわよ」
「あ、はい!」
あわてて飛び出して行く生徒の後ろ姿を見送って、宏美は息をついた。
体が熱い。久しぶりの経験だった。
「ママ……」
と、いつの間にか、早苗が足下に来ていた。
「早苗ちゃん。——どうしたの?」
「ううん……。大っきな音だったね」
「そうね」
と、宏美は笑った。
心から笑った。久しぶりの、爽《そう》快《かい》な気分。
思い切り弾いた、という快感が、宏美を捉《とら》えていた。
宏美は、茶の間へ入って、自分でお茶を飲んだ。電話が鳴る。
「——はい。——あなた。今夜は?」
「あと三十分くらいで出られると思う。一緒に食べられそうだな」
と、松原紘治は言った。「早苗は起きてるか?」
「ええ。代るわ。——パパよ」
「もしもし、パパ?——うん……。うん……」
早苗が大きな受話器を、持て余しそうにしている。——宏美は、ふとテーブルに目をやった。
母の置いて行ったメモ。
ドヴォルザークのピアノ五重奏か。——宏美の好きな曲だった。
でも……。あんな子をびっくりさせるぐらいは簡単でも、ホールで、一般の聴衆を前に弾くというのは、全く別のことである。
とても無理。——とても。
宏美は、そのメモを手にとった。ギュッと握り潰《つぶ》して……。
しかし、捨てなかった。もう一度、しわをのばすと、
「どうでもいいけど……」
と、呟《つぶや》きながら、ていねいに二つに折って、引出しへ入れたのだった。