「邦也!」
レストランの奥の方で、母の伸子が手を振るのが目に入った。
「ありがとう。あそこだ」
邦也は、ウエイトレスに礼を言って、母のいるテーブルへと歩いて行く。
「母さん」
「——邦也」
と、伸子はしみじみと我が子を眺めて、「少しやせた?」
「太ったよ」
「そう? 体、悪くしてないの?」
「何ともない。——ね、もう何か頼んだの?」
席について、邦也は言った。
「何も」
伸子は首を振った。「お前の来るのを待ってたのよ」
「じゃ、何か食べよう。お腹ペコペコだよ」
邦也はメニューを広げた。
「そうね」
伸子もメニューを開いたものの、目は息子の方を向いている。
「ランチでいいね。僕はAランチの方」
「お母さんもそれにするわ」
伸子はろくにメニューなど見ないで、言った。
ウエイトレスにオーダーを伝え、邦也は水をゆっくりと飲んだ。
——正直、邦也はお腹が空《す》いていた。つい三十分前に起きたばかりである。
母のことを巡って、ゆうべ寝るのも遅くなったが、もちろんそればかりではない。涼子との楽しいひとときも、大分長びいたのである……。
すっかり寝坊して、あわてて先にシャワーを浴び、部屋を出て来た。涼子はたぶん、今ごろシャワーを浴びているだろう。
「——母さん、変わりない?」
と、邦也は訊いた。
「見たとこ、どう?」
「若いよ」
と、邦也は笑顔で言った。
いや、事実、伸子は四六にとても見えなかった。もちろん、和服の着こなし、その貫《かん》禄《ろく》は、「普通の主婦」じゃないことをはっきり感じさせるが、化粧などは決して濃くないし、肌のつややかなピンクは、四〇過ぎと思えないものを見せていた。
「お世辞ね」
と、伸子は嬉《うれ》しそうに言った。「大学の方は?」
「うん。うまくやってる」
邦也は、涼子がこの席には遠慮してくれてホッとしていたが、同時に、「結婚」の事実をきっちり告げなくちゃいけない、という「負い目」も覚えていた。
しかし、涼子の方が、
「少し待って」
と、逆にブレーキをかけたのである。「私に考えがあるの」
涼子が何を考えているのか、邦也には見当もつかなかった。
「なかなかいいホテルね」
と、伸子が、同業者としての感想を述べた。「これでもう少しフロントが慣れてくるといいけど」
「旅館の方、どうなの?」
と、邦也は言った。
「順調よ。どうして?」
「いや……。わざわざ東京まで来たりしてさ、何かあったのかと思って。——引退でもするのかな、と思った」
伸子は明らかに動揺した。しかし、そこへランチのオードヴルが運ばれて来て、とりあえず、気まずい空気にならずにすむ。
「——おいしいわね」
と、伸子は言った。「邦也。私は引退なんかする気ないわよ、言っとくけど」
「うん。そりゃ母さんの自由だからね」
伸子は、町の最近の様子を、あれこれ話し始めた。邦也の幼な友だちとか、学校の先生の消息とか。
もちろん、邦也にとって懐しい話題ではあるけれども、母が一人でしゃべりつづけているのを聞いていると、やはり何か自分の中の動揺を隠そうとしているという印象を受けた。
——スープが来て、スプーンを取ると、
「このランチをお願いします」
と、すぐ後ろで聞き慣れた声がして、邦也はドキッとした。
チラッと振り向くと、涼子が一人でテーブルについて朝刊を広げている。
もちろん、邦也が見ていることも承知だろう。
「——母さん」
と、邦也は言った。「辻山さんは? 一緒に食べなくていいの?」
伸子の表情が一瞬こわばった。
「一緒ったって、別に何でもないのよ」
と、伸子は早口に言った。「たまたま一緒に来たってだけ。間違えないで」
ほとんど切り口上である。
「母さん。——何かあったの?」
と、邦也は訊《き》いた。
「何かって?」
「だから……辻山さんとさ。そんなケンカ腰で」
「あんな人のこと、二度と言わないで!」
伸子はカッとなった様子で言った。きつい言い方、そしてよく通る声なので、レストランの中の客が振り向いて見ている。
伸子は、ちょっと咳《せき》払《ばら》いすると、
「邦也……。辻山さんはね、こんなホテルには向かない人なの。その辺、よく考えるべきだったわ」
「今——泊ってないの?」
「泊ってるでしょ。知らないわ」
と、肩をすくめ、「もうあんな人の話はやめましょ」
「うん……」
邦也も、それ以上は言わなかった。
——涼子が、隣のテーブルで、母と息子の会話に、じっと耳を傾けている。
「ちらかってるよ」
と、辻山房夫はアパートのドアを開けて言った。
「お邪魔します」
と、和代は玄関のドアの所で、少しためらった。
「さ、入って。——ここへ来てもらうと分ってりゃ、もう少し片付けとくんだった」
「構わないわ」
和代は上がり込んで、部屋の中を見回すと、「お掃除のしがいがあるわ」
と、言った。
「そう働くこともないよ。さ、荷物をどこかその辺に」
