いわゆる「今はやりのデートコース」という雑誌の特集にうつつを抜かすほど、亜紀もヒマではない。
好きな相手と一緒なら、どこにいたって充分に楽しいだろう。——君原勇紀が、初めてのデートでどこへ連れていってくれるのやら見当もつかなかったが、基本的に信用できる人と思っているから、特に心配はしていなかった。
家を少し早めに出たときも、格別緊張していたわけではない。
待ち合せたティールームは、三十分前に着いたときは満員で並ばなくては入れなかったが、十分ほどで席につくことができ、ホッとした。
昨日の十日が体育祭で、今日代休という学校は少なくないのだろう、通りは同じような年代の子たちでにぎわっている。
昨日ほどでもないが、今日も晴れて爽《さわ》やかな一日だ。——昼少し前という、休日にしては珍しい早い時間の待ち合せ。
昨日思い切り走って、足のふくらはぎや腿《もも》が痛かったが、それは快い痛みである。ゆうべはさすがに疲れて早々と眠ってしまった。
今日は、おじいちゃんの所へ見舞に行かなくちゃ。——そう思ってはいるが、君原とどういうデートになるか……。
明るい日射しの当る通りを、まぶしげに目を細めて通って行く若者たち。恋人同士、というカップルが大半だが、女の子たち五、六人のグループも目につく。
私と君原さんじゃ、「恋人同士」には見えないかしら?
そんなことを考えていると、
「——早かったね」
と、君原の声がした。
そばに来るまで気付かなかった、というのも——。
「ワオ」
と、つい妙な声を上げてしまった。
君原だということが、すぐには分らなかったのだ。他に、亜紀に声をかけてくる男なんかいないだろうが。
「——そんなにびっくりするなよ」
ツイードの上着、ネクタイ。いつも土手の道を走っている君原とはどうにもつながらなかった。
「ごめんなさい。でも——すてきですよ」
正直、そう言った。
堅苦しいデートにしてほしいわけじゃなかった。けれども、相手の意外なところを見付けるのも、付合いの楽しみの一つである。
「——今日は来てくれてありがとう」
と、君原は言った。
二人でジュースを飲みながら、たちまち三十分くらいは過ぎてしまった。昨日の体育祭のことを説明するのに、たっぷりかかったのである。
「ごめんなさい」
ふと話を止めて、亜紀は言った。
「何が?」
と、君原はふしぎそうに訊《き》く。「どうして謝るんだ?」
「だって——私一人でベラベラしゃべってて……。何だかみっともない」
と、少し赤くなっている。
「ちっとも構わないよ。君の話が聞きたくて誘ったんだからさ」
「そう言われると嬉《うれ》しいけど。でも……」
と、亜紀はちょっとためらって、「君原さん、私なんかとデートして、楽しい?」
遠慮するわけではないが、大体、同世代の子ともデートなどしたことのない亜紀である。
デートなるものの何たるかも、よく分っていない。いや、色んなデートがあるのは分っていても、君原がどう思っているのか、見当がつかない。
「いや、ごめん」
と、君原が言った。「もっとはっきりしとくべきだったね。君の方は不安だろう」
「不安ってほどでも……」
「でもね、僕だって二十一だ。君と四つしか違わないんだよ。そうそう別世界の人間扱いしなくても大丈夫」
そう言われて、何だか亜紀も少しホッとした。
「でも、大学生と高校生じゃ、やっぱり大分違うわ」
「そうかな。今は高校生の方が大人びてたりするよ」
君原は、ちょっと息をついて、「——ともかく外へ出よう。いいお天気だ」
「はい!」
とりあえず、やるべきことが見付かって、亜紀は元気な声を出した。
君原が伝票を取ってさっさとレジへ行ってしまうので、亜紀はちょっと迷ったが、
「ま、ここはごちそうになっとこ」
と、決めた。
ジュースだけだ。食事のときは、ちゃんと自分の分は払おう。
先に店の外へ出る。
通りは若い子たちで一杯。——といって、自分たちもそうだが。
「じゃ、少し歩こう」
と、君原が出て来て促す。
「ごちそうさま」
と、頭を下げると、君原はちょっと笑った。
「律儀だね、君は」
「だって礼儀でしょ。——どこへ行くんですか?」
「君に見せたい物があってね」
と、君原は言った。
「何かしら? 言わないで!」
