市原ミキは、夜明け前に目が覚めた。
「——今日[#「今日」に傍点]か」
と、ベッドに起き上って呟《つぶや》く。
いつもの自分のベッドとは違っていても、それくらいで眠れないということはない。——多田信子は、いつも、
「大きな大会の前の晩はほとんど眠れないわ」
と言っているが、本当かどうか。
いや、信子のことだ。正直に言っているのだろう。特にミキに対しては、
「公平でいよう」
とするから、きっと本当のことを言っているのだ。
そういう信子が、ミキは大嫌いなのである。「勝つことより、人間としての成長が大事」とか、「走ることは目的じゃなくて、人生を楽しむ手段の一つ」とか……。
そういう「きれいごと」を聞くと、ミキはゾッとする。——勝つこと。それしかないのだ。
他人を蹴落《けお》としても勝って、有名になる。——人生の楽しみも、人間の成長も、その後、初めてやって来る。
ミキはそう思っていた。
時間を確かめる。——大丈夫、充分に間に合う。
ミキは服を脱ぎ捨てて、バスルームへと入り、シャワーを浴びた。——一旦《いつたん》、マンションに寄って、ウェアやシューズを持たなければならない。
シャワーを浴びていると、何か鳴っているようで、コックをひねってお湯を止めた。電話だ。
きっと中里か、でなければ兄の和樹だ。
バスタオルを取り、体に巻きつけてバスルームを出た。
ベッドのわきの電話を取ると、
「はい。——もしもし?」
と呼びかける。「——もしもし」
「今日は出るのをやめなさい」
「え? よく聞こえない」
「今日は出場しないこと……」
「何ですって?」
遠い、かすれた声で、男か女かも定かでない。
「——誰《だれ》なの?」
「出るのをやめなさい。命が惜しかったら」
と、その声は言った。
「馬鹿《ばか》言わないで」
と、ミキは言った。「いたずらはやめてよ」
プツッと電話が切れて、ツーツーという連続音が聞こえて来た。
「フン」
と、言ってやって(向うに聞こえるわけではないにせよ)、ミキはもう一度バスルームへ戻った。
「気分悪い!」
というわけで、改めてシャワーを浴びる。
一体誰だろう? とかく、目立ってくればそれをねたむ人間が出て来るものだが。
ただ——ふと、気が付いた。——このホテルに泊っていることを、今の電話の人物はどうして知っていたのだろう?
今度はていねいにバスタオルで体を拭《ふ》き、バスローブをはおって出て来ると、また電話が鳴った。ドキッとしたが、出ないわけにもいかない。
「——もしもし」
「やあ、起きてたか」
中里だ。ミキはホッとした。
「昨日はごめん。まさかあんなことになるとは思わなくてね」
「いいわよ。こっちも承知の上だもん。奥さん、どうした?」
「さっさと帰っちまった。よっぽどそこへ行こうかと思ったが、何だかタイミングを外されてね」
「レースの後でもいいわよ」
「優勝祝いか?」
「もちろん!」
と、ミキは言ってのけた。
「迎えに行こうか?」
「信子さんの手前、まずいでしょう。大丈夫。一人で行くわ。スタート地点で会いましょ」
スタートは、ゆうべ信子と会ったグラウンド。ゴールも同じである。その間、コースは町の中のかなり入り組んだ道を辿《たど》って行く。
疲れたランナーは、方向感覚を失って、目の前にゴールがあるのに逆の方へ駆け出してしまったりもする。
普段、四十キロ走っても大丈夫な者でも、本番の緊張や体調によって、そうなることがないとは言えない。
四十二・一九五キロ。——長い長いその道のりの間には、何が起ってもふしぎではない……。
「ミキ、大丈夫か?」
と、中里が言った。
「ええ」
さっきのいたずら電話のことを話しておこうかと思ったが、会ってからでもいい、と思い直した。
「じゃ、もうチェックアウトするから」
と、ミキは言って電話を切った。
「どうだ!」
と、神田聡子が言った。
亜由美は唖然《あぜん》として、三メートルもある横断幕を眺めた。
「これ……いつ、作ったの?」
「ゆうべ、徹夜よ!」
「聡子、すごくヒマ、もしかして?」
「失礼ね。友情の証《あかし》じゃない」
「どこが」
と、亜由美は腕組みをした。「大体ね、よく見なよ、私の名前」
「え?」
聡子は、床に広げた横断幕を見下ろして、「——あ、いけね。〈ガンバレ、唖[#「唖」に傍点]由美!〉になってら」
「あんた、それでも大学生?」
