銀行のATM(現金自動支払機)の前には、制服のOLやワイシャツ姿のサラリーマンが列をなしていて、正巳は一瞬、もっと早く来れば良かったと後悔した。
こんなに並んでるんじゃ、とても昼休みの間にはおろせそうもない。——どうしよう。
しかし、正巳が迷っている間に、たちまち列は長くなってしまう。せき立てられるように、正巳はともかく列の一つについた。
しかし、少し落ちついて考えてみれば、ここに並んでいる人間のほとんどはお昼休みを利用して、お金をおろしに来ているのだ。つまり、一時にはオフィスへ戻らなくてはならないわけで、それでいて何人連れかで来ているOLたちが少しも焦る風でもなく、のんびりおしゃべりをしているのを見ると、そんなに時間はかからないのかもしれない。
少し並んでいると、正巳にも分った。昼休みにここへ並ぶのは、慣れている者が多いので、操作も手早いのだということが。
十分も待つと、もう正巳は列の中ほどまで来ていた。この分なら、一時には充分間に合うだろう。
涼しい時期なのに、いつしか汗をかいていた。——落ちつけ。落ちつけ。
あと三人。腕時計を見ると、まだ昼休みは十五分ある。
ポンと肩を叩《たた》かれ、びっくりして振り向くと、三人ほど後ろに、何と正巳の課の女の子が並んでいた。
「課長さん! 珍しいですね!」
「ああ……。君もか」
と、何とか笑顔を作ったが、当り前のことを訊《き》いたりして、どう見てもあわてていただろう。
しっかりしろ! 全く、何てざまだ。
何とか立ち直って、
「旅行にでも行くの?」
と、訊く。
「冬のボーナスまでは、とっても余裕ないですよ!」
と、大げさにため息をついて、「生活費、うんと切りつめてるのに、なぜかお財布が空になるの」
と、明るく笑う。
正巳はホッとした。——そうだ。何も怪しげなことをしているわけじゃない。堂々としてりゃいいんだ。
いや、さりげなく。当り前のことをしてるだけなんだから……。
「課長さんはおこづかい?」
「僕は、ちょっと旅行の費用をね」
と、正巳は言った。
「わあ、いいなあ。ご家族で?」
「まあね」
まさか、駆け落ちだとも言えないしな、と正巳は思った。
やっと正巳の順番がやって来た。
ホッとして、カードを取り出す。課の女の子ともそう話すことがない。これ以上待っていたら、困るところだった。
カードを入れ、暗証番号。
落ちつけ。——落ちつけ。
正巳は、自分の預金をおろすだけなのに、何だか銀行強盗でもやろうとしているかのように、緊張していた。
一回は暗証番号を押し間違え、あわてて〈エラー〉のボタンを押す。次に並んでいる男が、聞こえよがしに、
「何してんだ……」
と舌打ちするのが耳に入って、カッと頬《ほお》が熱くなる。
こんなことで動揺してどうするんだ。あわてるな!
