「俺だってね、あんたが思ってるほど馬鹿じゃないよ」
と、手塚はニヤつきながら言った。「沙恵子が何か隠してりゃピンと来るぜ」
「君……円谷君をどうしたんだ」
と、正巳は訊《き》いた。
「彼女の身を心配してくれるのかい? あいつは俺が電話してると思って待ってるさ。あんたを痛い目に遭わせて戻っても、疑いもしないだろ」
では、沙恵子は無事なのだ。ともかく正巳はホッとした。
「あんたに恨みはないんだぜ」
手塚がフラッと近付いて来る。「だがね、男の意地ってもんがある。自分の女を寝取られたら、それなりのお返しはしなきゃな」
手塚の右手がスッとポケットから出ると、キラリと銀色に刃物が光って、正巳は青ざめた。
「——どうするね? 俺たちは金がいる。一千万にまけとこう。明日までに一千万、耳を揃《そろ》えて持って来りゃ、勘弁してやる。でなきゃ、ここで腕の片方は使えなくなると思いな」
金か。金ですむことなら——。
正巳は反射的に考えた。今、貯金はいくらあったかしら?
いや、明日までに一千万円なんて、どう頑張ったって作れやしない。といって、刃物を持った男と闘うなんてことができるか?
今、一番賢明な方法、それは「逃げること」だ。
分ってはいたが、正巳は足に根が生えてしまったかの如く、一歩も動けなかったのである。
「どうした? 汗をかいてらっしゃるようだね、課長さん。課長か……。どいつも、その肩書だけで自分がよっぽど偉くなったように、人を見下しやがる。——さあもっと青くなって、ガタガタ震えな。笑ってやるぜ」
手塚のネチネチと絡みつくような目つきに、正巳はゾッとした。こいつはまともじゃない!
「馬鹿はよせ!」
と、言ってみたものの、我ながら迫力に欠けた。
「さあ、どうする?」
ナイフの先が正巳の目の前へ突きつけられた。——これが刺さったら、あるいは切られたら、さぞ痛いだろう。
恐怖で体がすくんで動けないのに、頭の方はまだ呑《のん》気《き》で、これは夢じゃないのかしら、などと考えていた。
「ちゃんと傷をつけてやらないと、返事ができねえようだな」
と、手塚が笑った。
そのとき、沙恵子が駆けつけてくるのが、正巳の目に入った。
「待って!」
沙恵子が叫んだ。「やめて! お願いだから、やめて!」
正巳は、沙恵子が手塚に後ろから飛びかかるのを見た。
「放せ!」
と、手塚が両手を振り回したが、沙恵子はしっかりとしがみついて、
「金倉さん! 早く逃げて!」
と叫んだ。「早く!」
正巳はどうしたらいいのか分らず、立ちすくんでいた。沙恵子が、手塚の持った刃物で傷つくのも恐れず、捨て身で助けてくれているのだ。
逃げるべきだろうか。しかし、ここで沙恵子を見捨てて逃げるなんて、男のすることか。正巳が迷っている間に、手塚は沙恵子を振り離すと、平手で彼女の頬《ほお》を打った。
バシッと派手な音が響き、沙恵子が倒れる。
「邪魔しやがると、お前もただじゃおかねえぞ!」
と、手塚は怒鳴った。
沙恵子は地面に両手をつき、立ち上ろうとして呻《うめ》いた。
それを見て、正巳の中で何かが爆発した。
「貴様! 何てことするんだ!」
と言うなり、生れて初めて、正巳は人を殴ったのである。
狙《ねら》いをつけるなんて余裕はない。ただ、握り固めた拳《こぶし》を、手塚の方へくり出した。
が——それが手塚の顎《あご》に当ったのだ。ガツンという手《て》応《ごた》え。
手塚は、両腕を大きく振り回しながら後ろへよろけ、ズルッと足を滑らして、仰向けにひっくり返った。
正巳は、びっくりしていた。——人を殴った! 本当に殴ったのだ!
