「あんまり力落とすなよ」
と、松井健郎に言われて、亜紀は何とか笑顔を作った。
「うん。大丈夫。——お母さんが、もっと辛《つら》い思いしてるんだものね」
学校の帰り、約束通り健郎と会ったものの、亜紀は早く家へ帰らなくては、と気がせいて、話は要点だけですましてしまった。
教室にまで金を貸した男が押しかけてくるというのは、とんでもない事態である。
「もし、うちへも押しかけてたら心配だから、帰ります」
と、亜紀は言った。
「送って行くよ」
と、健郎は言った。「君がいいと言っても、僕は勝手に送って行くぞ」
「——ありがとう」
亜紀も、一人で帰らないようにという先生の言葉を思い出して、送ってもらうことにした。
電車の中では、健郎は努めて他の話題でおしゃべりをしてくれて、ずいぶん亜紀の気持を軽くしてくれた。
亜紀の心の中に、今ここにいてくれるのが君原さんだったら、という思いがあったことは事実だが、その後君原は大学の方が忙しいのか、連絡して来ていなかった。
話がミカのことになったとき、
「——ミカって、健郎さんのことが好きなんですね、本当に」
と、亜紀は言った。
「どうして?」
「分りますよ。健郎さんのことになると、すぐにミカ、むきになるし」
少し冷やかすように言った。
すると、健郎はちょっと眉《まゆ》をくもらせて、
「いくら思ってくれても、兄妹だからね」
と言った。
亜紀は、妙な気がした。あのミカの怒りようといい、健郎の重苦しい口調といい、それこそ「兄妹とは思えない」緊張した係《かかわ》り合い方を感じさせたのだ。
でも、もちろん——そんなの、気のせいかもしれないのだし。考え過ぎなのだ。きっとそうだ。
健郎はアメリカの大学の話をしてくれて、亜紀は面白く聞き入ったのだった……。
「——どうもありがとう」
亜紀は玄関の前で足を止めた。「上って行きますか」
「いや、今日は遠慮しておくよ」
と、健郎は言った。「お母さんに何もかもちゃんと話をしてね」
「はい」
と、肯《うなず》いて——何となく、ごく自然に健郎と唇を触れ合っていた。
健郎とのキスは、君原のときのように亜紀の胸をときめかせるというわけではなかった。
むしろ、安心させ、落ちつかせる、それこそ「兄と妹」のような気分にさせるものだった。
「じゃ、これで」
「ありがとう、送ってくれて」
と、亜紀は礼を言った。
「さ、入って。見届けてから帰るよ」
気のつかい方が嬉《うれ》しかった。亜紀は素直に玄関の鍵《かぎ》を自分であけて、中へ入って行った。
——健郎は、中からロックされる音を聞いて、安心して歩き出した。
もう暗くなりかけている。
健郎はものかげから二人の様子を覗《のぞ》いていた男のことに、全く気付いていなかった。
白いスーツ、サングラス。——あの、教室に現われた男である。
「いい気なもんだ」
と、男は唇を歪《ゆが》めて笑った。
キスどころじゃねえだろう。今にこの家から叩《たた》き出されるってのによ。
男は、健郎の後ろ姿を見送っていたが、
「——そうだ」
と呟《つぶや》くと、距離を空けて健郎の後を尾《つ》けて行った。
居間の明りを点《つ》けた亜紀は、カーテンを閉めて、さて着替えるか、と振り向いて、
「キャッ!」
と、飛び上りそうになった。「——お母さん! ああ、びっくりした」
「お帰りなさい」
と、陽子は言った。「今、帰ったの?」
「うん……。どうして明りも点けないで——」
「お母さんもつい二十分くらい前なのよ、帰ったの。くたびれたんで、この格好のままベッドで横になったら、ウトウトしちゃった……。お腹、空いてる?」
「うん……。普通」
「じゃ、何か食べに行きましょうか。お母さん、作る元気がないの」
「いいよ」
それでも、母がいくらか元気そうで、少なくとも外食に出ようという元気があるので、亜紀はホッとした。
「じゃ、この格好のままでいいね。駅前に出ようよ」
亜紀は、ことさらに楽しげに言った。
もちろん話さなければならないことはあって、それは到底食欲をそそるものじゃなかったが、それでも外で食事をしているときなら冷静に話せるかもしれない。
「あんたに話さなきゃいけないこともあるしね」
母の言葉に亜紀はドキッとしたが、
「まさか、もう再婚じゃないよね」
と言ってやった。
「じゃ、知ってたんだ、お母さん」
