もの思いに耽《ふけ》っていた松井ミカは、突然すぐ後ろでクラクションを鳴らされて仰天した。
道の真中を歩いていたわけではない。ちゃんと歩道を歩いていたのだ。
ムッとして振り向くと、いたずらっぽい笑顔が真赤なスポーツカーから覗《のぞ》いていた。
「お兄ちゃん!」
ミカはパッと笑顔になって、「何よ! いつ帰って来たの?」
「三日前。乗れよ」
「呆《あき》れた。家に電話もして来ないで」
ミカは、車の前を回って助手席に乗り込んだ。
「元気そうだな」
と、車を走らせながら、「どこかドライブにでも行くか?」
「いい加減なんだから」
と、ミカは笑った。「うちへ帰るから。やることあるんだ」
「そうか。残念、せっかく久しぶりにこの車を思い切り走らせてやろうと思ったのに」
ミカは、何か月——いや、何年ぶりかで見る兄の横顔へチラッと懐しげな視線を投げて、
「じゃ、二時間くらいなら付合うわ。どこに行く?」
「海に出よう。ともかく広い所が見たくってさ」
車が強引に狭い道をUターンし、そこの家の生垣を削り取った。
「——ずっとあんなに広い所にいたのに?」
「国がでかくたって、町は小さな田舎町だ。何もないんだから、ともかく! ドラッグでもやんなきゃ、退屈で死んじまうよ」
「相変らずね」
と、ミカは言った。「お母さんが嘆くよ」
松井健《たけ》郎《お》は、少し間を空けて、
「——お袋、どうしてる?」
と訊《き》いた。
「忙しい」
簡潔な一言で答えると、
「今日、いるのか」
ミカは黙って肩をすくめた。母の予定などミカにはとても憶《おぼ》え切れない。それきり、二人の会話は車が高速へ入るまで途切れた。
——松井健郎は二十一歳。S大の二年生のとき、アメリカへ留学した。それきり二年近く帰っていなかったのである。
忙し過ぎる両親と暮して来た兄と妹は、「肉親」と感じるのは、お互い相手だけという具合で、小さいころからミカは、このいささか不良じみた兄と仲が良かった。
ミカが父親似だったのと逆に、健郎は母親に似て端正なプロフィルを持ち、スマートでもあった。もっとも、ミカ自身は「父に似ている」ことを、死んでも認めたくなかったのだが。
車は流れに乗ってスピードを上げた。
「日本でハンドル握るのは久しぶりだ」
と、健郎は気持良さそうである。「左側通行ってのに慣れるのに手間かかりそうだ」
「そうか。アメリカは右側だもんね」
と、ミカは言った。
「今日も何回か反対の車線へ入りそうになったよ」
「怖い! いやよ、正面衝突なんて!」
と、大げさに言ってみる。
このスポーツカーは、もともと兄の車である。S大へ入ったとき、父親が買い与えたものだ。
「この車、二年間どこにあったの?」
「友だちに貸してた。帰って来て、返せって電話したら『デートするのにどうしてもいるから、三日待ってくれ』だって」
と、健郎は笑って言った。
「それで、うちへ帰らなかったの? 三日間どこにいたのよ?」
と、ミカは訊いて、「訊くだけ野暮か。『どこの女性の所?』って訊くべきだった」
健郎はニヤリとしただけで、何も答えなかった。
——道が空いていることもあって、車は一時間余りで海の見える辺りまでやって来た。
港ではなく、波が道の真下で岩をかむ、人気のない海沿いの道の途中。車を端へ寄せて停ると、健郎は息をついた。
