「男なんて、嫌いだ!」
と、亜紀は言った。
それを聞いて、松井ミカはふき出してしまい、
「亜紀ったら! ミルクセーキで酔っ払ったの?」
と言った。
亜紀はジロリとクラスメイトをにらんで、
「買物に付合えって言うから来てやったのに、そんなこと言うのか! 分った。もう二度と付合ってやんない」
「ごめん、ごめん! 謝るからさ、そうふくれっつらしないで」
「どうせふくれてるわよ、私の顔は」
——亜紀は、ちょっとまぶしげにデパートの表へ目をやった。ガラス越しに夏の名《な》残《ご》りを思わせる日射しが入って、店の中は暑い。
ミカに言わせると、
「早くお客に出て行かせようという、お店の陰謀」
ということになる。
店の方でそうしたくなったとしても無理はないと思えるくらい、店の入口には空きを待つ人たちが行列を作っていた。
土曜日の午後。松井ミカに頼まれて買物に付合った亜紀は、一息入れたこのお店で、「我が人生の最悪の一日」となった昨日の出来事を、親友へ話して聞かせたのである。
「でも、嘆くことないじゃない。一日で二人もの男とキスしたなんて!」
「おっきな声出さないでよ」
と、亜紀は口を尖《とが》らし、「そりゃあ、ミカはもうベテランでしょうけど」
「まあね。——それにしても、亜紀、本当にキスって初めてだったの?」
「悪かった?」
「そうじゃないけど……。門井君と、とっくにしてると思ってた」
「男だなんて思ってなかったもん」
「可《か》哀《わい》そうに」
と、ミカは笑った。「それでけとばされて? 同情しちゃうな」
「けってないって! 足、踏んづけただけ」
「大して違わないよ。でも、その〈夜の部〉の方に興味あるな」
「二部興行やってんじゃないよ」
と、亜紀は冷たいミルクセーキを飲み干して息をついた。
「門井君は知ってるけど、その……何てったっけ?」
「君原さん。君原勇紀」
「出会いもドラマチックじゃない。ねえ、いきなりコンビニ強盗なんてさ」
「だけどね、モンちゃんにしても、あの君原って人にしても……。どうして男っていきなりキスするわけ?」
と、亜紀は文句を言った。
「仕方ないでしょ。『今からキスします』って言われたら、却《かえ》って困らない?」
「そりゃまあね……」
ウェイトレスが、空になったグラスをさっさと下げて行く。飲み終ったら早く出て下さい、と言わんばかり。
「もっと粘ってやろう」
と、ミカが言った。
——金倉亜紀と松井ミカは女子校に通っている。昨日突然亜紀にキスした「モンちゃん」こと門井勇一郎は、中学まで亜紀と一緒だったが、今はむろん別。ただ、家も近いし、何かと一緒に出歩くことも多かったので、ミカも知っているのである。
ミカはいかにも「お嬢様」で、見た目も華やかな印象の女の子である。母親が華道の先生で、ミカも小さいころからお稽《けい》古《こ》ごとを色々やらされていた。
亜紀は、お正月や、ちょっとした正式な集まりなどに振《ふり》袖《そで》をみごとに着こなしてくるミカのことが、いつも羨《うらや》ましい。
着なれない子がたまに着て窮屈そうにしているのと違って、身のこなしも仕込まれているから、亜紀が見ても、うっとりするほど素敵である。
当然、高校一年のときからもてて大変。亜紀は、ずいぶんミカのデートのお付合いをしたものだ。
「お付合い」というのは、ミカの母親から、
「男の子と二人きりで、何かまちがいでもあると困りますからね。亜紀ちゃん、そばについててね」
と頼まれてのこと。
要するに、いつもミカと「彼氏」に邪魔にされつつ、一人でそばにいるという、つまらない役目だった。
亜紀がそんなことまでしていたのも、やはりミカに憧《あこが》れる気持があったからだろう。
でも、いくら亜紀が「お目付役」といったって、ミカは適当に男の子と二人で出歩いている。——それにひきかえ、私の方は、と亜紀はため息をつく。
モンちゃんと、まるで見知らぬ初対面の大学生の二人にいきなりキスされる……。どうしてこうロマンチックじゃないんだ?