と、亜紀は言った。
ナイフとフォークが皿に当って音をたてる。
「逆でしょ、それじゃ」
と、陽子が苦笑した。「あんたが知ってて、お母さんが知らないなんて。どうしてすぐ言わなかったの」
「だって……。信じたくなかったのかもしれない。黙ってりゃ、その内忘れちゃって、そのこと自体、なくなっちゃうような気がしたのかもしれない」
とっさの言いわけだったが、たぶん本当にそうだったのだ。理屈じゃない。ともかく、正面から見据える勇気を出すには、時間がかかったのだ……。
——陽子と亜紀は、駅前のレストランに入っていった。割合気楽で、それでいて味も悪くないので、よく一家で食べに来た店だ。そこで、今二人だけで食事をとる。
「学校にまで押しかけるなんて……」
陽子もさすがにそこまでは予想していなかった。思わず食事の手が止る。
「でも、大丈夫。負けやしないって!」
亜紀は微《ほほ》笑《え》んだ。「いっそ、みんなに知れちゃったから、気が楽だよ」
気が楽……。そんなことがあるものか。
陽子は、ことさら明るく振舞う娘に胸をつかれ、同時に自分自身を励まさなければならないと思うのだった。
「その女——浅香っていったっけ?」
「浅香八重子っていうのよ」
「ひどい女だね。でも——どうしてお父さんがそんな女からお金借りたんだろ?」
「分らないけど……」
と、陽子はちょっと肩をすくめて、「女ってお金がかかるものよ」
「あの……円谷沙恵子?」
「たぶんね」
と、陽子は食事を続けながら言った。
胸がつかえて、食べられないようだったが、無理に口へ運んだ。今は、ともかく頑張れる体力と元気を持つことだ。
「何のお金だったにしろ、お父さんがうちの土地も担保に入れてお金を借りたことは確かだと思わないと」
と、陽子はやっと食べ終えてから言った。「遠からず、お金を返せと言ってくるでしょうね」
「どうするの、そのときは?」
と、亜紀は言った。
「さあ……。どこにもお金を借りるあてなんかないしね」
「家も土地も……取り上げられる?」
さすがに亜紀の言葉はかすれがちだった。
「最悪のときはね。でも、何か手があるかもしれない。相談してみましょう」
「先生が、弁護士さんを紹介してくれるって」
と、亜紀が力強く言った。
「ありがとう」
と、陽子は微笑んだ。
「——どうして?」
と、亜紀が戸惑い顔になる。
「あんたがそうして元気にしててくれるからよ」
陽子は食後のコーヒーが来ると、たっぷり砂糖を入れた。亜紀はそれを見て、
「お母さん、珍しいね。あんまり入れないじゃない、いつも」
と、自分はブラックで飲む。
「太るかと思って、控えてたけど、今はエネルギーをためとかないとね」
と言って、陽子は笑った。
「——お母さん」
「うん?」
「お父さん……どこに行ったのかなあ」
陽子は、チラッと目を表へ向けて、
「——雨になりそうね」
と言いながら、ふと思っている。
あの人、傘を持って行ったかしら。いつも入れておくようにしているのだが……。どうだったろう。
陽子の目に、冷たい雨の中、傘もなく二人であてもなく濡《ぬ》れて歩いている正巳と円谷沙恵子の姿が浮かんだ。
何も、夫のことなど心配してやることはないのだ。妻子を放り出して逃げてしまった男など、どうなっても構うものか。
しかし、陽子は娘の方へ視線を戻して、思い直す。
いや、そうじゃない。亜紀にとっては、やはり「お父さん」は「お父さん」なのだ。生れたときから、十七歳の今まで、一緒に暮して来た人なのだ。
「どこに行ったのかしらね」
と、陽子は言った。「亜紀……。お父さんを恨んでる?」
「——分んないな」
と、正直な答えが返ってくる。「怒ってはいるけど……。まだ、信じられないような気がする」
「そうね」
と、陽子は肯《うなず》いた。「——ともかく、今は現実的に考えましょう。お父さんの収入がなくなるってことは、うちの収入がすっかり途絶えるわけだものね。——お母さん、働くわ」
「私もバイトする」
「そうするしかなくなったらね。——そのときは、ちゃんとそう言うわ。気休め言っても仕方ないし」
「うん」
と、亜紀は肯いた。
——二人は、ともかく現状をしっかり見つめることで、大分落ちついて家路についた。
家に入ると、電話が鳴っていた。
電話。——もしかしたら、父から?
