スーパーで買物をした陽子は、一《いつ》旦《たん》家へ帰って、冷蔵庫へ入れなければならない物を入れ、整理した。
その間、円城寺は「運転手」になって、家の前で待っていてくれたのである。
陽子は、茂也の所へ持って行く果物やお菓子を袋へ入れ、急いで外へ出た。
「お待たせして——」
と言いかけて、口をつぐむ。
「ああ、その倍の値でも買う所がある、と言ってやれ」
円城寺は車の電話を使っていた。「——ああ、任せるから頼むぞ。——いや、俺《おれ》の方からまたかける」
円城寺は電話を切ると、車から出て来て、
「失礼しました。さあ、病院へ行きましょう」
と、ドアを開ける。
陽子はためらった。
「でも……。やっぱりとんでもないことだわ」
「どうしたんです?」
「いけないわ。あなたにはお仕事があるのに」
陽子は、円城寺を見て、「もう、会社へ行かれて下さい。私なら大丈夫」
「だめですよ。今日はもうあなたのものなんだ。さあ、乗って」
「でも——」
「人は誰かを必要とするときは、素直にそう言うべきです」
陽子は、フッと肩の力を抜いて、
「分りました。それじゃ……」
と、肯《うなず》いた。
車が病院へ向う間に、やっと陽子は夫が消えた事情を説明した。
「それで、どうしてもご連絡できなかったんです。すみません」
「そんなことはいい。しかし、ご主人も思い切ったことをされたものだ」
と、円城寺は言った。
「それに、主人が会っていたという、C生命の浅香八重子という女のことも心配です。伊東さんが調べてもらったところでは、その女はゆすりたかりの常習犯だそうです」
陽子は、ため息をついて、「主人はその女に借金でもしていたんじゃないかと……。一体何に使ったお金か分りませんけど」
「そういう手合が出てくると、素人の手には負えない。いいですか。決して無茶をしないで下さい。僕もできるだけのことはします」
と、円城寺は言った。
「それと——」
「何です?」
陽子はためらった。そして、結局、
「いえ、別に……」
と言ってしまった。
円城寺のことを、娘が知っている。そのことが、どうしても話せなかった。
そのことを口にしたら、円城寺との間は終ってしまうだろう。
そう思うと、陽子には言えなかった。正巳が自分を捨てて行ってしまった今、円城寺を失うことはいっそう怖かった……。
「——ありがとう」
車で茂也の病院まで送ってもらった陽子は、「まだ……お時間はあるんですか?」
と訊《き》いた。
「ゆっくりしてらして、大丈夫ですよ」
円城寺の言葉に、陽子は黙って肯いた。
もちろん、何時間も待たせるつもりはない。陽子は病院の中へ入りかけて、足早に車へ駆け戻ると、
「すぐ戻ります」
と言った。「——じきに。待ってて下さい!」
病室へと急ぐ。いや、普通に歩いているつもりだが、つい足どりは速くなっているのだった。
「——あ、奥さん」
廊下で、藤川ゆかりと出会った。「心配してらしたんですよ。大丈夫ですか?」
「ええ……」
陽子は曖《あい》昧《まい》に肯いて、「あの——義《ち》父《ち》はどうです?」
「ええ、少しずつですけど、具合は良くなってます。食べる物の管理は私がやりますから」
「ありがとうございます」
陽子は頭を下げ、「この後、出かけないといけないので……。置いていくものがあるので、それを置いて失礼します」
「分りました。私、ちょっと買物に行って来ます。一人でいらしても、もう大丈夫ですわ」
と、ゆかりは言った。
「どうかよろしく」
陽子としては、まだ正巳のことを茂也に話す気にはなれなかった。もちろん、茂也にもショックだろうし、せっかく快方に向っている病状がそのせいで悪化するようなことがあっては、と思う。
——病室へ入って行くと、茂也はTVを見ていた。
「お義《と》父《う》さん、お元気そうですね」
と、明るく声をかけ、「伺えなくてすみませんでした」
「やあ、もういいのかね」
茂也はリモコンでTVを消した。
「ご覧になってていいんですよ」
「面白いわけじゃない。時間潰《つぶ》しさ」
と、茂也は欠伸《あくび》をした。「——ま、人間ってのは、こうも他人の不幸を面白がるもんなのかね」
陽子は、冷蔵庫へ入れるものをしまって、
「ワイドショーですか?」
と、言った。
