「疲れた……。もうだめだ!」
と、亜由美はベンチに座り込んだ。
「ちょっと! まだ走ってないでしょうが!」
と、聡子がにらむ。
「そんなこと言っても……。大体、寒いのよ、この格好」
「ワンピース着てマラソンやるつもり?」
「そうじゃないけど……」
「走り出しゃ、暑くなるって」
「走ったこともないくせに」
「クゥーン……」
「ああ、びっくりした! ドン・ファン、何してるの?」
「そりゃ、あんたにとっちゃ天国よね。女子の更衣室なんて」
「ワン」
「変なことで張り切るな」
と、亜由美はドン・ファンをにらみつけてやった。
あのS新聞の木下という男が、シューズを用意しておいてくれたのだが、はき慣れないので、これをはくだけでくたびれてしまった。
「聡子、私、お腹《なか》が……」
「痛むの?」
「空《す》いた」
「あのね——」
と、聡子は言いかけて呆《あき》れたように口をつぐんだ。
「あら可愛《かわい》い犬」
と、女子選手が一人、ドン・ファンを見てやって来る。「お利口さんね」
「クゥーン……」
ドン・ファンはここぞとばかり鼻先をその女性の足にこすりつけたりしている。
「あ、多田信子さんだ。そうでしょ?」
と、聡子が気付いて言った。
「ええ。——あなた、初めて? あんまり見かけないみたい」
と、亜由美を見て言う。
「ええ、初めて[#「初めて」に傍点]なんです」
まさか、「走ったことがない」とは思ってもいないだろう。
「そう。大きな大会だって、距離は同じよ。練習のときと同じ気持で走ればいいのよ」
と、多田信子は言った。「じゃ、頑張りましょうね」
「はい、ありがとうございます」
と、亜由美は言って、「——今の人、有名なの?」
と、小声で聡子に訊《き》く。
「うん。亜由美、知らないの?」
「知ってるわけないでしょ。オリンピックの中継だって見ない人なのに」
自慢じゃないが、スポーツには強くない。
「分った」
「何よ?」
「亜由美は、殺人犯に追いかけられれば新記録も出るよ」
そこへ、誰《だれ》かが入って来た。
他にも何人も選手がいたが、その一人[#「一人」に傍点]はどこか違う雰囲気を漂わせている。
「——市原ミキだ」
と、聡子が小声で、「今日、多田信子とトップ争うのよ、きっと」
「へぇ……。私、誰とも争わずにビリになってみせる」
と、亜由美は自信(?)のほどを見せた。
「じゃ、私、行くね」
「ドン・ファンの奴《やつ》、連れてってね。興奮して失神するといけない」
亜由美は、ドン・ファンが渋々《しぶしぶ》(?)聡子について出て行くと、やれやれ、とため息をついた。
とんでもないことになっちゃった。
四十二キロ! ——そりゃ若くて元気かもしれないが、それだけで走れる距離じゃない。
当然、「途中棄権」ということになるだろうが、百メートルや二百メートルじゃ、いくら何でもみっともない。
どのくらい走りゃいいだろう?
「あの……」
と、おずおずと声をかけてくる女性がいた。
「は?」
「塚川亜由美さんですか」
「そうですけど」
「良かった!」
と、その女性はホッとした様子で、「見るからに選手らしくないんで、きっとこの人だなと思って」
「あなたは?」
「生沢範子といいます。同じ身の上[#「身の上」に傍点]で」
「というと——」
「木下さんって、S新聞の方に頼まれて」
亜由美は呆《あき》れて、
「二人も?」
「また一人、欠場する人が出たんですって。それで、加山さんって私の彼氏が木下さんと親しいんで……」
「へえ……。じゃ、あなたも素人《しろうと》?」
「OLです。走るのなんて、小学校の徒競走以来かな」
「でも——さま[#「さま」に傍点]になってますよ」
生沢範子は、スラリと手足が細くて、いかにもランナーらしい体つき。
「でも、速そうに見えて全然だめ、なんて恥ずかしいわ。塚川さんなんか、その点、大丈夫ですよ」
「そうですね」
と、笑ったものの——。
要するに、私は足が短くて太い、ってこと?
深くは考えないことにした。
「仲良く走りましょうね」
と、生沢範子はすっかり亜由美を「仲間」扱いしている。
亜由美は、確かに同じ「不運な仲間」ができたことは嬉《うれ》しかったが……。
もし、この人が私より断然速かったらどうしよう?