「——いい気分だ」
シートのリクライニングを倒し、健郎は目を閉じた。
ミカは、じっと前方を見つめていたが、
「どうして、電話一つかけて来ないのよ」
と言った。「手紙の一通も……。手紙は期待してないけど」
「面倒だろ。それに、電話じゃお前の顔も見えないし」
健郎は目を閉じたまま言った。
「——もうずっとこっちにいるの? またアメリカに戻るの?」
ミカの問いに、健郎は目をうっすらと開けて、
「どうなるかな。俺《おれ》にも分らない」
と言った。
「だって、向うの大学は——」
「大学なんて、行っちゃいないさ。英語で授業されて、分るか? 日本語だって、聞いちゃいなかったのに」
「じゃあ……。もう、やめたの?」
「自然退学だろ。こんな言葉、あるかどうか知らないけど」
それを聞くと、ミカは、
「嬉《うれ》しい!」
と、兄の上に身を投げ出した。
「おい、危ない……。クラッチレバー、押しちまうだろ!」
と、健郎があわてて起き上った。
結局、日が落ちかけるまで海を眺めていた。
「帰るか」
と、健郎が言って、ミカは黙って肯《うなず》いた。
車が走り出すと、ミカは車の電話へ手をのばし、
「使える?」
「はずだ。どこへかけるんだ? 彼氏の所か」
「うちへよ。遅くなるとやかましいから」
「ポケベルが鳴るか」
「今は携帯。お兄ちゃん、知らないんだね、この一、二年、高校生も携帯電話、持ってる子がふえたんだよ」
「へえ。みんな、そんなに忙しいのか?」
と、健郎は呆《あき》れ顔で、「お前にゃ似合わないな」
「悪かったね」
と、ミカが微《ほほ》笑《え》みながら、車の電話を取って、家へかける。「——もしもし。——お母さん、珍しくいたね」
「何なのよ」
と、向うで母、照《てる》代《よ》が笑っている。「どこからかけてるの?」
「待って。——ほら、何か言って」
と、ミカは受話器を兄の耳へ当てがった。
「ミカ、何してるの?」
「ただいま」
と、健郎が言った。
しばらく沈黙があって、
「——健郎。どこなの?」
「車の中さ」
「いつ……。帰ったの」
「二、三日前。今からそっちへ帰るよ」
「まあ……。お父さん、遅いわよ、今日。——何も言って来ないで。呆れた子!」
「母さんの息子だからね」
と、健郎は言って笑った。
「もしもし、びっくりした?」
と、ミカが代って、「一時間ぐらいで帰るから。お腹空いた!」
「はいはい」
と、照代は苦笑いしている様子だった。
電話を切ると、ミカは、
「金倉亜紀、知ってたっけ?」
と、兄へ訊いた。
「お前の友だちだろ? 男の子みたいな、威勢のいい……」
「ひどいなあ。でも、いい子なんだよね。私——何だかムシャクシャしてたの。亜紀が昨日、男の子と初めてキスしたって聞いて。変かな」
「十七歳の女の子の考えることなんか、俺にゃ分らないよ」
と、健郎は肩をすくめて、「お前はどうなんだ?」
「私? 私も……。分んないよ」
と、ミカはひとり言のように呟《つぶや》いた。
「あれ、モンちゃん、何してんの?」
と、亜紀は自宅前で何だかウロウロしている門井勇一郎を見て、声をかけた。
「あ、帰って来たのか」
勇一郎が、一瞬逃げ腰になるのを見て、亜紀はふき出してしまった。
「大丈夫! もう足踏んだりしないから」
勇一郎はホッとしながら照れくさそうに、
「痛かったぜ」
と笑った。
