陽子が手早く支度をして、
「じゃ、出かけるわ」
と、亜紀に声をかけるまで、三十分もかからなかった。「新幹線だから、行って適当に乗ってから、切符を買うわ」
「そうだね」
「じゃ——ごめんね、亜紀」
「私は大丈夫」
陽子は、玄関のドアを開けようとして、
「——亜紀。やっぱりあんた一人じゃ心配。あの方——君原さんって方に来てもらったら?」
「え? だって……」
「何かあれば言ってくれ、とおっしゃってたじゃないの」
「そりゃそうだけど——」
「泊っていただけばいいわよ。あの人なら大丈夫」
「信用あるんだ。聞いたら照れるよ、きっと」
と、亜紀は笑った。「分った。連絡してそう頼むから」
「そうして。お母さんも、その方が安心して出かけられるから」
陽子は、ホッとした様子で出かけて行った。
「お母さん、変ったな……」
と、きちんと鍵《かぎ》をかけて、亜紀は呟《つぶや》いた。
適当に列車に乗ってから、切符を買う、だなんて。以前の母なら絶対に考えられない。
ちゃんとどの列車に乗るか決めて、前もって切符を買っておかなければ気がすまなかったろう。でも、今は違う。
何とかなる。——そう考えるだけの逞《たくま》しさが身についたようだった。
「君原さん……」
どうしよう? もちろん、一人でいるのは心細くもあるけれど。
一応電話してみよう。君原の声を聞くだけでもいい。
「——もしもし」
かけると、眠そうな声が返って来た。
「君原さん? 亜紀です。寝てたの? ごめんなさい」
「やあ! 君の声で目が覚めたよ」
と、君原は急に元気になって、「こっちからも連絡しようと思ってたんだ」
「あの、君原さん——。今夜、私一人なの」
「何だって? どうして! 危ないじゃないか。よし、僕が行く!」
「いいの?」
「もちろん! でも——君はいいの?」
と、君原が急に心配そうな声になる。
「うん! お母さんが、君原さんに来てもらいなさいって」
「そうか。——嬉《うれ》しいな、それは」
と君原は言った。
「君原さん、私に連絡することって何だったの?」
と、亜紀は訊《き》いた。
「お父さんのことだ」
と、君原は言った。「大阪での居場所の見当がついたよ」
「え?」
「女の働いてるコンビニが分ったんだ。後は女がどこに住んでるか、突き止めれば——」
「もしもし、君原さん」
と、亜紀は言った。「お父さん、入院してるらしいの」
「何だって?」
亜紀が、落合からメモをもらったこと、そして母がその病院へと出かけたことを説明すると、
「分った。ともかくすぐ出て君の所へ行くよ。いいね? 用心するんだよ」
「はい。ありがとう」
亜紀は、電話を切った。
君原の方で調べてくれた結果でも、父は間違いなく大阪にいるらしい。すると、やはり入院しているのは事実なのだろう。
母は会えるだろうか? もし会ったとして、どうなるのだろう。
——亜紀は、初めてそのことを考えた。
母は、父を連れ戻しに行ったのだろうか。でも、今さら帰って来たとして、父に何ができるだろう?
仕方ない。——今は、母の気持が第一である。
君原がいつ来るかと待っていると——玄関のチャイムが鳴った。
いくら何でも、君原にしては早すぎる。
亜紀は用心して、そっと玄関の方へ出て行った。足音をたてないようにする。
チャイムがくり返し鳴った。
亜紀は、しばらく様子をうかがっていたが、サンダルをはいてドアの方へ近付いた。
「奥さん」
と、男の声がした。「円城寺です。奥さん、おいでですか」
円城寺! 亜紀はびっくりした。
一応チェーンをしたまま覗《のぞ》いて、
「あの……」
「娘さんだね」
と、背広姿の円城寺が立っていた。
「はい、亜紀です」
「僕は円城寺といって——」
「知ってます」
と亜紀は肯《うなず》いた。「待って下さい」
チェーンを外して、円城寺を中へ入れる。
「こんな時間にすまない」
「いえ、まだそんなに遅くも……。母、出かけてしまったんです」
「お出かけ?」
「大阪へ。父を捜しに」
円城寺は驚いた様子を見せたが、亜紀の話を聞くと、納得したようだった。
「そうか。——お父さんの病気が大したことないといいがね」
と、円城寺は言った。「ところで、君、家内と会ったことがあるね」
亜紀は、肯いた。
「はい。ここへやって来られました」
「そうか。——もしかして、今日も来なかった?」
円城寺の表情は真剣そのものだ。
「ええ、みえました」
「やっぱりそうか。それで、どんな話をした?」
「私が、父の出て行った事情とか、お話ししたんです。学校をやめるかもしれないと言ったら、『絶対にやめないで』とおっしゃって……」
と、亜紀は言った。「で、ご自分の方のお話は何もされずに、帰ってしまわれたんです」
円城寺は、居間のソファに浅く腰をかけて亜紀の話を聞いていたが、
「——それで分った」
