ビジネスホテルの小さな部屋。
しかも、換気もよくないのだろう。小田切和代が風《ふ》呂《ろ》に入っている、その湯気が、細く開けたドアから洩《も》れて来て、窓ガラスがくもっている。
辻山は、狭いベッドに腰をおろして、何となく落ちつかなかった。——やはり、和代が今、すぐそこでお風呂に入っていて、ドアが開いているというのは、刺激的な状況に違いない。
「——ねえ」
と、和代が言った。「聡子、何だって?」
もちろんドアの細い隙《すき》間《ま》から、声だけが届いたのである。
「うん、大丈夫らしいよ。あの連中がウロウロしてるんで、誰か近所の人が一一〇番したらしくて、パトカーも来たって」
辻山は、バスルームの方へ背を向けたままで言った。
「じゃあ、良かったわ」
と、和代がホッとした様子で、「他に何か言ってた?」
「君が運の強い子だって。きっと何もかもうまく行くわ、と伝えてくれってさ」
「聡子らしいわ」
と、和代がちょっと笑った。「——ああ、少しのぼせちゃった。ドア、開けてもいい?」
「うん、構わないよ……」
辻山は、こう続けようかと思ったのだ。もう帰るから、僕は、と。
しかし、結局辻山は言わなかった。言葉の方が遠慮でもしているかのようで、出て来ないのである。
ドアが開くとき、少しキーッときしむ音がした。——辻山は、じっと正面の壁を見つめていた。
もちろん——そうだ。山崎聡子とも約束したのだ。決して和代に手は出さない、と。
しかし、今、和代は風呂上がりで、もちろん——いや、バスタオルを体に巻きつけてはいるだろうが……。
和代の方が、辻山に残ってくれ、と頼んだのだ。子供ではない。ああ言った以上、辻山が一緒に泊ることだって、考えていただろう。
それに甘えていいってものではないが、しかし……。
暑いのか、フーッと息をつく、その息が辻山の首筋に感じられるほど近かった。
「辻山さん……」
「は、はい」
と、あわてて返事をする。
「私……今夜は一人になりたくないの」
と、和代が、反対側からベッドに座って、辻山の体が上下に揺れた。
「あのね……」
「聡子との約束は知ってるわ」
と、和代は言った。「でも、お互い、子供じゃないし……。私、そうしたいの」
「和代——さん」
と、辻山は言った。
「和代って呼んでいいのよ」
「どうでもいいけど、呼び方は……。ともかくね、今夜のことで、僕に礼をしようというつもりでそう言ってくれるんだったら、ありがたいけど、その気持だけでいいんだよ。君が無事だった、ってだけで、僕は充分に嬉《うれ》しい。——君は、男なんか、もうこりごりなんだろ」
辻山の肩に、和代の手がかかった。辻山がそっと振り向く……。
バスタオルを着けただけの和代の肌は、薄いピンクにほてって、つややかに光っている。
「——あなたのことを知る前だわ、それは」
「僕なんか……つまらない男だよ」
「そんなことない。私——もっと早くあなたを知っていたら、と思うわ。悔しいの。きっと、島崎を殺すなんて馬鹿なこと、せずにすんだわ」
「和代……」
肩に置かれた白い手に、辻山は自分の手を重ねた。
「お願い」
と、和代は言った。「力一杯抱いて。それだけでもいい」
——ここまで来て拒めるわけはない。
辻山は、こわごわ(?)和代の方へ体を向けると、そっと抱きしめた。ハラリとバスタオルがとれて落ちる。
ベッドは小さいが、二人にとっては充分だった。辻山は和代を抱いて、もちろん、「それだけ」ではなかったのである……。
六本木のレストラン。
深夜まで開いているとみえて、涼子と安東が食事をしている間にも、次々と新しい客が入ってくる。
「——これからどうします」
と、安東がパンをちぎりながら言った。
「え?」
涼子は、ナイフとフォークを持った手を止めた。
「もうこんな時間だ。別荘へ着いたら、眠る時間もなくなりそうですよ」
「ああ……。そうですね」
「どこかホテルへ泊りますか」
安東の言葉に、涼子が一瞬ギクリとすると、
「いや、ご心配なく」
安東は笑って、「ちゃんと一人で泊ってもらいますよ。こっちもミキの奴に引っかかれたくない」
涼子も照れ隠しに笑った。
「何だか、すっかりご迷惑かけたみたい」
「それはこっちですよ。妙なことに付合せちまった」
安東は、食事を終えて、ウエイターを呼んだ。「——コーヒーだ。ブラックで」
「私、紅茶。——眠れなくなりません?」
と、涼子は言った。
安東は何となく不思議そうな顔で涼子を見ていたが、
「おい」
ともう一度ウエイターを呼んだ。「——俺はミルクをくれ、ホットミルクだ」
「はあ」
ウエイターが面食らっている。
涼子もびっくりした。当の安東は何だか愉《たの》しげに、
「いや、こんな風だとね、やっぱりコーヒーもブラックでないと、格好がつかないでしょう。ちっとも好きじゃないんですよ。苦いばっかりで、あんなもん」
涼子は、フッと笑ってしまった。
不思議だった。——きっと恐ろしい男なのだろうが、こうしていると、目つきもとてもやさしい。
「いや、お嬢さん、あんたは面白い人だ。おっと失礼。奥さん、でした」
「ええ」
涼子は少し顔を赤らめた。「——安東さん」
「何です」
「一つ、うかがってもいいですか」
「お答えできることなら、答えます」
「あの女の人——小田切和代さんっていう人、本当はあなたも殺したくないんじゃありませんか」
安東の顔から笑みが消えた。涼子は、いけないことを訊《き》いたかしら、と思った。どうしよう?
