「おはよう! いい天気だな」
と、正巳がやけに明るい声を上げた。
「あなた……。早いのね」
と、陽子が少しびっくりした様子。
「出張だ。そう言ったろ?」
「ええ、でも……。ずいぶん早いわ」
「朝飯を、たまにゃのんびり食べたいと思ったのさ」
「そんな大したもの、作ってないわ」
「いいんだ。いつもの通りに、ミソ汁とご飯があれば。——亜紀は?」
「もう起きて来るでしょ」
と、陽子は立ち上って、「待って。何か作るわ」
台所に立つ陽子の背中に、やや疲れた気配がにじむ。
正巳は朝刊を取って来ると、大きく広げて、
「旅行にいい季節だな。——陽子、お前もどこか温泉にでも行って来たらどうだ?」
「あなた……。お義《と》父《う》さんは病院なのよ」
「そうか。しかし、あの女性がちゃんとみてくれるさ」
そこへ、もう仕度をした亜紀がやって来る。
「おはよう」
「起きたか。——何だ眠そうだぞ。夜ふかししてたな?」
正巳はそう言って笑った。
何だか、みんな妙だった。
正巳はいつになく元気で、はしゃいでいると言ってもいいくらいだ。しかし、本当の上機嫌とは違う。妻と娘がお互い目を合さないようにしていることにさえ、気付かない。
亜紀は、チラッと母の方を見た。
母も、円城寺のことを亜紀が知っていると分って、ショックだったことは確かだ。しかし、その話はゆうべもついにしなかった。
たぶん、口に出すのが怖いのだろう。
一旦言い出せばやめるわけにいかない。中途半端ではすまない。
結局は、円城寺と別れるしかない、ということになるだろう。それが、母には怖いのだと亜紀は思っていた。
そして、亜紀は母のことに気をとられて、父の様子がいつもと違うことに、気付かなかった……。
朝食の間も、三人はほとんど目を合せることなく、黙々と食べていた。正巳一人、ときどき何か言い出すが、返事もないし、それを気にしている風でもない。
「——行ってくる」
先に言ったのは、亜紀だった。
「もう行くのか」
「今朝、学校でちょっと用があるの。じゃあね」
「亜紀」
と、正巳が言った。「気を付けて行けよ」
「——うん」
亜紀はふしぎそうに肯《うなず》いた。
亜紀が出て行った後、陽子は夫と二人で残り、何を話そうか、と思った。
いや、何を言えばいいのかは分り切っていた。
昨日はあの女とどこへ行ったの? そして何をしていたの? 会社を早退しておいて、
「会議が」
なんて嘘《うそ》をつく。
あなた。あなた。——あの女を愛してるの? もう私を愛してないの?
「何だ、黙り込んで?」
と、正巳が言った。「俺《おれ》の顔に何かついてるか?」
「いいえ」
言えない。そう言ってしまったら……。きっと自分も円城寺とのことをしゃべってしまうだろう。
円城寺と別れるのでなかったら、夫にあの女と別れろとは言えない。それはできなかった。そうしたくなかった。
あの人は私のことを大事にしてくれる。私を認めてくれ、愛してくれている。
あなたは? あなたはどこへ行ってしまったの?
