「じゃあ、殺されるのは、あいつでいいんだな」
「そうだな。他にしようがないだろう」
二人の男の対話は、ごく普通の声で交わされていた。
ホテルのコーヒーラウンジは、適当ににぎやかだったが、その会話を埋れさせるほどやかましくはなかったのである。
「どうせ売れてないしね。仕方ない」
と、一人が肯《うなず》きつつ、言った。「殺されるだけでもありがたく思わなくちゃな」
「そうそう。——じゃ、永田エリで決り、と」
「さて、次は、と……」
話が途切れた。
その二人の男の席と、観葉植物の鉢で遮られた席に、一人の女子大生が座っていた。——伊沢啓子という。
今、伊沢啓子は、口もとまで持って行ったコーヒーカップを、ストップモーションの画面よろしく、じっと持ったまま、動かなかった。
当然だろう。すぐ隣の席で、「人殺し」の話を始められたら……。
伊沢啓子は、耳を疑っていた。まさか、本当に「人殺し」の話をしてるわけじゃあるまい。
でも、聞き間違いではなかった。確かに、その二人は「人殺し」の話をしていたのだ……。
「水島雄太か」
と、一人が挙げた名前には、聞き憶えがあった。
「悪くないな」
「まあ、しようがないだろ。他に適当な奴《やつ》はいないし」
「もうちょっとネームバリューがほしい、って気がしないか?」
「それを言い出しゃ、きりがないよ。それに水島は悪くない」
「うん……。ま、そこそこか」
「ギャラの関係もあるしな」
——何だ。
伊沢啓子は、ホッと息をつくと、同時におかしくなって、笑い出しかけた。
水島雄太は、啓子も時々見に行く、小さな劇団の中堅俳優である。もう四十近いだろう。
地味で、いい役者だ(と、啓子は思う)が、TVなどに出ると、たいてい刑事物の犯人役とか、殺され役。どうせ当人にとってもアルバイトなのだろうとは思うが、もう少し、ちゃんとした役をやらせたいと思うこともある。
水島雄太。ギャラ。
何のことはない。隣の男たちの話しているのは、劇かTVか、要するに役柄として、「殺す役」、「殺される役」のことにすぎないのだ。
そりゃそうよね、と内心、呟《つぶや》く。——まさか、本当の殺人の相談を、こんなところでするわけがない。
ああ、びっくりした。——一瞬ドキドキした自分に腹が立った。
腕時計を見る。約束の時間を、十五分すぎている。
珍しいわね。
遅れてくるなんて、あの人が。
啓子は、コーヒーを半分くらい飲んで一息つくと、ハンドバッグから、手帳をとり出した。
今日の約束を見る。時間を確かめているわけではない。そんなもの、頭にしっかり入っているのだから。
ただ、その予定欄に、〈京介 4・00〉という記述があるのを、眺めたかったのである。〈京介〉という字は、三回書き直してあった。
気に入らなかったのだ。京介当人のことをイメージとして思い浮かべられる文字は、限られているのである。
京介の手帳には、〈啓子〉と書き込んであるのだろうか。
あまり、京介が手帳を出して見ているところを目にしていないが、決して遅れて来ることはない。今日は、それが……。
窓の外へ目をやる。——秋の気配は、ガラス越しに、せかせかと道を行く人々の服装にも、感じられた。少し風は出て来たようだ。
——伊沢啓子は、秋の似合う娘である。
枯葉が時折開いた本のページに、生きたしおりのように飛び込むこともあったりして、それを面白がり、ロマンチックと感じるだけの感受性を持っている。
本の読みすぎで、少し近視になり、時々メガネはかけるが、京介と会うときにはかけていない。なぜか京介は、恋人がメガネをかけていることを嫌うので、デートのときは、かけないのである。