「美しい話、感動するような話はさっぱり出て来ん。誰が離婚しただの、浮気しただの……。こんなものが面白いかね」
茂也は首を振って言った。「——ああ、すまんね。忙しいんじゃないのかい」
陽子は、ベッドのそばの椅《い》子《す》にかけた。
本当はすぐにも円城寺の車へ戻りたい。でも、そうもいかなかった。
いなくなってしまった夫の代りに、少しは茂也の相手をしなければ、という気持がある。
「お義父さん、ずいぶんやさしくなられて。——好きな方ができたからですか?」
「前は、意地悪だったかね」
「多少は」
と言って笑う。
茂也も一緒に笑った。——笑顔が明るい。入院中の病人とは思えないほどだ。
「頑固ってのもいいもんだと思っていた」
と、茂也は言った。「人間、年《と》齢《し》をとりゃ自然頑固になる、と。——しかし、そうなるかならないかは、人間次第だな。入院してみてよく分った。——なあ、陽子さん」
「はい」
「人間たまにゃ病気してみるもんだ。人にやさしくされることがどんなに嬉《うれ》しいか、身にしみるからね」
「そうですね」
「今度はこっちもやさしくしようと……。その内忘れちまうかもしれんが、少なくとも一度そう思っただけでも、人生が変るよ。そう思わんかね」
「ええ、本当に」
「正巳の奴《やつ》、大病したということがないからな」
夫の名が出て、陽子はドキッとした。
「寝込まれても困りますし」
「確かにね。しかし、正巳はあんたにやさしいかね」
陽子は、どう答えたものか、ためらった。——むろん、ここは嘘《うそ》をついておくしかないのだが。すぐには言葉が出て来ない。
「いや、無理に答えんでくれ」
と、茂也は言った。「正巳も、少し人のやさしさのありがたみを知った方がいい」
「やさしい人ですわ、あの人は」
と、陽子は言った。「やさし過ぎるくらいに」
だから、円谷沙恵子と手に手を取って逃げてしまったのだろう。放っておけなかったのだ。
陽子には、やさしさのあまり身動きが取れなくなって、その結果とんでもないことをしでかしてしまう正巳の気持が良く分った。
誰にでもやさしくする。——そんなことは不可能なのに、正巳にはそこがよく分っていないのである。
結局、陽子は茂也の病室に三十分近くもいることになった。
外に円城寺を待たせていることを、忘れたわけではない。早く戻らねば、とも思った。
しかし、しみじみと語りかけてくる茂也の話を、どうしても遮ってしまうことができなかったのである。
「——やあ、ずいぶん引き止めてしまった」
と、茂也の方で気が付いて、「さ、もう行ってくれ」
「はい」
陽子は立ち上った。「また来ます」
「うん。正巳の奴にも、たまにゃ来いと言ってくれ。尻《しり》を叩《たた》かんと動かない奴だからな」
と、茂也は笑って言った。
——病室を出て、玄関の方へ急ぎながら、陽子は胸の痛むのを覚えた。
正巳が家を出てしまったことを、どう話したらいいだろう? 茂也にとって、どんなに大きなショックかと思うと、迷わないわけにいかなかった。
正面玄関を出ると、ちょうど藤川ゆかりが買物から戻って来た。
「あら、今までいて下さったんですか」
と、ゆかりは言った。
「ちょうど失礼するところで。——また来ますので、よろしく」
と、陽子は頭を下げた。
「はい、ご心配なく」
と、ゆかりは言って、「あの——奥さん」
「は?」
「こんなこと、差し出がましいようですけど……。何か心配ごとでも?」
「——どうしてです」
「お顔に、疲れが見えて。間違いでしたら許して下さいな」
陽子は、ゆかりの言い方に、心から気づかってくれるやさしさを感じた。
陽子は、一瞬自分の方が年上なのに、ゆかりがずっと年輩のように感じて、
「ありがとう。——いろいろあるんです、私の所も」
「どこでもですよ。何かお力になれることがあったら、いつでもおっしゃって下さいね」
ゆかりは、押し付けがましく言わずに、軽く会釈していく。
陽子は少し明るい気分になって、待っている円城寺の車へと急いだ。
「——すみません、遅くなって」
と、詫《わ》びながら車へ乗り込むと、
「気をつかわなくても大丈夫ですよ」
と、円城寺は微《ほほ》笑《え》んだ。「——これからどうします?」
陽子はためらった。
急いで出て来ようとしていたのは、円城寺と二人で過すためではなかったか。