「嘆いていても始まらない、か」
と、亜紀は腕時計を見て、「そろそろ行こうか」
「うん。今日はおごるわ。私が頼んで来てもらったんだから」
「いいよ! おごるなら、もっと高い店にして」
二人は笑って、きちんと自分の分を財布から取り出した。
——駅の改札口の前まで来て、
「お母さんに電話するから。それじゃ」
と、亜紀はミカと別れて、ズラッと並んだ公衆電話の方へと人の間を縫って行った。
亜紀は、家へ電話をかけた。
すぐに出たので、
「お母さん?」
「何だ、亜紀か」
「おじいちゃん。お母さん、いる?」
「いや、出かけたようだ」
と、金倉茂也は言った。
「そう……。夕ご飯のこと——」
と言いかけて、亜紀は電話を切られてしまったので、呆《あつ》気《け》に取られた。「——おじいちゃんたら!」
どうかしてるよ、全く!
そうか。こんなにすぐ電話に出たのは、きっと「彼女」からかかって来るのを待ってたんだ。そこへ亜紀がかけたものだから、ろくに聞きもしないで切ってしまった。
「ま、いいか」
本当は、帰りにミカとデパートに寄ると聞いて、母、陽子が、
「できたら帰るときに電話して。何か頼むかもしれないから」
と言っていたのである。
でも出かけちゃったのか。大人って、いい加減だな!
何か自分の好きなおかずだけでも買って行こうか。ふと、亜紀は昨日、母が泣いていたらしい様子だったことを思い出した。
おじいちゃんがあんな風で、お母さんも何か辛《つら》いことでも抱えてるんだろうか。——亜紀も、少し心配になって来た。
「そうだ。帆立のグラタン、買って行こう」
お母さんの好物である。デパートの地階へ行けば、たぶんあのお店が入っていたはずだ。
そう思い付くと、亜紀は足どりも軽くなって、食料品売場へ直接下りるエスカレーターへと急いで歩いて行った。
そのころ、実は当の母親、陽子は亜紀から数百メートルしか離れていない所にいた。
そしておずおずと、
「すみません……」
と、声をかけていたのである。
「はい」
蝶《ちよう》ネクタイの男性が聞きつけて出てくると、「恐れ入ります。ディナーは五時半からでございますが」
「あ、ええ……。分ってるんです。あの……金倉と申しますけど。バッグのことで、お電話を——」
しゃべっている内、段々声が小さくなってしまう。しかし、相手はそれだけで分ってくれて、
「失礼いたしました! お待ち申しておりました。どうぞお入り下さい」
「はあ……」
「さ、どうぞどうぞ」
陽子は、レストランに足を踏み入れた。
ランチタイムとディナータイムの間、空っぽのレストランは何だか全然見たことのない場所のように思えた。
——ここが、つい三日前、お昼を食べた所かしら?
