「君原君が小学生のとき。——二年生だったかな?」
と、佐伯はコーヒーを飲みながら言った。
「そうです」
「学校に人形劇がやって来た。魔法つかいが、お姫様に魔法をかけて眠らせてしまうと、純情な君原少年は気が気でなくなったんだ。何人もの男が、お姫様を救おうとして魔法つかいに戦いを挑むが、次々に負かされてしまう。——ま、お話としては、当然王子様が現われて魔法つかいを倒し、お姫様を助けて、二人はめでたく結ばれましたとさ、ってわけだ。ところが——」
と、佐伯はニヤニヤしながら、「君原少年は王子様が出てくるのを待っていられなかった」
亜紀は、ミルクティーを飲みながら、少し照れくさそうに黙っている君原の方をチラッと見やった。
「それで、どうしたんですか?」
「君原少年は、断然自分がお姫様を救う決心をしたんだ。魔法つかいが不敵な高笑いをしていると、突然少年は立ち上って、『やっつけちゃう!』と叫んで、先生や他の生徒たちが呆《あつ》気《け》にとられている中、猛然と舞台に向って突進し、魔法つかいに飛びかかったんだ」
君原が苦笑いして、
「何だか夢中だったんだよ。もう、今はよく憶《おぼ》えてないんだけど」
「そう照れるな。——その結果、小学校を巡回して人形劇を見せていたその小さな人形劇団は、お城の舞台装置と魔法つかいの人形を壊されるはめになってしまった」
「ちゃんと弁償すると言ったんだよ、うちのお袋が」
と、君原は言った。「ところが、劇団の人たちはちっとも怒らないで、『そんなに魔法つかいが憎らしく見えたなんて嬉しいよ』と言ってくれた。そして、またぜひ見てくれよ、ってね。ただし、今度は壊さないように、と付け加えて」
「すてきね」
と、亜紀は言った。
「うん。そのとき、僕は約束したんだ。大きくなったら、必ず人形を作って返しますってね」
「で、そのときの約束を果すために、ずっと人形を見たり研究したりしているわけさ。——今どき珍しい奴《やつ》だよ。そうだろ?」
「ええ」
亜紀は、何だか君原が全然別人のように見えた。ずっとずっと身近な人のような気がしたのである。
「だけど、僕は手先が器用じゃないからな」
君原は自分の両手を見てため息をついた。「もし、人形を作るのが無理なら、何か自分にできることで、役に立ちたいと思ってるんだ」
亜紀は、そんな君原の言葉に胸を打たれた。
人って、色んな夢を持ってるんだ。
亜紀は、そのことを学んだだけでも嬉しかったのである。
けれども、君原のように、子供のころの「約束」を自分の夢に変えて持ち続けていられる人は、やはり少ないのではないだろうか。
「——佐伯さんは何をしてらっしゃるんですか?」
「僕かい? 僕は〈P〉って人形劇団にいる」
「へぇ! 面白そう」
佐伯は笑って、
「面白いことは確かだ。しかし、現実って奴は厳しくてね。赤字をみんなでバイトして埋めてる。おかげで団員はほとんど独身だ」
「そうか……。そうでしょうね。大変だなあ」
しかし、そういうことを明るくカラッと言ってのけるところが、佐伯という男の人柄なのだろう。
「——ま、いつか時間があったら見に来てくれ」
と、佐伯はポケットからしわになった名刺を取り出した。
「佐伯忠《ただ》士《し》。人形劇団〈P〉代表か。——君原さんも何か手伝ってるの?」
「いや、学生の身じゃ、大したことはできないよ。公演の日に受付をやったりするくらいだ」
「私も、何かお手伝いできることがあればやります」
と、亜紀は言った。
「おいおい。君原君、この子によく言っとけ。不用意にそんなことを言うと、こき使われて後悔するはめになるって」
「そんな……」
「君らは、まずデートして愛を育てることの方が先決だ。そうだろ?」
「あの——」
亜紀はポッと赤くなった。
「佐伯さん。彼女とはそんなんじゃないんですよ。何しろ今日が初めてのデートなんですから」
と、君原は少しむきになって言った。
「分った、分った」
と、佐伯は笑って、「じゃ、今日のところは、別れるときに初キスってところか」
「あ、それはもう……」
馬鹿正直にそう言ってしまって、亜紀はあわてて、口をつぐんだ。
「何だ、もうすんだのか? せっかちな奴だなあ」
「いや、佐伯さん、あれは弾みで——」
といいかけて、君原はあわてて、「別に本気でなかったって意味じゃないんだよ」