「ええ」
和代は台所に立つと、洗い物を手早く片付けた。
「ね、座って」
「ええ、ごめんなさい。つい……」
と、和代が畳に座る。
「ともかく、親父が来てからの何日間か、このアパートの住人たちともども、ごまかさなきゃいけない」
「あんまり顔を出さないようにするわ」
「しかし、どうせ誰かがいることは分るよ。もし、親父だけが来るのなら、何とかごまかせると思う。しかし、あの真田伸子さんが一緒となると……」
と、辻山は考え込んだ。
「急に結婚したとも言えないし」
「いや、それで通すしかないとも思ってるんだ。ちょっと事情があって、一緒に暮してなかったけど、と言ってね」
「どんな事情?」
「さあ……。何がいいかな」
ちょっと考えて、和代が言った。
「分った。——女房が殺人犯で逃げ回ってたもんですから、ってのはどう?」
二人は一緒に笑った。
「——笑いごとじゃないのにね」
と、和代は言った。「でも、こんな風に笑えるなんて幸せだわ」
「君……」
辻山は、目を伏せて、「僕にできることは何でも言ってくれ。気はきかないけど、言われたことはやる」
と、言った。
和代は胸を打たれた様子で、辻山の手をとった。
「これ以上、あなたに迷惑はかけたくないわ。——この『お芝居』がすんだら、出て行く。止めないでね」
「しかし——」
と、辻山が言いかけたときだった。
玄関のドアの外にドタドタと足音がしたと思うと——。
「おい! 房夫! いるのか?」
と、大きな声が轟《とどろ》いた。
和代と辻山は顔を見合せた。
「あれ……」
「親父だ! こんなに早く……」
和代はパッと立ち上がって、
「大丈夫。任せて。——早く返事を」
と、自分の持物を押入れの中に放り込んだ。
「——今、開けるよ」
辻山はサンダルをひっかけ、ドアを開けた。
「どこへ行っとったんだ」
と、辻山勇吉がのっそりと入ってくる。
「いつ、着いたの?」
と、辻山は訊いた。
「昨日だ。何回も電話したが、誰も出んし……」
和代が出て来て、上がり口に正座すると、
「初めまして。——洋子です」
と、頭を下げる。
辻山は、和代がちゃんと「幻の妻」の名をしっかり頭に入れてくれているのに、感激した。
「やあ」
と、勇吉は和代を眺めて、「これが嫁さんか」
「至りませんが、よろしくお願いいたします」
と、和代がきちっと挨《あい》拶《さつ》する。
「いやいや、至らんのはこの房夫の方ですぞ」
と、勇吉は笑顔で言った。「もらわれてくれる人がいて、良かったな、房夫」
辻山は早くも汗をかいている。
「あのね、父さん……。ともかく上がったら?」
「うん。——いいなあ、新婚の家ってのは。希望があれば、ボロアパートも天国だ」
「父さん、どこへ泊ったんだい、ゆうべは」
と、辻山は訊いたが、答えを聞いて仰天した。「〈ホテルF〉? 凄《すご》い所に泊ってるんだな。あの——真田のおばさんも?」
「ああ」
勇吉は何となく、そっけない口調で、「あんな女は放っときゃいい。そうだとも。もう二度とごめんだ、あんな……」
「何があったんだい?」
「何でもない」
と、辻山勇吉は首を振って、「まだチェックアウトしてない。おい、どうだ、今夜は二人で〈ホテルF〉へ夕食をとりに来ないか」
ありがたい申し出である。
このアパートにいる時間が少ないほど、インチキのばれる可能性は低い。それに、何か知らないが、真田伸子と喧《けん》嘩《か》でもしたようだ。
少し希望が出て来た。——辻山はそっと和代と目を見交わしたのである。
「何よ!」
と、ミキはふくれっつらをしている。
「何、怒ってるんだ?」
と、安東が苦笑いする。
「ごまかさないで」
ミキはベッドから裸の上半身を覗《のぞ》かせて、「他の女のこと、考えてるくせして」
「よく分るな」
と、安東はヒゲをそりながら、「その勘の良さを、馬にでも生かせよ」
「フン」
と、ミキはうつぶせになった。「今度はどこの女?」
「やめとけ」
と、安東は言った。
アフターシェーブローションで顔をはたくと、フーッと息をついて、
「目が覚めた!」
「私に飽きたの?」
「ミキ……。俺はお前が可《か》愛《わい》い。本当さ。しかし、ときにゃ他の女に心が動くこともある」
と、安東は言った。「黙って見てろ。お前を追い出しゃしない」
「本当ね」
「本当だ」
安東はベッドの方へ戻ると、ミキにチュッとキスした。「——さ、俺は大切な会合がある。まだ寝ててもいいぞ」
「起きるわよ。あと一時間もしたら、自然に目が覚める」
「いい子だ」
安東は、軽くミキの頭をなでると、寝室を出て行く。
廊下に、竜が立っていた。
「何だ、どうかしたか」
「お願いがあります」
「言ってみろよ」
「何日か、お休みをいただけないでしょうか」
「お安いご用だ。少しうさを晴らした方がいいだろう」
「へえ、よろしく」
そう言って竜は頭を下げた。