亜紀は、無性にワクワクして来ていた。
「いやだわ……」
陽子は、鏡を覗《のぞ》き込んで呟《つぶや》いた。
昨日、一日中日なたに座っていたのだから、当然ではあるが、すっかり日焼けしてしまっている。
何かつけていけば良かった、と思ったがもう遅い。
ともかく、差し当りはローションで肌を冷やす。今日は病院へ行かなくては。
台所へ行こうとすると、電話が鳴り出し、ギクリとして足を止めた。
「——はい」
と、出てみると、
「今日は」
円城寺裕である。——陽子には、分っていた。
電話が鳴ったとき、きっと円城寺からだと思ったのだ。
「どうも……」
「ご主人は会社ですね」
「はあ」
「お嬢さんは?」
「代休で——。あの、昨日、体育祭だったものですから」
と言ってから、そのことを円城寺にも話してあったと思い出した。
「そうでしたね。お宅においでですか」
「いいえ! 出かけてますわ」
「それが当然だ。疲れを知らないからな、若い人は」
「私は疲れました」
と言っておいて、陽子は笑ってしまった。
「ところで、今日は——」
「あの……義《ち》父《ち》の見舞に行かなくてはなりませんの」
と、急いで言った。「昨日、行けなかったものですから」
「ずっと一日おられるわけではないんでしょう?」
分っていた。そう言われることは。
正直に返事しようとすれば、
「ええ、ずっといるわけでは……」
「じゃ、夕方にでも、ぜひ」
「でも、お仕事がおありでしょ?」
「大丈夫。片付けます」
「片付かなければ?」
「放っときます」
円城寺の言い方に、つい笑ってしまう。
「——分りました」
「じゃ、よろしいんですね。夕食は?」
「主人は遅くなるようです。娘も友だちと食べてくると……」
結局、私は待ってたのかしら? この人の誘いを。
「好都合だ。あなたも、外で食事した方が手間が省けますよ」
「それだからって、わざわざ出かけやしませんわ」
と、陽子は苦笑して言った。
結局、陽子は夕方、円城寺と会う約束をしてしまった。
台所に立って、義父・茂也の所へ持って行くものを作り、それから家の中の用事を片付ける。家にいたらいたで、何かと用事はあるものだ。
でも……何を着て行こうか?
考えてみれば、それが難しい。病院へ見舞に行くのに、あまり「よそ行き」の格好もどうかと思うが、といって、円城寺と会うときは一応きちんとしておきたい。
少し早めに病院へ行って、と思っていたのだが、鏡の前で、あれでも派手、これでは地味、とやっていたら一時間近くも仕度にかかってしまった。
結局、少し地味だが、亜紀の父母会のときに作ったスーツで行くことにする。その代りバッグへネックレスなど入れておいて、後でつけようと思った。
髪を整えたり、軽くお化粧などしながら、ふと気付くと陽子は、少し調子外れの鼻歌など歌っている。我ながら少し恥ずかしくなって、やめた。
「何を浮かれてるのかしらね……」
そう。——陽子は決して夫を裏切っていないと考えているが、こうして円城寺と会うために、胸ときめかせながら身仕度しているのは、やはり裏切ることの内に入るのではないだろうか。
特に陽子があえて見まいとしているのは、自分のことより円城寺の妻のことだった。
いつも〈遺書〉を持ち歩いているという妻である。もし円城寺と陽子が二人で楽しげに食事しながら談笑している所を目にしたら、どう思うだろう?
円城寺は、
「気付かれていない。大丈夫ですよ」
と言っているが、それをそのまま信じていいものかどうか……。
そんなことを考え始めると、陽子も気が重くなってくるのだが、それでも必ず自分が約束の場所へ行くだろうということを、分っていた。
陽子は、既に円城寺のことを失いたくないと思い始めていた……。
「——ともかく出かけよう」
自分を元気付けるように口に出して言いながら、手早く仕度をすませる。
それにしても、人の出会いというのはふしぎなものだ。あのレストランでバッグを渡し違えなければ、こんなこともなかったのである。
陽子は急いで家を出た。
亜紀は、今日誰と出かけてるのかしら?
早足で歩きながら、陽子はふと思った。別に確かめようともしなかったが——。
まさか亜紀に門井勇一郎以外のボーイフレンドがいるとは、思ってもいないのである。
〈人形展〉?