しかし、ふしぎに今の陽子は落ちついていた。夫を失ったショックから、立ち直っていた。
「お時間は、あるんですの?」
と、陽子は訊《き》いた。
「もちろん」
と、円城寺が肯《うなず》く。
陽子は、切羽詰った状態からは立ち直っていたが、それは却《かえ》ってこだわりを捨てさせることにもなった。
これ以上待つことはない。これ以上、この人を待たせるべきでもない。——そう思った。
「——シーツもあります?」
と、陽子は訊いて、円城寺と一緒に笑った。
車が走り出すと、陽子は少しゆったりと助手席のリクライニングを倒した。
そして、何も言わずにいた。何も言うことがなかったのかもしれない。
カチャリと鍵《かぎ》が回って、
「——どうぞ」
と、円城寺は陽子を先に入れた。
「お邪魔します……」
と、少し冗談めかして言うほどの余裕さえあった。
「少し……休みますか」
円城寺の声がややこわばった感じだ。
「いいえ。どうせ、そう長くいられるわけでもないんですもの」
と、陽子は言った。「時間をむだにしないようにしましょう」
「それじゃ……」
円城寺が陽子の肩を抱く。
「抱き上げなくていいわ。ぎっくり腰になったら大変」
二人は寝室へ入って行った。
ちゃんとベッドはメークしてあり、カーテンも引かれていた。たぶん、今日陽子の所へ来る前にここへ寄ったのだろう。
「——誰も邪魔はしませんよ」
円城寺は上着を脱いだ。「携帯電話も切ってある」
陽子は、円城寺の腕に抱かれて一《いつ》旦《たん》息をつくと、
「——服がしわになるわ。明り、暗くして下さる?」
円城寺が調光機をいじって薄暗くする。
とたんに、そこは二人だけの世界になった。
陽子は、鏡台の椅《い》子《す》のそばへ行って、服を脱ぎ始めた。もうためらうことはない。大人同士なのだ。
陽子は、夫のことも、夫がいなくなったことさえ忘れられたような気がしていた。ただ円城寺が好きだから寝るのだ。それに何の理屈がいるだろう。
肩に円城寺の唇が触れる。その感触は懐しいようだった。
「待って。今——」
と、言いかけたときだ。
部屋のチャイムが鳴った。二人は、一瞬凍りついたように動かなかった。
円城寺が、
「間違いだ。きっと他の部屋と間違えてるんだ」
と言って、大《おお》股《また》に寝室から出て行くと、陽子はほとんど無意識の内に服を着ていた。
何か、予感のようなものがあったのだ。
「——はい」
と、円城寺がインタホンに出て、「——お前、どうしたんだ? どうしてこんな所へ……」
愕《がく》然《ぜん》としている。振り向いた円城寺と目が合って、陽子には分った。
奥様? ——声を出さずに、口の動きだけで、そう言った。円城寺が黙って肯く。
もう、陽子は服をほとんど着終えていた。
「——いや、構わないさ。——ああ、上って来い。部屋、分るな」
陽子はバッグをつかんで、玄関へ出た。
「陽子さん——」
と、円城寺が追いかけるように出て来る。
「行きます。上って来られるんでしょ」
「どうしてここを知ってたのか……」
「階段で下ります」
陽子は急いで部屋を出た。
「階段は左です」
と、円城寺も廊下へ出て、「電話します! また——」
陽子は階段へと急いだ。今、円城寺の妻がエレベーターで上って来ているのだ。
階段を下りかけたとき、エレベーターの停る、チーンという音が廊下に響いた。陽子は足を止めた。
「——ここだ」
と、円城寺が言った。「びっくりしたぞ。少し眠ろうとしてるとこだった」
「ごめんなさい。一度、ここを見たかったの」
と、その人の声が聞こえてくる。
「さ、入って。急にやって来て——」
ドアが閉る。
陽子は息をつくと、そっと階段を下りて行った。
一階まで下りて、何だかやっと夢からさめたような気がする。——偶然であるはずがない。
円城寺の妻は、知っていたのだ。知っていて、今、やって来たのだ。
知られていない、と信じる方が愚かだった。円城寺の楽天的な言葉に、つい安心してしまっていた。
——マンションから外へ出ると、夕暮が近付いていた。
家へ……。家へ帰ろう。
タクシーを停めて、乗る。ぜいたくかもしれないが、今は疲れていた。
行く先を告げると、陽子は目を閉じた。
今になって、心臓が鼓動を速める。——円城寺と妻が、今どんな話をしているのだろう、と考えると、胸はしめつけられるように痛んだ。