コンタクトは、合わなくて辛《つら》いので、やめている。メガネなしで困るほど、目は悪くなかった。
今も、少し笑いを含んだ細い目には、表の明るい日射しの中、風で揺らぐ木々の梢《こずえ》のなめらかな動きが映っている。
そして——啓子は、人の気配で、顔を上げた。
「何だ」
と、啓子は笑って、「何突っ立ってんのよ?」
塚田京介は、いつもと違って、背広上下にネクタイ、啓子の目には、とてもいい趣味とは言えなかった。でも、そういうことをはっきり言うと、京介はむくれてしまう。
「啓子」
と、塚田京介は、立ったまま、言った。「話があるんだ」
「話?——ともかく座ったら?」
啓子は戸惑っていた。こんな京介は初めてだ。
「座ってられないんだ。これから出かける。——彼女とね」
京介の視線を追って、啓子は、ラウンジの入口に立っている、少し小柄な、明るいスーツの女性に気付いた。
「あの人……」
「婚約したんだ。見合いしてね。もう僕も二三だし、勤め先で紹介された子でね。こうなるとは思ってなかったんだけど、結局……」
京介は肩をすくめて、「隠して、両方と付合うのもいやでね。突然だったけど、こうして……」
「そう」
これは夢なの? 啓子は、冗談でなく、そっと自分の膝《ひざ》をつねってみた。
「じゃ、これでね。——君も、元気で」
「うん」
「じゃあ」
啓子がまだぼんやりしている間に立ち去りたかったのだろう、京介は、急いで行ってしまった。
待っていた「彼女」の腕をとって、さっさと姿を消す。彼女の方へ肯いて見せているのが、啓子の目に入った。
ちゃんと別れて来たよ、大丈夫。
そんなことでも言っているのだろうか。
でも——わざわざ、「彼女」に、他の娘との別れ話の場面を見せるなんて。
別れる。——別れる。
京介と? どうしてこんな……。どうして……。
ウエイトレスが、水を一つ運んで来て、戸惑っている。大方、京介の入って来るのを見て、やって来たのだろう。まさか、そのまま出て行くとは思わなかったのだ。
「あの……おいでですか、こちら?」
と、啓子に、向い合った席を見ながら、訊《き》く。
「ええ」
と、啓子は答えていた。「コーヒーを」
「お持ちしていいでしょうか」
「構いません」
と、啓子は言った。「すぐ戻りますから」
「かしこまりました」
——すぐ戻る?
とんでもないことだ。今の話を聞けば、京介が帰って来ないことぐらい、はっきりしている。
でも、啓子は、頼みたかったのだ。京介のために、何か……。
急に、周囲が寒々とした冬のように感じられて身震いした。
一人になった。一人ぼっちに。
もちろん、まだよく分っていなかったのだ。
京介と別れたということが……。
だって——だって、これまでの一年半は、どういうことなの? あれだけ一緒に歩き、語り、笑い合ったことが、何の意味もないのか。
たった一度のお見合いの相手の方が、京介にとっては、愛する対象だったのか……。
急に寒気がして、体が震えた。——どうしたんだろう? こんなこと……こんなことって……。
「——じゃ、そういうことで」
と、隣の席の男たちの声が、ちゃんと耳に入って来るのが、奇妙だった。
「また、結果を連絡しますよ」
「ああ、待ってるよ。チラシを作る関係もあるしね。——ああ、ここはいいよ、仕事だから」
と、伝票を押える。
「どうも。じゃ、これで」
一人が足早にラウンジを出て行くのを、啓子はちゃんと見ていた。ちゃんとこうして見ていられるのに……。どうして、体の震えが止まらないの?