意外な場所で足を止めた亜紀は、ちょっと戸惑いつつ、そのポスターを眺めた。
「——これ、見るんですか」
と、亜紀が訊《き》くと、君原はやや照れ気味で、
「何だかおかしいだろ? 僕が人形を好きだなんて」
と、目をそらしている。
正直、意外である。でも、それならそれで興味はあった。
「まさか、毎晩ぬいぐるみ抱いて寝てるんじゃないですよね」
亜紀の言葉に、君原は楽しそうに笑った。
「ぬいぐるみと人形は違うよ。今、人形って凄《すご》い人気なんだ。——入っていいかい?」
「ええ、もちろん。見たいわ」
君原はホッとした様子で、入場券を買った。もし、亜紀に笑われでもしたらどうしよう、と心配していたらしい。
「人形劇って見たことある? これはそういう人形を集めてあるんだよ」
「ああ、TVでやった『三国志』とか『平家物語』とか……」
「そうそう。ああいう、大人のドラマを役者でなくて人形がやるってところが好きでね」
君原は嬉《うれ》しそうだった。
実際、会場内は若い人たちで暑いほどの混雑だった。
TVで見た人形も展示されている。——他に伝統芸能ということで文楽や操り人形の展示もある。
人の間をかき分けるようにして、人形に近付いてじっくりと見る。——どれも意外に小さいので、近くに寄らないとよく見えないのだ。
「人形って表情がないだろ。それなのに、同じ顔のまま、泣いたり笑ったりする。小さいとき学校で見た人形劇が忘れられなくてね」
と、君原は言った。
そこへ、
「おい、君原君」
と、声がして、誰かがポンと君原の肩を叩《たた》いた。
「——あ、佐《さ》伯《えき》さん、みえてたんですか」
と、君原は言った。
「当り前だ。うちの人形を貸し出してる」
「あ、そうか。——あの、連れです」
と、君原は亜紀を見て言った。
顎《あご》ひげを生やした、四十がらみの男性で、いかにも「芸術家風」である。しかし、目がやさしくて亜紀は象の目を連想した。
「おい、君原君、『連れ』は失礼だろ。そんな名前じゃあるまい」
「金倉亜紀といいます」
「佐伯です。——君は人形のような顔だなあ」
と、まじまじと亜紀を眺める。
亜紀はびっくりしてしまった。
「人形のような顔だなんて——。言われたことない」
と、少し照れて、「でも、それってほめてるんですか?」
佐伯という男は楽しそうに笑って、
「おい、君原君、ぜひこの子をモデルに人形を作れよ。やたら元気のいい人形ができるぞ」
と、言った。
人形を作る? 君原がそんな趣味を持ってるなんて、亜紀には想像もつかなかった。
「見ていたまえ」
と、佐伯は展示してある人形の一つに歩み寄ると、わきの小さなスイッチに手を伸ばした。その人形は、時代劇に出てくる武将らしかった。全身で高さ一メートルほど。刀を差して、真《まつ》直《す》ぐ正面を見つめている。
口も目も、動くようにはできていない。
当然のことながら、人形は無表情に前を見ているだけだ。
「——さあ、よく見て」
カチッとスイッチを切り換えると、平面的に人形を照らしていた照明のいくつかが消えて、斜めからの光が、人形の顔にくっきりと影をつけた。
とたんに、人形は何かもの思いに沈んでいる智将の顔になって、すぐれた軍師という印象を与えた。
カチッとまたスイッチを切り換えると、今度は顔を正面の斜め下から照らし出す。よく、小さいころわざと暗がりで懐中電灯の光を下から当てて、「お化けだぞ!」と怖がらせるときと同じだ。
人形はとたんに怪しげな、何か良からぬことを企《たくら》んでいる悪役の顔になって、まるで薄笑いすら浮かべているように見える。
また明りが切り換わると、今度は人形の背後から光が当る。——人形の顔は暗く沈み、何かに悩んでいる者のそれに変った。
「——凄い」
と、亜紀は正直な感想を述べた。「生きてるみたい」
「そうとも。人形は生きてる」
と、佐伯は言った。「ただ、それを分る人間が見ないと、生きて見えないだけだ」
亜紀がすっかり感動しているのを見て、君原は嬉《うれ》しそうだった。
「君原さん、こういう人形を作るんですか?」
と、亜紀が訊くと、君原の代りに佐伯が答えた。
「ああ、それが約束だからね」
「約束?」
「何だ、何も話してないのか。おい、君原君、その辺でお茶でも飲もう。この人形みたいな顔の娘さんは、君の話を分ってくれるさ」
佐伯は、亜紀と君原を促してその人形展の会場を出ると、近くの喫茶店に入ったのだった。