陽子は、落ちつかない気分で隅のテーブルについていた。空っぽといっても、ディナータイムまで、あと一時間ほど。数人のウェイターがテーブルにナイフとフォークをセットし、ナプキンをきれいな扇の形に立てる。見とれるような手ぎわだった。
「——お待たせしまして」
と、やはり蝶ネクタイの、しかしどこか貫《かん》禄《ろく》を感じさせる男がやって来た。「金倉様でいらっしゃいますね。当店のマネージャー、布《ぬの》引《びき》と申します」
「はあ……」
「私どもの手落ちで大変なご迷惑をおかけしました。申しわけありません」
「あ、いえ……。私ももっと注意していれば良かったんです」
「いえ、何と申しましても私どもの失態で。もう一《ひと》方《かた》の——確か円《えん》城《じよう》寺《じ》様とおっしゃいましたか、まだおみえでございませんので、少しお待ちいただけますか」
「ええ、もちろん」
「その間、デザートを召し上って下さい」
布引という男がちょっと指を立てると、ウェイターが素早くやって来て、陽子の前にデザートナイフとフォークをセットする。
「あ……。今お休みのお時間でしょう? どうぞお気づかいなく」
「いえ、これくらいのことは……。では、後程参りますので」
「はあ……」
大きな皿に、フルーツやケーキを盛り合せたデザートが出て来る。
「コーヒー、お紅茶、どちらになさいますか?」
「あの……じゃ、コーヒーを」
仕方ない。せっかく出してくれたものだ。
陽子は、デザートを食べ始めたが、お店の中に客が自分一人というのは、何とも心細い限りだった……。
そもそもは、三日前、ここで親しい奥さんたち数人とランチを食べたこと。夜は高くて、とても足を踏み入れられはしないが、ランチなら——とはいえ、やっぱり安くはない。夫に言ったら、目を回すかもしれない。
でも、陽子は一応カルチャーセンターでフランス語を習っていて、そこの同じ教室にいる奥さん同士、「付合い」というものが少しは必要だったのである。
ランチを付合い、二時間近くおしゃべりに花が咲いた。
店は驚くほどの混みようで、予約していなかった陽子たちは、小さなテーブルに詰めて座っていた。それが間違いのもと。
食事するのにテーブルが狭いというので、みんながバッグをレストランの入口に預けた。
カルチャーセンターに通うときは、教科書を入れるので、バッグが大きくなってしまうのである。陽子も自分のバッグを預け、番号札をもらった。
レストランの中は、自分たちと同じような奥さんたちのグループが八割方を占め、何ともにぎやかだった。
陽子は、正直なところ、そういうお付合いがあまり得手でない。よほど仲のいい何人かを除いて、そうよく知っているわけでもないので、
「こんなこと言っちゃ、失礼かしら」
とか、「ああ訊《き》いたら気を悪くされるかしら」
とか、やたら気をつかって疲れてしまうのである。
ともかく二時間かけてゆっくりランチとコーヒーをすませ、レストランを出ることになった。レジの所で、陽子は自分の番号札を渡した。陽子の札は〈6〉だった。
「どうぞ」
と渡されたのは確かに自分のバッグ——と思った。
レストランを出て、みんなと別れ、陽子は真《まつ》直《す》ぐに帰宅した。
バッグを開けたのは、帰りついて着替えもすみ、さて、家用のお財布にお金を入れ替えておこうと思ったとき。
そのとき、初めて陽子はそれが自分のバッグでないことに気が付いたのである。
大きさも色も、形もそっくり。——しかも偶然重さも同じくらいだったので、全く疑ってみなかったのだ。
あわててレストランへ電話すると、たぶんあの布引というマネージャーだったのだろうが、
「申しわけございません!」
と、すぐに出て来て、「実は、お渡しするバッグを取り違えまして」
話を聞くと、番号札の〈9〉と〈6〉を係が見間違えたのだという。確かに逆さにすればお互いそっくりだ。しかも、よく似たバッグだったのが不運というべきか。
陽子が〈9〉の札の人のバッグを渡されて、先にレストランを出た。少し後に〈9〉の札を持った人が、〈6〉の陽子のバッグを渡されて、こちらも気付かずに持って帰ったらしい。
ただ、気付いたのはその人が先で、レストランへ電話が入っていたという。陽子もそう聞いて安心したのだったが……。
そして——三日後の今日、ここへ相手の人も陽子のバッグを持ってやってくることになっている。
後は簡単だ。二人で互いのバッグを交換するだけ。しかし、陽子には別の心配があったのだ。
「大変に申しわけございません」
