「TVに出る?」
そのみは呆れて言った。
「お母さんには内緒ね」
と、由利はチャーハンを食べながら、言った。
病院に近い中華料理の店。——そのみを誘って、見舞に行くところである。
そのみの方も、由利を引張り出そうという下心があるせいか、おとなしくやって来た。
「CFに出るのよ。成り行きよ。仕方ないの」
と、由利は言いわけがましく言った。「お金のためよ」
「お母さんが聞いたら、あんた、ぶん殴られるね」
「黙っててってば!」
と、由利は念を押した。「ね? お母さん、TVなんか見ない人だし、分りゃしないわ、きっと」
「そりゃどうかしら」
と、そのみはそばをすすった。
由利だって分っている。
母は、一流の域に達した人間なら、何をしても干渉しない。しかし、由利のように、「ピアニストまがい」の人間が、それこそ「プロらしく」TVで弾いて見せたりしたら、カンカンになって怒るだろう。しかも、自分の娘が……。
「じゃ、黙っててあげる」
と、そのみは言った。「その代り、あんたは私のリサイタルに出るのよ」
「お姉さん……」
「情ない顔しないの。よくやったでしょ、昔。たぶんプーランクのソナタ」
「勘弁してよ」
「ガーシュインにする? あんたの好みに合せるわ」
「どっちも同じじゃない。それに全体のプログラムの中でどうかってこともあるでしょ」
「やる気、出してくれてるのね。——ありがとう」
と、食べ終って、「——ああ、おいしかった!」
「ちゃんと食べてるの?」
「ホカ弁とか、牛《ぎゆう》丼《どん》とかね」
「体に悪いわよ」
「料理なんてできないじゃない、私たち」
そう。——母は何もやらせなかった。
もし包丁でもいじっていて、手にけがしたら、どうするの!
何もかも、ピアノがすべてだったあのころ……。
しかし、気は進まないにせよ、由利は姉のリサイタルに出る気ではいた。
ゆうべの姉と比べ、今の姉ははつらつとして、若く、目に力がある。それほど、ピアニストにとって、「ピアニストであること」は大切なのだ。
リサイタルが決ったことで、そのみの生活に張りが出て来るだろう。——由利は、それが嬉《うれ》しかった。
「じゃ、プーランクのソナタ」
と、由利は言った。「楽譜、持ってる?」
「マンションにある」
「借りに行くわ。——練習する場所もない」
「あそこでやれば?」
「考えるわ」
由利も食べ終えて、お茶をもらった。「——ね、今井さんと、どうするの?」
「ああ。——忘れてた。あんなのがいたね」
「ひどいわね」
「しばらく出ててもらうしかないわね」
「行く所、あるの?」
「あるでしょ。何しろ女出入りの激しい人だから」
由利は、少しホッとしていた。姉が本気でリサイタルに取り組む気持でいることが分ったからだ。
そう時間はない。もちろん、得意な曲だけでプロを組むとしても、演奏として完成させるためには、「初めて弾く」気で取り組まなくてはならない。それには、今井との生活であれこれ気を散らすわけにはいかないだろう。
「——じゃ、病院へ行く?」
と由利は立ち上った。
「うん。何か買った?」
「容態も分んないのに。ともかく、お医者さんの話を聞きましょ」
と、由利は言った。
「——どうかしたのか」
夕食の席で、松原紘治は言った。
「え?」
宏美はご飯をよそいながら、「何のこと?」
「帰って来るとき、エレベーターの所で、下の部屋の……何てったっけ、あの派手な奥さん」
「山《やま》形《がた》さん?」
「ああ、そう。あの人に会ったら、何だか凄い音がしてたって、ピアノの。壊れてるのかと思ったそうだ」
「何でもないわ」
と、宏美が笑うと、
「ママ、すっごく大きい音で弾いてたよ」
と、早苗が言った。
「何だ、君が弾いたのか。変だと思った」
松原は笑った。
「あんまり生徒がやって来ないから、頭に来て」
と宏美は苦笑した。「少しびっくりさせてやりたくて」
「そうか。——大変だな。発表会もあるんだろ? 会場、取れそうか」
「何とかするわ。この辺だと数が少なくて、なかなか取れない」
「——旨《うま》いな、我が家の夕飯は」
と、松原がため息をつく。「毎日こうできるといいんだが」
「あんまり無理して働かないでね」
と、宏美は言った。「体をこわしたら、何にもならない」
「ああ……。来年は幼稚園を受けなきゃな」
「どこか近くで……。遠くは大変よ」
と、宏美が言った。
「ね、今日、おばあちゃんが来た」
早苗が報告する。
松原は、宏美を見て、
「お母さんが?」
「ええ……。ちょっと寄ったのよ」
と、宏美は言って、「それより——影崎先生、倒れたって……」
「うん」
松原が、ちょっと目をそらす。
「知ってたの」
「しかし、何とか持ち直したからな。わざわざ言うこともないと思って」
「会ったの?——会ったんでしょ?」
松原は、息をついて、
「いや……。会わなかった。娘の由利には会ったが。あの子がそばについてることになるだろう」