と、亜紀の方へ念を押した。
そのあわてぶりがおかしくて、亜紀もつい笑い出していた。
「——佐伯さんとは、どうして知り合ったの?」
再び人形展に戻って、佐伯は他にも色々顔見知りがいたらしく、立ち話が途切れることがなかった。
亜紀と君原は、もう一度ゆっくりと人形を見ていた。
「僕が高校のとき、学校の演劇部で上演した劇の中に人形を使うことになってね」
「あなたも演劇部にいたの?」
「いや、違うよ。ただ、日ごろから、人形が好きだってことを知ってる奴がね、僕に何かいい人形を見付けてくれないかって頼んで来た」
「それで、あの〈P〉って劇団へ?」
「まあね。人形劇の情報交換とかやってるところがあって、〈P〉はその中では地道に着実にやってて、ファンもついてるんだ。それで、連絡を取ってみたら、佐伯さんが『一度会おう』って、気さくに言って来てくれてね」
「そうか」
「演劇部の講演に人形を貸してくれただけじゃなくて、わざわざ学校へ出向いて来てくれて、稽《けい》古《こ》をつけてくれた。みんな感激してたよ」
「へえ。——佐伯さんは、人形劇の仕事だけやってるの?」
「まさか。それじゃ生活していけない。あの人は予備校の講師をしてるんだ」
亜紀は、大学を出て、どこかの会社に勤める、というのが当り前の生き方と思っていたが、世の中にはそうじゃない道を行く人もいるんだと知った。
むろん、雑誌だのTVだので、そういう人たちがいることは知っていても、実際、身近に見て、話をしたりするのは刺激的な体験だった。
「——出ようか」
と、君原が言った。
もう充分に見た、と亜紀も思った。
「ええ」
二人は、来客と話をしている佐伯に手短かに挨《あい》拶《さつ》して、会場を出た。
「——面白かった」
と、歩きながら亜紀が言うと、
「そう言ってくれると嬉《うれ》しいよ」
君原がニコニコしている。「変な趣味、って笑われるかと思った」
「そんな……。私のこと、そんな子だと思ってたんですか?」
「さあ……。まだよく分ってないからね」
正直な人だ。——亜紀は、こんな大学生もいるんだ、と思った。
「君原さんも、大学出たら好きな道に行くんですか?」
そう訊《き》かれて、君原は少し憂《ゆう》鬱《うつ》そうな顔になった。
「そうもいかないんだ」
「そうもいかないって……。どうして?」
と、亜紀は訊いた。
君原はまぶしげに青空を見上げて、
「僕はどっちかというと、部屋にとじこもって本を読んでたりするのが好きなタイプなんだ」
と言った。「でも、親《おや》父《じ》は僕に陸上競技の選手になってほしいと思ってる」
「陸上の選手?」
君原が毎日あの土手の道を走っていることは知っていたし、何か運動のクラブに入ってるのかな、とは思っていた。しかし、選手となると、そう簡単じゃあるまい。
「親父はね、長距離のランナーで、駅伝とかマラソンとか、ずいぶん出てるんだよ。今の勤め先も、その関係で入ったんだ」
「凄《すご》かったんですね」
君原は、そう言われてもあまり嬉しくなさそうだった。
「僕にも、スポーツで実績を上げて就職しろと言ってる。——陸上部とかが強くて有名な企業があるだろ。大学のときに、いい記録を出せば、必ずどこかが入れてくれる」
「でも……。就職して、走るの?」
「ああ。一種の宣伝になるしね。入社しても選手としてやっていける間は、練習、練習だよ」
「へえ……。そうなんだ」
「だけどね——」
と言いかけて、「よそう。せっかくこうして二人で歩いてるんだ。もっと楽しいことを話そう。君の方から話すこともあるだろ?」
「私? ——私、大してないなあ」
と、亜紀は考え込んでしまった。
確かに、自分は学生生活を結構楽しんでいる方だと思う。けれども——その中で「何か」しているか、と言われたら……。
「私って、凄く怠け者かもしれない」
「どうして?」
「自分が何をしたいのか、分らない。好奇心はあっても、面倒だから近付かないし」
そう言いつつ、我ながら情なくなる。
「君、まだ十七じゃないか」
「でも——その気になれば、もっと色んなことができたんだわ。ただ、真剣に取り組もうって気がなかった」
「無理に何かをやっても仕方ないよ。本当にこれこそ自分がやりたいことだ、っていうものが、きっとその内見付かるよ」