「——怒りました?」
と、涼子はこわごわ言った。
「いや、そうじゃありません」
安東は首を振った。「確かに、その通りです」
「やっぱり。何となくそう思えたものですから」
「あの女には、強くひかれるものがあります。——頭もいい。度胸もある。それに……何というか、『情の濃い女』とでもいいますかね」
「何となく分ります」
「死なせるにゃ惜しい、と思っています」
「それなら——」
「いや、結局、やはりこっちの手で始末することになるでしょう」
と、安東は首を振った。「組織を守るためです。一人を見逃したら、もう誰も俺にはついて来なくなる」
「安東さん……」
「ご心配なく。あんたの目の前じゃやりたくないので、今夜は内心困ってたんです。あの禿《は》げ頭の刑事さんに感謝したいところですな。——いずれ和代はこっちの手に落ちる。しかし、それはもう、あんたとは何の係りもないことです」
涼子は、何も言えなかった。
自分が口を出せる世界ではないのだ。
しかし——もちろん二人とも、涼子と小田切和代とが、まんざら無関係でもないことを、知るはずもなかったのである。
「どうです」
と、安東が話を変えた。「新しくできた、〈ホテルF〉。泊ってみますか」
「あそこ……凄《すご》く高いんでしょ?」
最近評判になっているホテルである。
「ご心配なく、請求書がそちらへ行くことはありませんよ」
と、安東は微《ほほ》笑《え》んで言った。
電話が鳴ると、邦也はあわてて手をのばした。
きっと涼子からだ!——邦也は、ずっと寝る気にもなれずに起きていたのである。
「もしもし!」
と、勢い込んで出ると、
「あ、真田……邦也さん?」
男の声だ。
「そうですけど……」
「やあ、室井刑事です。頭を殴られた」
「あ——どうも」
と、拍子抜けしてしまう。
「誰かから電話がかかるんですか?」
「あ、いえ、別にそういうわけじゃないんです。あの——何か?」
「ゆうべ一緒だった女子大生、涼子さんといいましたかね」
「え? ええ。涼子がどうかしました?」
「いや、実は、さっき例の安東と会ったんです。あのヤクザですね」
「憶《おぼ》えてます」
「あいつは、でかいリムジンに乗ってましてね。私はそのそばで奴と話をしたんですが……。真田さん、今、彼女はそこにいますか」
「——涼子ですか? いいえ」
「そうですか……」
「何か?」
「いや、リムジンの中に女がいて……。よくは見えなかったんですが、どうもあの涼子さんに似てると思ったんです」
「まさか!」
「いや、もちろんそうでしょう。どうも気になり始めると、止められない性格でしてね」
と、室井は笑って、「じゃ、彼女によろしくお伝え下さい」
「はあ、どうも……」
電話を切って、「——いくら何でも!」
と、つい言っていた。
涼子があの安東って奴と?
そんな馬鹿なこと……。あるわけない!
しかし——あのシャネルの服をプレゼントして来たことを思い出すと、邦也は急に不安になって来た。
もし安東が涼子に目をつけていたとしたら? 涼子を脅して、自分の車へ無理やり——。
「どうしよう!」
と、青くなる。
涼子は今ごろ、あの安東って奴の手で手ごめにされているかも……。そう思うと、いても立ってもいられなくなる。
室井って刑事に連絡しようか? でも、証拠があるわけじゃないし、警察だって、そんなことまでしてくれないかもしれない。
といって、放っておくわけにも——。
また電話が鳴り出した。パッと受話器をとって、
「もしもし!」
——少し間があって、
「何て大きな声を出すの」
と、呆《あき》れた声がした。「そんなに遠くにいるわけじゃないよ」
「お母さん」
と、邦也は息をついた。
「どうかしたの?」
「いや、別に。——今、家から?」
「〈ホテルF〉」
「え?——そんなホテル、できたの」
「何言ってんの。今、有名なんだろ、ここ?」
邦也は、確かに〈ホテルF〉という名前は知っている。しかしそれは東京にあるのだ。
「お母さん……もう東京に?」
「そうだよ。こっちも旅館業だからね。一応今はやりのホテルへ泊ってみようと思って。明日、お昼でも食べに来ない?」
「あ、ああ……。いいね」
「じゃ、待ってるよ。〈1604〉だからね、部屋は」
「〈1604〉ね」
あわててメモをとる。「——お母さん、辻山さんと一緒に来るんじゃなかったの」
「一緒だよ」
と、真田伸子は言った。「もちろん部屋は別だけど」
「じゃあ、もう二人とも……」
「でも、あちらは房夫さんの所へ電話しても出ないんだって。夫婦でどこかへ行ってんのかね」
「そ、そうだね……」
「じゃ、明日お昼にね。待ってるよ」
「ああ……」
邦也は、電話を切ると、頭の中が混乱の極。
しばし、呆《ぼう》然《ぜん》と座り込んでしまっていたのだった。