「ただいま!」
と、陽子が息を切らして玄関へ入って来た。
「お帰り。お母さん、どうしたの?」
と、居間から出て来た亜紀は呆《あき》れて、「変な奴《やつ》にでも追いかけられた?」
「誰が? 別にお母さん、追いかけられるような悪いことしてやしないわ」
「だってハアハア息切らしてさ」
「こんなに遅くなるとは思わなかったのよ! お父さんは?」
と、陽子は上りながら言った。
「まだ。電話もないよ」
「そう。良かった!」
陽子は、窮屈そうにスカートのファスナーを下ろして、お腹をなでた。「ああきつい! もうこれ、小さくなっちゃって」
亜紀は笑ってしまった。こういうときのお母さんって、本当に……可《か》愛《わい》い。
「お母さん、フランス語じゃなかったの?」
「え? ああ、もちろんそうよ。ただ——先生を囲んでお茶の会があってね。忘れてたわけじゃないんだけど、もっと早く終ると思ったから……。亜紀、あんた夕ご飯は?」
「適当に食べた」
「そう? ごめんなさいね。途中電話しようと思ったんだけど、なかなか席立てなくて」
「大丈夫だよ。私だって、一人でお腹空かしちゃいないから」
亜紀は、あの円城寺小百合の話を聞いているので、つい母をじっくりと見てしまう。
フランス語の教科書はちゃんと持っている。でも、このスーツ姿はいつもとは大分違う。いつも、もっと身軽にして行くはずだ。
まあ、母のことを疑うわけではなかったが、まずは客観的な証拠を集めることである。
「おじいちゃんも、何も言って来ない」
「あら、そう。——困ったわね。連絡してくれないと心配だわ。お母さん、ちょっと着替えるわね」
「うん」
立ったところへ電話が鳴り、陽子がヒョイと取った。「はい。——亜紀ですか? ——ええ、お待ち下さい」
と、ふしぎそうに、「亜紀、電話。〈さゆり〉ちゃんとか」
「あ、はいはい」
亜紀が急いで受話器を受け取る。
「何だか元気のいい子ね」
「うん、ファイトの塊みたいな子なの」
亜紀は、陽子が出て行くのを見ながら、「——もしもし」
「亜紀さん? 円城寺小百合です。お母様でしょ、今の? 怪しまれなかったかしら」
亜紀は笑いをこらえて、
「大丈夫。上出来みたいですよ」
と言った。「母、今帰って来たんです」
「やっぱりね」
と、円城寺小百合は言った。「主人から、たった今電話が。やっと接待がすんだから、これから帰るって」
「そうですか」
「あなたのお母様をお宅の近くまで送って、それから車の電話でかけて来たんだわ、きっと」
タイミングとしては合う。しかし、亜紀はあまりそう信じたくなかった。
「ちゃんと確かめましょうよ。想像ばかりで心配しても仕方ないし」
「そうね。今度の土日の予定をさりげなく訊《き》いておくわ」
「私の方も訊いときます」
「探偵仲間」は、しっかり打ち合せて電話を切った。
——お母さんが浮気、ねえ。
どうも亜紀にはピンと来ない。いや、母だって女であると承知してはいる。でも、母は面倒くさがりなのだ。そんなくたびれるようなことをするだろうか?
「やだよ、家庭崩壊なんて」
と亜紀は呟《つぶや》いた。
居間を出ようとすると、また電話がかかって来た。「——はい、金倉です。あ、お父さん」
「亜紀。母さんは?」
「さっきフランス語から帰って来た」
「こんなに遅くか?」
「そっちだって遅いでしょ」
と言ってやる。「これから帰るの?」
「うん。ちょっと飲んじゃったんで、少し酔いを覚ます。あと——一時間もしたら帰れるかな」
「分った。夕ご飯、いいのね? お母さんに言っとく」
電話を切ろうとして、亜紀はちょっと眉《まゆ》をひそめた。——父の声の向うに聞こえているゴーッていう音、何だろう?
ゴーッ、ガタンガタン。
電話は切れた。——あれ、電車が鉄橋か何か渡ってる音じゃないだろうか?
少なくとも電車の音には違いない。飲んでたというけど、どこで?
怪しいな。亜紀は首をかしげた。
「——私、お茶漬け一杯食べるわ」
と、陽子が下りて来た。「亜紀、どう?」
「うん、じゃ私も食べよう」
と言って、「今、お父さんから——」
また電話。全くもう!
「はい、金倉です」
いい加減うんざりした気分が口調に出ていただろう。
「——もしもし?」
向うは何も言わない。いたずらかしら?