というマネージャーの声で、陽子は我に返った。
レストランの方で「お詫《わ》びのしるし」というわけなのだろう、出してくれたデザートをいただき、コーヒーを飲んでいるところ。
「——はい、おみえでございます。こちらにおいでで」
案内されて、その人がやって来た。陽子はコーヒーカップを置いて、立ち上った。椅《い》子《す》がガタついて音をたてる。
「どうも」
と、その男性は言った。
「は……。どうも」
他にどう言いようがあるだろう? 「初めまして」というのも妙だし、「失礼しました」というのも——間違えたのはレストランの方である。
「家内が所用で来られませんので」
と、その男性は言った。「こちらで間違いないでしょうか」
テーブルに、バッグが置かれる。見覚えのあるバッグ。
「はい! 確かに」
と、陽子は息をついて、「あの——こちらが奥様のだと思います」
テーブルに並ぶと、確かに良く似ている。
「なるほど。これじゃ気が付かないか」
と、その男性は笑顔になった。「——ああ、じゃ、コーヒーだけいただこう」
二人は椅子にかけた。
「円城寺と申します。お手数をかけて」
「いえ……。金倉です」
とあわてて頭を下げる。
「さ、一応中を検《あらた》めましょう。家内の持ち物なら、大体分ります」
陽子は自分のバッグを開け、中を見た。たいした物は入っていない。しかし、カルチャーセンターの教科書とノートは、失くなると困ってしまうところだ。
「——私が気が付けばよかったんです」
と、陽子は言った。「いつもぼんやりしているものですから。奥様のは本物のシャネル。私のは、お友だちの香《ホン》港《コン》みやげの偽物なんです。気が付かないなんて、どうかしてますわね」
無理に笑っている。——円城寺という男、たぶん四十そこそこだろう。三つ揃《ぞろ》いのスーツは一目でオーダーメイドと分る。
ほっそりと背が高く、面《おも》長《なが》だが、よく日焼けして端正な顔立ちである。一見冷たいビジネスエリートだが、笑顔にはどこかおっとりとした風情があった。
コーヒーが来て、陽子の方のカップにも熱いのが足された。円城寺はバッグを閉じると、
「家内をご存知ですか」
と訊いた。
陽子は、円城寺の問いに、ちょっと戸惑った。
「奥様を、ですか? いいえ。存じ上げません」
「そうですか」
円城寺は肯《うなず》くと、「しかし——ご覧になったでしょう?」
陽子は、返事をためらった。見ていない、と答えるのは不自然だろう。
「中を見ました。——自分のものでないと分ったので、何かご住所でも分るものがあるかと」
「当然です。いや、むろんそうされるでしょう」
「でも——その中までは……。封筒から出してはおりません。信じて下さい」
陽子は身をのり出していた。
「分りました。いや、あなたのお気持は——」
円城寺は、ウェイターが近くを通ったので、言葉を切った。
「あの……。奥様は大丈夫ですか?」
陽子は、ついそう訊いていた。
「ご心配をかけて。家内は——小《さ》百《ゆ》合《り》は大丈夫です。さぞびっくりなさったでしょう、バッグの中に〈遺書〉が入っていては」
円城寺は微《ほほ》笑《え》んだが、少し寂しげな、疲れた感じの笑みだった。
「——ええ。どうしようかと思いました。でもこのレストランへ電話したら、ご連絡があったということだったので……」
「軽いノイローゼでしてね」
と、ため息と共に、「いつも、〈遺書〉を持って歩いているんです。時々書き直して、前のを屑《くず》カゴの中へヒョイと放り込んであるので、それを拾って読んだりしていますが」
「まあ……。そうですか」
確かに、本気で死のうとして書いた遺書なら、それを入れたバッグをレストランで預けたりしないだろう。とりあえず陽子はホッとした。
「いや、余計なことを申しあげて」
円城寺はコーヒーを飲みほし、「では、私はこれで」
と立ち上った。
「あ……。私も——」
何だかあわててしまっていた。危うく椅《い》子《す》を引っくり返しそうになって、ヒヤリとする。
レストランのマネージャーがていねいに見送ってくれ、二人は外へ出た。
ここは高層ビルの四〇階。エレベーターを待っている間、陽子は妙に円城寺のことを意識して、じっと目を伏せていた。
やっとエレベーターが来る。ホッとして乗ると、今度は中で二人きり。早く下へ着いてくれないかと思った。すると——。
「奥さん……。奥さん、ですよね?」
「はあ」
「一度、お食事を付合って下さいませんか」
と、円城寺は言った。