反射的にそう思ってしまうのは当然のことだったろう。亜紀の方が先に玄関に上って電話へ駆けつけた。
「——はい。もしもし」
「亜紀? ミカよ」
「あ、何だ。今、帰って来たところ」
「出かけてた? うちの——お兄ちゃんと一緒だった?」
「ううん。お母さんと二人。健郎さん、私のこと帰りに送って来てくれたけど、上らないで別れたんだよ」
「いつごろ?」
「そうね……。一時間半くらい前かな」
「それならいいけど。——お友だちから電話があってね。お兄ちゃん、うちにいるからって言ってたらしいんだ。そういうこと結構ちゃんと守る人だから」
と、ミカは言った。「じゃ、もう帰ってくるね。ありがとう」
「いいわよ。お兄さんには心配してもらっちゃって、申しわけなかったわ。お礼言っといてね」
「うん。その後、お父さんからは何も?」
「一向に」
と、亜紀は肩をすくめ、「お母さんと二人で強く生きてくわ!」
「TVドラマのナレーションだね」
と、ミカは笑って言った。
——電話を切って、亜紀は着替えると、お風《ふ》呂《ろ》のお湯を入れた。熱さを手で確かめてから、コックを一杯にひねり、タオルで手を拭《ぬぐ》っていると、
「——亜紀」
と、母が妙な顔で立っている。
「どうしたの?」
「今……電話が……」
「お父さん?」
「そうじゃないの」
と、急いで首を振って、「男の人で……変な人だった。私のこと、たぶんあんたと間違えたのね。『今日は学校を見学できて楽しかったぜ』って」
「——あいつだわ!」
亜紀は頬《ほお》を紅潮させて、「そんなの、放っといて」
「でもね——。その後に言ったの。『バス停の先の公園へ行ってみな』って。『仲のいい友だちに会えるぜ』って、笑って切ったわ」
「何のことかしら?」
「見当もつかないけど……。でも、あの言い方が気になって」
亜紀は居間へ戻ると、
「バス停の先の公園って……。この近くのことかしら?」
「そうじゃない? あるでしょ、この先に」
「うん……。でも……」
亜紀は不安に捉《とら》えられていた。
「仲のいい友だち」って、誰のことだろう?