陽子の心の叫びは、言葉にはならなかった。
「もう少し食べる?」
と、陽子は訊《き》いていた。
「いや、もうやめとこう。太るばっかりだ。少しはダイエットしなきゃな」
正巳は立ち上った。
仕度をして玄関へ出てくるまでに数分しかかからなかった。いつもの正巳に比べればずっと早い。
「——気を付けてね」
出張という夫へ、陽子はいつもの言葉をかけた。
「うん……。お前もな」
正巳が靴をはいて言った。「ちゃんと戸締りしろよ」
「何なの、急に?」
「いや、このところ物騒じゃないか」
と、正巳は息をついて、「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
陽子は玄関からサンダルを引っかけて外へ出た。
朝の空気はもう、少し冷たい。目が覚めるようだった。
夫の後ろ姿を見送って、中へ入ろうとすると、夫がふっと足を止め、振り返るのが見えた。
忘れ物かしら? ——そう陽子が思ったほど、正巳は何か言いたげにしていた。
しかし、結局正巳は何も言わずに、手を振って見せると、そのまま急ぎ足で行ってしまった。
何だったんだろう? あの人、何を言おうとしたのかしら。
陽子はいつまでも気になっていた。
伊東真子は、まだほとんど誰も来ていない会社の中を眺めながら、自分の席で朝食をとっていた。
朝食といっても、駅の近くで買って来たサンドイッチと紙パックの牛乳。——栄養はこれで充分にとっているはずだった。
「——やあ」
と、やって来る金倉正巳を見て、真子はびっくりした。
牛乳を飲んで口の中にパンを流し込み、
「——金倉さん! 早いのね」
「いや、たまにゃ早く来てみるか、と思ってさ」
と、正巳は笑って、「ああ、それからゆうべは電話もらって悪かったね。かけるつもりだったんだけど、ちょっとバタバタしてて……」
「いえ、それはいいんだけど」
真子は、正巳の、いやに明るい様子に戸惑っていた。
「心配してくれてたんだろ? すまない。僕のせいで」
「金倉さん……。昨日、円《つぶら》谷《や》さんとタクシーに乗って行くのを見ちゃったの。何と言っていいのか……。他人のことですからね、口を出す権利はないと思う。でも、奥様もお嬢さんもいらっしゃるんですから」
真子が、少しためらいながら言うと、
「うん。——分ってる」
正巳は真子の机の前に来て、「隠すつもりはない。確かに円谷君と深みにはまってしまった。——いや、彼女も悪い子じゃないんだ。本当だよ」
「仕事を見ていれば分るわ。きちんとした子よ」
「そう思うだろ? 嬉《うれ》しいよ、そう言ってくれると」
正巳は、手近な空いた椅《い》子《す》に腰をおろして、「僕の方がずっと年上だ。悪いのは僕の方だよ。しかしね、もう大丈夫。昨日じっくり話し合ったんだ。あの子も分ってくれた。もう二人の仲は終ったんだ」
真子は、ちょっと呆《あつ》気《け》ないくらいの気持で、
「本当なのね」
と言った。「疑うわけじゃないけど……」
「僕は意志の強い男じゃない。——いや、そうなんだよ。だから君が心配してくれるのはよく分る」
と、正巳は肯いて見せ、「円谷君が色々問題を抱え込んでいたことは君も知ってるね。その話し相手になったのがきっかけだが、結局僕は相談相手としては頼りにならないことが分ったんだろう。もう諦《あきら》めて故郷へ帰る、と言っていたよ」
「まあ、そうなの」
「すまん。気の迷いだ。許してくれ」
と、正巳は頭を下げた。
「そんな……。私に謝られても困るわ」
と、真子は笑って、「奥様にお詫《わ》びして下さいな」
「うん、それは改めてきちんとする」
「良かったわ。ずっと引っかかってて。これで安心して仕事ができる」
二人の話は、若い女の子たちが何人か出社して来たので、そこで途切れた。
真子は、正巳がその子たちにも、
「やあ! 早く出てくると気持がいいね」
と声をかけているのを見て、微《ほほ》笑《え》んだ。
——正巳も男だ。可《か》愛《わい》い女の子とにぎやかにおしゃべりするのは楽しいだろう。
それがたまたま「行き過ぎて」しまったのが、円谷沙《さ》恵《え》子《こ》だったということか。
仕事が始まると、正巳は呼ばれる前に自分から部長の所へ行き、
「昨日は申しわけありませんでした!」
と、謝ってしまった。
文句を言ってやろうと思っていた部長の方は、調子が狂って、
「うん……。ま、今後注意しろよ」
で終ってしまった。
真子も、しばらくは楽しく仕事に打ち込むことができた。
電話がかかって来たのは十一時ごろだった。
「——はい、伊東です」
「あの、金倉の家内です」
「あ——」
真子は、チラッと正巳の方へ目をやった。「昨日は……」
「伊東さん。主人、ちゃんと仕事してますか?」
と、陽子は言った。
「ええ、もちろんです」
「そう……。それならいいんですけど」
と、陽子は息をついている。「あのね——何だか今朝、家を出るときのあの人の様子がおかしかったものですから」
「様子が? どんな風に——」
「どうって言うのはむずかしいんですけど……。でも、ちゃんと仕事してるんですね」
「ええ。——奥さん、ご存知なんですね」
「女の人のこと? 昨日タクシーに乗って行った」
真子は目を見開いて、
「見てらしたんですか」
「私にだって、目はあるわよ」
と、陽子は笑った。
「今朝、ご主人が私に言ったんです。もうあの子とは別れたって。奥さんにもお詫びすると」
「まあ、そうですか」
「大丈夫だと思いますよ。とても張り切ってらっしゃるし、今日は」
「じゃ、思い過しなのね。——良かったわ。出張するっていうのに、何だか気掛りでしたの」
と、陽子はホッとした口調で言った。
「伊東さん、お電話」
と、呼ばれた。
その声が聞こえたのだろう、陽子は、
「お忙しいのにごめんなさい。どうもありがとう」
と、電話を切った。
真子は、仕事の電話に出て、数分で話を終えたが——。
「出張……」
と、呟《つぶや》いた。
正巳が出張する、と陽子は言っていた。——そんなこと、正巳は何も言っていなかったが。
真子は、正巳の席へ電話をかけた。
「——あ、伊東ですけど、課長さん、いる?」
と、出た女の子に訊《き》く。
「いえ、今はいません」
「そう。外出かしら。それとも社内?」
と真子が訊くと、
「さあ……。ちょっと分んないんですけど」
新人の子で、はっきりしない。
「じゃ、いいわ。ああ、課長さん、今日から出張って予定、入ってる?」
と訊いても、
「よく分んないですけど……」
「また連絡するわ」
諦めて、真子は電話を切った。——全く、今の若い子は!