と、厳しい表情で肯いた。
「何かあったんですか」
「いなくなってしまった」
「——家出?」
「小百合はいつも〈遺書〉を持って歩いている。もともと少しノイローゼ気味でもあったが、気分の変化が大きいんだ。落ち込むと、すぐ死にたいという気分になる」
それは何となく亜紀にも分った。
「子供のようなところのある方ですよね」
「うん。——それで僕が苛《いら》々《いら》することもあった。ヒステリーでも起してくれればいいんだが、小百合はすぐ『悪いのは私』という風になってしまうんだ」
亜紀は、少しためらってから、
「奥さんがそういう方だって分っていて、あなたは、うちのお母さんと……」
「そう言われると一言もない。しかし、僕も疲れて、安らぎたいときがあるんだ。君のおかあさんは、僕にとって『母親』のような人なんだ。——言いわけにはならないがね」
「いいえ。私はまだ十七で、大人の世界を知ってるわけじゃありませんから、責めるつもりはありません。でも今は奥さんのことを第一に考えないと」
「そうなんだ」
円城寺はため息をついて、「——さっき、小百合から電話があって、『私がいなくなれば、あなたは幸せになれるわ』と言って切った」
「それって——」
「君から、お父さんが出て行ったと聞いて、きっとそう思ったんだ」
「じゃ、本当に死ぬつもりですか?」
亜紀はびっくりして腰を浮かした。
円城寺は眉《まゆ》を寄せて、
「どこを捜せばいいか、見当もつかない。——だが、ともかく何とか見付けないと。手遅れにならない内に」
「何かお手伝いできることは?」
と、亜紀は言った。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。亜紀が急いで出てみると、君原がコンビニの袋をさげて立っている。
「二人で食べようと思って買って来た」
と、明るく君原は言って、「——お客さん?」
「ともかく上って」
君原を居間へ連れて入ると、亜紀は手短かに事情を説明した。
「——すると、君が最後にその小百合さんと別れたのは、このすぐ近くだね」
と、君原は言った。
「ええ。それからどこへ行ったかは分らないけど」
「何か心当りはないんですか」
と、君原は親身になって心配している。
「どうも……。そう知らない場所へ出かける奴《やつ》じゃないんですが」
と、円城寺は恐縮して、「申しわけない、余計な心配を」
「とんでもない! 人の命に係《かかわ》ることで、『余計な』心配なんてありませんよ」
と、君原は強い口調で言った。「——どうでしょう。ここは川が近い。あの土手の道は、ずっと夜景が広がって、一人になりたいときには最適です」
「なるほど。——行ってみます。亜紀君、もし家内から電話でも入ることがあったら、この番号に」
と、円城寺はメモを渡し、「僕の携帯電話だから」
亜紀は、思わず、
「忘れてた!」
と叫んだ。「奥さん、携帯電話を持ってるんですよ!」
「小百合が?」
「私と連絡をとり合うのに便利だから、って買われたんです。番号、控えてあります!」
亜紀は飛んで行って手帳を取って来た。
「——これか。よし、かけてみよう」
「つながるといいけど」
と、亜紀は円城寺が自分の携帯電話のボタンを押すのを見ていた。
「——つながった!」
と、円城寺は言った。「——出ないな」
「呼んでるんですか?」
「うん。しかし——」
と言いかけて、「もしもし! ——小百合。小百合か?」
亜紀も思わずそばへ行って耳を寄せた。
「どこにいるんだ? 小百合、聞いてくれ」
円城寺が強い口調で言った。
「あなた?」
と、当惑した声が言った。
「小百合! 今、亜紀君の所だ。亜紀君が君のこの携帯電話の番号を教えてくれたんだよ」
と、円城寺は言った。「今、どこにいるんだ?」
「あなた……。一人にしておいて、お願い」
と、小百合が言った。
「待ってくれ。切らないでくれ」
円城寺は必死で言った。「——小百合、聞いてるか?」
「ええ……」
「僕に文句を言いたいことがあれば、いくらでも言ってくれ。君の思ってること、怒ってることを、何でも言ってほしいんだ」
「怒るなんて……。私は、あなたの妻として、何も役に立ってないわ」
「何を言ってるんだ。君は君としていてくれるだけでいいんだよ」
「そう言ってくれるのは嬉《うれ》しいけど……。でも、やっぱり私はあなたを不幸にしてるわ」
そばで耳を傾けていた亜紀は、小百合の声の向うに、ゴーッという音を聞いた。
君原の方を見ると、ちゃんと気付いているようで、メモ用紙に、〈電車が鉄橋を渡ってる音だ〉と書いた。
そうか。やっぱり、あの人、川べりの土手の辺りにいる。
亜紀は、君原と二人で玄関へと出た。
「行ってみよう。君、顔、分るだろ?」
「ええ、もちろん」
「よし!」
円城寺は話を続けている。
