「この道しかないのか!」
突然、不機嫌そうな声を出したのは、パトカーの後ろの座席で、腕組みをしていた、太った男である。
運転していた警官は、びっくりして、あわててスピードを落としながら、
「あの——何かまずかったでしょうか、警部?」
と、訊《き》いた。
警官がびっくりしたのは、もちろん、思いもしないことを言われたせいでもあったが、米《よね》田《だ》警部がてっきり眠っているものとばかり思い込んでいたからでもある。
「俺《おれ》は質問したんだ」
米田警部は、笑った顔を見たことがない、とからかわれる、苦《にが》虫《むし》をかみつぶしたような表情で、言った。
「はあ——あの——道は他にもあります。しかし、この時間、ここ以外は大変混んでおりまして。狭いので、サイレンを鳴らしても道は空《あ》きません。この道ですと、多少遠回りですが、時間的には早いかと……」
「分った」
「あの——この道でよろしいのでしょうか?」
「うむ」
米田は、もうすっかり興味を失った、という様子で、窓の外を、まぶしげに眺めた。
ただでさえ細い目が、ほとんど一本の筋のようになる。
「この道は、S大学のそばを通るな」
と、米田が言った。
「はあ……。そうです。ちょうどS大のキャンパスの中を抜けて行くんです。それが何か……」
「いや、何でもない」
米田は、それきり、また目をつぶってしまう。運転している警官の方は、ますますわけが分らなくなって、首をかしげているばかりだった。
——時期は四月も末。大《だい》分《ぶ》、陽射しは暖くなっていて、パトカーの中も、いささか暑くて汗ばむぐらいだ。
特に、大の男が五人も乗っているのだから、それだけでも、暑苦しい。
運転席と助手席には、制服の警官。そして後ろには三人の男——。
米田と、もう一人の刑事の間に座っているのは、いささか疲れの出たゴリラ、という印象の男だった。言うまでもなく、人間である。
両手に手錠がかけられ、大柄な二人の男に挟まれているので、見るからに窮屈そうである。
「何だか息苦しいな」
と、米田が苛《いら》々《いら》した様子で、言った。「ちょっと窓を開けろ」
「はい」
前と後ろの窓が細く開けられると、風が吹き込んで来て、車内も少しホッとした気分になる。米田は、いささか薄くなった髪が風で乱れるのを気にして、しきりと手でなでつけたりしていた。
「米田さん」
真中のゴリラが、「髪の毛の量じゃ、勝ってますね」
と、言ってニヤリと笑う。
米田はムッとした様子で、
「つまらんことを自慢するな!」
「うちの家系はね、禿《は》げないんだよ。親《おや》父《じ》もね、フサフサのまま白くなりましたから」
「そりゃよかったな」
と、米田はそっぽを向いた。
「中年過ぎてから、もてましてねえ。髪がたっぷり波打ってて、半分ほど白くなってる、ってのは、結構渋くていいんですよ。女の子に言い寄られて困ってましたね」
ゴリラ——いや、本当の名前は宍《しし》戸《ど》という——は、楽しげに言った。
「お前の親父の話なんか、聞いとらん」
米田は打ち切るように言って、「おい!」
と、運転している警官に声をかけた。
「はあ」
「少しスピードを落とせ。サイレンも止めろ」
「しかし——」
「いいから! 大学の構内を抜ける間だけだ!」
「分りました」
——S大学のキャンパスは広大である。
今でこそ、都心から郊外へと大学が引越して来るのも、珍しいことではなくなったが、S大の場合は、先《せん》見《けん》の明《めい》があった、というべきか、かなり早い時期から、この郊外の丘陵地帯に、そっくり移転して来た。
当初、学生たちには評判が悪かったが、周囲が開発されるにつれ、むしろ「環境の良さ」を売りものにするようになって来ている。
S大のキャンパスの中を抜ける道は、トンネルではないが、一段低くなっていて、キャンパス内を車から見ることはできない。パトカーは、その道へとさしかかった。
少し、下り坂になり、両側にコンクリートの壁がせり上って来る。——途中、三本の陸橋が、学生の行き来のために、頭上を横切っていた。
「——ここがS大ですか」
と、手錠をかけられた宍戸が言った。「いいねえ、若い人たちってのは」
「刑務所だって、広さからいや、似たようなもんだ」
と、米田が言った。「一部屋は狭いけどな」
パトカーは、ごく普通の速度で、かつ、サイレンも止め、二本目の陸橋の下を通り過ぎた。
「ふむ……」
米田が、なぜか少しホッとしたように、言った。「何でもなかったか……」
運転している警官は首をひねるばかりである。こんな大学の構内で、一体、何があるっていうんだ?
「——おい!」
と、突然、米田が怒鳴った。「上に気を付けろ!」
上? 上って何のことだ?