言いたくはないし、みんながみんなこうではないのだろうが、それにしても……。
真子は、陽子の言葉——正巳の様子がおかしかった、というのが気になっていた。毎日一緒にいる妻の直感だ。はっきりした根拠はなくても、何か理由はあるのだろう。
そう考えると、正巳がいやに元気で張り切っているのも、却《かえ》って不安の種になる。
真子は、時計を見た。——どうしても出席しなくてはならない打ち合せがじきに始まる。
急いで手帳をめくると、電話へ手を伸ばした。——いてくれるといいが。
「——もしもし、伊東といいますが、所長さんは?」
「あ、どうも。今ちょっと出かけていて……」
「連絡取れます?」
「やってみます。あの——この間、ご依頼のあった件ですよね」
と、秘書の女性が言った。
「そうです。何か分りました?」
「たぶん。所長があちこち電話してましたけど、私は聞いてないんです。すみません」
「いいえ。じゃ、連絡とれ次第、電話下さい」
「お仕事中でもよろしいですか?」
「構いません」
と、真子はためらうことなく言った。「いつでも呼び出して下さい」
電話を切ったところへ、
「伊東君、打ち合せだ」
と、声がかかった。
「はい」
仕方ない。真子は心残りだったが、隣の子へ、
「電話があったら、いつでも呼んで。いいわね」
と、念を押しておいた。
——真子は打ち合せが始まっても、いつものように頭を切り換えて仕事に没頭することができなかった。
正巳が喫茶室で会っていた、〈C生命〉の浅《あさ》香《か》八《や》重《え》子《こ》という女のことを、調べてもらっていたのである。
真子が仕事でつながりのある興信所で、堅実な、間違いのないところだった。個人的にもよく知っているそこの所長へ、依頼してあったのだ。
その返事を、真子は早く聞きたかった。
しかし、結局、昼休みまでに連絡は入って来なかった。打ち合せは終らず、十二時十五分ごろ、やっと一《いつ》旦《たん》休もうということになった。
席へ戻るとき、正巳の席へ寄ってみたが、むろん食事に出たのだろう、正巳の姿はなく、真子は出張の伝票を調べてみたが、正巳のものは見当らない。
すると、陽子の話していた「出張」というのは、何かの勘違いなのだろうか?
真子はため息をつくと、自分の席へ戻った。昼を食べておかなくては。
財布を手にエレベーターへと歩いて行く。
「——伊東さん」
と、呼ばれた。
「私?」
「お電話です」
やっと! 真子は急いで席へと戻って行った。
「——はい、伊東です」
と、息を弾ませて言うと、
「伊東真子さんですね」
と、女性の声。
「はあ」
「N大病院ですが、清《きよ》子《こ》さんのご容態が思わしくありませんので、すぐおいでいただけますか」
母の入院先だ! 予想もしていないことだった。
「はい、すぐに」
声が震えていた。
真子は、大急ぎで帰り仕度をした。仕事の打ち合せは他の者へ頼む旨、メモを残し、会社を飛び出す。
興信所から電話が入って来たのは、その五、六分後のことだった。
「伊東は早退しました」
新人の女の子がのんびりと答えた。