「野郎……」
手塚は、顎を押さえながら立ち上った。ナイフが落ちているのを拾おうと、身をかがめる。
「だめよ!」
と、やっと起き上った沙恵子が叫んだ。「金倉さん、逃げて!」
だが、思いがけないことが起った。ナイフを拾おうとした手塚がそのままバタッと前のめりに倒れたのである。
転んだのかと思った。正巳は、いつでも逃げ出せるように身構えて——というのも妙だが——じっと待っていた。
だが、手塚は起き上らなかった。いや、ピクリとも動かなかったのだ。
「——円谷君」
正巳は、沙恵子が立ち上るのを見て、「君……。大丈夫か?」
と、声をかけた。
「ええ……。すみません、私の気付くのが遅くて」
沙恵子は頭を振って、
「この人……。どうしたのかしら?」
と、倒れて動かない手塚を見ながら、正巳の方へやって来る。
「さあ……。殴ったっていっても、僕の力じゃね」
正巳は、自分の方へもたれかかって来る沙恵子を、あわてて受け止めると、「——円谷君!」
「良かった……。金倉さんが無事で良かった!」
沙恵子がしっかりと抱きついて来る。
正巳は、まるでTVドラマの世界に紛れ込んでしまったようで、困惑しながらも彼女を抱きしめ、その暖かみと柔らかな体の感触に頬が熱くなるのを覚えた。
「いや……まあ……。君が止めてくれたおかげだよ」
と、正巳は言った。「さあ、ともかく奴《やつ》は気絶したらしい。今の内に逃げよう」
「待って」
沙恵子は正巳から離れると、手塚の方へ近寄った。
「危ないよ!」
「大丈夫です。この人——でも、本当に動かない。どうしたのかしら?」
「いいから、放っといて逃げよう」
「ナイフを……。追いかけて来たりしたら危ないわ」
そっと身をかがめて、沙恵子は手塚のそばに落ちたナイフを拾い上げ、片《かた》膝《ひざ》をついて、手塚の様子をじっとうかがっていたが——。
「——どうした?」
「何だか……。変だわ」
と、沙恵子は手を伸ばして手塚の手首を取った。
そして、両手で手塚の体を仰向けにした。ぐったりとして、気が付く様子はない。
「——円谷君」
正巳は、沙恵子が手塚の胸に耳を押し当てているのを見て、「まさか」と思った。
まさか。——俺《おれ》はほんの一発殴っただけだ。まさか。
沙恵子がゆっくり頭を上げると、正巳の方を見て、半ば放心したように言った。
「この人……。死んでる」
なんだって? 冗談だろ? ——こんなとき、冗談なんか言うわけがないと分っていても、正巳はついそう言いそうになった。
「この人、さっき倒れた拍子に頭を打ってたわ。ゴツンって音がした……。本当に——死んじゃった」
沙恵子がフラフラと立ち上る。
「じゃ、僕が殺したのか」
「ええ……。でも、あなたのせいじゃないわ。私が……。私がやったことにしましょう」
と、沙恵子は震える声で言った。
「そんなことはできないよ! そんな……」
と、正巳は反射的に言った。
しかし——人を殺したのだ。いくらケンカの上とはいえ、相手を死なせてしまった!