亜紀と君原は、家を出ると土手へと駆け出した。
夜の川《かわ》面《も》を渡った風がひんやりと冷たく、二人が車道を渡って土手へ石段を上って行くと、遠い夜景が広がった。
「——だけど、どの辺だろう?」
「広すぎるわね」
「暗いしな。よし、ともかくこの道を線路の方へ辿《たど》ってみよう。その内、目も慣れてくる」
君原は、いつもながらの行動力で、亜紀を感心させた。
亜紀なら、しばらく途方にくれてしまうだろう。君原は「まずやってみる」のだ。
「——風が寒い」
と、亜紀が首をすぼめる。
「大丈夫か?」
「うん。早く見付けないと」
二人は、土手を見下ろしながら、歩いて行った。
「君のお母さん、本当にあの男と……」
「たぶんね。でも、本当のところは知らない」
と、亜紀は首を振った。
亜紀と君原は土手の道を歩いて行った。
円城寺小百合の姿がどこかに見えないかと土手から川へ向って下る斜面をしっかり見ている。
「私……何だか、もうどっちでもいいって気がして来たの」
と、亜紀は言った。
「どっちでも、って?」
「お母さんがあの円城寺って人と浮気したかどうか。——気になるけど、それが私の人生を変えちゃうわけじゃないんだし」
「なるほど」
「お父さんのことだって、そりゃあ腹が立つわよ。無責任だ、って怒ってやりたい。でも、やっぱりそれって、お父さんの人生の中の出来事なんだよね」
と、亜紀は言った。「お父さんもお母さんも、きっと寂しいときがあったと思うんだ。私も——今、お父さんがいない家で寝ててフッと目が覚めることがあるの。お母さんはいてくれても、赤ん坊じゃないんだから、いちいち起すわけにいかないし……」
「うん。——分るよ」
「ね? そんなとき、誰か一緒にいてくれる人がいたらいいな、って思うの。お父さんやお母さんにも、きっとそんな夜があったんだと思う。二人そろってても、一人が眠ってたら、もう一人は一人ぼっちと同じだものね……」
亜紀は、そう言って、「しゃべってばかりじゃ、見付けられないね」
「いや、ちゃんと見てるよ。僕は目がいいんだ」
と、君原が言った。「他にあんまりいいところがないんだけどね」
亜紀は、それを聞いて笑った。
「——あそこ」
「え?」
「何か白いものが見えないか?」
そう。確かに白いものが動いてる。ほとんど斜面を下り切った、川の少し手前。
「人だね」
と、亜紀は言った。「小百合さんかなあ」
「行ってみよう」
君原は、土手の道から斜面へと下りた。「君はそこにいた方がいいよ」
「私も行く!」
亜紀も斜面を下り始めたが、思いがけず苦労する。「気を付けろよ。——弾みがついて落ちたら、川の中だぞ」
「うん……」
正直、道で待ってりゃ良かったと思ったが、もう遅い。
近付くと、その白いものが、人に違いないと分って来た。
目が慣れて来たせいもあるのだろう、亜紀は、それが確かに円城寺小百合だと見分けた。
「あの人だ」
と、亜紀は言った。「——奥さん! 円城寺さん!」
思い切り声を張り上げると、小百合がハッとして振り向く。
「私、亜紀です! 待って! じっとしてて下さいね!」
亜紀は、大声を出しながら、斜面を下りて行った。そのせいで、つい足もとを見ていなかったのか、それとも焦って急いだのかもしれない。
バランスを失った。
アッ、と思ったときには転んでいた。
「君原さん!」
と一声出すのが精一杯。
弾みがついて、亜紀の体はボールみたいにコロコロと転って、止めようとする間もなく、立っている小百合のわきを通り過ぎて、川の中へ——。
体が宙に浮いた。
もうだめだ! 溺《おぼ》れ死ぬんだわ!
そう一瞬、思った。そのとたん——ドスン、と亜紀の体は砂利の上に叩《たた》きつけられていた。
「痛い……。痛いじゃないよ!」
と、怒ってみたが……。
「亜紀君!」
君原の声が頭上から聞こえた。「今助けに行くぞ!」
亜紀はあわてて、
「ここ、川じゃないよ!」
と叫んだ。「ここは砂利!」
だが、もし聞こえていたとしても、遅すぎただろう。 君原は溺れようとする恋人を助けようと、夢中で飛び込んだのである。——砂利の上に。
「——亜紀さん?」
と、小百合が上から呼んだ。
「はい! 大丈夫です。ここまで水は来てないんです」
と、答える。
「まあ……。それじゃ——」
「君原さん、気絶しちゃったんで……。ご主人、呼んで下さい。私じゃ、かついで上れない」
「え、ええ……。待っててね」
と、小百合もあわてている。
そこへ、
「小百合! 小百合か?」
土手の道からだ、円城寺が呼びかけているのだ。
「あなた! 亜紀さんたちが落ちたの!」
小百合の言い方も悪かった。
円城寺も、亜紀が「川へ落ちた」と思って、駆け下りようとした。で——バランスを失い、結局、小百合以外の三人はみんな下の砂利の河原に落っこちたのだった……。