「どうぞ」
と、安東が涼子の手に金色のルームキーをのせる。
少し古風な重いキーだが、却《かえ》って重厚な印象の〈ホテルF〉には似合っているかもしれなかった。
「はあ」
涼子は、何とも言いようがなかった。「あの——いいんですか?」
「もちろん。ゆっくり休んでください」
安東は微《ほほ》笑《え》んだ。
「休みすぎて、大学へ行くのを忘れそう」
と、涼子は笑って言った。
「休みますか」
「え?」
「大学です」
「さあ……。どうしてですの?」
「いや——もしあなたがおいやでなければ、明日の昼でもご一緒にと思いまして」
安東がそう言って赤くなるのを、涼子は信じられない気分で見ていた。
——この人、恥ずかしがっている!
涼子の心は乱れた。嘘《うそ》はつけない。確かに、この危険な男に、心の動くのを感じた。
しかし、涼子の中のある部分、たぶん邦也を愛しているという気持が、ブレーキをかけた。
「すっかりご親切にしていただいて……」
と、涼子は言った。「気を悪くされると困るんですけど……。やっぱり学生ですから、私。ちゃんと大学へ行こうと思います」
「そうですか」
安東は肯《うなず》いて、「いや、それがいい。学校をさぼるのは非行の始まりです」
安東がそんなことを言うと何だかおかしい。涼子が笑顔になると、安東もホッとしたように笑った。
「妙なセリフだな、こいつは。——じゃ、これで」
「おやすみなさい」
涼子は、安東が足早にホテルのロビーから出て行くのを見送って、それからルームキーの数字を見ながら、エレベーターの方へと歩き出した。
「——一六階ね」
圧倒されそうな、金色に溢《あふ》れた装飾。エレベーターの中まで、シャンデリアが下がっている。
一六階は何だか特別のフロアらしい。この格好で一人で泊る? 何だかオーバーね。
涼子は、エレベーターを出ると、深々としたカーペットを踏んで歩いて行った。
〈1602〉だわ。ええと……あ、ここだ。
中へ入って、明かりを点《つ》ける。
広々としたリビングルーム。その奥に、さらにドアがあって、そこを開けると、目をみはるような大きなベッドが二つ。
「凄《すご》い……」
涼子は、しばし呆然として突っ立っていたのである。
どんなに恋人のことを思っていても、眠気はやってくる。
いや、邦也の場合には、「妻のことを」と言わなくてはならないわけだが。
涼子のことも心配だが、その一方では早々と東京へやって来てしまった母のことで、邦也の頭は大混乱の状態だった。
しかし、夜中も大分遅い時間になってくると、健康な若者にふさわしく、邦也はウトウトしていたのである。
そこへ、叩《たた》き起すような音で、電話が鳴り出した。
「——もしもし」
と、出たものの、少し舌はもつれ気味。
「こら、目を覚ませ」
と、聞き慣れた声がして……。
「涼子!」
とたんに目が覚めた。「涼子! 君——大丈夫か?」
「え?」
と、向うが面食らっている。「大丈夫って——何が?」
「あ……いや、何でもない」
と、邦也は少し拍子抜けの気分。
あの刑事が見間違えたんだろう。人に心配させて!
「涼子、あの……怒ってる?」
涼子がちょっと笑って、
「怒ってたけど、今はもう忘れた」
と、答えた。
「そうか。——良かった」
「ねえ、邦也。ちょっと遅いけど、今から出て来ない?」
「どこへ? 君、今、どこにいるんだ?」
「当ててみて」
「おい……」
「分るわけないよね。あのね、〈ホテルF〉」
邦也は、自分が夢を見ているのかと思った。
「どこ……だって?」
「〈ホテルF〉。ほら、一度行ってみたいね、って言ってたじゃない」
「うん……。でも……どうしてそんな所にいるんだ?」
「色々あってね。一言じゃ話せないの。ね、スイートルーム。凄い部屋なのよ。来てくれる?」
「今から?」
「あら、いやならいいのよ。私、誰か他の男と泊ろうかな」
「行く! すぐ行く!」
と、言ったものの……。「何号室?」
「〈1602〉。一六階よ」
邦也は、母の言ったルームナンバーのメモを見た。〈1604〉。——冗談じゃないんだろな、これ!
「分った。すぐ行くよ」
と、邦也は言った。「泊るんだろ?」
「当り前でしょ。ともかく凄いの! お風《ふ》呂《ろ》なんか、泳げそうよ」
と、涼子は一人で笑って、「じゃ、起きて待ってるからね」
「うん……」
邦也は、電話を切って——今のが夢でないのを確かめるために、自分の膝《ひざ》をつねってみたりした。
母が、すぐそばの部屋に泊ってる! しかも明日のお昼に行くと約束してしまっているのだ。
どうしよう?
迷っている時間はない。——なるようになるさ、と邦也は急いでホテルへ行く仕度を始めたのだった……。
「TVも大きい!」
と、子供のようにはしゃいで、涼子はリモコンでやたらチャンネルを変えたりした。
ベッドに寝そべって、TVをぼんやり眺めている。いい気分である。
こんなことで機嫌を直してしまうのだから、涼子もやっぱり若いのだ。しかし、もともと本気で怒っていたわけではない。何か仲直りするきっかけがあれば良かったのである。
ポーンポーンと柔らかい音のチャイムが鳴った。涼子はTVを消して、
「邦也?」
まさか! 電話してから十分しかたっていない。——誰だろう?
