「救急車か」
と、竜は肯《うなず》いた。「あれだったのか」
「まず間違いないと思いますよ」
と、竜の弟分の一人が言った。「そのアパートの連中を二、三人捕まえて聞いてみました。山崎聡子って女の一人住いなんだそうですが、ここんところ若い女がもう一人部屋にいたらしいです」
車の中から、竜はそのアパートを眺めていた。——今はまだ昼間だ。
「味な真《ま》似《ね》しやがって」
と、もう一人の弟分が運転席で舌打ちした。「あのときの救急車か! 妙だと思ったんだ。ねえ、兄貴」
竜はちょっと笑って、
「どっちにしても、あの勝負は向うの勝ちさ。そいつは認めなくちゃな。しかし、今度はごまかされねえ」
「そうですよ。山崎聡子って女、思いっ切り痛めつけてやる」
「勤めに出てるんだな?」
と、竜は言った。
「そうです。帰りはそう遅くないらしいですが」
「すまねえが、和代とその山崎って女の関係を当ってみてくれ」
「へい、任せて下さい」
弟分の一人が素早く車を出ると、姿を消してしまった。
「——和代は、どこへ逃げやがったんでしょうね」
「その山崎聡子って女が知ってるだろうよ」
竜は言って、「——どうせその女は、夜でなきゃ戻らねえんだ。おい、一《いつ》旦《たん》ここを引き上げよう」
「見張ってますよ、俺」
「いや、いいんだ」
と、竜は首を振った。「それだけ手がかりを見付けてくれりゃ充分だ。——俺はな、お前らと夕方から温泉へ行くことになってる」
「温泉ですか」
と、運転席の男が目を丸くして振り向く。
「親分の手前な。いいか、お前、すまねえが、本当に温泉に予約を入れて、車で出かけてくれないか」
「俺一人でですか?」
「頼むよ。何なら女でも連れてけ」
「そんなことは……。でも兄貴は?」
「俺はこのアパートで用がある」
竜は、山崎聡子の住むアパートへ車の窓越しに目を向けた。「いいか。親分は切れるお人だ。俺がこんなときに温泉へ行くなんて、妙だと思ってるだろう」
「でも——」
「いや、俺には分ってるんだ。親分の悪口を言ってるんじゃねえ。あれだけ切れる人だから、俺はついて来たんだ。ただ、この一件だけは、親分にも邪魔されたくねえ」
「分りました」
と、弟分が肯《うなず》く。「じゃ、俺が兄貴と一緒に温泉へ行ったことにすりゃいいんですね」
「そうだ」
と、竜はちょっとニヤリとして、「俺が一人でそんな所へ行けないことぐらい、親分も知ってるからな」
竜は、何をやっても決して不器用ではない。面倒くさがりでもないし、忘れっぽくもない。
しかし、たった一つだけ、旅行の手配をしたり、旅館に予約を入れる、といったことだけは、からきしできないのである。
別にむずかしいことでも何でもなく、電話一本入れりゃすむときでも、竜にはできない。
ともかく、その類のことをやろうとすると、手がこわばって、電話もかけられなくなる。そして何とかかけられたとしても、今度は喉《のど》がしわがれて、まともな声にならないのだった。
どうしてこうなのか。自分でも分らない。心理学者なら、きっと竜に催眠術でもかけて、竜の「幼児体験」でも探り出そうとするだろう。
しかし、ともかく竜は今ではそういうことに一切、手を出さないと決めているのである……。
「何か食おう。車をやってくれ」
「いつもの店ですか」
「そうだ」
と、竜は肯いた。
車が動き出す。——竜はチラッと例のアパートへ目をやって、
「おい、その女のことを訊《き》くとき、怪しまれなかったろうな」
と、言った。
「心配いりませんよ。ぐっとソフトに訊き出しましたからね」
「何と言ったんだ?」
「結婚のための調査だ、って。そういう話は、女は大好きですからね。訊くより先にペラペラしゃべってくれますよ」
「よし。——そうそう、お前、温泉へ着いたら、親分へ電話を一本入れてくれ」
「何て言うんです?」
「俺がよろしく言ってた、と。酔い潰《つぶ》れて、とっても電話にゃ出られません、とそう言っとけ」
「そいつはいいや」
と、ケラケラ笑って、「——すんません」
バックミラーで、竜がにらんでいたのである。
——竜は、その女をしめ上げて、和代の居場所を吐かせることには自信があった。
たとえその女が和代の親友でも、暴力には弱いのが素人である。ちょっと痛い目を見せてやれば、すぐにしゃべるに違いない。いや、むしろ強情な奴なら面白いのだが。
たっぷり時間をかけて、いたぶってやる。
このところ、そんな機会は減っている。竜のような男にとっては、今の「ヤクザ」はえらくおとなしくて、行儀が良すぎる。面白くないのである。
命をかけた勝負に出ることも、すっかりなくなった。——そうだ。久しぶりに、和代の奴は好きなやり方でばらしてやる。
竜は、想像しただけで、体が熱くなってくるのを感じていた……。
青い水が、ゆったりとうねって、涼子のしなやかな体が水の下できらめいた。
邦也は、〈ホテルF〉のプールサイドのデッキチェアに身を横たえて、涼子の泳ぐ姿を眺めていた。——高級ホテルにふさわしいプールである。
もちろん、プールが人で一杯で、真直ぐに泳げない、なんてこともない。
涼子が水から上がると、バスタオルで軽く体を拭《ふ》いて、邦也の隣のデッキチェアに横になる。