亜由美は、ひそかに心配しているのだった……。
「そうですね。二人が互いに刺激し合って、いい記録を出してくれるといいと思います」
と、中里がしめくくると、
「ありがとうございました! ——多田信子、市原ミキの両選手を育てた、中里コーチのお話でした!」
と、グラウンドにいるアナウンサーがカメラに向って微笑《ほほえ》んだ。
中里には、特にすることもなかった。
中里にとっては、気楽である。信子とミキ、どっちが勝っても、コーチとしての功績は中里のものになる。
「中里さん」
と、やって来たのが加山である。
「やあ、来てたのか」
「多田さんを見たいですからね」
加山は、多田信子と親しい。中里はふと思い付いて、
「加山君。——ちょっと来てくれ」
中里は、加山をマスコミの人間たちから離れた場所まで連れて行くと、「相談があるんだが」
「何ですか?」
「これは、僕ら二人だけの話だ。いいかね?」
「怖いですね」
と、加山は笑って、「分りました。いいですよ」
「君、他へ移る気はないか」
中里の言葉に、加山は戸惑ったように、
「どういう意味です?」
「実は、ある大手企業から誘いが来てるんだ。今のK食品が悪いとは言わないが、何といっても企業としては小さい。今度の話のあった所は、施設も完備していて、ぜいたくなもんだ。君も一度見てくるといい」
「K食品を辞めるんですか」
加山は肩をすくめて、「そりゃ、コーチのご自由ですからね」
「いや、移るに当って、選手を連れて行きたいんだ。コーチなんか、専門家は知っていても、一般の人にゃ誰のことやら、さ」
「じゃあ……多田さんも?」
「彼女には言っていない。というより、君が最初さ。君はこれからまだまだ伸びる。どうだい?」
加山は首を振って、
「僕は、走るだけで終りたくないんです。今は、ちゃんと仕事もしてるし、それで練習時間は削られるけど、却《かえ》って走るのが楽しい。——今の環境が、僕には合っています」
「そうか。残念だな」
と、中里は言った。「じゃ、今の話は聞かなかったことにしてくれ」
「分りました」
加山は、中里と別れて、すでに人が集まり始めているスタート地点へと歩いて行った。
「——やあ!」
と、S新聞の木下が大股《おおまた》にやって来る。「さっきは無理言って、すまん!」
「本当ですよ」
と、加山は渋い顔をして、「走ったことなんかないんですからね、彼女は」
「すまんすまん! 今度二人にフランス料理でもおごるよ。勘弁してくれ」
と、両手を合せて大げさに謝る。
憎めない男なのである。
「そんなこといいけど……。早々に脱落しちゃうだろうから、出た辺りで待ってますよ」
と、加山は言った。
が、木下は、他の誰かに目を止めて、
「あれ? ——殿永さんだ」
「え?」
「いや、以前、社会部にいたとき世話になった刑事でね。見かけによらず切れる人なんだ!」
当人が聞いたら、どう思うだろう。
「しかし、なぜあの人が……。何か物騒なことでもあるのかな」
「木下さん! やめて下さいよ。縁起でもない」
「いや、しかしね、あの人が現われるってことは……。誰かライフルを持った狙撃犯《そげきはん》でも潜んでいるのかな」
「面白がらないで下さいよ」
「面白がっちゃいないさ。しかし——ゴール寸前、銃声と共に走者がバタッと倒れて、謎《なぞ》の殺人事件、なんて格好の話題作りになる」
「バーン」
と、加山が指先をピストルのつもりにして、木下を撃った[#「撃った」に傍点]。
合図のピストルが鳴った。
ワーッと選手が一斉にスタート。
一斉に、といっても三十人からの人数である。初めの数人がパッと出て、後は何となくゾロゾロと動き出す。
「じゃ、頑張りましょ」
と、生沢範子が言って、亜由美ともどもおしまいの方からスタート。
「頑張れ、亜由美!」
と、聡子の声が耳に飛び込んで来た。
「死ぬなよ!」
と、谷山。
「ワン」
これは、もちろんドン・ファンである。
「——行け、我が娘よ! 天国から、ハイジのお婆《ばあ》さんがお前を見守っとるぞ」
亜由美は、その「声援」から早く離れたくて、思わず足を速めたのだった……。