またチャイムが鳴って、涼子は急いでドアへと歩いて行った。返事をする前に、念のためそっとドアの穴から覗《のぞ》いてみる。
見たことのない、頭の禿《は》げたおじさんが突っ立っていた。
「いるんだろ!」
と、ドア越しに声がした。「なあ。——怒らんでくれよ、伸子さん。ありゃ酒のせいだ。分るだろ? 何も妙な下心があったわけじゃない。頼むからドアを開けてくれよ!」
人違いしてる。涼子は、チェーンをかけたまま、ドアを細く開いた。
「伸子さん——」
「あの、部屋をお間違えじゃ?」
「へ?」
相手は目を丸くすると、「ここは〈1604〉……」
「〈1602〉です」
「や! こりゃ失礼! すみませんでした」
大の男が真赤になって、あわてて行ってしまう。涼子は、笑いを噛《か》み殺した。
伸子さん、か。——大方、酔って、「伸子さん」に何かしたんだわ。それとも、何かしようとしたか。
どっちにしても、伸子さんという人にこっぴどく拒まれて、酔いをさましていたというところだろう。——男なんて似たようなもんよね。
邦也が来たら、せっかくだから、二人で夜食でもとって……。たぶん「仲直りに」と、あの大きなベッドを活用することになるだろう。
明日は大学、さぼるかな。——安東さんには悪いけど。そう考えて、涼子はソファにゆったり腰をおろし、置いてあった雑誌を広げた。
「——飲物でもとっとくかな」
ルームサービスのメニューを広げ、電話でカクテルを注文すると、待つほどもなく、運んで来てくれた。
中のテーブルに置いてもらい、伝票にサインして、
「ご苦労様」
と、ドアを開ける。
ボーイが出て行くと、廊下に立っている若者がこっちを見ているのに気付いた。たぶん、二〇歳かそこら。大学生には見えない。
整った顔立ちだが、どこか普通でない雰囲気を感じさせる。
「あの……」
と、その男の子が涼子へ声をかけてくる。
「は?」
「呼びました?」
「私? どうして?」
「あ——じゃ、いいんです」
と、肩をすくめて歩いていく。
「変なの」
と、涼子は首をかしげて、ドアを閉めた。
もしかして——今の男の子、女の人に呼ばれてやって来たんだろうか? 「遊び相手」に?
何となく異様な雰囲気の子だった。
「——あなたね」
と、女性の声がした。「遅いじゃないの」
涼子は、ドアのスコープから廊下を覗いた。
四〇歳くらいか、きりっとした顔立ちの和服姿の女性である。
「一杯飲んでたのよ。待ちくたびれて」
と、あの男の子に言っている。
「すみません。見られないように入らないと、うるさくて」
「こっちよ」
「凄いホテルですね。初めてですよ、ここ」
と、男の子はキョロキョロしている。
「部屋の中の方がもっと凄いわよ。——さ、入って」
隣の部屋だ。——何となく涼子は落ちつかなかった。
これと同じスイートルームなのだろう。あの女性が一人で泊っていて……。見たところ、お金持らしい。若い男の子を呼んで相手をさせる。
「気持悪い」
と、涼子は呟《つぶや》いた。
あんなお化粧でもしていそうな男の子、私なら絶対にいやね。
ま、人は色々だ。——涼子は、リビングルームへ戻って、またのんびりと雑誌を開いたが……。
ふと、顔を上げて、
「あの女の人の声……。どこかで……」
と、呟いたのだった。
「竜の兄貴。——ご用ですか」
と、弟分の一人が顔を出す。
「入れ」
竜は、顎《あご》で促した。
「へえ」
店を閉めた後のクラブ。空気はまだタバコの煙で淀《よど》んでいる。
竜は、丸テーブルを囲んでいる三人の弟分の顔を見回した。
この三人なら絶対に大丈夫。確信があった。
「妙な時間にすまねえな」
と、竜は言った。「お前らも見ていたろうが、あの和代って女のことだ。今夜は逃げられちまったが」
「残念でしたね。邪魔さえ入らなきゃ」
「それだけじゃねえ」
と、竜は首を振って、「親分にゃ、女をやる気がない」
三人が顔を見合せる。
「間違えるな」
と、竜は言った。「親分に逆らおうってんじゃない。しかし、あの女は俺の手で仕止めたい」
「分ります」
「お前たちにだけ、話をするんだ」
と、竜は言った。「俺は単独で動いて、和代を捜す。力を貸してくれないか」
三人は一緒に肯《うなず》くと、
「いいですとも」
「何をやりゃいいんです?」
竜はニヤリと笑った。
「お前らのことは頼れると思ってたんだ。しかしな、親分を裏切ったら、殺されても文句は言えねえ。——お前たちは、俺が和代を捜してるってことを、親分に気どられないようにしてくれりゃいいんだ。分るか?」
「手伝わせて下さいよ」
「気持だけで充分だ」
竜は、拳《けん》銃《じゆう》を取り出すと、手の中で軽く弄《もてあそ》んだ。「あの女は、俺一人でやる。他の奴に手は出させねえ」
そして付け加えた。
「親分にもだ」