三つ目の陸橋の真下へさしかかっていた。陸橋の、ちょうど真中辺りに、工事用の手押し車みたいなものが置いてあるのが、チラッと見える。しかし、それが別に——。
突然、目の前が真白になった。真暗ではない。白い粉が、パトカーの上にドサッと降りかかったのだ。
窓を開けているので、白い粉はパトカーの中にもたっぷりと飛び込んで来て、何も見えなくなってしまった。
「危ない!」
「止めろ!」
と、声が飛び交《か》う。
パトカーが急ブレーキをかけた。車体が、まき散らされた粉のせいか、滑って、二、三回クルクルと回った挙《あげ》句《く》、外側の壁にドカンとぶつかった。
「畜生! ——何も見えんぞ!」
米田が怒鳴った。
「粉が——粉が口に——」
「小麦粉だ! 死にゃせん!」
ドアを開けて、むせ返りながら、次々にパトカーから転《ころ》がり出る。
「——馬鹿め! 用心しろと言ったろう!」
米田は、全身、小麦粉で真白になって、怒鳴った。
「おい! 宍戸の奴を逃がすなよ!」
「大丈夫です!」
と、もう一人の刑事が答える。「ちゃんとつかんでいます!」
米田は咳《せき》込《こ》みながら、やっと目を開けたが……。
「つかんでいる、だと?——何をだ!」
と、怒鳴った。
刑事がつかんでいるのは、上《うわ》衣《ぎ》の袖《そで》口《ぐち》だった。ただ、その上衣の中身は、もう消えてしまっていたのだ。
「早く追え! まだ遠くへは行っとらんぞ!」
「は、はい! しかし、警部——」
「何だ?」
「髪が白いと、なかなか警部もいい男です」
米田は刑事の尻《しり》をけとばしてやった……。
「遅れてすみません」
と、講義室へ入って来た女子大生は、ピョコンと頭を下げた。
「また君か」
講師は、呆《あき》れたように言ったが、「講義開始以来、毎回遅れて来るという学生も珍しいね」
と、大して怒っている様子もない。
「そうですね」
と、その学生は明るく同意した。
「ま、さぼるよりは、遅れても出席した方がいい」
と、講師は言って、視線をチラッと隅《すみ》の方へ投げた。「あるいは、出席しても、週刊誌など読んでる奴《やつ》よりもな」
やばい! ——久《く》保《ぼ》山《やま》良《りよう》二《じ》は、あわてて、週刊誌を閉じた。
よく見てるんだよな、あいつ……。よっぽどヒマなんだ、きっと。
どっちがヒマなんだか。——ま、久保山良二が、決して生《き》真《ま》面《じ》目《め》な学生ではないが、といって不良学生でもないということは、はっきり言っておいてもいい。
良二という名の通り、至って呑《のん》気《き》で、人のいい次男坊である。
「席に着きたまえ」
と、講師は言った。「——では、講義を続ける」
久保山良二が、その後はちゃんと講義に耳を傾けていたかというと、残念ながら、答は「否」である。
良二の注意は、遅刻して入って来た女の子の方へ向けられていたのだ。
彼女が後ろに座っていたのなら、わざわざ振り向いてまで見なかっただろうが、ちょうど真横——五つ離れた席に腰をおろしたのである。
いつもこの講義の時、遅れて来る子がいる、ということは、良二もおぼろげながら、憶《おぼ》えていた。しかし、まじまじと見たのは、これが初めてだ。
横顔はなかなか可《か》愛《わい》い。——美人、といえるほど整ってはいないが、少し上を向いた鼻と、キラキラ輝く大きな目が、まず印象的だった。
良二は、しばらくぼんやりと、彼女の横顔を眺めていたが……。
ふと、彼女が良二の方を見た。戸惑ったような顔をしている。
あ、そうか、と良二は思った。——いつの間にか、持っていたボールペンの先で、ノートをトントンと叩《たた》いていたのだ。
すると——彼女の方も、指先で、机を叩き始めた。
今度は良二がびっくりする番だ。良二が叩いていたのは、モールス信号だったからである。
中学生のころ、物好きな教師がいて、生徒にモールス信号を教え込んだ。良二も、不思議とよく憶えてしまい、今もって、それだけは忘れないでいるのだ。
何気なく、つい無意識に指でモールス信号を叩くこともある。「三つ子の魂百まで」というが、怖いものだ。
良二がびっくりしたのは、彼女の方も、ちゃんとモールス信号で打ち返していたからなのである。
〈ナニヲ、カンガエテルノ?〉
と、彼女は打って来た。
良二は、
〈キミガドウシテオクレテキタカ、カンガエテル〉
と、答えた。
彼女は微《ほほ》笑《え》んだ。
〈ウソバッカリ。ワタシノナマエモシラナイクセニ〉
〈キミハ、ボクノナマエヲシッテル?〉
〈クボヤマリョウジデショ〉
〈アタリ!〉
〈ワタシハ、ワカバヤシチカ〉
——二人は、何となく、笑顔を見交わした……。
うん、こいつはいい出会いだ、と良二は思った。
当り前に、声をかけて、デートに誘うなんてのより、ずっと気がきいてる。
この時の良二の気持としては、それ以上ではなかったのである。しかし……。