切ろうとすると、
「あの……」
と、女性の声がためらいがちに言った。「金倉さんのお宅……でしょうか」
誰だろう?
亜紀は、その電話の声に聞き憶《おぼ》えがなかった。
「金倉ですが」
「お嬢さんですね。お母様いらっしゃいます?」
「はい、ちょっとお待ち下さい」
亜紀は、もう台所へ行ってしまった母を呼んだ。「——お母さん! 電話、出て」
「はいはい」
陽子が小走りにやって来て、「どなた?」
亜紀は黙って首を振った。陽子がちょっと不安そうに受話器を受け取る。
「——もしもし、お電話代りました」
「あの——金倉陽子さんでいらっしゃいますね」
「そうですが……」
陽子は少々怯《おび》えていた。——はたで見ていた亜紀も、母の様子に気付いて、ピンと来た。
お母さん、やっぱり円城寺という男と付合ってるんだ。だから、その男の奥さんがかけて来たんじゃないかと思ってドキドキしている。
お母さんたら……。
「——はあ。——え?」
陽子は目を見開いて、「あの——それで、義《ち》父《ち》は……。大丈夫なんでしょうか?」
突然、事態は急変してしまった。
「すぐ参ります。どちらの病院——」
陽子の手がメモを捜すと、亜紀が素早く渡す。
おじいちゃんが——倒れた?
では、電話して来たのはあのときのタクシーに乗っていた女なのだ。
「——はい、確かに。ただ、主人がまだ帰っておりませんので、連絡がとれません。帰り次第すぐ——。いえ、私、先に伺いますから。あの——お名前は?」
少し間があって、向うが答えたようだ。
「藤《ふじ》川《かわ》さんですね。——分りました。わざわざどうも」
陽子も大分落ちついていた。受話器を置くと、
「亜紀——」
「おじいちゃん、倒れたの?」
「うん。脳《のう》梗《こう》塞《そく》らしいって。命には別状ないっていうけど。ともかく、お母さん、行ってくるから」
「分った。私、お父さんが帰ってくるの、待ってる。病院、どこ?」
「あ、そうそう。これ。——読める? ひどい字ね」
こんなときに自分で呆《あき》れている。
亜紀はメモし直すと、
「仕度しといでよ。タクシー、呼んどくから、私」
「ありがとう! 頼むわね」
バタバタと二階へ駆け上る母のスリッパの音を聞きながら、亜紀の心中は複雑だった。
〈藤川ゆかり〉
祖父、茂也が倒れたのは、この女のアパートだったらしい。
救急車で病院へ運ばれ、大騒ぎだったと……。それはそうだろう。
「あーあ」
亜紀は、居間のソファでひっくり返った。「何してんだろ、お父さん!」
母、陽子が病院へ向ってから一時間半ほどたっていた。少し前に電話して来て、
「おじいちゃん、意識はあるし、すぐどうってことはないみたい」
と、少しホッとした様子だった。
むろん、亜紀も安《あん》堵《ど》した。けれども、問題はむしろこれからだということも、よく分っている。
茂也は当分入院ということになるだろう。——クラスの友だちの父親が、最近やはり脳梗塞で倒れたので、その辺のことは聞きかじっていた。
後遺症が残ることは覚悟しなくてはならない。どの程度か、そこが問題なのだが。
それに、茂也だけではない。
母の陽子も、円城寺という男と——どういう付合いかはともかく——出歩いているようだ。
父、正巳にしたところで、こんなに遅くなって、まだ帰って来ない。
「本当にもう! 不良中年ばっかり!」
と、つい声に出して言っている。
おじいちゃんは「不良老年」かな?
ま、人のことばかりは言えない。亜紀とて、モンちゃんと、君原勇紀の二人の男とキスした仲だ……。でも、「不良」ってとこまで行ってない! 絶対に!
私は若いんだもん。恋だってこれからなんだもん。何人の男の子と付合おうといいじゃないの。そうよ!