二度目は間違いなくいった。——どうってことないじゃないか。こんなもの、簡単さ。
現金が出て来て、正巳は手に取ろうとした。
そのとたん、目の前に陽子と亜紀の顔が浮んだ。
すまん。——許してくれ。
胸が痛んだ。俺《おれ》は何をしようとしているんだ? お前たちを裏切り、お前たちを捨てて行こうとしている。その後、お前たちを何が待っているか……。
陽子……。亜紀……。
「——早くしてくれよ!」
後ろから言われて、ハッと我に返る。
札をつかんで、正巳はその場から逃げるように立ち去った。そこから遠ざかれば、そこで考えたことが忘れられる、とでもいうように。
——オフィスへ戻った正巳は、しばらくロッカーの前で気持を落ちつかせなくてはならなかった。
何もかも考えて、決心してのことではなかったのか。今さら沙恵子を捨てることはできない。そう意を決したのではないか。
席へ戻り、あと五分ほどで昼休みが終ると知って、却《かえ》って正巳はホッとした。仕事が始まれば、とりあえずその後のことは忘れてしまえる。
忘れて? ——いや、忘れられるもんか。
妻と子のことを、どうして忘れられるだろう。
正巳は、ぼんやりと窓の方へ目をやった。
沙恵子……。円谷沙恵子と、正巳は今日旅に出るのである。
これまでの、五十年近い人生のすべてを捨てて。家も、家族も。仕事も。
自分で決めたことなのに、現実とは思えない。五時になったら、目が覚めて、すべて夢だったということになるのではないか、という気がした。
「——課長さん」
と、呼ばれて振り向くと、目の前に小さなキーが一つ、揺れていた。
さっき、銀行で同じ列に並んでいた女の子である。
正巳は、そのキーが、コインロッカーのものと知って、息をのんだ。
「これ、落として行きましたよ。はい!」
てのひらに受け取って、正巳は改めて青くなる。ボストンバッグを駅のコインロッカーに入れておいたのだ。これを失くしたら、取り出せないところだった。
「ありがとう! いや、助かった」
「課長さん、あわててるんだもの。呼んだけど、気が付かなかったでしょ」
からかわれても仕方ない。自分ではいつものように振舞っているつもりでも、やはり緊張しているのだ。
「そうか。悪かったね。いや、ついあわてちゃって……。ありがとう」
と、もう一度礼を言った。
「いいえ。今度、お昼おごって」
「いいとも。——ま、機会があれば、ね」
つい付け加えてしまうのは、おごる機会などないだろうと気が付いたからで、いちいちそんなことを気にしてしまうのが正巳らしいところ。
「待ってますよ」
と、女の子は笑って席へ戻った。
正巳はしっかりと、コインロッカーのキーを手の中に握りしめていた。
沙恵子……。こんな頼りない男に、君はついて来てくれるのか?
正巳は心細い思いで、このキーをどこへしまっておけばいいのだろう、と考えていた。
まさか、五時になるまで手で持っているわけにはいかないし……。
一時から五時までが途方もなく長く感じられた。
もちろん、キーをずっと握りしめていたわけではないが、それでもポケットにちゃんと入っているかどうか、何度も確かめずにはいられなかったのである……。
五時の終業チャイムが鳴った。
正巳は息をついて、机の上を片付けはじめた。——後は明日にしよう、とつい考えている自分に気付く。
明日か。明日、俺はもうここへは来ていないのだ。
正巳は、ふと周囲を見回した。——二十何年も勤めたオフィスが、まるで初めて見る場所のようだ。
「お先に失礼します」
と、課の女の子たちがさっさと帰って行く。
そうだ。
俺ものんびりしてはいられない。沙恵子が待っているのだ。
正巳は、沙恵子と会うことだけを考えていようと努力しながら、立ち上ると、きっちりと椅《い》子《す》を机に付けた。
正巳は、急がずに帰り仕度をした。
本当は急いだ方がいいのだが、何か邪魔が入りそうな気がして——。逆に、ゆっくりと仕度をしたのである。
邪魔が入るのを待っているのか。
正巳自身、そう思った。俺は、本当は行きたくないのだろうか?