正巳は、「家族はどうなる? 仕事は? 会社はクビだろうか」と、考えていた。
「どこかへ……どこかへ隠しましょう」
と、沙恵子は言った。「そうだわ……。そこの駐車場の奥へ。——めったに人なんか来ないから、大丈夫。金倉さん、この人の足を持って」
「ああ……」
正巳は、倒れている手塚のそばへこわごわ寄って、両足を抱え上げた。
本当なら、自分が頭の方を抱えなきゃいけないのだろうが……。
「さ、こっちです」
沙恵子は、キッと表情を固くして、手塚の両《りよう》脇《わき》に後ろから手を入れ、力をこめて持ち上げた。
「こっちへ!」
「うん」
二人は、小刻みな足どりで、手塚の死体を運んで行った。
駐車場は明りがなく、奥の方はほとんど車の出し入れもない様子で、トラックのかげに死体を取りあえず下ろして正巳は息をついた。汗がふき出してくる。
「——アパートへ戻りましょう」
と、沙恵子は言った。
「このままで?」
「ええ。ともかく一《いつ》旦《たん》アパートへ」
「分った」
と、正巳は肯《うなず》いた。
自分も早く手塚の死体から離れたいのはやまやまだ。沙恵子と二人、ただ黙ってアパートへ戻った。
——沙恵子は畳に座り込むと、しばらく身じろぎもしなかった。正巳は、ドカッとあぐらをかいて、何を言っていいものか分らず、ただ座っていた。
そのまま、どれくらいの時間が流れたのだろう。電話の鳴る音に、正巳は飛び上るほどびっくりした。
沙恵子はあわてる風でもなく電話に出た。
「——はい。——そうです。——ああ、久しぶり。——まあ、何とかね。——同窓会? いいわね。先生、まだお元気なのかしら……」
学生時代の友人からの電話らしい。
正巳は、沙恵子がいつもと少しも変らない調子でおしゃべりし、きちんとメモまで取って、
「じゃ、改めて連絡するわ」
と、電話を切るのを見ながら、舌を巻いていた。
俺は、とてもあんなに落ちついていられやしない。正巳はそっと汗を拭《ぬぐ》った。
「金倉さん」
沙恵子は、正巳の方へ向き直ると、「ご迷惑をかけてしまって、申しわけありません」
と、頭を下げた。
「いや……」
「金倉さんにはご家族もおありです。たとえ正当防衛が認められたとしても、私とのことで、奥様は辛《つら》い思いをされることになります。警察で取り調べられたりしたら、会社の方でもどう思うか……」
沙恵子は、ちょっと息をついて、「金倉さんは何も知らなかったことにして下さい。私が手塚ともみ合う内に、はずみで死なせてしまったということにすれば……。それが一番いい方法です」
正巳も、沙恵子の言う通りにしたかった。本心はそうだ。しかし、正巳にもそれが正しい方法でないということは分っていた。自分がやったことの責任を沙恵子に押し付ける。——それは卑劣なことではないか。
「しかし……。あれをどうするんだ?」
「どこかへ運んで、川へでも落としてしまえば……。でも、私一人の力ではとても無理です」
「円谷君。それなら僕も手伝う」
と、正巳は言っていた。
「でも、金倉さん……」
「君のためとはいえ、自分が決めてやったことだ。しかし、あんな男のために君が捕まったりするのは我慢できない。死体をどこかへ運ぼう。そうすりゃ、ああいう男だ。恨みを色々かっているだろうし、犯人不明ですんじまうかもしれない。いや、事故で死んだと思われるかもしれないよ。そうだろ?」
「でも……。いいんですか?」
「うん、僕のやったことだ。君に罪を着せるなんて、できない」
沙恵子は、顔を伏せて涙を拭ったが——。
急にパッと立ち上ると、部屋の明りを消した。
「どうしたんだ?」
と、正巳は訊《き》いて、「君……」
「いいんです」
沙恵子は、手早く服を脱いで行った。「抱いて。二人だけの秘密よ」
「秘密……」
「そう。——もう離れない!」
沙恵子は正巳に抱きついた。正巳はあおりを食らって倒れ、自然、腕の中に沙恵子の若々しい体を抱きかかえることになった。
「待った!——ね、待ってくれ!」
正巳は必死で沙恵子を押し戻して、「今はそれどころじゃないだろ。早くあれを片付けよう!」
沙恵子は起き上ると、
「分りました、金倉さん……」
と、言って笑った。
明るい声だ。正巳はホッと息をついた。