胸のふくらみが大きく上下しているのを見て、邦也はちょっとドキッとした。——考えてみればおかしな話だ。涼子は邦也の妻である。
「こっちをあんまり見ないで」
と、涼子が目を閉じたまま言った。
「う、うん……」
邦也も急いでガラスばりの天井に目を向ける。「——お袋なら大丈夫。泳いだりしないよ」
「でも、ここを覗《のぞ》きにみえるかもしれないでしょ」
と、涼子は言った。「あなたも少し泳いだら?」
「うん……。ね、どうするんだ、これから?」
「例の辻山さんって人——。父親の方ね。まだここをチェックアウトしてないわ。調べたの」
と、涼子は言った。「ということは、ここへ戻ってくる。——うまくいけば、うまくいくわよ」
「何だか良く分らない」
と、邦也は正直に言った。「辻山さんとお袋がどうしたっていうんだい?」
「愛し合ってる」
涼子の言葉に、邦也は唖《あ》然《ぜん》とする。
「——まさか」
「本当よ! こっち見ないで」
「あ……。だけど、凄《すご》い悪口言ってたんだぜ」
「恋人同士のケンカよ、あれは。他人なら、あそこまで言わない」
「そうかな……」
「お互い意地っ張り。だから、ケンカしちゃうのよ」
涼子にそう言われると、邦也もそんな気がしてくる。
「ふーん。でも、お袋の方が折れるってこと、まず考えられないよ」
「そこよ。何かうまい手を考えれば……。自分の恋に夢中なら、息子の恋のことなんかどうでも良くなるわ」
「なるほどね」
「しっ。——お母さんよ」
邦也が、ガラス窓の方へ目をやると、母の伸子が和服姿で手を振っている。邦也もちょっと手を振り返した。
「——もう時間か。買物に行くっていうから、付合ってくる」
「いいわよ。マンションの方には行かないの?」
「それが何も言わないんだ。却《かえ》って心配さ」
邦也は立ち上がって、プールの出口の方へと歩いて行く。
涼子は、邦也が出て行くのを目の隅で追っていた。——もちろん、邦也の母が「恋愛中」というのは涼子の直感でしかない。しかし、まず間違いないと思っていた。
辻山がホテルへ戻って来てくれれば……。
涼子には、ちょっとした考えがあった。
体が快くだるい。——ゆうべ邦也と愛し合って、ゆっくりと寝て、そうしてプールでのんびり泳いで……。
まるで天国! 涼子は、大学をさぼったことに少々後ろめたさは覚えていたが、しかし、今のこの時間を大いに楽しもうという気になっていたのである。
隣の、邦也が立った後のデッキチェアに誰かが横になった。何げなく目をやって、涼子は目を丸くした。
「安東さん!」
「やあ」
安東が、バスローブをはおって、涼子の方へと笑顔を向けた。
「あの……」
「気にしないで。のんびり泊って下さい。何日泊ってもいいんですよ」
「いえ……。もう出るつもりでした。超過時間の分は払いますから」
「律儀な人だ」
と、安東は笑った。「お好きなように」
「こんな所にいらして……。いいんですか? お忙しいんでしょ」
「仕事はここでもできます」
安東は、携帯電話をちょっと持ち上げて見せた。
涼子は何と言っていいか、分らなかった。
安東は涼子に惚《ほ》れている。——涼子としては勘違いであってほしかったが、ここまで来ては、間違えようがない。
しかし、不思議である。安東のような男なら、力ずくで、あるいは脅して涼子を思い通りにできるだろう。もちろん、そうしてほしいわけじゃないが。
しかし、安東は涼子に手を出しかねているのだ。
「——ご主人は今、出られたようだ」
「見てたんですか」
「母親にも会いましたよ。すぐそこでね」
と、安東は言った。「なかなか魅力のある女性だ」
「そうですね」
「夜は、母と息子で食事でしょう。いかがです、僕とあなたで」
——涼子としても、こうなっては拒むというわけにはいかなかった。
「——もしもし」
ミキは電話を取った。「——ああ、私よ。——何ですって?」
「今、親分は〈ホテルF〉においでで」
と、電話して来たのは、ミキがひそかに頼んで、安東の行先を連絡させている子分の一人である。
「女と二人?」
と、ミキの声はもうとんがっている。
「いえ。——でも、プールに入ってられるんで、見えないんです」
「プール……」
ミキは、安東が大して泳ぎを好きでないと知っていた。
わざわざ一人でそんなホテルのプールに入るものか。——そう。当然、女が待っているのだ。
「〈ホテルF〉ね。分ったわ」
と、ミキは言った。「プールからあの人が出たら、連絡して」
「分りました」
と、子分があわてて切る。
安東に知れたら、大変だとびくついているのだろう。
ミキの方は、しかし、カーッと頭に血が上っていた。
安東が女を作るのは、決してこれが初めてじゃない。ミキとそういう仲になってからでも、何人かの「女」はいた。
しかし、今度はちょっと違う。
ミキは本能的に、安東が本気で女に惚れていると見抜いていた。
とんでもない! そうはさせるもんですか。
ミキは出かける仕度をした。いつ連絡があっても出られる。
「そうだ」
あれを持って行こう。
ミキは、洋服ダンスの引出しの奥から、小さなガラスのびんを取り出した。
硫酸が入っている。——これを、その女の顔にかけてやる!
ふたをきっちりとしめ直して、ミキはそのびんをバッグの中へと忍ばせたのだった。