「甘やかさないで」
と、亜紀は笑顔で言った。「すぐ甘えちゃうんだから、私」
君原が楽しそうに笑った。
亜紀は、ごく自然に手を伸ばして、君原の手を握った。
手をつないで歩く。——男の人と。
自分でも、よく恥ずかしくないな、とふしぎだった。
「CDだ」
と、亜紀は足を止めて言った。
「え?」
「CD、買うんだった。——そこ、大きいお店よね。入ってもいい?」
「もちろん」
と、君原が肯《うなず》く。
五階まで全部のフロアがCD売場という大きな店で、中は若い子たちで混雑していた。
「——何を買うんだい?」
「ええと……。一番上だ」
「クラシック?」
エレベーターで五階へ上ると、下の方のポップスだのロック系のCD売場に比べて格段に静かで、そこにヴィヴァルディだかの音楽が流れているのが、いかにもよく似合っていた。
亜紀が、棚の表示を見て行って、
「こっちだ」
君原は、目をパチクリさせた。
「宗教音楽?」
「私、学校のクリスマス会でソロを取ることになったの」
「へえ。——大したもんじゃないか」
「特別うまいわけじゃないんだけど」
と、少し照れている。「でも、やるからには、ちゃんと歌いたいじゃない?」
「それでCD捜してるのか」
「ええ。——ソプラノソロのがあるといいな」
亜紀は、CDの棚を眺めて行った。
「——捜すの、手伝おうか?」
「いいえ、大丈夫。ね、君原さん、何か見たいのがあったら行ってて」
「じゃ、その辺の棚を見てる。——僕はせいぜい〈ラデツキー行進曲〉ぐらいしか分んないからね」
君原がブラブラと棚の間を歩いて行った。
「——これかな」
と、一枚を手に取って、曲目を見ていると、
「金倉君?」
と、声がした。
振り向くと、つい昨日見たばかりの顔——。
「あ、ミカのお兄さん!」
松井健郎が立っていたのである。
「偶然だね。——捜しもの?」
「え、ちょっと学校の用で」
と、まだミカの耳に入っても困ると思って、「——一人でお買物ですか」
「うん。クラシックは日本の方が揃《そろ》ってる。アメリカじゃ、きちんと音楽の授業をしない所が多いからね。クラシックなんか、その内誰も聞かなくなっちゃうかもしれない」
「そうなんですか……」
健郎は、少し間を置いて言った。
「——一人かい?」
「あ、ちょっと連れが……」
と、亜紀は言った。「ミカは一緒じゃないんですか?」
「後で晩飯を食べることになってて、待ち合せてるんだよ」
松井健郎は少し改って、「いつも妹と仲良くしてくれてありがとう。あいつも気まぐれなところがあってね。結構友だちがいないんだ」
「そんな……。お礼なんか言われると困っちゃいます」
「ね、亜紀ちゃん——だっけ。実は君にちょっと話したいことがあるんだ」
「何ですか?」
「ここじゃ、ちょっと……。少し時間がとれるかい?」
「急ぐんですか」
「早い方がいいね」
健郎の言い方は真剣だった。
「分りました。——あ、君原さん」
君原が戻って来て、二人のことを眺めていた。
亜紀が二人を引き合せて、
「——ちょっと、時間潰《つぶ》してもらってもいいですか?」
と、君原へ訊いた。
「もちろん。じゃ、どこで待ってようか」
「すみませんね」
と、健郎は言った。
二人とも二十一歳。そしてこうして二人が並んでいると、亜紀の目にも、君原が明るく、松井健郎にはどこかかげのあるところが感じられた。
——亜紀は健郎とすぐ近くの喫茶店に入った。君原はこの先の書店で本を捜しているということだった。
「突然で、すまないね」
と、健郎はテーブルについて、コーヒーを頼むと、言った。「君のお父さんのことでね」
「父のこと?」
亜紀には意外な話だった。
「昨日、体育祭の昼休みにね、僕は校舎の方をブラついてたんだ」
と、健郎は言った。「校舎の方は人気がなくて静かで、何となくホッとしたよ。日なたは結構暑いくらいだったからね。そこで……」
亜紀は、健郎が父と誰か若い女性が話しているのを聞いてしまったというので、びっくりした。
母が円城寺という男と付合っているらしいとは分っていたが……。
亜紀が顔をしかめるのを見て、健郎は、
「いや、浮気相手という風でもなかったんだよ」
と、急いで言った。「ただ、君のお父さんは、もっともっと厄介なことに巻き込まれてるらしいんだ」
亜紀は思わず座り直していた。