「突然、あんなことするからよ。——入る?」
「誰もいないみたいだ」
「へえ。じゃ、おじいちゃんも出かけたのか。お母さん、どこへ行ったんだろ。——ともかく上んなよ」
亜紀は玄関の鍵《かぎ》をあけて、「でも、もうあんなこと、だめよ!」
と、念を押した。
まあ、これ以上言っても可《か》哀《わい》そうか。
亜紀は、勇一郎を居間に待たせて二階へ駆け上ると、手早く着替えて下りて来た。
「紅茶、いれようか。私も飲みたいから」
「うん……」
亜紀が台所で紅茶をいれていると、勇一郎はブラッと立ってやって来た。
「何か用だったの?」
と、亜紀はティーカップにポットのお湯を注ぎながら言った。
「いや……。昨日のこと、謝ろうと思ってさ」
と、勇一郎が目をそらしたまま言うので、
「何だ! わざわざ来たの、そんなことで」
「怒ってないのか」
「怒ったけど……。もう平気。モンちゃんに女だと思われてたのかと、しみじみ考えちゃったよ」
はい、とティーカップを渡し、二人で居間へ戻る。
「良かった。絶交、とか言われたらどうしようかと思ってた」
「何だ、気が弱いの。そんなことで女が口説けるかって」
勇一郎は、熱い紅茶を少し冷ましつつ飲んでから、「お前……。初めてじゃなかったのか?」
訊《き》かれてドキッとした。「もちろん初めてよ!」と言えば良かったのだが、あの後、君原勇紀にキスされたことがパッと頭に浮かんだので、ついためらってしまい、
「どうしてよ?」
と、問い返してしまった。
これは、「初めてじゃなかった」と認めているに等しい印象を、相手に与えたのである。
「いや……。いいんだけどさ」
明らかに、勇一郎はショックを受けていた。笑いが引きつっている。
「ね、ゆうべ、近くのコンビニに強盗が入ったんだよ!」
と、亜紀は急いで話を変えた。
「危なかったんだなあ」
亜紀の話を聞いて、勇一郎はそう言ったのだが、どうも気のりしている風ではなかった。
亜紀だって、もちろんコンビニ強盗を誰がやっつけたか、その後何があったか、勇一郎には話さなかったのだが、いずれにしても今の勇一郎にはどうでもいいことだったのだろう。
亜紀は困ってしまった。——勇一郎と二人きりでいて、こんな風に黙りこくってしまうなんて、初めてのことだった。
「ごちそうさま」
と、勇一郎はいやにていねいに言って、「もう帰るよ。じゃあ……」
「そう?」
亜紀はつられて立ち上ったが、「——モンちゃん」
と、居間の戸口で呼び止めて、
「私……。初めてだったんだよ。だからびっくりして、足、踏んづけちゃったんだから。本当だよ」
「うん。分ってる」
だめだ。信じてない。
亜紀は、君原ともキスしてしまったせいで、何だか勇一郎に悪いことをしたような気がしていた。キスしたことが、でなく、勇一郎の足を踏んづけておきながら、君原には何もしなかった(当然ではあるが)からだ。
「またな」
と、勇一郎が玄関へ下り、靴をはく。
「——待って!」
亜紀はピョンと飛び下りると、勇一郎の肩に手をかけた。「モンちゃん」
「何だよ」
「今度は、足、踏まないから」
亜紀がじっと見つめると、勇一郎がサッと赤くなった。
「お前……」
「目、つぶろうか?」
「うん……」
亜紀が少し顔を上向き加減に、目を閉じると、勇一郎の手が亜紀の腕をつかむ。手が震えてる!