一方で沙恵子を見捨てるわけにはいかないと思い、一方で、この年齢になって新しい人生へ踏み出すことを恐れている。
当然のことだ。そう自分へ言い聞かせた。
部長にでも呼び止められて、
「今夜の会合に、どうしても出てほしいんだ」
と言われるか。
それとも、ビルを出たら陽子か亜紀が待っていて、
「お父さん、一緒に帰ろう」
と、腕を取られるか。
色々な想像が頭の中を駆け巡った。
しかし——結局、何の邪魔も入らずに、正巳は帰り仕度を終えて、会社を出た。エレベーターでは、誰とも一緒にならなかった。
これも珍しいことである。
ビルを出て、ふと振り返る。——誰も止めはしない。そうなのだ。俺一人、どこへ行こうと、人は大して気にもしない。
正巳は思い切って歩き出した。
——駅のコインロッカーからボストンバッグを取り出し、
「さあ、行くぞ」
と、呟《つぶや》く。
沙恵子との待ち合せは、東京駅。
正巳は、上りのホームへと歩き出した。
「——ただいま」
亜紀は、少し重い気分で玄関を上った。「お母さん?」
台所から、
「早いのね」
と、母の声がして、亜紀はホッとした。
いつもの声だ。母がいつもの通りだということは、本当にすばらしい。
「夕ご飯、まだよ」
陽子は流しに向っていた。
「うん、いいよ」
亜紀は行きかけて、「——お母さん、ごめんね、昨日は」
陽子の手が止った。
「——今度、君原さんのこと、連れて来るから。会ってみて。いい人なんだ」
「そう。あんたがそう言うのなら、そうでしょうね」
と、陽子は微《ほほ》笑《え》んだ。
「私……お母さんが誰と付合ってても、何も言わない。お母さんは大人だし、私はまだ子供だし。一緒にはできないものね。忘れてね!」
亜紀は、自分の部屋へと駆けて行った。
陽子は、亜紀が行ってしまっても、しばらく料理の手を止めたままだった。
亜紀……。
本当のところ、亜紀に男の友だちができて、それが大学生だからといって、それほど心配していたわけではない。
むしろ、陽子は今日一日、なぜ亜紀が円城寺のことを知っているのだろう、と考え続けていたのである。
もちろん、陽子は円城寺の妻が亜紀と会ったことなど知る由もない。そして、今日亜紀が帰って来たら、どう言えばいいのだろうと思い悩んでいたのである。
でも——。
陽子は、シチューの鍋《なべ》をかき回しながら、思った。亜紀の方からああして言われてしまうと、母親の立場がない気もする。
正直、亜紀の「彼氏」のことなど忘れかけていた。そのことも、陽子にはショックだった。
自分のことだけ考えて……。ひどい母親だわ。ねえ?
——亜紀の言葉は、応《こた》えた。
母が誰と付合っていても、何も言わない。それは、決して自分にも弱味があるから、お互いさまで黙っていようというのではない。亜紀の方は、その男の子——君原といったか——を堂々と紹介できるのだ。しかし、陽子の方は?
亜紀は、あえてそれを陽子に求めなかった。母を責めないと決めたのである。むしろ、陽子には辛《つら》いことだった。
——陽子は、食卓の用意を始めた。
「まだ急がなくてもいいよ」
着替えた亜紀がやって来る。「お父さん、早いの?」
「今日は出張ですって。食べましょ。お母さん、お腹空いちゃったの」
陽子の言葉に、亜紀は笑って、
「分った。私だって、食べりゃ、ちゃんと入るよ。じゃ、茶《ちや》碗《わん》出すね」
戸棚を開けて、必要な物を出していく。「小皿は?」
「二枚ね。あと、サラダを取るガラスの……。そう、それ」
「おじいちゃんのとこ、行ったの?」
「今日は行ってないわよ。毎日じゃ、あちらも煩《わずらわ》しいでしょ。藤川さんもいてくれるし」
「あの人……。おじいちゃんと結婚するのかなあ」
「そのつもりらしいわよ」
「凄《すご》い! いくつ! 二十——どころじゃないか。三十くらい離れてる」
「三十五、年下ですって」
「大したもんだなあ!」
亜紀は、何だかよく分らないけど、ともかく驚いて見せた。——自分と君原なんて、四つしか違わない。