コーヒーが少し残っている。飲もうとしてカップを取り上げたが、震える手の中から、それは逃げて行ってしまった。
カップが床で砕ける。粉々に。ばらばらになってしまったんだ。私みたいに。
「大丈夫ですか?」
と、声をかけてくれたのは、隣の席で話をしていた男の一人だった。
「あの……すみません……」
その男は、普通の背広姿だったが、胸にこのホテルの名札をつけていた。ホテルの人なのだ。
「いや、構いませんよ。すぐ片付けさせますから。しかし、顔色が良くない。少し横になった方が——」
「いえ……。もう帰りますから。本当にすみません……」
立とうとして、よろけた。
「危い! さ、つかまって」
その男が支えてくれて、啓子はやっと歩き出した。
どうしたのか、自分でも分らなかった。私——私、こんなみっともないことなんて、したことないのに——私。
バッグが手から落ちた。拾おうと手をのばして、啓子は膝をついてしまった。
「しっかりして! さ、つかまるんです」
男の声が、スーッと遠くへ吸い込まれて行くようだった。
ああ、一人になるんだわ、と思った。やっと一人に。これでいい。一人になったら、何がどうなっても、みっともないことなんかないんだから。
一人で……一人で……。
啓子は、そのまま床に崩れるように倒れた……。
もう、ずいぶん前から、目は覚めていたような気がする。
ただ、目は覚めていても体はベッドに横たわったままで、まるで重い石をのせられたかのように、動かない。頭と体が別々に「生きて」いるかのようだった。
ホテルの部屋。——このホテルに、啓子はちょくちょく来ている。でも、客室の中へ入るのは、これが初めてだった。いつも、ラウンジで京介と待ち合わせたり、同じ大学の女の子たちとケーキを食べに入ったり……。
このベッドで、一人で寝ている。
京介とは一年半の付合いだが、まだ一緒に泊ったことはなかった。その点、京介は二つ年上で、もうこの春からは社会人だったが、二人の間では啓子の方が、主導権を取っていたとも言えるだろう。
それが京介には気に入らなかったのだろうか? でも——デートのときだって、文句一つ言ったこともなかったのに。むしろ、啓子が行先や予定を決めてくれないと、不安そうですらあったのだ。
——もう、やめよう。
啓子は、また胸をしめつけられるような痛みと、全身が冷えて行くような感覚の中へ引きずり込まれそうになって、激しく頭を振った。
いくら考えたところで、仕方ない。もう、京介とは終った、終ったのだ。
カチッと音がして、ドアが開いた。
「どうですか、気分は」
入って来たのは、さっきラウンジで啓子を支えてくれた人だった。もう勤務時間でないのか、少しラフなジャケットを着ている。さっきは四十前後かと見えたが、今は三十代半ばという印象。
「すみません」
と、啓子は、つとめて自然に声を出した。
「もう大丈夫です」
「無理しなくてもいいですよ。どうせ空いてる部屋だし。——そろそろ六時になる」
「じゃ……二時間も寝てたんですね」
啓子は、天井を見上げて、深く呼吸した。
「さっきよりずいぶん顔色は良くなったけど、まだ少し青いかな」
と、その男は、ベッドのそばへ来て、「僕はこのホテルの広報にいる佐々木といいます」
「胸のプレート、見ました」
啓子は、小さく肯《うなず》いた。「佐々木耕治さん——でしたっけ」
あんな状態の中で、よく憶えていたものだと自分で感心した。
「そうです」
と、佐々木耕治は笑顔になった。「大学生ですか」
「ええ……。今日は休講で」
と、しなくてもいい言いわけをしている。
「ま、気にしないで休んで下さい。ホテルってとこは、飲みすぎて倒れる人や貧血を起こす人なんか年中ですからね」
「ご迷惑かけて……。もう大丈夫です」
啓子はゆっくり体を起こした。
「大丈夫ですか? 無理しない方が」
「ええ、本当に……」
落ちついて来ていた。体の隅々に、血が通い始めた感じがする。
「あの——ここの部屋の料金は」
佐々木は笑って、
「こういうホテルは〈ご休憩〉ってわけにいきませんのでね。大丈夫、サービスの一つですよ」
「でも……すみません」
と、啓子は素直に好意を受けることにした。
「その代り——」
と、佐々木は言った。
「え?」
「夕食を付合っていただけませんか。僕はもう勤務あけで」
いかにも職業人らしかった笑顔は、今、人なつこい、おだやかなそれに変っていた。ふと、啓子の胸が熱くなった。
「——分りました」
「じゃ、いいんですね?」
「ええ、ただ——」
と、啓子は言った。「お化粧を直す間、外へ出てていただけません?」
啓子の顔には、ごく自然に、笑みが戻って来ていた……。