生あったかい息づかいが感じられて、勇一郎の唇が触れた。すると——。
カチャッと音がして、
「ただいま!」
と、玄関のドアが開いた。「——あら」
パッと離れはしたものの、見られてしまえば同じことだ。
「失礼します!」
勇一郎は、あわてて駆け出して行ってしまった。
「あの……。お帰りなさい」
亜紀は、母の呆《あつ》気《け》に取られた顔を笑顔で見て、「お母さんの好きな、帆立のグラタン、買って来たよ」
と、言った。
「ね、怒らないから、正直におっしゃい」
実のところ、こう言われるのが一番困るのである。亜紀はため息をついて、
「だから、さっきから本当のことを言ってるじゃない! 昨日と、さっきの玄関と、二回だけだって」
「本当なのね? 嘘《うそ》じゃないのね」
母の陽子はソファに腰をおろしているものの、ピッと背筋は真《まつ》直《す》ぐに伸ばして、まるで入試の面接でもしている感じ。
「お母さんだって、モンちゃんのことは知ってるでしょ。そんな乱暴なことするわけないじゃない」
亜紀としても、母の心配はよく分る。何しろ、玄関に入ったらいきなり娘が男の子とキスしてたというのだから。
「もしかしたら、もっと『抜き差しならない仲』になってるのじゃ?」
と考えて当然だろう。
「——それならいいわ」
と、陽子は息をついて、それからあわてて、「いいって言っても——だめよ、もう!」
「もうしないわよ。モンちゃんとは」
と、亜紀が言うと、
「じゃ、他の人とはするの?」
またドキッとすることを言われたが、
「そんな……。冗談じゃないわよ!」
と、何とかごまかした。
「本当にもう……。おじいちゃんはあんな風だし、お父さんもどこへ出かけたのか、帰ってこないし——。男なんて、みんな一緒。女を引っかけることしか頭にないんだわ!」
亜紀はびっくりしてしまった。おとなしい母が、こんな風に八つ当りするのを初めて見たような気がする。
「あら……。いやね、一人でカッカして」
と、陽子も自分で少し赤くなっている。「ショックから立ち直れないのかしら」
「お母さんも何かショックなことがあったの?」
「まあ、どうでもいいわ。——二人でご飯食べちゃいましょうか。待ってたって、男どもはいつ帰ってくるか分んないわ」
やっと母の「疑惑」は解消したようで、亜紀もひと安心。
「何か手伝うよ」
「いいわ。せっかく買って来てくれたグラタン、いただきましょ。よく憶《おぼ》えてたわね」
母にそう言われると嬉《うれ》しい。——電話が鳴って、亜紀は急いで出た。父か、それとも祖父の茂也か。
「あ、亜紀?」
「何だ、ミカ。どうしたの?」
「今日、付合ってくれてありがとう」
「珍しいこと言わないでよ」
と、亜紀は笑った。「——え? お兄さんが帰って来た?」
松井ミカの声は弾んでいた。
亜紀の方は正直なところ、ミカの話を聞いている内に、そういえばアメリカに留学しているお兄さんがいたっけ、と思い出した程度だったのである。
しかし、もちろんミカが喜んでいるのを冷やかすこともない。
「——良かったね」
と、たて続けにしゃべりまくっていたミカの話が一区切りついたところで、亜紀は言った。
「うん。ともかく誰かに知らせたくて」
要するに相手は亜紀でなくても良かったのだ。
「じゃ、お母さんも喜んでらっしゃるでしょ」
と言うと、向うは少し間を置いて、
「そうでもないの。お兄ちゃん、両親とは仲が悪かったから」
「へえ。——でも、男の人はそうかな。親子ゲンカとか当り前でしょ」
「そうね。でも……。うちは変ってて、ケンカもしない。他人みたいで、冷たいの」
ミカは、明るい声に戻って、「今度、紹介するね。会ってると思うけど、ずいぶん前だから分んないかもね。特に、亜紀も『体験済』の身になったんだし」
「やめてよ」
と、亜紀はまた少し赤くなったりしていた……。
「——それは安心ね」
と、母の陽子は亜紀の話を聞いて言った。「うちの男たちはちっとも帰って来ないけど」
「お父さん、どこに行ったの?」
「何でも仕事の打ち合せとか言ってたわよ」
「土曜日に?」
父の会社は、土日は休みのはずだ。
「いいの。そう心配ばっかりしてられないわ」
と、陽子は、またため息をついて、「自分のことだって、手が回らないのに」
「お母さんもそんなにもてるんだ」
もちろん、亜紀は冗談で言ったのである。
ところが、陽子は妙にどきまぎして、
「馬鹿言ってないで、サラダボウルを出して!」
と、せかせかと亜紀に背中を向けてしまった。
亜紀は、それこそ愕《がく》然《ぜん》とした。——お母さんも、何か隠してる!
亜紀は、さっきの母の言葉を思い出した。男なんて、女を引っかけることしか頭にない……。
そう、きっとお母さんも誰か男の人に誘われたのだ。
頭で分っていても、「母親も女である」と認めることは容易ではない。亜紀はサラダボウルを出しながら、母の後ろ姿を改めて眺めたのだった。