陽子と亜紀は、できたてのシチューで早々に夕食をとった。
話はいつもの通り弾んだ。たいていの場合、父がいない方が話はよく出る。本当のことなのだから仕方あるまい。
「——おじいちゃん、再婚したら、ここに住むの?」
早くも二杯目を食べながら、亜紀は訊《き》いた。
「そこまで知らないわ」
と、陽子は笑って、「でも、しばらくは入院でしょうし、結婚っていっても、少し先よ」
「でも——そうだね。いくら年寄でも、新婚生活ぐらい、二人きりで過したいだろうね」
「おじいちゃんに訊きなさい」
と、陽子は言いつつ、「あんたも、たまにはお見舞に行ってね」
「うん。今度の試験がすんだら行く」
と、亜紀は言った。「——でも、お母さん、お父さんと六つ違いでしょ? 初め付合うとき、違和感なかった?」
陽子は詰って、
「さあね。忘れちゃったわ!」
「逃げた」
と、亜紀は笑った。「でもね、おじいちゃんの生き方があるとしても、三十……五歳? そんなに年齢の離れてる人って、はっきり言って親子って感じでしょ? よく付合ってられるよね」
「そうね……」
陽子は少しのんびり食べながら、「ある年齢を越えると、たいていの人はあんまり年齢の違いを感じなくなるんじゃないかしら」
「へえ」
「相手が年下で、たとえば色んな生活感覚が全然違っていたとしても、自分がそれを受け容《い》れるだけ大人になっていればいいわけでしょ」
「なるほどね」
「もちろん、人によるわよ。六十になっても七十になっても、子供のころと変らない人だっているし」
亜紀は感心した様子で、
「そうか……。本当は年齢の差とかっていうより、どれだけちゃんと大人になってるか、だね」
「そうね。——何だか今の私たちの話、大人同士って感じじゃない?」
「うん!」
と、亜紀がしっかり肯《うなず》いて笑った。
陽子も一緒に笑う。——食卓は至って和やかだった。
もちろん、二人は正巳がちょうど今、円谷沙恵子と落ち合って、行く先も知れぬ旅に出ようとしていることなど、知るわけもなかった……。
ホームにベルの音が鳴り渡った。
その瞬間、正巳は沙恵子の手が座席の手すりの自分の手に重なるのを感じた。
「出るわ」
と、沙恵子が言った。
「うん」
正巳は肯いた。
列車は遅れもせず、定刻通りに発車した。
ゆっくりとホームが後ろへ流れて行く。
正巳の中で、何か張りつめていたものが崩れて行った。とうとう、俺《おれ》はやってしまったのだ。
ホームはすぐに見えなくなり、ビルの灯が遠くに望めた。
「あなた……」
と、沙恵子が言って、握る手に力をこめた。
「大丈夫だ。もう安心だ」
自分に言い聞かせているセリフだった。
「ええ……。そうね、もう心配ないのね」
沙恵子がそっと目を拭《ぬぐ》った。
心配ない、どころではない。これからどうやって暮していくのか。それさえ分らないのだ。
「——とりあえず、大阪に知り合いがいるの。そこへ行ってみようと思うんだけど」
と、沙恵子は言った。
「君の言う通りでいいよ。しかし、先方に迷惑にならないかい?」
「大丈夫。昔の友だちだから、連中も知ってるわけないわ」
沙恵子は、座席の背を倒して、大きく息をついた。
——列車は空いていた。話をするにも気楽だ。
「夢みたいだわ……。あなたと二人でこうして……」
「僕もだよ」
二人は素早く顔を寄せて、唇を重ねた。
正巳は、こんな大胆なことができる自分にびっくりした。
俺は変ったのだ。新しい人間になったのだ。
沙恵子のお腹がグーッと鳴った。
「いやだわ」
と、照れて笑う。
「安心したら、僕も腹が空いて来た。弁当を買って来よう」
「私が行くわ」
「でも——」
「食事の仕度をさせて。妻の仕事よ」
「分ったよ」
と、正巳は微《ほほ》笑《え》んだ。
沙恵子が通路を座席の背につかまりながら歩いて行くのを見送って、正巳はふしぎな気持がした。
とんでもないことをした、という緊張感は消え、家族旅行でもしているような解放感が、正巳を寛《くつろ》がせていたのである。