「ワン」
ドン・ファンが面白がっている。
「さあ、ちゃんと朝ご飯食べて」
と、清美が呼びに来た。
「はいはい」
亜由美は欠伸《あくび》しながら下のダイニングへ下りて行ったが、
「おはよう!」
と一斉に声をかけられて、アッという間に目が覚めてしまった。
朝食のテーブルに、父、貞夫だけでなく、殿永刑事の巨体と、谷山までが並んでいたのである。
「今日は、あなたの新しい才能[#「才能」に傍点]を発見することになるかもしれませんな」
と、殿永はニコニコしている。
「せめて、グラウンド出てから棄権するならしてくれよ」
と、谷山が失礼[#「失礼」に傍点]なことを言い出して、亜由美はカチンと来た。
「私が、もし四十二キロ走り切ったら、どうする?」
「感心する」
「それだけ?」
亜由美はむくれて、「『何でも好きなものを買ってやる』くらい、言えないの?」
「何でも好きなものを買ってやる」
と言ったのは、父親の貞夫。
「お父さん、本当?」
「少女アニメに二言《にごん》はない」
と、妙なセリフで決めて、「再放送はあるが」
「約束だよ!」
とは言っても、当人だって、完走できるなんて思っちゃいないのである。
「さ、フルーツもあるわ」
「これがこの世の食べおさめかもしれん、味わって食べるのだぞ」
「お父さん……。私が死にゃいいと思ってるの?」
「いや、そのつもり[#「つもり」に傍点]で食べろということだ。何ごとも命をかけてやれば、道は自《おの》ずと開ける」
「それより、道、間違えないで」
と、聡子が言った。
「いや、きっと塚川さんは最後まで走り切ると思いますな」
と、殿永が言う。「いつもの粘りを見せてくれるでしょう」
「コメントはいいから、食べましょう」
と、亜由美はさっさと自分の分のフルーツを食べ始めた。
どうぜ、数を揃《そろ》えるだけのことだ。気楽な立場である。
「でもね——」
と、聡子が言った。「まさか、マラソン大会で殺人事件はないよね」
「いやなこと言わないで」
と、亜由美は言って、チラッと殿永と目を見交わしたのである。
多田信子は、まだほとんど人影のないグラウンドへ歩み出ると、深呼吸した。
TV中継のためのスタッフが何人か動き回っているが、それだけだ。——天候はまずまずだろう。
雲は出ていたが、晴れてくるという予報だった。
「——早いですね」
という声に、びっくりして振り向く。
「植田さん!」
〈Gスポーツ〉の植田英子である。
「眠れなくて。どうせ苛々《いらいら》してるのなら、と思って、来ちゃったんです」
「私と違って、走るわけじゃないのに」
と、信子は笑って言った。
「今日は、市原さんとの勝負ですね」
「勝てないでしょ。でも、あの人は、絶対に私を負かしてやる、という気持でやって来る。その気負いが、足を引張るかもね」
むろん、信子だって勝ちたい。——特に中里のことがある。
今日、ミキが勝てば、中里は信子を見離すだろう。
「何か作戦は?」
と、英子が訊《き》く。
「精一杯走る。それだけよ」
誰でもそう答える。内心ではあれこれ考えているのだが。
「軽く足をならすわ」
シューズが新しいので、信子はグラウンドを軽く一周した。
英子がそれを眺めていると、
「——ほら、あれが多田信子さんだ」
と、男の声がした。
「あら、加山さん」
「やあ、植田さん。早いね」
加山の靴も〈Gスポーツ〉の特製である。もちろん、長距離と短距離は全く違う。担当者も別にいたが、英子は加山とも気が合った。
加山は、若い女性を連れていた。
「あの……この人、僕の婚約者で、生沢範子《いくさわのりこ》さん」
と言って、加山はポーッと赤くなってしまった。
英子はびっくりした。
「まあ! ——おめでとうございます」
「いやいや……」
と、加山が照れる。
英子が自己紹介し、相手が、
「生沢範子です」
と、きちんと頭を下げる。
「いつからのお付合い? 全然知りませんでした」
「そりゃそうだよ。ゆうべ初めて会ったんだもん」
呆気《あつけ》に取られている英子の方へ、信子が戻って来る。
「——調子いいわ。あ、加山さん、おはよう。——どうしたの?」
信子は、英子の肩を叩《たた》いて、「ね、どうかしたの?」
「あ……。いえ、ちょっと……。ゆうべですって! 信じられます?」
「何のこと?」
と、信子は目をパチクリさせるばかりだった……。