「新聞で見たわ。母に言われるまで知らなくて……。演奏中ですって?」
「そうらしいな。僕は見てない」
と、松原は首を振る。
「ほら、もう食べないの? もう少し食べたら?——そう? じゃ、『ごちそうさま』して」
「ごちそうさま」
と言って、「TV、見ていい?」
「三十分だけよ。あんまりそばで見ないでね」
「うん!」
早苗が駆けて行く。
——宏美は、影崎多美子が、演奏中に倒れたという記事を見て、ショックを受けた。
あの人は、相変らず命がけだ。命をかけて、ピアノを弾いている。
年《と》齢《し》はとっても、その情熱は衰えない。凄いものだ。
「あなた」
と、宏美は言った。
「うん?」
「私……昔知ってた人から、ちょっと頼まれてるの。ピアノ五重奏を一曲だけ、手伝ってくれないかって。——どう思う?」
言うつもりではなかった。しかし、あの影崎多美子の記事が、宏美を何かに駆り立てたのだ。
「そうか。しかし——」
「練習も含めて三回もあれば……。よく弾いた曲だし」
と、宏美は言った。「あなたに迷惑はかけないわ」
「そんなことはいいよ。誰なんだい?」
「あの——ヴァイオリンの今井君っていう後輩。今、そのみさんの『彼氏』だそうよ」
「へえ。そのみの? 忙しい奴だな、あいつは」
と、松原は笑った。「いいじゃないか。少しやった方が、鈍らなくてすむだろう?」
「そうね。——じゃあ、弾いてもいい?」
「平日か?」
「うん。早苗は、誰かに頼むわ。一曲だけだから、五十分もかからないと思うし」
「いや、聞きに行こうかと思ってさ」
「やめてよ。下手なのを聞いても、良くないわ」
「何を着るんだ?」
そう。そんなこと、考えてもいなかった。
ドレスの類《たぐい》は、一切持って来ていない。
「お母さんに言えば、持って来てくれるでしょ」
と、宏美が言うと、
「買えよ」
と、松原が言った。
「でも——もったいないわ」
「大した出費じゃない。買えばいいじゃないか」
松原の言い方にはこだわりが——妻に、コンサート用のドレス一着買ってやれない、と言われたくないという——感じられた。
でも、もちろん宏美も嬉しいことは確かである。
「じゃあ……買っちゃう」
「そうさ。君は可愛いのが似合う。大学生に見えるぞ、きっと」
「もう! 三十になった女をつかまえて何よ!」
と、宏美は夫をにらんだが、その目には、いつにない輝きがあった。
アパートへ帰って、由利は、息をついた。
幸い、そう遅い時間でもないし、夕食も姉と済ませた。
お風呂に入って、ゆっくり眠ろう。ゆうべの寝不足は、まだ応《こた》えている。
母の方は、まだ意識がはっきりしない。
「ときどき、目を開けるんですけどね」
と、医師は言った。「そのときは、ちゃんとご自分のことも分っておられる。大丈夫ですよ。時間の問題です」
時間の問題……。それが実は大きな問題なのである。
入院費用のこともあるが、ピアノに触れない日がそれだけふえるということでもある。
母にとって、ピアノを失うことは、死ぬのも同じだ。
由利は、浴槽にお湯を張って、ゆっくりと入った。——こんな風にのんびり湯をつかっていると、ごく自然に手首を軽く曲げたり、動かしたりしているのに気付く。
風呂を出て、パジャマ姿で夕刊を広げていると、電話が鳴った。
「——はい。——あ、工藤さん」
工藤県一だった。
「どうしたのかと思ってさ」
「ごめんなさい。話す時間もなくて」
「どうなったんだい、会社の方?」
「あのね……」
少し迷ってから、「これ、まだ内緒ね。たぶん、私、辞めるの」
「何だって?」
「色々、わけがあるの。でも、クビっていうんじゃないのよ。今度ゆっくり話すわね」
「そうか……。でも……また会えるかい、辞めても?」
「うん。もちろんよ」
「ま、それならいいけど」
と、工藤は安心した様子だった。
本当なら、何もかもしゃべってしまっても良かったのだが、由利は、何ごとも絶対確かでないと、口にしない。それが性格というものなのである。
「お母さん、どう?」
「ありがとう。今のところ、まだはっきりしないわ」
と、由利は言った。
「看病で、あんまり疲れないようにね」
工藤の心配が、身にしみて嬉しい。
しかし——妙な言い方だが、母がああいう状態ならまだ楽なのだ。
意識が戻って、回復して来たら……。それこそ「大変」なことになる。
由利にはよく分っていた。そして姉はリサイタルへ向けて、母の見舞どころではなくなるだろうし。
「ね、由利さん」
と、工藤が言った。
「え?」
「ゆっくり一度、食事しようよ。君が辞める前にさ」
工藤の言葉には、「その先」のことまでが含まれているような気がした。
考えすぎだろうか? でも、ともかく今の由利には、予定というものが立たない。
「また今度ね」
と、由利は言って、「じゃあ……おやすみなさい」
——まだ、夜になったばかりのような時間で、姉のそのみは、そのころ、ピアノに向って、ていねいにスケールを弾いていた。