誰も文句を言ってるわけじゃないのに、一人でカッカしている。
そこへ、玄関の開く音。
「ただいま」
と、父の声がした。
「お父さん!」
亜紀は飛び起きると、玄関へと駆け出して行った。
「はい、こちらでお待ち下さい」
夜勤の看護婦さんは事務的に言って、さっさと行ってしまう。
残されたのは、長《なが》椅《い》子《す》の両端に腰をおろしている、陽子ともう一人の女……。そして、今やって来た正巳と亜紀だった。
「亜紀。あんたも来たの」
「うん。心配だから。——お母さんだけじゃね」
「まあ」
陽子は苦笑して、でもホッとしている。
「で、どうだって、親《おや》父《じ》?」
と、正巳が訊《き》くと、
「じき、先生がみえて説明して下さるって」
と、陽子は言った。「今は眠ってらっしゃるわ。あなた、遅かったのね」
「うん……。飲んでたら色々ごたごたしてな」
「でも、良かったわ。私だけじゃ心細くって」
陽子の方も、遅く帰ったというひけめがあって、それ以上訊こうとしなかった。
「お母さん——」
と、亜紀が言いかけると、
「あの……」
と、その女性が立って、「申し遅れまして。藤川ゆかりと申します」
と、頭を下げた。
「は、どうも」
正巳が曖《あい》昧《まい》に会釈する。「父がご厄介かけて」
「いえ……。突然倒れられたもので、びっくりしてしまって。すぐお宅へご連絡するべきだったと思いますが、救急車を先に呼んでしまいました。申しわけありません」
「それはでも、その方が良かったんですよね、あなた」
と、陽子が言った。「私たちがお宅へうかがうまで待っていたら、またどうなったか」
「そうおっしゃっていただけると……」
三人とも、こんな所で立ち入った話もできず、腰の引けた言葉のやりとりをしている。
亜紀は口を出すわけにもいかず、少し離れて立っていた。
パタパタとスリッパの音をたてて、白衣をはおった眠そうな顔の医師がやって来る。
「ええと——金《かね》田《だ》さん?」
「金倉ですが」
「ああ、そうか。失礼。金倉さんね」
と、医師は欠伸《あくび》をかみ殺して、「あんまり眠ってないもんでね、この二、三日。ま、中へ入られていいですよ」
「はあ……」
病室の中へ医師が入って行くと、正巳がついて行った。陽子は、どうしたものかためらっている藤川ゆかりへ、
「あなたも、どうぞ」
と、声をかけた。
「ありがとうございます」
藤川ゆかりはホッとした様子で言った。
——亜紀は、母の振舞いに何となく安堵した。
医師が、眠っている茂也のそばに立ってあれこれ話している間、亜紀は少し離れて立って、その藤川ゆかりという女を眺めていた。
まだずいぶん若い。といっても、むろん祖父と比べての話だが、四十そこそこ、たぶん母とそう違うまい。
祖父、茂也からすれば、藤川ゆかりは娘といってもまだ、若いかというくらいだ。
しかし亜紀が何となく持っていたイメージからみると、やや意外な印象ではあった。
ほっそりとして、いかにも「はかなげ」な風である。——もっとも、亜紀に「はかなげ」なんてことが正確に分っているわけではなかったが。
今、病室のベッドで眠っている茂也を、一歩退《さ》がって、正巳や陽子の後ろから見守っているところは、どこか心細げですらあった。
「——ともかく、明日、専門医が細かく検査をしませんと詳しいことは申し上げられないんで」
当直らしい医師は、そう結んで、「それでは……とりあえず、明日、事務が開きましたら入院の手続きをして下さい。おいでになれますか?」
「それは何とか……」
と、正巳が言いかけると、
「私、参ります」
と、陽子が言った。「何か必要な物とかございますか」
「それは看護婦に訊いて下さい。いつもいい加減なことを言って叱《しか》られるんで」
と、医師がちょっと笑って、空気がほぐれた。
病室を出ると、陽子は、
「私、今夜ついてましょうか? あなたはお仕事があるし、亜紀も学校でしょ」
と言った。
「今夜ずっとか?」
「誰かいないと——。もし目を覚まされたら、気を悪くされるわ」
「あの……」
と、藤川ゆかりがおずおずと、「私でよろしければ……」
「まあ、そうして下さる? 助かります」
「はい、喜んで」
「では、明日午前中に必ず参りますから」
と、陽子は言って、「藤川さん——でしたね。今夜はゆっくりお話もできませんから、改めて。それでよろしいかしら」
「はい」
「じゃ、今夜はよろしく」
藤川ゆかりは、亜紀たち三人を、ずっと廊下で見送っていた……。
「——若い人だね」
帰りのタクシーの中で、亜紀は言った。
「ともかくお義《と》父《う》さんのお話を聞かないと。ね、あなた」
「うん。——そうだな」
正巳は混乱している。
それはそうだ。とんでもない一日だったのだから。——父の身も心配ではあったが、今は自分の方が大変だ。円谷沙恵子と二人で、手塚の死体を川へ投げ捨てて来たのである。
悪夢でも見たのか、俺《おれ》は?