亜紀は、考え込んでいたが、
「お母さん。私、心配だから行ってくるわ」
と顔を上げた。
「そうね。じゃ、お母さんも行くわ」
用心に越したことはない。大丈夫とは思うが、二人は一緒に出ることにした。
バスが二人のそばを通って行く。
勤め帰りの人たちとすれ違うと、
「——救急車、来てたね。何なのかしら?」
「浮浪者でも倒れてたんじゃないの?」
という言葉が耳に入ってくる。
亜紀と陽子は顔を見合せた。
バス停が見えて、その少し先に救急車がいた。
警官の姿も見える。
亜紀は不安になって足を速めた。
「——入らないで」
と、警官に止められて、
「あの——何かあったんでしょうか」
と、亜紀は訊《き》いた。
陽子が急いで、
「この子の友だちが家へ帰ってないというので、心配なんです」
と、付け加えた。
「どんな子ですか?」
と、警官が訊く。
「男の人です。大学生の」
「大学生。——ちょっと待って」
警官が一《いつ》旦《たん》公園の中へ入って行くと、すぐ戻ってきた。「——ついて来て下さい」
亜紀と陽子は、その小さな公園へと入って行った。
まさか……。いくら何でも……。
亜紀は、正直なところ馬鹿らしいくらいの気持だった。きっと偶然だ。
「——恋人同士でここへ入った若いのが、植込みの奥に人が倒れてるのを見付けて、通報したんです」
と、警官が言った。「今、病院へ運ぶところですがね、あちこちひどく殴られていて、内出血もあるし、内臓がやられてないといいんだが」
担架を抱えた救急隊員が、
「ちょっと失礼」
と、公園の奥へ入って行く。
「ここで待って。運ばれるとき、顔を見て下さい」
亜紀は黙って肯《うなず》いた。
「亜紀……」
「まさか健郎さん……。そんなひどいことって、ないよね」
「そうと決ったわけじゃないんだから」
陽子が、亜紀の肩に手をかけて言った。
ほんの二、三分だったろうが、その間が何時間にも感じられた。
ガサガサと音がして、植込みの奥から、担架に乗せられたけが人が運び出されてくる。
亜紀は震える手を握り合せた。
良かった!
——担架で運ばれて来た男を見たとき、亜紀は一瞬ホッとした。健郎さんじゃないわ。
しかし——すぐに気付いた。着ているものに見《み》憶《おぼ》えがある。
そして、他人と見えたその顔は、殴られ、はれ上って、目の周りが赤黒くあざになっているのだと知った。
亜紀は、突然力が抜けて、その場にうずくまってしまった。陽子はびっくりして、
「亜紀! 大丈夫? ——亜紀」
と、支えて立たせる。「今の人……」
「ミカのお兄さんだ! ——どうしよう! どうしよう……」
亜紀は母に抱きついて泣き出した。
救急車に健郎が運び込まれて、サイレンの音を響かせながら走り去る。
亜紀は、肩を震わせて泣き続けていた。
いつの間にか、雨が降り出している。
「亜紀……。家へ帰りましょう。ね?」
陽子に促されて、亜紀はふらつく足を踏みしめて歩き出す。たちまち全身、びしょ濡《ぬ》れになった。
「——待って下さい」
と、警官が呼び止める。「知り合いの人でしたか」
「ええ……」
「では、お話を伺いたいんですが。これは傷害事件ですから。被害者のお宅へも連絡しなくちゃなりません」
陽子も、納得して肯いた。
「分りました。ただ——娘は今、気が動転していて……」
「当然でしょうね。パトカーでお宅へ送ります。濡れて帰るには寒いですよ」
その言葉に、陽子は甘えることにした。
——一《いつ》旦《たん》、家へ戻った後、陽子と亜紀は熱いシャワーを浴びて、着替えをした。
「——病院が分りました」
と、警官がメモをくれた。
「すぐ行きたいんですけど」
と、亜紀は言った。「話はその途中でも?」
「でも、亜紀……。もう、松井さんのお宅へも連絡が行ってるのよ」
「私のせいよ! 行かなくちゃ」
思い詰めた表情だ。陽子にも、亜紀の気持は分った。
警官も了解してくれて、パトカーで病院へ連れて行ってもらえることになった。
そのパトカーの中で、陽子は事情を説明した。
「——ひどいことをする奴《やつ》だ」
と、その中年の警官は言った。「あまり自分を責めちゃいけませんよ。そんな暴力を振るう奴が悪いんだ」
「はい」
亜紀は肯いたが、そう割り切ることはできなかった。